七章 竜は伏して秋を待つ

渓谷を北へ抜けて

フェラーリン

1928年 9月6日 夕刻のヴェネツィア サンタルチア駅にて

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「ちょっと、冗談でしょう、少佐!」


 がなり立てる部下の声に、フェラーリンは受話器を耳から遠ざけた。


「数日の休暇を取るって言い残してフィウメから姿を消したと思ったら、いまは恋人とヴェネツィアにいるですって? 挙句の果てに軍を辞めるって、貴方、栄えあるイタリア空軍少佐の階級と隊長の職務をいったいなんだと思ってるんです?」

「きみこそ、上官に対してもうちょっと敬意を払ったらどうなんだ?」

「軍は辞めると言ったその舌の根も乾かぬうちに、貴方がそれを言いますか!」

「ならば、きみは『フェラーリンさん』と呼びかけるべきだな、少佐ではなく」


 電話口の元部下は、しばらく黙り込んだ後、こう口にする。


「……分かりました、フェラーリンさん。それで、いつ戻られるんです?」

「いや、戻らない。部隊はきみが引き継ぐんだ、ジーノ大尉。司令にはすでに辞意と後任の推薦を伝えてあるから、基地に戻れば内示が出るだろう」

「……っ! ですが、少佐……私はまだ貴方の下で……」

「きみならできるさ。俺が保証する」

「……了解しました。フェラーリン少佐に代わり、イタリア空軍第13曲技飛行隊『ビアンコ・エ・ネッロ』部隊長、本日よりミルコ・ジーノが拝命いたします!」

「ああ、すまない。それでは、達者でな」


 電話を切って、天を仰ぐ。ため息と申し訳なさは駅舎の天井に遮られて行き場をなくし、胸の内に残留したままだ。せめて彼にだけはリーチェの護衛という本来の目的を告げておくべきかとも思ったが、それは彼に余計な荷を負わせることにも繋がる。リーチェの安全を確保するためにも、情報は制限しておきたかった。


「待たせてすまない」

「いや、発車時刻まで時間はある。もし間に合わないようなら、置いて行こうかと思ったけれど」


 石壁に体重を預け、フェラーリンの荷物から抜き取った煙草をふかしていたリーチェが口角を上げる。左手でもてあそんでいるのは、形見として一枚だけ剥がしてきたブランカの竜鱗だろう。フィウメからヴェネツィアまでの船旅の間、彼女はずっとこんな感じだった。軽口を叩きはするが、どこか上の空で、気付けば空を見上げている。秋雲の浮かぶ空に動く、小鳥や飛行機の影をずっと目で追っているのだ。まるで、そこに白き竜の姿を見ているかのように。


「…………」


 なにか言おうとして口を開きかけたが、結局なにも言えなかった。ぼうっとしているリーチェを促し、ホームへ滑り込んできた列車に乗り込む。ミラノ方面へ向かう急行だが、ファシストの監視が懸念されるミラノまでは行かず、ブレシアで降りる。そこからはローカル線に乗り換えて北上する。


 鉄路の上を車輪が滑る、平坦で規則的な音だけが響く車内で、リーチェとフェラーリンはただ窓外を眺め、煙草をふかしていた。沈黙は別に不快ではない。彼女に必要なのは他者に煩わされることの無い、静かな時間だった。幼いころより共に育ち、戦場の空を翔け続けた相棒の存在は、彼女の心の大きな部分を占めていた。自分ではまだその穴を埋めるには足らないと、フェラーリンは自覚している。


 それでも、目的地までの旅程を任される程度には信頼されているのだという自信を支えにして、フェラーリンはそれとなく周囲に注意を払い続ける。なんとも健気な騎士ではないかと、自分を褒めてやりたいくらいだ。しかし、それくらいのつもりでなければ、あの勇敢で一途な竜にはリーチェとの結婚など認めてもらえないだろう。


 イゼオ湖の側にある駅で、数人の乗客が降り、入れ替わりにそれよりも少ない人数が乗車してくる。その内の一人、学者然とした老紳士が大きなトランクを片手にリーチェとフェラーリンの脇を通り抜けてゆく。その背中を見るともなく見ていると、老紳士の上着から小さな紙片が滑り落ちるのが目に入った。気付かずに歩み去ろうとする老紳士を、フェラーリンはつい呼び止めていた。


「ご老人、切符を落としましたよ」

「おお、これはかたじけない」


 振り返った老紳士は、フェラーリンが拾い上げた切符を受け取って微笑むと、引き返してきて通路を挟んだ反対側の座席に腰を下ろした。


「夫婦で旅行ですかな、親切なお若い方?」

「ええ、似たようなものです」

「どちらまで行かれるのですかな?」

「……スイスへ行こうかと」


 どこまで話すか迷ったが、黙り込むのもまずいと判断してそれだけ口にする。国境の街ティラーノからレーティッシュ鉄道に乗ってスイスへ旅行する人間は年々増えているので、不自然な回答ではないはずだった。


「ご老人はどちらへ?」

「カモニカ渓谷へ、岩絵を見に行こうと考えております」

「岩絵、ですか……?」

「左様。ご存じありませんかな? 古代ローマ人がこの地に足を踏み入れるよりさらに昔、約8000年前からこの地に住んでいたカムニ人が、何千年もかけて彫刻してきたものでしてな。彼らの素朴な暮らしや信仰を今に伝えてくれるのですよ」

「ほう……ご老人は、研究者でいらっしゃるのですか?」

「なに、研究と呼ぶほどのものではございません。言うなれば老後の趣味ですな」

「どのような研究をなさっているのですか?」

「ふむ、小生の話に興味がございますかな? そうですな……お若い方なら、かの有名な白の竜騎士はご存じでいらっしゃるかな?」

「え?」


 心臓が跳ねる。まさか隣に座っている彼女がそうだとは言えるはずもなく、とっさに振り返らずにいるのが精一杯だった。背後では、ずっと窓外に視線を向けていたリーチェが背もたれから身体を起こし、こちらへ向き直る気配が感じられた。しかし、老紳士はフェラーリンの緊張に気付く様子もなく、話を続ける。


「白の竜騎士。彼女こそ、竜と心を通わせ、その背にまたがって空を飛ぶことに成功した初の人物だとされております。しかしですな、カモニカ渓谷の岩絵には、竜にまたがる人物を描いたものもあるのですよ。そう、はるか古代、人は竜と心を通わせ、空を翔けていたのです。夢のある話だとは思いませんか?」

「ええ、はい。それが本当なら、すごい話です」


 リーチェの様子が気になって、老紳士の話が耳に入らなかった。


「これが実際にあった出来事を描いたものなのか、それとも彼らの竜信仰とその理想形を描いたものに過ぎないのか……それは、今となってはもうわからないことです。しかし、十年前、人と竜が通じ合える可能性を、かの白の竜騎士は示してくれたのです。若き日の、周囲の人間には夢物語と一笑に付された小生の考えを、彼女が裏付けてくれたのですよ。その意味で、私は彼女に感謝しております。本人はそのようなことで小生に感謝されておるなどと、夢にも思わないでしょうが」


 そう言って、老紳士はからからと笑った。彼の願いはいまこの瞬間、叶ったのだった。当の本人は夢にも思わないだろうが。


「その……カムニ人という人たちは」それまで黙っていたリーチェが口を開く。「どのような関係を、竜と結んでいたのでしょうか」

「ふむ、小生の推測で構いませんかな、麗しくも凛々しいお嬢さん?」

 リーチェがうなずくのを待って、老紳士は話し始める。

「そう、カムニ人にとって、竜は初めから親愛の対象だったわけではありません。むしろ、畏怖の対象だったと言えましょう。なぜなら、竜は好んで人を襲いはしないものの、ひとたびその怒りに触れれば集落など簡単に滅ぼしてしまう。事実、人里を襲う竜は初期の岩絵によく見られるテーマです。しかし、時代を経るに連れてその数は少なくなっていく。なぜだか、お嬢さんは分かりますか?」

「竜と人が、共存の道を見つけたから……?」

「その通り。それはとても困難な道程だったことでしょう。しかし、人と竜は互いに尊重し合い、攻め来たる外敵……主に侵略を仕掛けてくる他部族に対しては協力して立ち向かうようになったようです。事実、時代が下るほどにそうした図柄が増えてくる。まあ、これも、白の竜騎士が現れるまでは竜の襲来に怯えて逃げ惑う群衆の図だとされていたのですが」

「けど、そうした事実は忘れ去られ、竜と人は再び道を違えた?」

「そう。かのローマ帝国はカムニ人を征服し、竜は友人であったカムニ人を力で屈服させたローマ人に従うことをよしとしなかった。竜たちは生き残ったカムニ人の竜使いとともに、いずこかへ姿を消したとされております。その後のローマの歴史においては、辺境で飛竜の群れを見かけた、洞窟に住まう邪竜を打ち滅ぼした、捕獲した若い竜をコロシアムで戦わせたといった断片的な記録が残るだけで、カムニ人のように竜と心を通わせようとする者は現れなかったようですな」

「あるいは、心を通わせようとしたけど、失敗した」

「確かに、その可能性はあります。しかし、ローマやギリシャでは竜の血や心臓が万病に効く薬として取引されていたところを見ると、おおむね彼らは竜を象や虎といった猛獣と同列に捉えていたようですな。その血を引く我らもまた然り」

「ですが、今では竜にも人と同じ権利が認められています」

「ふむ、操竜規定とそれに伴い付与される諸権利のことですな? うん、お嬢さんはなかなかの勉強家のようだ。そう、それもまた白の竜騎士の尽力で実現したものです。この規定ができたことで、少なくとも、空路の安全確保という人間の都合で殺される竜の数は大きく数を減らしました」

「操竜規定は、人と竜の共存のための最初の一歩だと思っています」

「正しい認識です。人は飛行機を発明し、空へ進出しました。そして飛行機に機銃を取りつけ、数を頼みにかつての空の王者をも駆逐するようになりました。いずれは飛行機の性能が完全に竜を上回ることでしょう。そうなれば、どうなるか……今でさえ、竜の生息域は大陸の奥地や辺境へ後退し、個体数も激減していると聞きます。種としての存続のためには、ただ無闇に殺さないだけでなく、積極的に保護する国際的な組織が必要になるのではないでしょうか」

「国際連盟のような?」

「そう。竜だけでなく、絶滅が危惧される全ての生物種を保護する組織です」

「そんな組織が、実現できるのでしょうか?」

「できなければ、滅ぶだけのことです」

「…………」

「特定の生物が絶滅しないよう、保護する。それ自体は立派な行いです。しかし、その発想自体が人間の傲慢であることも忘れてはなりません」

「絶滅の間際に追い込んだ側である人間が保護するのは身勝手だと?」

「そう、その通り」

「それでも、ぼくは……竜を守りたいです」

「うん、それがお嬢さんの自由です」

「……ああ、そういうこと、ですか」


 列車が減速し、身体に加速度がかかる。いつの間にか、ずいぶん時間が経っていたようだ。窓外の看板に駅名が見える。カポ・ディ・ポンテ駅。視線を戻すと、老紳士が立ち上がって帽子をかぶりなおすところだった。


「小生はここで降ります。いや、楽しい時間を過ごさせていただきました」


 老紳士は目を細めて微笑み、席を立つ。何事かを考えている様子のリーチェに代わって通路側に座るフェラーリンが会釈し、そのまま見送る。名乗りもせずに行ってしまったが、もしかしたら高名な学者なのかも知れなかった。


「……不思議なご老人だったな」

「……え? うん、そうだね」

「さっきの言葉を考えているのか?」

「ん……」


 生返事しか返さないリーチェの様子に、フェラーリンは肩をすくめる。窓外を流れる美しい渓谷の風景を眺めて物思いにふける彼女は、終点のエドロ駅までそのまま一度も口を開くことはなかった。

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