おやすみ

リーチェ

1928年 9月6日 夜明け前に

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 翌朝は、ひやりとした大気が頬をなぶるどんよりとした曇り空だった。分厚い雲が太陽を覆い隠し、上空の強い風によって刻々と形を変えながら流れていく。この天気に乗じて襲撃されたら厄介だなと考えている自分に気付き、もうそんな危険はないのだと勢いよく頭を振って思考を追い払う。


「…………」


 ブランカの容体が急変したのは数時間前、まだ夜も明けない時間帯だった。ブランカの声を聞いた気がして目が覚めたリーチェがカーテンの隙間から窓の外を見ると、ケープを羽織ったヴァレリアナがブランカのいる天幕へと足早に向かうところだったのだ。わけもなく不安に駆られ、音を立てないようそっとベッドを抜け出してブランカの様子を見に行ったリーチェが目にしたのは、弱々しく苦鳴を漏らして全身を痙攣させる白き竜の、痛々しい姿だった。


「起きたのね。おはよう、リーチェ」

「……おはようございます。あの、おばあさま、ブランカは……」

「破傷風ね。墜落したときに感染したのでしょう」


 胸が詰まり、それ以上の言葉を発せないリーチェをあやすように、ヴァレリアナは普段と同じ微笑みを浮かべて言う。その口調はあまりに淡々としていて、内容の重大さをリーチェが受け止めるまで、少し時間がかかった。ブランカに聞こえるといけないからと言われて、ヴァレリアナに促される形で眼下にフィウメの街と海を望むヒポクラテス医院の裏へと移動する。


 先の戦争でも、ちょっとした怪我から破傷風にかかる兵隊は大勢いた。耐えがたい痛みに身体を弓なりにそらして苦しむ姿は記憶に鮮明に残っている。聞けば、足をつったときのような痛みが全身に広がるのだという。それと同じ苦しみを、ブランカも味わうことになるのだと思い至り、ぞっとする。


 冴え渡る星空、落ちかける月の下でヴァレリアナと向き合う。


「……おばあさま、ブランカは治るんですか?」

「いいえ、治りません。破傷風は発症までの期間が短いほど激烈な症状を示し、重篤になれば正気では耐えがたい痛みを患者に与えます。ブランカの場合、発症まで三日半。かなり早い発症と言えるわ。今はまだ我慢しているけれど、数日もしないうちに痛みに狂って暴れ出し、手が付けられなくなるでしょうね」

「でも、なんで破傷風なんか……傷はちゃんと洗ったのに」

「これは推測なのだけど、ブランカに傷を負わせた竜の爪に汚物でも塗りつけられていたのではないかしら。傷についた汚れなら洗い流せるけれど、いったん身体の中に入ってしまったものはどうにもならないわ」

「治療法はないんですか? 薬は?」

「残念だけど有効な治療法や薬はありません。少なくとも、今はまだ」

「今は?」

「数年か、あるいは数十年か。数日程度ではどうにもならない、ということ」

「じゃあ、ブランカは……」

「このままでは、周囲の人間を傷つけかねません」

「じゃあ、どうすれば……」

「貴方が決断するのよ、リーチェ」

「……なんの話ですか? わかりません、おばあさま!」

「いいえ、貴方は賢い子です。わたくしの言いたいことから目を背けているだけだと、自分でも気づいているはずです。ここを発つまでに決めなさいな」

「こんな状態になったブランカを置いていけません!」

「ならば、わたくしが決めます。竜医として、アレーニア家の前当主として」

「……っ!」


 涙が溢れた。誇り高き竜が、病気で地に伏せて死ぬなんてあっていいはずがないと思った。いたたまれなさに、その場から子供のように走って逃げ去りたい気分にかられたが、穏やかなヴァレリアナの視線がそれを許してはくれなかった。


「夜が明けるまで二時間あります。それまでに決められますね?」


 常と変わらぬヴァレリアナの態度が、平静を取り戻す助けとなってくれた。服の袖で涙をぬぐって、顔を上げる。彼女の言葉は冷酷に聞こえるが、決してそうではないことをリーチェは知っている。ともにブランカを愛し、種族としての竜を愛する二人だが、リーチェの愛はブランカへと強く向けられ、ヴァレリアナの愛は全ての竜へと、どこまでも深く、限りなく平等に向けられているのだ。


「おばあさま、決めました」


 月下にぼんやりと浮かぶ白き竜は、凄絶なまでに美しい。

 痛みに耐え、じっと星空を見上げる眼差しは遠く、運命を悟っているかのようだ。


「ぼくが、やります」


 リーチェの言葉にヴァレリアナがうなずき、竜医として、ブランカを楽にしてやるためにどのような方法があるのかを語ってくれた。リーチェはその言葉を黙って聴きながら、震えだしそうな身体を両腕で押さえていた。


 星空に蒼が混じり、夜は次第に明けていく。誰にも止めようもなく。


 手順についてヴァレリアナと話し合った後は、その時が来るまで一人で過ごすことにした。事の次第を皆に知らせるために建物の中に入っていくヴァレリアナを見送り、そのまま玄関の階段に腰を下ろしてブランカを見守る。苦しむ姿を近くで見たら、泣いてしまいそうだった。そうすれば、ブランカに勘付かれてしまいかねない。


 水平線に太陽が姿を見せるころ、背後の扉が静かに開いてジニーが顔をのぞかせた。彼女はリーチェの姿を認めると、寒そうに身体を震わせながらリーチェの隣に腰を下ろす。朝食を作っていたらしく、焼けたベーコンの匂いがかすかに漂う。こんなときでも空腹と食欲を覚える自分の浅ましさは今でも変わらない。


「おねえさま、朝食は召し上がる?」

「ううん、ありがとう、ジニー」

「その……ヴァレリアナさまから、聞きました」

「うん」

「…………っ!」


 急に抱き着いてきたジニーを、リーチェは受け止めてやる。そっと頭を撫でてやると、こらえきれなかったように泣き声が漏れる。


「大丈夫。大丈夫だよ、ジニー」

「わたしっ、わたしがブランカからおねえさまを取り上げちゃったから……っ!」


 それ以上は言葉にならなかった。ぐすぐすと鼻をすすって泣くジニーの肩を抱き寄せ、彼女なりの自責の念に気付けなかった自らの鈍感さに舌打ちしたい気分になる。ジニーにしてみれば、自分の飛行機に乗らせるためにブランカからリーチェを奪ってしまったような気分なのだろう。こんなことも察せないとは、ここ数日、ろくに周りが見えていなかった証拠だ。


「……誰のせいでもないよ」

「ごめんなさい、辛いのはおねえさまなのに……」

「ぼくは大丈夫。ブランカのために泣いてくれて、ありがとう」

「わたし、ここにいてもいいですか?」

「うん、気が済むまで泣くといいよ」


 しばらくして、アレッサンドロが様子を見に来てくれた。すすり泣くジニーの頭を乱暴に撫で、建物の中へ戻るよう促してから、言葉を探すような表情でリーチェを見つめる。なんと言っていいのかわからない、といった様子だ。リーチェは努めて微笑みを浮かべ、心からの感謝の言葉を伝える。


「おやっさんには感謝してる。後悔だけはしないで欲しい」

「だが、なあ……」

「あのエースに対抗できる飛行機がなかったら、ぼくやフェラーリンも死んでたかも知れない。おやっさんは最高の仕事をしてくれたよ。ありがとう」

「ああ……それとな、リーチェ。ブランカのことなんだが……」

「うん」

「後のことは、俺と、ヴァレリアナさんに任せてくれ」

「ん……? うん、頼むよ」

「俺は中にいる。ここを発つ前に、できることがあれば言ってくれ」


 アレッサンドロが建物内に戻るのと入れ替わりに、今度はフェラーリンが姿を現す。まだこんな時間だというのに軍服姿で、右手に小振りなトランクを下げている。昨晩の内に荷造りしておいたリーチェの私物だ。本格的に旅行するには色々と足りないので、どこかで買い足す必要があるだろう。


「先に車に積んでおく」

「頼むよ、運転手さん」

「了解だ、お嬢さん」


 軽く微笑み交わすと、そのまま車の方へ歩み去ってしまう。下手な慰めの言葉は口にもしないのが彼らしく、今はそれがありがたい。


「さてと」


 そろそろ時間だろう。勢いをつけて立ち上がり、ぐうっと伸びをする。そうしてみて、自分がまだ長袖のシャツに帆布のワークパンツというラフな格好であることに思い至る。旅行に出るだけならこれでも構わないが、フェラーリンの軍服を見ていて、ひとつ思いついたことがあった。


「ねえ、フェラーリン! ぼくの飛行服って、まだ部屋にあるよね!」

 振り返ったフェラーリンが首肯する。

「ああ、必要ないだろうと思って残してあるぞ」

「わかった、ありがと!」


 部屋に戻って、ブーツとワークパンツを脱ぐ。上はそのまま、パンツは畳んでからマットレスの上に置く。ベッドに腰掛け、ハンガーに吊るしてあったツナギの飛行服に脚を通してからブーツを履き直し、きっちりと結び直す。肌触りのよい白のマフラーを巻いて、飛行眼鏡も首にかける。


 お別れにはこの格好がふさわしい。

 そう思ったのだ。


 リビングに寄ると、ヴァレリアナとヒポクラテス医師が食後のお茶を楽しんでいた。リーチェの姿に気付いた二人に向けて、告げる。


「そろそろ、発ちます」

「そうか、名残惜しいな」

「お世話になりました、先生。このご恩は忘れません」

「気にしないでくれたまえ。久々に料理の腕を振るえた」


 ヒポクラテス医師と握手を交わし、ヴァレリアナに向き直る。


「おばあさま」

「覚悟は決めたのですね」

「はい」

「では、これを」


 ヴァレリアナが差し出したのは、緑葉の生い茂った数本の枝だった。聖ゲオルギウスを由来とする学名を持つその植物は、通称を『竜殺し』という。葉は厚みのある楕円形で、水分が抜けてかさついているところを見るとアレーニアの本邸で採取されたものなのだろう。薬効を増すため、天日干しで乾燥させてあるのだ。


 三人で連れ立って、外へ出る。夜露に濡れた草が旭日に輝き、外で待っていたジニーやアレッサンドロはその眩しさに目を細めていた。振り返りはしないが、ヴァレリアナやヒポクラテス医師も同様だろう。しかし、リーチェとフェラーリン、飛行機乗りの瞳なら、このまぶしいほどに輝く世界を余さず捉えられる。


 そして、竜もまた、世界を正しく映し取れる瞳の持ち主だ。視線を上げれば、小高い丘に設えられた天幕の下、全身を襲う激痛にときおり痙攣する巨体を横たえた白き竜の瞳を捉えられる。そのどこまでも澄み渡った瞳には、死期を悟った自然界の王者にふさわしい冷厳なる矜持と、深い諦念が宿っていた。


「…………っ!」


 歯を食い縛って、歩を進める。飛行服姿のリーチェを見つめるブランカの眼差しは嬉しげですらあった。その気持ちに応えるため、リーチェもまた微笑む。吹き抜ける風に揺れる草の音と、甘えるようなブランカの鳴き声だけが空に満ちる。お互いに、苦しむ姿を相手に見せまいとしているのが痛いほど分かった。


「おはようブランカ、気分はどう?」

 リーチェの言葉に応え、ブランカは翼を広げてみせる。

「お腹空いてるよね。けど、その前に薬を飲んで欲しいんだ。いいかな」


 そっと手を伸ばし、鼻先を撫でる。場に緊張が走るが、ブランカは大人しくしている。痛みで暴れ出したいだろうに、その健気さに涙が出そうになる。


「大丈夫、苦くないから」


 左手に握った枝、その葉を一枚だけ千切りとって、口に含む。咀嚼して呑み下すと、かすかな苦みが舌に残る。口を開いて確かに呑みこんだことを確認させ、それから枝ごと差し出す。手が震えないように祈り、リーチェに対する全幅の信頼の下、ブランカが枝葉を噛み砕く様子を脳裏に焼き付ける。


「すぐ、楽になるよ」


 竜殺しの名で呼ばれるこの植物は、人間に対しては無害だが、竜が口にすれば全身の急速な麻痺を引き起こし、やがて穏やかな死に至らしめる。ブランカがリーチェの口にしたものしか受けつけない以上、この役目はリーチェ自身が務めるしかなかった。もしリーチェが役目を放棄したら、ヴァレリアナは命を賭してでもそれをやり遂げるつもりだったのだ。だからせめて、ブランカの魂が空へ昇るまで、ここにいて、強く抱き締めていてやろうと思う。


「おやすみ、ブランカ」


 訪れる眠りに抗うように震える目蓋に手のひらを当て、そっと閉じてやった。

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