Epirogue
共に
「ラナ、ちょっと手伝ってくれ」
遠くで名を呼ばれて、私は振り返った。父だ。
家を建てていた。共和国北部の肥沃な大地にすくすくと育つイオクスの真っ直ぐな木は、しっとりと濡れた地面によく似た色の幹を、枝を、広く大きな蒼い空に向かって勢いよく伸ばす。森からそれを幾らか頂戴して、私達は村を再び蘇らせようとしていた。
「はーい、父さん」
凛鳴放送の機械鳥が、シルディアナの中央行政区、その中央広場で行われている議会の様子を、甲高い声で叫んでいる。シルディアナ国営の凛鳴放送は、革命前によく出現していた大怪盗の、時に忍び時に目立つ技を盗むことに成功したのだろうか、今日も議会のすぐ傍に潜り込んで、重要な話題を拾うぐらいに絶好調らしい。
私はそれにアルデンスを――今はもういない友のことを想うのだ。
その音の向こうでは何やら争いになっているらしく、これはアーフェルズが出動せざるを得ない事態になりそうだと思いながら、私は差し出された工具を受け取って、父が巨大な石を動かすのを見守った。
革命後のシルディアナは、アーフェルズにおんぶに抱っこの状態で、それでも何とか動き出した。
懸念されていた諸外国からの介入に関しては、首都に駐留してくれたアリスィアのおかげで、此方が想定していたよりも遥かに軽微な経済制裁のみにとどまり、国境線が変わることなどは一切なかった。スピトレミアやウイブラ、バルタール、ライマーニなど、反乱を起こした将軍達の領地が独立することはなかった。ラライーナ且つレフィエールの長子という存在がそこにいるだけでとんでもない抑止力になっていることに戦慄を覚えはしたが、彼女自身は飄々とした様子で、何とアーフェルズの配偶者となり、三年もの間シルディアナ国内をぶらぶらしつつ、地方の有力貴族だった者達の館ではなく、専ら宿屋や酒場の方に顔を出しているらしい。
そう、アーフェルズの話だ。
革命の夜が明けた日から様々な会議――会議と言っていいのだろうか――が行われているシルダ宮の前にある巨大な中央広場に、彼は三日に一度、いや、それ以上の頻度で赴いていた。その様子はシルディアナ映像放送及び凛鳴放送で、国内にある全ての平面映像機や機械鳥に中継として直接届けられ、今、市民の全てが何に参加していて何を行っているかが、地方及び国外の者達の知ることとなった。
「ずっと隠れていた皇帝の妾腹の息子が映像放送でその姿を晒す時が来ようとはこれは一体どういう皮肉かな、ねえラナ」
なんてことを、アーフェルズ自身は苦笑いしながら言っていたけれど、彼がいなければ一年でシルディアナは潰れていただろう。
会議が行き詰ると、集まった人々はアルジョスタ・プレナの頭領でもあったアーフェルズに助言を求めた。私に訊いてはいけないと諫めれば貴方も国民の一人だろうと反撃され、彼は頭を抱えながらも律義に様々な政策や法案を何種類も挙げてみせた。三日に一回が七日に一回になり、十五日に一回になり、三年経った今は、月に一回になった。
そう、とてもゆっくりだけれど、進歩している。全ての人が幸せになれるなんて思えない世界だけれど、夢の果てに未来を夢見て、少なくともシルディアナの人々は努力を重ねている。どれだけ衝突してもどれだけ憎んでも、その理念を忘れないようにと、罵声を浴びせた傍からその言葉を唱えて、互いに頭を下げるくらいには。
そうやって三年経つうちに、帝国は解体され、国民の力によって骨組みだけの群主制共和国から肉のついたシルディアナ群主制共和国へと変わり、各地方でそれぞれ国民によって選出された代表者が群を治めるようになった。不正や横領などを行えば即刻群主の座から追放されるらしい。
アーフェルズは自身の出自を打ち明けるつもりだと私に対して言ったくせに、ファールハイト帝の息子であることを誰にも明かさぬまま、私達が今いるアル・イー・シュリエ地方――と言っても、取るに足らないごく小さな群でしかないのだが――の小群主の座におさまった。ここに移り住んだ私達や、アルジョスタ・プレナの一部を取り仕切っていた人々にも異論はなかった、寧ろ諸手を上げて喜んだくらいだ。
半壊した城は修復され、サヴォラの尖塔は必要なものだけを残して撤去された。つい先日精霊参りの為と久し振りに訪れたシルディアナ共和国の首都は幾分かすっきりしており、尖塔が並ぶ以前と比べるとかなり開放的になったのではないかと思えるぐらいだった。光る動力環のきらきらした存在も今では数えるほどしかない。
私はその時、人々の眠る丘の上で、ここもよくなったねと呟いた。そして今は、頑張っているよ、と誰にも聞こえない所で囁いたのだ。
そう、シルディアナでの精霊参りの訳。
私はあまり話したことがなかったのだが、竜人族のマルクスは死んだ。かつての上司であった同じ竜人族の将軍にしてウイブラの領主であったガイウス・ギレークは、皇帝の首を取ろうとして、マルクスに阻止されたらしい。私はマルクスに、皇帝から贈られた耳飾りの片方を託したことを思い出す。それを使って、二人は炎に巻かれた。「竜の角」でイークが教えてくれた。
十二月の三日に、近衛騎士団長だったレントゥス・アダマンティウスの案内を受け、その場に赴いた。残っていた灰を集めて、少しだけ丘の上に埋めて、大河アルヴァを下りながら水に還して、外港で、二人は風になった。
彼等はやはり、何かに忠実であることを最高の美徳とする純粋な竜人族だった。二人が戻ってくることはない。
その後、私は数ヶ月掛けて、かつて酒場で一緒に働いていた懐かしきサイアを探した。幸い彼女はガイウスの屋敷にいたが、革命の日に、とある市民の家に善意で匿われていた。私がイークから聴いて、そうして語ったガイウスの想いと死を、サイアはただ静かに涙を流しながら聴き、しっかりと受け止めた。抱き締めた私の腕の中、そういう人だ、と彼女は呟いた。
そう、サイアのこともある。
彼女はその一年後に、子供を一人生んだ。ガイウスとの間に生まれた女の子で、まだ量は少ないが細く美しい金色の髪が生えてきていて、首筋や腕、脚には柔らかく小さな黒い鱗がある。竜人族のように飛ぶことは出来ないかもしれないが、背には小さな一対の黒い竜の翼があった。いつだったか、エレミアが呼び出した水のように、神秘的な光を抱く大きな深い青の瞳を持った、とても愛らしい子。サイアにそっくりだった。
そして、私のおじであるティルクのこと。
おじは、手にした小鎚で、母の形見であった腕輪を粉々に砕いた。
ラライーナのアリスィア曰く、覇王の剣と腕輪は、彼女が抱くレフィエールの末裔の竜の力と同等か、それ以上のものを孕んだ危険な代物であったらしい。そして、アル・イー・シュリエの村周辺に鍛冶屋が円形に埋め込んだ楔は、円形の内側に存在するアル・イー・シュリエの人々の自我を奪うものだった。彼らが自分の子孫であるにもかかわらず、鍛冶屋はそれを願い、剣が破壊されることを望んだ。そして、そう仕向けるようにしたのだった。
革命の日から数日経って、再び起き上がった時、おじは、私達のことを忘れていた。
ティリア――ティルクの姉であり私の母でもある大事な人のことも、守り通すと誓った私のことも、皇帝と宰相の二人への憎しみも、エレミアに向かって水の精霊王の名を返したことも、小鎚を振るったことも……やってきたことも、何処で育ったかも。
己の名前さえも、全部。
言葉はちゃんと話すのに、今まで生きてきた記憶が全て、綺麗に抜け落ちていた。
これではやりきれない、と、その時父は俯いた。当の本人が忘れてしまった憎しみを、周りの人間が知っているのはひどく空虚だ。
けれど、ティルクが知っていたことが、一つだけあった。
「俺は祝福された鎚を持つ鍛冶師クライア・サナーレが末裔、アル・イー・シュリエの地に生まれし者、覇を為す剣は破壊された」
アリスィアはその時溜め息をついた。ああ、間に合わなかった、と。
私達は全てを教えなかった。教えたのは私達の名とおじの名と、今は村を作ろうとしていること、それだけだった。泣いても、彼の全てが戻ってくるわけではなかった。
それでも、私達は明日へと歩いて行ける。歩いて行かなければならない。
そう、最後に、私が共に生きたいと願ったイークライト・シルダだった青年の話をしよう。
彼は革命からたった七日で、サヴォラを操る技量を私ではなく父やアーフェルズから搾り取るようにして学び、たった一人で旅に出た。どうして、と何度尋ねても、市民に気付かれたら貴方の身がどうなるかわからない、と何度説得にかかっても、やらなければいけないことが沢山ある、としか返ってこなかった。
ただ、別れの言葉を述べる彼の目は、誰よりも真っ直ぐに私を見ていた。朝焼けに濡れた若葉の輝きを抱く瞳、世界の意志により創造された美しいかんばせに浮かんだ柔らかな笑顔、凛とした力強い声。三年たった今でも、全て瞼の裏に鮮やかに蘇る。
イーク。
「そなたが受け入れてしまった理不尽でも、私は諦めない、待っていてくれ、ラナ」
月に一回となっている会議への出席に来て欲しいとアーフェルズが唐突に言い出すので、私はちょっと余所行きの服の上にサヴォラ操縦士の羽織を着てブーツを履き、アル・イー・シュリエの地を離れ、十日ぶりに我が群主と旅路を共にした……と言っても、たった三刻のサヴォラの旅だったけれど。
アーフェルズと二人乗りの
「アーフェルズさん、お待ちしていましたよ!」
「お元気そうで何よりです、アル・イー・シュリエ群主!」
人々がすぐさま集まってきてちょっとした混乱になりかけたが、彼は両手を左右に突き出して、落ち着け、と一喝する。
「まだまだだな、小さな小さなアル・イー・シュリエの群主に向かって皇帝陛下みたいな扱いをしてはいけないよ!」
アーフェルズが市民に私を紹介するのを聞きながら、なんと皮肉な台詞だろう、ただそれだけを私は思った。市民に向かってお辞儀をするのと同時にイークのことを考えた。彼がこの光景を見たら何と言うだろう……今のシルディアナを見たら何と言うだろう。凛鳴放送は何もシルディアナ国内だけが受信可能なわけではないから、彼は知っているかもしれない。だけれど、受信する側の考えていることが此方に送られてくるわけではないのだ。
君を知っている、城門の認証鍵を開けていただろう、という声を掛けられて微笑みながら、どうしようもなく彼に会いたくなった。
やがて、広場に簡易折り畳み椅子を置いて始まった会議は議会へと名を変え、群主達が進行と纏めを担うようになってきていた。今は興味のある市民がぞろぞろと集まって手を挙げながら意見をあれやこれやと出している状態だが、これからは群主に自身の意見を託して送り出す者が増え、規模も縮小していくだろう……というのが、スピトレミア群主ネーレンディウス・アンデリーの見解だ。シルディアナ市の群主は、人の多さにより各街区から三名ずつと、外港地区から一名が選出されていた。全てを代表する者はおらず、今回の議会では外交の際の代表をどうするかという問題が挙がっていた。
「まあ、こういう問題があることは一年前から囁かれていたけれどね、そろそろ決着をつけるべき時だ、シルダ家の者が傍系でも残っていれば、とは思うのだが……」
外港地区の群主が眉間に皺を寄せながらそう零すと、幾人かがそうだなあと頷く。国の顔に相応しい者だと胸を張って主張できる豪胆な者は何処にでもいそうだと私は思ったが、誰も立ち上がろうとしないということは、外港地区の群主の言っていることが妥当であるからだろう。シルダ家の傍系の者だって存在はするだろうが、名乗り出はしない。この場、周囲には多くの元貴族も集っているが、シルダという名を返上して別の家に下った者の子孫が、どうして名を上げることが出来るだろう?
アーフェルズをちらりと見ると、ずっと座ったまま黙って頷いているだけだった。
「ただ、先の皇帝陛下は……」
「言うなよ、爆発に巻き込まれたかもしれないだけで、死んだとは限らない」
「だがしかし、何処かに逃げているのだとしても、今更こういう場所に引っ張り出すのは余計に哀れな話だぞ、生きているとしてもまだ二十歳の若者に過ぎないのだから」
「しかし、政治に関しては議会が行うから、シルダ家の者はシルディアナの象徴……飾りのような存在でいて頂くだけで良いと思う」
「……それも失礼な話ではないか? 幾ら政治が打つ手なしだったからと、遥か数千年続く血脈のシルダ家をそういう扱いなど……」
「そういう高貴な金の血統だからこそ、象徴という特別な枠で囲ってしまえばいいと思うけれどなあ」
様々な意見が飛び交う中、私はイークのことばかり考えていた。彼は今、何処にいるのだろう。シルダ家に関するこういった話を聞いて、どう思うのだろう。
すると、ずっと黙ってそこに座っていたアーフェルズが、突然立ち上がった。
「よし、困った時の私、だな」
その場に集っていた者全てが期待に満ちた目で彼を見る。私も思わず彼を見上げた。何をするつもりだろう?
「遠慮しかしなかった貴方が今更何かを?」
「……アーフェルズ群主に何かいい策がおありで?」
「まあね、こういう時こそ私だ、少し待っていてくれ」
悪戯っ子のような笑みを見せながら片目をつぶり、アーフェルズはズボンの衣嚢から何かを取り出しながら遠くに視線をやった。頬に当てたのは会話専用の無線機だ……やがて、低い声で話し始める。近くにいる私にも聞き取ることは出来ないが、誰と連絡を取っているのだろう?
ふとよぎった何かの予感に、私はもしかして、と思うのだ。
アーフェルズが頬から無線機を離して、にっこり微笑む。私の方を向いた。
「喜んでいいよ、ラナ」
「え?」
「じきに見えてくる」
彼が芝居でもしているかのような口調でそう言った瞬間、空気を打つ音が遥か彼方から響き始める。やがてそれは徐々に大きくなり、くすんだ青空に鳥の如し翠の影が見えた。
「竜だ!」
「若しやラライーナのアリスィア殿ではないか?」
誰かが叫んだ。それは正解だった、どんどん大きくなってくる影は私自身も慣れ親しんだウィータで、凄まじい速度でこっちに向かってきている。爆音と突風を撒き散らしながらあっという間に広場の上空を横切り、旋回し、翠の鱗を陽光に美しく煌めかせたかの竜は、皆が集結する場所ではなく広場の入り口に空き場所を見つけて轟音とともに着地した……傍の屋台から非常に美味しそうな竜角羊の焼き肉の香りが漂ってきている。
ウィータの背からしなやかな影が飛び降りて屋台の店主と話をし始めたその脇で、少し大きな影がもう一人分、竜の背から飛び降りた。誰を連れてきたのだろうと思うより早く、私は確信した。あれは――
「兄上!」
こちらに向かって走ってくる影が光を浴びて、手を振る。アーフェルズがその方向へ進み出て両腕を拡げた瞬間、その腕の中に走ってきた人物が飛び込んだ――
――イークだ。
アーフェルズがよろけて笑い声をあげる。
「おお、がっしりしたなあ、イーク……私は踏ん張れないかと思ったよ」
「へへ、これでもかっていうぐらいに鍛えさせられたからな」
「エルフィネレリアで? もっとのんびりしているところだと思っていたけれど、違ったか」
「うん、全然違ったぞ、思ったより肉体言語が盛んだったな」
「そしてお前も三年前と全然違っている、と。一体何があったのか気になるね」
再会の抱擁を目の前に、私は座ったまま茫然としていた。彼の口から放たれた柔らかで雑な言葉遣いが信じられない、髪は宮殿から脱出した時よりも短く、眉より上で切られていて、細かった彼の腕は今やがっしりと鍛えられ、胸板も兄と同じぐらい厚くなっている……別人だろうか?
いや、美しい顔や真っ直ぐな瞳はそのままだ。
抱擁を解いた二人は此方へ向き直った。そして、アーフェルズが口を開く。
「皆、紹介しよう、エルフィネレリアで気合いを入れ直した我が弟にして前皇帝陛下、イークライト・シルダだ……そう、今更だけど、私はシルダ家の妾腹の出さ、黙っていてすまないね、本当の名前はアルトヴァルト・シルダ……まあ、戸籍登録もこっちだけれど、変わらずにアーフェルズ、と呼んでくれ、そっちの方で慣れてしまったしね」
アーフェルズ――アルトヴァルト・シルダは、あっさりと自分の出自をばらした。
悪戯っぽい笑みとともに放たれた言葉に、皆ぽかんとした表情を見せるばかりで、誰も一言も返さなかった。中継を全国に届けている筈の放送局の局員すらも絶句している。中央広場を静寂が支配する中、イークが不安げな表情で周囲を窺っている。
「……本当にイークなの?」
私は思わず口走った。その言葉だけがはっきりと飛んで、落ちかけていた彼の視線が私を射抜いた。若葉のような美しい瞳が、優雅に色づく口元が、あっという間に喜色に満ちる。
「ラナ!」
待てと諫める兄の手をいとも簡単にすり抜け、彼はこちらへ走ってきて、座ったままの私の手を取った。以前握ったことのある彼の細くてしなやかな温い手とは似ても似つかない温かさと力強さに、誰、と呟きかけたのをすんでのところで堪え、腕を引かれるままに立ち上がる。座っていた椅子が音を立てて倒れた。
「元気そうでよかった」
ただ、そう言って私だけに見せた優しく眩しい微笑みは全く変わっていない。持って生まれた優雅さはそのままに、イークは固い蕾が開き花咲き乱れるが如く、美丈夫へと成長を遂げていた。事実、群衆の中に混じる女性達が顔を赤らめながらざわめき始めている。あの女の子は誰、というのも聞こえてきた。
「……随分変わったね、イーク」
やっとのことでそれだけ言うと、イークは首を傾げて少し困ったように微笑む。その肌が日に焼けて健康そうに輝いていることに突然気付いた。青白い肌の頼りない少年はもういない。ここは皇帝のいないシルディアナだ。
「そうかな? 私は特に変わった気がしないけれど……それに、結構身体も鍛えたけれど、剣術は兄上の足元にも到底及ばないと思うよ」
「……待って、喋り方が違う」
「えっ、何かおかしいかな」
「ううん、おかしくはないけど」
驚きと戸惑いで私が俯くと、彼は握っている私の手の甲を親指で撫でる。その感触がまるで羽毛にでも触れているかのように繊細で柔らかく心地良くて、思わず目を細めた。
同時に、イークの変化を以前のティルクが見たらどう思うだろう、とも考えた。この人なら或いは、この人ならシルディアナは、なんて思ってくれたかもしれない……今思ってもどうにもならないことが溢れて、私はそれ以上何を話そうとしたかわからなくなってしまった。
おじはもう、全ての記憶を喪っている。
「ねえ、ラナ」
イークはその濁りのない瞳でじっと私を見つめている。
「前に言ったよね、待っていて欲しいって」
「……うん、覚えているよ」
美しく弧を描く唇に笑みを湛え、彼は頷いた。
「君が受け入れた理不尽でも僕は諦めない、とも言ったよね」
少し違う。だけど、呼び方が違うだけで同じだ。彼の方も覚えていたのかと思うと嬉しくなって、私は思わずにっこりしてから頷いた。
「うん、勿論」
「覚えていてくれて良かった……私は、これから、シルディアナの光精霊殿に所属しようと思う……いや、するつもりだ」
俄かに周囲が騒々しくなってきた。元皇帝陛下だという囁きが伝染し、沢山の人々が椅子から立ち上がってイークを一目見ようと伸び上がり、生きていたのか、何処に居たのかエルフィネレリアか、何をしていたのか、今更どうしてここに戻ってきたのか、話しかけている女の子は誰なのか、と疑問を口に出している。私だって、最後の質問以外は訊きたいぐらいだ。
イークはそんな周囲には一切頓着せず、私だけを見つめている。
「光精霊殿に……また、どうして?」
「兄上が話を通してくれた、別にずるくないよね、このくらいは伝手を使ったって、問題ないと思わないかい?」
「そうじゃなくって、行く理由の方が気になるのだけど」
そっちか、と呟いて舌を出すこの人を、私は知らない。
「ティルクとラナ……君達に関することだ」
「……どうして、私とティルクなの?」
問えば、幼げな笑みが瞬く間に引っ込んで、年相応の精悍な若者の真面目な表情が美しいかんばせを覆った。
「理不尽だと思わないか? 私達シルダ家の先祖のせいで、君達の先祖はあの剣……ケイラト=ドラゴニアとなる鉱石を、始原の森……入って戻ってきた人なんていないって言われている森に、だ、そこに取りに行って、しかも剣として打たせて、首都発展、帝国発展の熱源にしていた……その鉱石をシルディアナに持ち帰ったせいで、アル・イー・シュリエの人々が受けたものの根源を」
イークは首を振った。周囲にいる人々はシルダ家とケイラト=ドラゴニアという名を持つ覇王の剣に話が及んだ頃には囁くことをやめ、今や彼の話に聞き入っている。
「高名な旅のイェーリュフのセルナイエス・フィルネアと幸運にも話す機会があってね、話を聞いた上で、彼に誘われた……始祖の竜とも親交のある人だよ、案内して貰った、ラル・ラ・イーの民……ラライーナのことだね、古の約定により鉱石を体内に飲み込んでその力と融合した彼らとは違って、約定を交わしていない身の人間で鉱石を持ち帰ったのが、その剣を打ったクライア・サナーレ」
屋台の竜角羊を買い占めてウィータに与えたらしいアリスィアが近付いてくるのが視界に入った。イークが話している内容に、ああ、と緩慢に頷いて、アーフェルズの隣で腕を組んで立つ。
「クライア・サナーレは期限付きでその力を鉱石として受けた……それが約束に、疫病と呼ばれたものになった……だから、アル・イー・シュリエっていう名前の地方になったらしいね、約束を還す者、っていう意味だ、とね」
そこで、私は、かつて何度も見ていた夢のことを思い出すのだ。
重傷を負った赤銅色の髪を持つ青年を抱く細腕、宮殿を支配しようとするミザリオス・シルダの爛々と輝く碧の瞳、始原の森への険しい道、森を纏う竜の涙、光り輝く鉱石、振るわれる剣、悲しみを隠したシルダの者の微笑み、皇帝陛下万歳の叫び声、師であるアウルスと楔を打ち終え、名を捧げた、クライア・サナーレの記憶。両親やティルクの声、風の精霊王フェーレスが靡かせる翠色の髪、アリスィアと名も知らぬイェーリュフの会談、白く輝く竜の虹色に煌めく鮮やかな瞳、アーフェルズは死んでしまったの? いや、生きているけれど。
――約束を還す時が来た、アル・イー・シュリエの末裔よ、その名に印された約束を。
私は思わず口に出していた。
「……アル・イー・シュリエ、約束を還す者」
「そう、ラル・ラ・イーのきょうだい」
イークの説明に捕捉するように、離れた所からアリスィアが声を掛けてきた。私は、彼女と視線を合わせる。そのすました美しいかんばせに、存外人懐っこい笑みが浮かんだ。
「久し振り、ラナ。元気そうね」
「アリスィア、久し振り、この後「竜の角」にでも寄っていくの?」
「勿論。お酒は好きだからね」
そう言い合ってお互いに微笑んだ、それだけでよかった。私達の短いやり取りを微笑みながら見守ってから、イークはまた口を開く。
「……ティルクは元気?」
私は頷いた。
「うん、何も覚えてないけど……最近ね、結構笑うの、爆笑はしないけど、にこにこしているかな……数カ月前に何家族か村に移り住んできたけど、そのおかげで子供が数人増えてね、その子達が広場で遊んでいるのを、父さんとか、エレミアと一緒に、倉庫とか家を建てながら笑って眺めているよ、生活に心配はないけど……」
その続きが言えず、知らず知らずのうちに私は地面を見ていた。笑うティルクに記憶があったなら、もっと……その時だった、よく通る美しくて芯の太い声が私の胸をとん、と突いたのは。
「私は、ティルクと君の為に戻ってきた」
私は驚いて、思わず顔を上げた。
「身体と光の力を鍛えたよ、イェーリュフに誘われて始原の森を訪ねる為に」
「……始原の森を訪ねるって、どういうこと?」
一度入ったら出られないというあの森に? 古の巨木と古の巨獣が今も生命活動を続け、何人をも寄せ付けぬ始祖の竜が守るというあの森に?
「言葉通りだよ……ティルクの喪った心を取り戻す為に、呪いを解く為に、始祖へ謁見してきた、そこで、さっき話したクライアと鉱石と呪いの話を聞かせて貰った……今までずっと謁見される側だったのに……まあ、自分の顔を一切衆目に晒さない皇帝だったけれどね、こういう風に言うと可笑しな話だな、だけど本当だよ」
彼は粗野で自嘲的な笑みを少しだけ見せた。言葉遣いも、立ち居振る舞いも、顔に出る表情も全て、今まで見たこともないものだ。この三年で私の知らないイークが沢山増えたような気がすると言ったら、どんな答えが返ってくるだろう。
「疫病と判断して村を焼くなんていう行為をキウィリウスにさせてしまったのは、私達シルダ家の人間が不甲斐なかったからだ……あれを疫病と言うのなら、その種を撒いたのは、私達シルダ家の人間だ……そして、私達のせいで、楔を逃れたティルクにまで心を喪わせてしまった……兄上は……兄上こそ、私みたいな懺悔の言い訳なんて用意しないで、現状を憂うだけで終わらないまま、力と言葉で、八方塞がりで破裂寸前だったシルディアナを革命という形で新しい未来へ導いた……私は、ティルク一人を取り戻しただけで何を、と思うかもしれないけれど……思われても仕方ないだろうけれど、駄目だなあ、自分の力が強くなっても前と一緒で、言い訳ばっかりだ」
彼はそこで言葉を切って、迷うように視線を彷徨わせ、首を振り、ごくりと唾を飲み込んでから、また真っ直ぐな瞳で私を見つめた。
ああ、変わったところが沢山あるけれど、間違いなくこの人はイークだ。
「……私は、ティルクに元に戻って貰いたい、そうして、私を認めて貰いたい……君に笑って欲しい、笑わせるなら私がいい、君が言ってくれたように、君と一緒に生きたい、迎えに来てくれた時に言っていただろう、ラナ」
取られていた両手が懇願するかのようにぎゅっと握られた――彼の声は震えている。
「……今の君がどう思っているかはわからないけれど、私は、もう何の肩書もないイークとしての自分でしかないけれど、ただ、君の傍にいたい、それはずっと変わっていないよ……だから、ただ、もっと幸せになる為に戻ってきた……始原の森からも、ちゃんと、だから――」
今やそこに集う人々が皆、彼の次の言葉を待っている。誰も何も言わない。
私はただ、瞬きだけで返した。
「……だから、ティルクの所に連れていって欲しい、君とのもっと幸せな未来を諦めたくない、ラナ」
泣き出しそうな顔でそう囁いたイークに向かって、私は頷いた。
今日はシルディアナに泊まることにするよ、後は私に任せておいて欲しい、と頼もしげに言うアーフェルズから
闇の助けは必要ない。隠れることなど、もうしなくていい。
風の精霊達が翠光抱く実体のない魔力の翼に触れ、遊び、黒い機体に何処までもついてくる。砂漠燕の翼を広げてぐんぐん速度を増していく、それに戸惑うイークの、こんなに速くて大丈夫か、という声が後ろから聞こえるが、私は大丈夫、と一言返しておいた。
「だけどラナ! ウィータでさえこんな速さじゃなかった!」
「あのねイーク! これはウィータじゃないわよ!」
「ウィータじゃなくてもこんな速さのサヴォラになんて乗ったことない――」
「あのねイーク! 耳が痛いから! 黙っていてちょうだい!」
恐怖からか私の腰にひしと抱きついた彼は三刻の間ずっと耳元でこの調子で絶叫していて、煩くてかなわなかった。イークは宮殿から脱出する時に無理矢理サヴォラの三人乗りをしたことを忘れているのだろうか。あれよりは、絶対に安全だ――ただ、精霊が普段より興奮していただけで。いや、もしかしたら、あの逃避行でサヴォラそのものに恐怖心を抱いたのかもしれない。免許まで取って何を言っているのかと思ったが、そういえば、三年前に出立する時、彼は竜翼と蜜鳥しか使っていなかった。
私達が飛び立つ前にアーフェルズが集まった人々に向かって言っていたことが、飛んでいる間も、村の入り口に下りた今も気になっていた。妾腹の出で既にアル・イー・シュリエ群主の私よりも、権威も権力も失った後に努力して、好きな子の為にちょっと頼もしくなった私の弟をシルディアナの象徴にするのはどうかな、光精霊殿に身柄があっても問題はないと思うし、検討してみる価値はあると思うよ、ついでにシルダ家の人間だし、などという話だ。イークは聞いていたのだろうか。
「ねえ、イーク」
「どうしたの?」
私が手を出すと、イークは自分が装着していたラウァを此方に寄越した。操縦していた者が備品の管理をするという習慣まで、しっかりその身に染みついているようだ。
「アーフェルズが、貴方をシルディアナの象徴にしたがっている話、知っているの?」
「お飾り、っていう?」
「……さっきの、聞いていた?」
「いいや、今日戻ってくる前には聞いていたよ、私は、構わないって返事した。また何も出来ない立場なんじゃないかってちょっとだけ思ったけど、そうじゃない、ってすぐ気付いた」
イークは私と向かい合って、柔らかく微笑んだ。
「私には政治をする才能はなかったし、今もないけれど、シルダ家が受け継ぐ光の力を使って、光精霊殿で人を癒すことが出来る……政治は、キウィリウスがいたように、他に得意な人が出てくるだろう……腹芸も出来なくて社会勉強だなんて言いながら宮殿から脱走してばかりの毎日を送る必要も、もうない……何より、何も出来なかった私が、シルダ家の者として、シルディアナに対して責任を取れる……兄上が用意してくれた、良い機会だと思う」
そんなことを言うから、私は思わず彼の手を取った。暫く上空にいて冷え切っている筈なのに、彼の手は温かい。温もりを離したくなくて力を入れれば、ぎゅっと握り返された。
「私にしかない力を使って、私の望む形で、誰かを癒せる……そんな私がこの国に正式に認められる、君が認めてくれたらとっても嬉しいけど、君も含めて皆が認めてくれた方が、ずっと私達はこの国で暮らしやすくなる。そう思うのだけれど、駄目かなあ?」
「ううん、そんなことない、イークらしいよ」
私はその想いをそっと受け取って、そう返した。我儘でもあるけれど、だけど、それが人を、全てを動かしているのだ。
「だけど、父さんとティルクに伝えて欲しいの、今日シルディアナの人の前で言った、貴方の聞いたこと、全部……きっと、父さんもティルクも、本当のことを知らなくちゃいけないと思うから……」
どれだけ傷ついても、どれだけ怒りを覚えても、どれだけ後悔しても。ティルクは何度でも立ち上がったし、アーフェルズだって諦めなかったし、父さんも歩みを止めなかった。
どれだけ伝説と祖先に縛られていても、私達は生きていかなければならない。
「……君はそれでいいの?」
「父さんとティルクが知りたいと望むなら」
「わかった……君の父さんとティルクが、記念すべき私の初めてだ」
アル・イー・シュリエの地に、ざあっと風が吹き抜けていく。風の精霊達の笑い声が私達を包み、青空の向こうへ駆け抜けていった。
「あと、貴方の過ごした三年間を訊きたいの、凄く」
「うん、それは、私も聴いて欲しいな、凄く」
彼はにっこりしながら私の手を引いて、一歩踏み出す。じきに光を見るであろうティルクのいる家へ向かって逞しい足取りで隣を歩くイークの歩調は、私とぴったりだった。
Sirdianna ―風の腕輪と覇王の剣― 久遠マリ @barkies
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