第3話 ルサンチマンが多すぎる
毎年五月のゴールデンウィーク中にWCAの入会試験が行われる。場所は東京の国際貿易センタービル。丸山花世も案内を貰って、試験を受けに行った。それが十四歳の時のことである。ちなみに、テストの前に委員から講習があった。
物語作家としていったいどういう立ち居振るまいが求められるのか。いったい何を基準として作品を作っていけばいいのか。丸山花世は居眠りをしていて講師殿が何を言ったかまったく聞いておらず、気がついたら試験が始まっていた。ちなみに丸山花世が受けた試験はたった一問あるきり。
Q 物語の作り手が文学作品の賞を受賞することにおいてもっとも重要なファクターは何か。簡潔に述べよ。
丸山花世の答えは以下のようなもの。
A 一パーセントの学歴と一パーセントの金。一パーセントの運。残りの九十七パーセントは……まあ、コネだろうな。
そして、試験を終えて何日かするとスカラベのペンダントが送られてきたのである。残念賞ではない。会員証とセットで合格の通知。もっとも、WCAという組織は変なところで、会員費を取られるわけでもなければ会報があるわけでもない。何かの会合があるということもない。ただ『おまえは会員だ』という認定があるだけ。それだけなのだ。利益もないが不利益もない。役員が誰なのか、会長が誰なのか、そのようなことも丸山花世は知らない。相当偉い作家連が理事をやっているということは少女も聞いて知っている。だが、それが誰なのかまでは分からない。調べれば何か分かるかもしれないが、丸山花世自身にそのようなものを調べる意思がないのだ。
――どうでもいいわな。
事実を知ったところでどうということもない。得にもならないし損にもならない。やりたければやらせておけばよい。ただそれだけ。
だから少女の胸には今日もスカラベが水晶を押している奇妙な形の安物のペンダントが輝いている――。
その日は奇妙な天気であった。
五月だというのに妙に風が冷たく、青空が広がっているのに遠くで雷が鳴っているというちぐはぐな風まわり。
そして丸山花世は、午後の秋葉原で待ちぼうけ。
待ち合わせの時刻は十六時。だが……肝心の交渉相手がなかなかに現れない。
「十五分の遅刻、か。なんだよ……オカジーもあれだよなあ」
秋葉原の中央改札口で物書きヤクザは立ち尽くしている。
――明日十六時。お会いしたいです。
デートの約束ならば即座に却下ということになるのだが、どうも、そうではない。
――また仕事の依頼でして……。
前日、丸山花世に電話を寄越した編集殿はそのようなことを言っていた。
「エロならやんないよ。もういいよ」
少女はそのように言ったのだが……。
やがて。ぼんやりしている丸山花世のそばに岡島が駆け寄ってくる。
「すみません……いろいろとあって」
「いろいろとあんのはいいけど、呼び出しといていきなり遅刻っておかしくねーか? 携帯で連絡入れようにも電波、届かないし……」
「すみません。打ち合わせが地下だったもので……」
すみませんで押し切る。謝るけれどそれだけ。編集殿もなかなかの豪腕である。一方、小娘も普段からあまり自分が素行がよろしくないので他人に時間のことで強くは言えない弱さがある。
「まあ、いいけど。で、オカジー今日はなんなのよ」
「えーとですね。ちょっとまたお手伝いを頼みたいのですよ」
「そりゃいいけど何を手伝うのよ。モノにもよるよ。こっちもできることとできないことがあんだから」
――実は、Aポイントという会社の仕事をやってもらいたいんです。
岡島は前日、花世にそのようなことを電話で話していた。物書きヤクザのほうは、電話でいろいろと話をされてもよく分からないので、続きは現場で、と、そのようなことになったのだ。
「それでは歩きながら話しましょうか」
岡島は言った。花世は黙って後を追う。
「今日は学校、だったんですか?」
編集殿は少女に尋ね、小娘はつまらなそうに言った。
「あー。うん」
「大学の受験とかそんな時期ですよね」
「いや。カンケーないよ」
「……」
「うち、エスカレーター式の学校だから」
「そうなんですか」
「あんま良い学部とかはいけないけど、まあ、どこか入れるんじゃないの?」
少女は退屈そうに言った。そんなものに何の価値があるのか。少なくとも作品を作るのに学歴はそれほどの手助けにはならないことを花世は実体験として知っている。
「で、なんだっけ、なんとかポイントがどうとかって」
少女は自分のプロフィールについて誰かに語る意義を感じていないので、自分の話は適当に済ませて本題に入った。
「ああ、はい。Aポイント、ですね」
「なんなの、そのAポイントって?」
「Aポイントというのはですね、IT系の広告会社でして」
「ITで広告会社、ねえ」
丸山花世は胡散臭そうな顔を作った。IT。それは日本では虚業を指しているのだ。
「私、広告の仕事はできないよ。やったことないし」
「いや、そうじゃないんです」
岡島は言った。
「広告の仕事ではないんです。ええとですね。Aポイントの中にグラップラーっていう一他部門がありまして。ここで同人のゲームを作っているんですよ」
「グラップラー? 同人? なんで、広告会社が同人ゲーム作ってんのよ」
「うーん……それは……」
岡島は言葉に詰まった。
「そのあたりのことは、よく分からないんですよね。でも、そうなっている。で、グラップラーには、べれったさんっていう絵師の人がいまして」
「……そうか」
読めた。花世は頷いた。
「べれった。そっか。そういうことか」
龍川綾二の遺作。山田達と手を組んで作った作品のイラストがべれったという人物。要するにこれは、広義のバーター、なのだろう。
絵師を提供してもらったソフトハウスに、今度は編集がライター(丸山花世は作家であるが)を融通する。もちろん、ただで、ではないが。
「作家とイラスト物々交換ってわけか…」
「いや、まあ、そうなんですが。あちらにも丸山さんのことを話したら、ひとく乗り気で」
「どーせ、現役女子高生でエロ作家とか、わけの分からんこと言ったんじゃないの? ありがたメーワクなんだよ、そういうの」
「いや、まあ、そうなんですが……」
「だいたい、私、エロはもうやらんよ」
龍川綾二は真剣にエロに取り組んでいた。文字通り使い捨てられるキャラクター達のために命をかけていたのだ。そんな熱い男の魂に触れて、それでなおいい加減な気持でエロに向かうほど物書きヤクザは恥知らずではない。
「いや、ですから、エロではないんです。それは、確かです」
「同人でエロじゃない、だったらなんなの? そんなのあるの?」
同人はエロ。エロがない同人を誰が買うのか。
「まあ、その話はあちらについてからということで……」
「……」
「ああ、Aポイント、お金だけは余ってるみたいですよ。ですから、支払いについては問題ないですから。それは請合います」
「金のことは、まあ、とうでもいいよ」
変なところで商人になる編集殿に花世はちょっと疲れたようなため息をついた。
有限会社グラップラーの事務所は万世橋のすぐそば、掘割脇に建つビルの一室にあった。
築三十の古いビルの5階。
もっさりとした動きのエレベーターを降りたその先が物書きヤクザたちの終着駅である。そして……。
「うーん」
少女はうなった。
エレベーターの向こうにあったのはエロゲーのポップにポスター。インターホンの脇には自社ソフトのキャラだろう。全裸の美少女のフィギュアがお出迎え。
「あのさー、せめて、服ぐらい着せてやりなよ。郵便とか宅急便の人とか、来るんでしょ? そういう人はまともな人なんだからさ」
花世は呆れたようにして言い、一方の岡島はインターホンを慣れた様子で受話器をとった。
「失礼します。四次元の岡島と申します。」
岡島はそのように言いながらインターホンの向こうにいる相手に頭を下げている。一方、丸山花世は知らん顔である。
「あ、はい、分かりました……」
岡島は部屋の中とのコンタクトを取り終え、インターホンが切られ、そして……すぐに奥から女性が1人出てきた。セミロングの髪が綺麗な小柄な美人。ピンク色のブラウスをつけた若い女性のことを花世は受付嬢だと思っている。あるいは社長秘書であるとか……。
「ああ、どうも、岡島さん」
女性はそのように愛想良く笑い、岡島は言った。
「どうも、その節はお世話になりました」
そして聞いている花世は変な顔をしている。
――受付嬢に『その節は』なんてけったいなことを言う男だよなー、オカジーも……。
否。丸山花世は勘違いをしているのだ。
「ええと、こちらは?」
小柄な美人はそのように言った。こちら……とは、丸山花世である。
「丸山っす」
少女は岡島の紹介を待たずに適当に言った。そこで岡島が困ったように言った。
「……あの、こちらが斉藤さん。べれったさんです」
「え?」
少女はきょとんとなっている。
「この人が? エロのイラスト描いてん?」
「そうですよ……」
「え、でも、女の人じゃんか、この人」
「男の人だって、言ってないですよ」
岡島は花世が見せた表情に僅かに動揺している。さらには真実を知ったその後に見せた丸山花世の行動にさらに混乱することになるのだ。
「ふーん……へー……あんたがねえ……ふーん……」
花世は珍品を見るようにして言い、一方、ピンク色のブラウスを着けた美人は少女のぶしつけな視線にも笑っている。
「イラストの人ってもっと小汚いのを想像してたんだけれど。へー。ふーん」
「あの、丸山さん、あんまりそういう失礼なことは……」
「ああ、悪ィ、悪ィ。ふーん。へー、色っぽい挿絵描く人がこんな人だったとはなあ……」
丸山花世は大いに感心し、一方、べれったも負けていない。
「……あなただって、結構なストーリーを作ってたでしょう。女なのに」
斉藤女史はあるいは、龍川綾二の作品の裏事情を知っているのか。挿絵の担当だから、物語の内容を知っていると考えるのは浅薄というもの。忙しいイラストレーターは作品の内容を読まずに編集のラフコンテを見て適当に仕事を上げる者も珍しくない。
「聞いたけれど、あなたが作品の監修をしたんでしょう? 岡島さんにそう聞いたわ」
「監修って、そんなたいしたもんじゃないっすよ。あんなものは誰にだってできることで。それに、あの作品を実質的に書いてたのは龍川って男で……」
「お亡くなりになったんでしょう。話は聞きました」
斉藤女史は気の毒そうに続ける。
「まだお若かったんでしょう」
岡島も龍川の名前に苦い顔をしている。看板作家がただ単にいなくなったというだけではない。それは、よき友人がいなくなったということであり、未来を担うべき人間がいなくなったということ。極端なことを言えばエロラノベという業界が今以上に衰退していくという一種の象徴事。丸山花世もなんとなくそのことを察しているが、それは言わない。
「とにかく中にどうぞ」
べれったこと斉藤女史はそのようにして、事務所に客人をいざなった。
「行きましょう」
岡島がちょっと淋しげに言った。龍川のことを思い出しているのだろう。花世も頷いた。死んだ人間のことをいつまでも思っている場合ではない。それよりも今は死んだ人間に顔向けができる、そんな生き方をしなければならない。物書きヤクザは編集のことを押すようにして部屋に入っていく。
「こっちです」
小柄な斉藤女子はそのようにして言った。来客が通されるのは小さな会議用のブース。
「ふーん……」
丸山花世は辺りを見回した。
社員は……全部で十人ぐらい。いや、もっとか。
「それで……何すんの?」
物書きヤクザは編集殿に訊ねる。
「同人のゲーム作るってことみたいだけれど。斉藤さん、あんたが作るの?」
美人のイラスト担当に少女はぶしつけに聞いた。
「いや、私は、別のラインだから。今回は、ほかのスタッフが来ます」
「ふーん」
丸山花世は頷いた。ただ頷いただけではない。なかなかに聡い物書きヤクザは自分が話をしている相手の様子をそれとなく伺ってる。
「……」
ざらりとした妙な違和感。斉藤女史の言葉に感じられた何とは無い他人行儀な風。少女はそのことを心の中で確かに押さえている。
「じゃ、担当のものを呼んできますから……」
小柄なイラストレーターはそのように言うと去って行き……代わりにおかしな奴がやってきた!
「どうもどうも、お忙しいところをわざわざどうも……」
背が低く、横幅のある中年男、であった。眼鏡が頬肉に食い込み、髭を生やした奇妙な人物。甲高い声でべらべらとしゃべる中年男は、当然だが花世のお眼鏡にかなう人物ではありえない。
「ああ、岡島さん、お久しぶりです。どうですか、四次元の売れ行きのほうは」
「ええ、まあ……」
よくしゃべる中年男に花世はすでに相当機嫌が悪い。
「ああ、こちらが丸山さん……高校生で作家さん、はあ、たいしたものですね」
オメガ文庫の末吉もそうであるが、この髭男も調子が良いばかりで、いかにも重みがない。昨今の中年男というものはこんなに軽いものであるのか。
「やっぱり、何かの賞でもとられたんですか?」
――なんでもいいだろ。
物書きヤクザは、異様にへりくだる中年男にじっとりとした嫌な視線を送っている。そろそろ気の短い小娘は沸点である。
「丸山さんは大井一矢さんの親戚で……」
「はあ。大井さん、大井さん? 誰でしたっけ?」
眼鏡のデブは大井一矢のことを知らないようである。丸山花世はそのほうがむしろ幸せだと思っている。
「蒼のファルコネットのシナリオを担当された方で……」
「ああ、蒼ファルですか! 売れてますね! はいはい! 蒼ファルですか! 売れてますよね 同人のショップでも売り切れになってて」
中年男は突然スイッチがはいったようである。
「火風亭ですよね。はいはい、あそこの代表の霧島さんとはこの前もお会いしたばかりですよ」
どうも、目の前の中年は『はいはい』がお気に入りのワードであるらしい。
「あそこもね、女郎花さんっていうイラストさんが、代表の霧島さんとぶつかって辞められたばかりでね……てすから、サークルとしてどうなるかと思っていたら蒼ファルがヒットして、まあ、霧島さんもなかなかツキがありますよね」
「え、ええ、そうなんですか」
早口でまくしたてるデブに、岡島は押されている。そして。
――あれ?
よくしゃべるヒゲダヌキを岡島に任せて、事務所の様子を伺っていた物書きヤクザはそこで、さきほどブースから離れていったばかりの斉藤女史が遠くからこちらのほうを眺めているのに気がついた。その目。イラスト担当の女性のまなざし。なんともいえない、醒めた目、というべきか。軽蔑するような詮索するような、はたまた嫌悪するような目。多分それは花世にむけられたものではない。それは……。
「……」
丸山花世は相手の心のうちを瞳の奥に覗き――一方斉藤女史は自分の内側を図るようにして見つめている少女のまなざしに気がついたのだろう。まずいところを見られたというような表情を一瞬だけ作るとそのまま事務所奥に引っ込んでしまった。
――なんじゃ? いったい……。
花世は会社の中の微妙な雰囲気を察知している。何かがおかしい。何かが……。
「で、あの、本題なのですが……」
岡島は言い、そこで暑苦しいヒゲダヌキは応じた。
「ああ、はい、うちでもね、新作をですね、作ろうと思いまして。それでお呼び立てしたわけですよ!」
「ふーん」
少女は気の無い返事をした。
「ちなみに、私、グラップラーの広報の三重野と言います。どうぞよろしく」
デブはようやく自己紹介をし、そこで名刺を出してくる。
――営業 三重野保
名刺を受け取った花世はそこで小さく首をかしげる。
「三重野保。ねえ、営業って書いてあるけど、広報と営業、どっちが本当なん?」
少女は特に気にせずに思ったことをずばりと言った。
「営業もしますが広報もしてるんです」
「ふーん。だったら、営業って言やーいいじゃん」
「……」
営業よりも広報のほうが体裁が良いとでも思っているのか。高校生相手に見栄を張る中年男のこすっからさが物書きヤクザには鼻につく。
――てめー、営業なめんなよッ!
「ま、いいけどさ。で、それで、どうすんの? 何すんのよ?」
少女に鼻っ面を思い切り殴り飛ばされて、三重野は一瞬混乱したようであるが、すぐにいつものペースに戻った。
「えーとですね、うちはべれったがの主軸ブランドなわけですが、そのほかにも高原たちのラインがありましてね、さらにそれとは別の第三のラインをこれからみんなでやっていこうと、まあそういうことになりましてね。つきましてはそのシナリオを丸山さんでしたか、あなたに頼みたいとそういうことなのですよ」
「丸山さんでしたかって……別に、そりゃそれでいいけど、そんなんでいいの? 名前もよく知らんような奴の腕に全てを任せるなんてまともとは思えないんだけど」
「いや、それは、岡島さんのご推薦ですから」
頭の悪い広報は普通な様子で言った。丸山花世は渋い顔を作った。
時々いるのだ。自分の脳を働かせず、他人の『いい』をそのままに鵜呑みにする奴が
「四次元を立派にやられている岡島さんがね、推薦してくださる方でしたら間違いはないでしょう。それに、蒼ファルのシナリオライターの身内の方でもあるわけで……」
「あんまり、血筋とか重要視しないほうがいいよ」
丸山花世は嫌な顔のまま言った。
「それと、オカジーが何と言ったか知らないけど、私、エロは書かないよ。っていうか、書けないからさ。だから、あとで話が違うとか言われても困るから」
最初にできないことは言っておく。
「いや、それはそれでいいんですよ」
デブは揉み手で言った。
「今回はエロではないんですよね。あくまで一般作ということでして、ね」
「ふーん。だったらいいけど。でも、大丈夫なの? エロなし同人って。アネキが作った蒼のファルコネットだって、多少のエロはあったはずだよ。四次元みたいな激エロじゃなかったけど」
「いや、まあ、ね、今回はエロはなしということでしてね。そのことはもう社内でも決めたことなんですね」
「ふーん」
やたらと語尾に『ね』をつける耳障りな話し方に丸山花世は辟易している。それにしても。敢えて同人の持ち味を封じることのどこに意味があるのか。
「まあいいけどさ、そんなんで、売れるの?」
「ええ、まあ、ね、それを売るのが僕の役目ですから」
さらりとデブは言ったが……それを聞いている丸山花世は渋い顔のままである。
――こいつ、ちょっと馬鹿なんじゃないのか?
あるいは本当に優れた営業マンで、ゴミを万金の値で売り飛ばす実力があるのか。
「ふーん。まあ、いいや。それでいったいどうすんの?」
丸山花世はヒゲダヌキに訊ねた。ここまで相手が馬鹿だとかえって興味がわいてくるから不思議なもの。
「私は何をすればいいのよ?」
「そうですね……それではちょっとスタッフを呼んできましょうかね……少々、お時間くださいね」
三重野はそのようにして言うとブースから出て行った。早速、製作の打ち合わせに入るらしいが……。
「あの、丸山さん」
岡島も一抹の不安を感じているのか。表情が冴えない。
「気乗りしないようだったら、このお話、断ってしまってもいいんですよ……そこまでの義理はウチにはないですから」
「いや。いいよ。うん。話聞くだけ聞いてみるわ」
花世は先ほど斉藤女史が見せた、なんともいえない暗く複雑な視線を思い出している。あれは……どういうことなのか。
――まあ、軽蔑、だよね。デブ営業に対する……。
いったいこの会社はどうなっているのか。何かがかみ合っていないように見受けられるが、その根っこの部分を見てみたい。それは言ってみれば花世の好奇心。
やがて。先ほど出て行ったデブにつれられて、うだつの上がらない連中がやってくる。会議用のブースに入ってきたのは全部で三人。
背の高いハゲ。
筋肉質な長髪。
もやしのように痩せた理系タイプの眼鏡。
ぱっとしない連中の総登場である。もっとも、花世は風体と才能が別物だということを知っていたので、それほどの落胆は無い。そしてヒゲダヌキが意気揚々として言った。
「彼らがね、うちの精鋭です!」
前向きな明るさ。物事を常にポジティブに捉える営業殿のことを花世は鬱陶しく思っている。
――自分のところのスタッフを精鋭って……あんた少しは謙遜ってものを知りなさいよ。
「ええとですね、こちらから高原……」
まずはハゲ。年のころは四十近い。長く生きてきただけあって、この男は多少は話ができる……のか?
「長くエロゲー業界にいてね、うちのディレクターなんでよね」
「どうもー、高原ですー」
高原は関西の人間なのか、ちょっと言葉に訛りがあった。お調子者ではあるが悪い人間ではない。と、思いたい。
「はー、そうですか」
花世は相手の様子をよく見ている。
「それからその向こうが雨宮……」
筋肉質な体にタンクトップ。ロッカー風の男。どことなくつっぱって、いきがったような雰囲気を持った人物はただ頭を下げただけであった。
「彼はですね、うちでグラフィッカーをしているんですよね」
「ふーん。そうなんですか」
丸山花世はグラフィッカー雨宮のことを観察している。
「……」
内面のその奥の奥。
――このニーちゃん、ゲイなんじゃないかな?
態度。物腰。服装。かもし出す雰囲気。オカマではなくてゲイ。あるいはバイセクシャル。丸山花世の目は鋭敏に相手の本質を捉えている。
――風体とか雰囲気とか。オカマじゃなくてゲイ。筋肉ホモ。
もっとも……ゲイだろうがなんだろうが相手の性癖によって丸山花世が相手との付き合い方を変えるということもない。相手が優れた作り手であれば尊敬する。相手が勇敢な作り手であれば敬愛する。そして、相手が無能な作り手であってもそれはそれと許す。ただ卑怯な作り手、無責任であったり、真心のない相手はこれを軽蔑し罵倒する。ただそれだけのことである。
「それでね、最後が神田君。こちらもディレクターです」
「……どうも」
線の細い眼鏡の若者はぼそぼそと言った。そこで丸山が切り返した。
「丸山です。WCAに所属しています」
「……」
どうも同人の世界ではWCAはまったく有名ではないらしい。グラップラーの社員達の反応は一様にぼんやりとしたものであった。もっとも、そんなことはどうでもいいこと。
「えーと、最初に言っときますけど、私、エロは書けないですから」
書けるかもしれない。多分、できる。でも、命を失うまでエロラノベに打ち込んでいた仲間のことを思えば、軽々に『できます』などと言うべきではない。物書きヤクザにも仁義がある。
「いや、ね、もうね、それは分かってますから」
三重野が笑っている。
「今回はですね、エロ抜きでやっていこうと、そういうことコンセプトはスタッフの間でも決まっているわけでして……」
スタッフ全員が頷いた。社内で意思の統一はできている……らしい。
「記録よりも記憶に残る作品。今回はそういうものを作りたいというのが一致した意見なわけですね」
三重野は熱弁を振う。
「うちのグラップラーブランドも頭打ちで、このあたりで何か起爆剤となるものが欲しいんですよね。ですからね、べれったのラインと、すでに高原がやっているラインの二つのラインとは別に第三の新たなラインをたちあげていこうと、そういうことになった次第なんですよねて……」
「ふーん」
丸山花世は首をかしげている。
記録よりも記憶。ヒゲデブの発言が物書きヤクザにはちょっとひっかかったのだ。
「あのさー、記録より記憶はいいけどさ……それって、セールスとかはどうでもいいってこと? なんか最初から、試合を投げたような嫌な負け犬根性に聞こえんだけどさ」
花世は言い、そこでホモ雨宮がすぐに反論してきた。どうも、雨宮という男は物書きヤクザのことを嫌いなようである。生意気な小娘と思っているからなのか、それとも、もしかしたら何もしなくても女をやっていられる物書きヤクザに嫉妬をしているのか。
「いや、そんなことはない。別に負け犬なんてことは、そんなことはない」
雨宮の言葉には小さないらつきが感じられた。
「へー。そうかね?」
いきがっている雨宮のことをもの書きヤクザは適当にいなした。
「社員の人だったらセールスの記録か残ったほうがいいんじゃないの? 私は別にどっちでも良いけどさ」
「まあ、それは、今回は、やはり記憶に残る作品ということで決まったことですし、そういうことで、ここはひとつ!」
ハゲの高原が調子よくそのように取り成し、そこで丸山花世も適当に頷いた。
――どうもこの連中は……山田のダンナや伊澤のおっさん、たっつんなんかに比べるとちょっとというか、相当劣っているな。
花世はそんなことを思っている。
「それに、ね、どうせ同人ですからね」
三重野が言葉を続ける。
「同人のゲームならばね、一度ぐらいコケたってたいしたことないんですよ」
「……」
コケるのを前提に作品作り。
それは……そんなのでいいのか? 物書きヤクザは苦い顔をしているすが、その意味を、グラップラーの面々は理解していない。
「それで、コンセプトはいいけどさ。何すんのよ? 記録よりも記憶って、そんなことはどーでもよくてさ。どういう方向性の作品作るのかとか、そういうの決まってんの?」
「いや、ね、それはね、まだなんですよね」
三重野ははっきりと言った。
「まだほとんど決まっていないわけでしてね、これからみんなでブレインストーミングをしてですね、やっていこうと」
「ブレインストーミング、ね……」
花世は露骨に嫌な顔をした。
「あんまりそういうのは感心しないと思うよ。船頭多くして船山に登るって言うし」
少女の悪態に、またも雨宮が敏感に反応して顔をゆがめた。グラフィッカー殿は生意気な小娘の発言がいちいち癇に障るらしい。だが、少女のほうはまったく気にしない。
「三重野さんっつったっけ? 作品って『作りたい』っていう強い意欲が無ければ生まれないよ」
「……」
丸山花世は遠慮というものを知らない。
「これを作りたい。こういう作品を作りたい。どうしてもやってみたい。そういう熱いハートがないと作品って成り立たない。成ったとしてもお客の心に届かない。はっきり言えばコンセプトなんて後付けでもいいんだよ。まずは作品を作る。なんでもいいよ。イラストあげてもいいし、シナリオあげてもいいし……話はそれからだよ」
「えーとですね……それでしたら……」
それまで黙っていた影の薄い神田が口をはさんだ。
「あの……一応ですが、いろいろと社内でも話をしておりまして……」
ぼつぼつと、思考が途切れ途切れなのか、もっさりとしたと会話をするディレクター殿を花世はじっと見やった。
「いろいろと案だけは……」
「あるなら最初に言ってよ」
丸山花世はぞんざいに言った。そういうことであれば何故最初に言わないのか。そして、歯に衣着せない物書きヤクザの態度に岡島はひやひやしている。
「一応ですね……ユーザーに衝撃を与える、そういう、作品を作りたいと……そう考えているわけでして」
「ふーん。なんだ、それならそうと早く言えばいいじゃんか」
手際の悪さに丸山花世は遠慮なく口を尖らせている。
「いや、それはですね、もう少し話を煮詰めてからですね、申し上げようとそう思っていたわけでして」
三重野の言い訳に高原が言葉をかぶせてくる。
「そーそー。そうなんですよ……」
「ふーん……」
花世は、要領を得ない男達の言葉にすでに相当呆れている。三重野はだが、頭が鈍くて空気が読めないタイプなのだろう。丸山花世の心の動きなど気にせずに話を続ける。グラップラーの営業担当殿は、おそらくそこかしこのショップや取次で恨みを買い嘲笑を浴びているのではないか。
「とりあえずですね、こちらのほうでは『絶望』をテーマにした後味の悪い作品を作ろうと、そういう話なんですね」
「絶望? 後味が悪い?」
花世は素っ頓狂な声を上げた。
「なんでまたそんなものを……」
普通、視聴者でもプレイヤーでも読者でも、お客というものは気分が良くなりたいからお金を払うのだ。不愉快な思いをしたいと思って金を払う人間はいない。
「やっぱり、記録よりも記憶となるとですね、そういう、衝撃的なもののほうがいいと、そう判断したわけです」
デブは得々と語り、そこで丸山花世は尋ねた。
「誰が?」
「僕がです」
「僕がって、あんた、営業でしょ?」
営業の人間が製作の現場に口を出すのは決して悪いことではない。けれど、その営業に能力が無い場合は別。
「ええ。営業ですが、一応、僕はプロデューサー的な役も担っていますから……」
「……あんた最初、自分、広報だって言ったじゃない。プロデューサーなんて一言も言ってないっしょ」
「まあそうんですが、ね、この会社では一番年長ですし、社長に継ぐナンバー2なわけでして……」
「で、あんた、絵とか描けるの? シナリオは?」
「いや、そういうことはですね、うちには優秀なスタッフがいますから」
――こいつ極限のバカだな。
丸山花世は相手の底の浅さを見透かしている。
年長であるからプロデューサー。年功序列でやっていけるほどオタク市場は甘くない。年長だから百歳のボケ老人がプロデューサーになるという理屈が狂っているのとそれは同じ。
「で、みんなで話しあったところ、今回はべれったと……もうひとつ高原と神田のほうでやっているエロのラインとはさらに別の、第三のライン、エロ抜きのものをやってみようということになりまして、ね。それでコンセプトは『絶望』」
「ふーん」
丸山花世は特に何も言わなかったが、内情を理解している。
――要するに……自分でも口出ししてみたくなったってそういうことか。
何も分からない人間。何の能力も無い人間。けれど、そいつが突然現場に口を挟んでみたくなった。
気まぐれ。それとも、自分でもできるという慢心か。
「それで、絶望的なものっていうのはいいけれど、そんなもの売れるの?」
「いや、それは、僕が売りますから」
「僕が売りますってねえ……」
話がループする不快感。丁重な傲慢さ。血の巡りの悪い暴君。この会社はダメな会社。花世は思っている。
「それに同人ですからね。コケてもそれほどの損がないので問題ないんですよね」
そういうのは、いいのか。そういう判断で経営的に正しいのか。
「できればですね、ユーザーをね、欝な気持ちにさせてやりたいんですよ!」
三重野保は嬉々として言い、そのあとをついで調子のよい高原が言った。
「やり終えて、ぐったりとするような。そういう作品をやってみたいと、まあ、そういうことっすよ!」
丸山花世は社員全員を顔を眺めて回す。何の意思も熱意も無い。ぼーっとした死人の群れ。丸山花世はだんだん不安になってきている。
「そういう作品はやったことがないからよく分からんけど……どういうものを想定してんの? なんかサンプルとか、こういう系統っていうものがあれば、ちょっと言ってみてよ」
サンプル。パクリとも言うしオマージュでもいい。けれど、何か取っ掛かりがないと困るのだ。学園物で悲劇。ファンタジーでコメディ。触手でエロ。具体的な指示もないままに、
――絶望的で後味の悪いもの。
と言われてもそれは何を意味するのか、
「私の中にはそういう絶望的で後味の悪いものってないからさ。あんたが指示を出してくれないと、なんもならんよ」
隣で聞いている岡島は無言のまま。彼も、状況を理解して苦悩している。
「……そういうのは、ないです」
神田が言った。
「特に、想定とするようなサンプルはない……」
ぶつぶつと、ヘドロのたまった沼の底から上がるメタンガスのような神田のつぶやき。
「つまり、何も無いところからまったく新しいものを生み出すわけ? 私が?」
花世は尋ねた。
「……」
物書きヤクザの言葉に誰も答えない。誰の頭の中にも無いものをどう作れば良いのか。
「それを今から話し合って作るんじゃないですか!」
高原は景気よく言ったが、喚けばそれで名案が浮かぶと考えるのは拙劣というものだろう。
「とりあえずですね、アニメの作品で言いますと、ね」
三重野が言った。
どうも、こういうことであるらしい。実権を握っている営業担当の三重野が鶴の一声でもって、
『絶望的で後味の悪い作品を作ろう』
と言い出し、それにお追従の高原が従い、さらには下っ端の神田であるとかゲイ雨宮がわけも分からないままに従っている。けれど三重野は営業担当であって、この男には作品を作ることはまったくできない。だから話が滅茶苦茶になる。
「ええとですね、ご存知ですかね、バルディオスという作品」
「は?」
デブの中年男は目を輝かせているが、丸山花世は相手の言っている意味が分からない。
「ああいう作品をですね、作ってみたらいいかと」
丸山花世はきょとんとなって、それから、不思議そうな顔のまま隣に座っている岡島にこう訊ねた。
「ねえ、オカジー、ばるでぃおって何?」
「えーとそれはですね……」
非常に困ったようにしてオカジーは顔をゆがめた。
「随分と昔のアニメですよね、僕も見たことないです」
「バルディオスのすごいところはですね、最後に地球が滅亡してしまって、そこで完ということでしてね!」
中年男は意気揚々と四半世紀前のマイナーアニメについて語りだそうとする。
「見ていた視聴者に衝撃を与えたわけですよね、バルディオスは。人生変わるぐらいの……」
「そんなもんで変わる人生なんて生きねーほうが良いんじゃないの?」
花世は侮蔑のまなざしを中年男に送った。
「丸山さん、貴女もバルディオスは見たほうが良いですよ」
「いいよ。時間の無駄でしょ。どう考えても」
小娘は即座に言い、一方、ハゲの高原が興奮して言った。
「そうそう、バルディオス! エンディングテーマが暗くていいんですよねー。あの時代のアニメはエンディング暗いのが多くて……」
年上の二人が局地的に盛り上がっているのに対して、神田はぜんまいが切れた人形のように硬直し、ゲイ雨宮は所在なさそうにしている。年齢的に、三重野と高原は同世代で四十近く。ゲイ雨宮は二十代後半。神田は二十代前半ということで、世代間のギャップがあるのだろう。
――オタク、か。
花世はばらばらのモザイクになったスタッフを見ながらそんなことを思っている。
「とにかくですね、そういうことでね、バルディオスのような作品を是非ね、お願いいたします!」
三重野は意気軒昂に言った。
「バルディオスのような作品って、なんじゃそりゃ」
小娘はヒゲデブの中年男を哀れむようにして見るばかり。
全てが終わる頃には街は夕暮れ時。
編集殿はぐったりとなり、一方、丸山花世は図太いので平気な顔をしている。
「あの……丸山さん?」
「なに?」
「このお話、下りても良かったんですよ……」
あまりに拙い。あまりに愚かしい。グラップラーのスタッフは、どこの世界でも通用しない低劣なものである。
「オタク上がりで業界人って、あんまりまともな人っていないんですよね」
「うん。そーだね」
丸山花世は曖昧に言った。だが。物書きヤクザは、
――この仕事、パスだわ。
とは言わない。
「……請けるんですか?」
「うん。そう……」
丸山花世はべれったこと斉藤女史の嫌な視線を思い出している。
「オカジー。これは、アネキの受け売りなんだけれど……作品が人を呼ぶんだって。現場がそいつを呼ぶ」
「……」
「私を呼んだのはオカジーで、それは有限会社グラップラーの依頼があったからだけれど、でもそうじゃない。作品の神様がいて、そいつが私に何かをさせたいからあの場に私を呼んだ」
「大井さんもそんなことを昔、言ってたの聞いたことあります」
「だったら、まあ、できる限りのことをやってみようかと、そんなことを思うんだよね。何か意味があることだと思うから。その意味が今はよく分からないんだけれど」
丸山花世は迷いながらも自らの道を模索している。一方の編集殿は暗い顔をしている。
――どんどん人が死んでいく、そういう話、そういう話にしましょうよ! ね、ね!
岡島たちが帰る直前の三重野。無邪気に、何の考えもなく喚く中年男の姿を岡島は思っている。三十過ぎて四捨五入で四十。同年代の人間の中には外資で敏腕トレーダーになっている者がいて、大手商社で役職についているものがいて、自分で事業を起こすものがいる。社長と呼ばれ、先生と呼ばれ、子供が産まれればパパと呼ばれている。だが三重野は……。
「バルディオスですか。アホですよね。そんなアニメのことを得々と語られましても、ねえ」
岡島は疲れ果てたようにして言った。
「うん、そうだね。アホだね、あいつ」
丸山花世はぼんやりとした表情のまま頷いた。
「ま、でも、うん」
物書きヤクザには物書きヤクザの算段というものがある。
「ま、いろいろと考えてからだね」
花世は急いでいない。そして、悲惨な結末が見えすぎている現場に留まろうとしている少女のことを編集者は不安げに見ている。と、ヤクザ者は言った。
「あのさ、オカジー、ひとつ頼まれてくんないかな?」
「なんでしょう?」
「連中のプロフィール。スタッフ一人一人の情報、知りたいんよ。年齢、性別、出身地、経歴……」
「そんなものを調べてどうするんですか?」
「うん。なんとなくね。知っておいたほうがいいような気がしてさ」
「まあ、それだったら調べて見ますけれど」
「うん。お願いするわ」
丸山花世には丸山花世のやり方、というものがあるのだ。
その日の夜――。
自室に篭る少女は編集殿から送られてきたメールを眺めている。
「ふむ。三重野……か」
少女は椅子の上に胡坐をかいた姿でつぶやいた。
上に着ているのはスウェット。下はパンツ一枚。とても他人に見せられる姿ではないが、物書きヤクザは気にしない。なぜならば彼女は上がいることを知っているからである。アネキ分の大井弘子は時々であるが、服を着るのを忘れたままパソコンに向かっている。
作り手というものはどんな格好でもかまわない。やりやすければそれでいいのだ。
「えーと何々……」
――三重野保。三十九歳。
「三十九。デブ、チビ、馬鹿。三重苦だよね」
三重野のプロフィールを花世は見ている。職務経歴書、である。岡島がそれをどのようにして三重野たちから取ったか、丸山花世は知らない。まあ、あまり頭のよさそうな連中ではなかったから、編集殿に適当に丸め込まれたのではないか。
「えーと……大手ゲームメーカーに営業として入社。四年後退職。中堅ゲームメーカーに入社。二年で退社。で、Aポイント……か」
丸山花世は経歴を見ている。三重野保。転職をするたびに会社の規模が小さくなっている。転げるような人生、である。
「……なんだ、あのオッサン、ただの社員なのか」
花世は腹のあたりを掻きながらぼそりと言った。
ただの社員。もしかしたら、会社に資本参加をしているとか、土地や建物を担保物権として差し出しているとか、そういう金銭的な保証を三重野がしているのではないか。丸山花世はそんなことを疑っていたのだ。
――金を出しているんだから口も出す。
それは当然のこと。金を出しているのであればそいつがプロデューサーを名乗っても決しておかしくない。小娘はそう考えている。
「金か、才能か。人に指示を出していいのは、そのどっちかだよ」
だが三重野は違う。金は出さないし、才能もないが、プロデューサーを気取っている。それを許す会社はやはり天意が無い。
「あのオッサン、筋金入りの馬鹿だな」
女子高生は鼻で笑った。
「ええと、で、高原。高原浩二。こいつは……某専門学校卒。で、アニメの製作会社を経て、エロゲーメーカー、クロイツに入社。それからAポイント、と。製作実績は『こいみず』十年も前の作品か。そんなの知らんよな。私、五歳ぐらいだったわけだし」
花世は物心がつくかつかないかという時分の作品には興味が無い。
「で、雨宮博明。こいつも専門学校卒で……エロゲー会社シンプルトンを経てAポイント。シンプルトン? シンプルトンって『うすのろ』って意味じゃないのか? まあいいけどさ」
物書きヤクザはトンマな命名におかしな顔をする。自分のことをうすのろ呼ばわりする会社はよほどのマゾなのか、本当に頭が悪いのか。
「神田要は、ああ、こいつは、高原の後輩になるのか。クロイツ出身」
経歴だけを見る限りであるがスタッフにはぱっとしたものは無い。物凄く有名な作品に携わっていたというわけでもないし、物凄く売れた作品に変わっていたというわけでもない。
「で、上は三十九歳。高原は三十七。雨宮二十七に、神田二十四……」
少女の顔色は冴えない。
「絶望、か」
以前であるが、丸山花世はアネキ分の大井弘子からこういうことを教わっていたのだ。
――相手の言葉よく聞きなさい。相手の言葉に『浮き上がった』ものを感じたら、それはその人の物語を読み解く鍵。そして、それこそが物語の神様の言葉よ。
「記録よりも記憶。衝撃的。後味の悪いもの。で、絶望……」
グラップラーのスタッフはみな笑っていた。笑いながら『絶望的な作品を』と言っていた。つまりそれは……。
「斉藤のねーちゃん、か……」
物書きヤクザは一方で、イラストレーターの暗い瞳を思い出している。こちらをじっと見ていた軽蔑するようなまなざし。それは、ほかのスタッフの乾いた笑顔の裏返し。
――ラインは二つ。べれったのラインと、高原、神田のライン。で、三重野が参入。
斉藤女史はいろいろな版元でイラストの仕事を請けるぐらいだから、看板といっても言い。つまり……主軸は斉藤女史。
「会社内の勢力図がおかしなことになってんのかね」
花世はつぶやいた。小娘の目から見ても三重野保らは存分におかしい。一方、花世の見た斉藤女史は、ごくごくまともな人物である。あくまで表面上は、の話であるのだが、それでも、ほかのスタッフが手に負えないぐらいにおかしいので、それに比べれば斉藤女子はやはりまともに見える。
「フツーのねーちゃんだったら、あんなヒゲデブ評価しねーよなー。何がバルディオスだよ。んな古いアニメ知るかっつーの!」
作品は人生。作品こそは人生。そして、作品の神様に導かれてアホ集団グラップラーと物書きヤクザが出会ったのもまた運命。
「たっつん達と会ったときみたいな心のときめきがないのはなんでなのかなー」
花世は渋い顔を作って頭をかきむしった。
「あん時は、作品作るのがスゲー楽しくてわくわくしてたのに……」
どんよりと霧がかかったような現場。どうしてもっとすっきりいかないのだろう?
「もうちっといろいろと調べてみて、それから打ち合わせして……でも、あんな連中だからなー。どうせろくな案もないだろうし」
実力の劣る隊長に率いられた分隊はたいてい全滅の憂き目を見るのだ。
「さて、どうなることかね」
そして翌日。
丸山花世は再び秋葉原の駅前広場を訪れることとなった。
時刻は十九時を十分ほど過ぎようとしている。
もともと物書きヤクザには連日秋葉原に出張る義理も予定も無かったのだが、それは突然の召集であった。招集をかけてきたのは、グラップラーの自称プロデューサー三重野保。
――えーとですね、丸山さん、今日、お時間よろしいでしょうか。
物書きヤクザがヒゲデブの電話を受けたのはちょうど昼休み。学食でラーメンをすすっていた小娘は突然電話をかけてきた三重野に、
――あんたさー、こっちは高校生なんだからさ、その辺、考えてよ。だいたい私、あんたの部下じゃないんだからさ。
と悪態をついたのだが、愚鈍なプロデューサーは、花世が腹を立てているということすら理解していないようすであった。
――今日はですね、社員、みんなで集まって、食事会でもしようかと、そう思いましてね。新しいアルバイトが入ったもので。それにみんな、いろいろとストレスもありますからね、鬱憤晴らしなどもしてもらおうかと。丸山さんもいかがですか?
食事会。鬱憤晴らし。何の仕事もしていないのに鬱憤も何も無いだろうに。物書きヤクザはそう言いかけてやめにした。かわりに生意気な小娘はこう尋ねたのだ。
――斉藤さんは来るの?
それはもう。当然です。べれったはね、うちの看板ですから。三重野はそのように答え、そこで花世は、こう三重野に伝えたのだ。
――気が向いたら行くわ。
そして、約束の時間に遅れること十分。丸山花世は日の暮れた秋葉原にやってきた。
電気店はそろそろ店じまい。ぎらぎらしたネオンを無視して野良猫のような小娘は駅前の青果市場跡地に立つビルに向かう。グラップラーの連中はすでに宴会を始めているはず……。
「アルバイトの歓迎、ねえ。そんなもんに私を呼ぶ意味あんのか?」
少女はビルを見上げながらつぶやいた。そういう内々のことは会社の中でやれば良いと思うのだが。
「ま、いいか……」
丸山花世は丸山花世で確かめておきたいことがある。で、あればこれは絶好機。
「まあいいや行ってみりゃ分かるか」
果たして、エレベーターに乗って向かった先、洋風居酒屋には……。
「……あれ?」
丸山花世はつぶやいた。自分が場所を間違えたかとも思ったのだ。居酒屋に集まっている連中は、ぱっと見ただけで四十人……いや、もっといるか。
「こいつらは、違うよな」
あまりにも多すぎる人数。パーティー会場のような有様になった居酒屋に集っているのは……背広姿のサラリーマンではない。
――ゴッグよりもアッガイが……。
――エヴァの劇場版は……。
――リーフは……。
よく分からないが、別の意味でカタギとは思えぬその一団は、彼らだけが分かる謎の言語で会話をしている。
「いや、これか?」
丸山花世はぼんやりとし……やがて、ぼーっと突っ立っている少女のそばに斉藤女史が現れる。
「ああ、丸山さん」
綺麗なライムグリーンのジャケットを着たイラスト担当は、アルコールが入っているのか、頬がほんのりと赤い。
「ああ、どうも……って、やっぱりここでいいのか」
「いいのかって?」
「いや、だから、なんか、会社の人の食事会だって聞いてたから。こんなに人がいるとは思わんかったっていうか」
花世は思っていたことを素直に言い、斉藤女史はちょっと苦い顔をして沈黙する。
「なんかあったん?」
「まあ、ね……」
「……」
「最初は、ね、社長が、内々でって言ってたんだけれど。アルバイトの新人が入ったから……」
「ああ、そんなこと言ってたな。三重野のおっさんが。私もそう思ってて……」
べれった殿はなんともいえない憂鬱な顔を作った。騒ぎまくっている人の輪から見慣れた顔が出てくる。
「いやー、丸山さん! 遅かったですね!」
ヒゲのプロデューサー三重野保。何の能力もないのに年齢が上だからという理由でチームを引っ張る……というか引っ張りきれていない愚か者。
「女子高生にはいろいろあんのよ。あんたと違って」
花世はつっけんどんに言い、その言い方に、斉藤女史は目を丸くしている。
「で、なんなのよ、この乱痴気騒ぎは」
丸山花世は言った。
洋風居酒屋の中はひどく騒々しい。
「いやー、いろいろな人をね、呼んだんですよね! ライターさんやイラストさん。音声さん。声優の人も一部ですね。みなさん骨休めしてもらおうとね、思いましてね!」
「……」
斉藤女史は下を向いている。
「社員だけでアルバイトの歓迎会ってそういうことじゃなかったの?」
「まあ最初はそうだったんですがね、どうせやるならばね、派手にね、どーんとやったほうがいいと思いまして!」
アホプロデューサーは得意げになっている。
「誰が思ったのよ?」
「僕ですね!」
「僕って……金払うのあんたじゃないんでしょう?」
「それは当然会社の経費ですよね」
無邪気に笑う中年男を丸山花世はじっと見つめている。
――こいつ、ガンだな。
人の金で遊んで、まるで自分が王様気取り。けれど。
「……」
三重野は派手に騒いでいる割にはどこかぼんやりしている。ヒゲデブのまわりには……そこはかとない違和感のようなものが漂っているのだ。花世が黙っているからではない。中年男は、自分が招こうと言い出した関係各位の様子をちらちらと眺めている。
ライター、イラスト、はたまた音声といった人々。誰一人して三重野に擦り寄ってくるものはいない。一人ぐらい、
――プロデューサー殿、まあまあ……。
と近づいてきてもいいはずなのに、誰も寄ってこないのだ。集団の中の絶対孤独である。社員もその他スタッフも勝手に話をしているばかり。そのような光景は多分だが、アホプロデューサーが思い描いていた光景とは違うもの。もっと奉られるはず。もっと、おだてられるはず。オレが中心。オレが主役。なぜならばオレはプロデューサーだから。もっとも金は一銭もいれてないが。そして現実は違う。
――みんな分かってるよなー。こいつが使えねーって。
花世は醒めた目で傷心の中年男を見ている。そして。
――要するにこれが、この男の絶望ね。この程度の絶望。
絶望、絶望、絶望。
人がどんどん死んでいく。後味の悪い作品。そのような作品いったいどこに根ざしているのか。ちなみに丸山花世にはそういう絶望は無い。だから、おまえの絶望を書いてみろと言われても書けない。エロを書くよりも絶望を書くほうがよほど難しいのだ。何故なら、その感覚がないから。絶望をしている暇があるのだったら自分で自分の作品をつむいでいけばいい。作品を作ることは希望をつなぐということ。だが三重野にはそれができない。だから絶望する。
――ルサンチマンね……。
物書きヤクザは納得している。
中年男のルサンチマン。オタク業界しか知らないオタクの成れの果て。夢の残骸。それが絶望的な作品。
三重野は五月雨的に、けれど自分を排除して盛り上がっている会場を澱んだ眼差しで眺めている。そして斉藤女子は、こちらも何も言わない。丸山花世はそんな二人の様子を眺めている。
――うまくいってねーよなー。この会社は。
物書きヤクザ者は内訌の存在を感じ取っている。
――利益が出ているうちはいいけど、そうでなければいっきに転げ落ちるわなあ。
と。酔客の輪から押し出されるようにして何者かが丸山花世のやってきた。頭の中のぜんまいが途切れがちなディレクター、神田であった。
「……」
ディレクターは丸山花世の姿を見ても特に何も言わず、また、三重野もぶしつけな部下に注意をしなかった。挨拶なんかどうでもいい。社会人としてのマナーはクリエイターには不要。それがグラップラーの、というか、チーム三重野の掟であるらしい。そして花世も自分がぞんざいに扱われたからといって特に怒ったりはしなかった。それに。
「来たな! 食らえ、目からビームにょ!」
三重野が突然そのように喚き、神田の胸の辺りを小突いたのだ。それは突然の、また意味不明の行為。一般的な常識人からするならば愚行であった。力任せの拳を胸に貰って神田は、『うっ!』と苦しげに呻き、斉藤女史はなんともいえない暗い顔を作った。四十男が、
『目からビームにょ!』
とは……それで世の中通っていくのか? そんなことでいいのか。だが、丸山花世の視点は少し違う。
――目からビームって……あんた、それビームじゃなくて正拳突きじゃんか。
「神田君? 呑んでる? 呑んでますかッ!?」
三重野は喚いた。児戯のようなオタクの会話。神田は、
「ええ、まあ……」
などとぼそぼそと言っている。結局はディレクター殿も三重野と同じで、外注のライターやイラストからは人望がないのか、あるいは、それ以前に人付き合いがへたくそなタイプであるのか。王様気取りで実力のない三重野と、他人とうまくコミュニケーションができない神田はお互いのことをそれほど信頼はしておらず、むしろ、軽蔑しあっているのだが、それでも結局は一緒にならざるを得ない掃き溜めのような関係なのか。
「神田君にもね、次の絶望作品では頑張ってもらわないとね」
三重野は喚いた。孤独を振り払うようなヤケクソの叫びである。
「……はあ」
神田はぼそぼそと言った。近くに斉藤女子がいるのに二人は斉藤女子とは目を合わせない。一方の斉藤女史もその場を離れようとしない。それは、彼女が丸山花世と何か話をしたいことがあるからなのだろう。だが。丸山花世は、もうしばらく惨めな中年男達の様子を観察したかったのだ。その様子、三重野たちの苦悩こそが作品に大事なエッセンスとなるものだということを物書きヤクザは理解しているからである。
「神田君もね、本当に、立派になって……」
三重野は誰に向かって話をしているのだろう? 丸山花世に、ではないはずであり、斉藤女子に、でもない。神田……か? それとも自分自身?
「クロイツにいたときにはね、もっと痩せていて、青い顔をしていて……」
「ふーん、そーなの?」
花世は興味を引かれてつぶやきに割り込んだ。
「そうですよ! クロイツの社長はワンマンで知られてますからね。それで、超過勤、超過勤で神田君も倒れて」
「へー」
余計なことを言う三重野にしかし神田は黙っている。
「それで、うちに来ないかとね、僕が誘ったわけですね」
「ふーん」
恩人面をする三重野に神田は特に何も言わなかった。覇気も無い矜持も無いということか。
「僕のところには、わりとね、そういう人が来るんですね。この前も知り合いの雑誌社の人が倒産して。仕事はないからって、別の会社を紹介して……」
「僕も、これからは人を育てていく、そういう方面で頑張っていこうかと思っているんですよ」
三重野の言葉には脈絡がない。どうして人を育てるなどということを思いついたのか。何を言ってるのかさっぱり分からない。
「あんた、プロデューサーやめんの?」
花世はずけずけと尋ね、三重野は一瞬沈黙してから言った。
「いや、それは、ね……まずはプロデューサー業をやって」
中年男の言葉は支離滅裂である。だが花世はそのことには触れない。相手がまともでないことはよく分かっているのだ。
「高原君も、雨宮君も以前の会社では十分に力を発揮できなくてね……ですから、僕がね、グラップラーに呼んだんですよ。力にあった働きができる環境を整えてあげたわけですね」
「ふーん。まあいいけどさ」
物書きヤクザの合いの手はテキトーである。相手の話をきちんと聞く必要など無い。一方、斉藤女史のほうは嫌な顔をしている。押し付けがましく身勝手な中年男。普通の女性であれば、それは軽蔑の対象になるのだ。
「グラップラーのブランドをもっと大きくしていかなければ。僕のブランドなわけですし……」
三重野の言葉に神田は黙っている。何の表情も顔には映さない。そして花世は気の毒な中年男にそろそろ飽いてきている。
「ふーん。あんたのブランドねえ……」
「……」
「ま、いーけどさ。とりあえず頑張ってよ。『営業』さん」
丸山花世は『営業』という言葉に力点を置いて言った。その言葉に、三重野は方向感を失ったような奇妙な顔になった。頭の悪い営業殿は……もしかしたら丸山花世が自分に好感を持っていないことをはじめてそこで知ったのかもしれない。そして。話の成り行きを見守っていた斉藤女史が、そこで慌てたようにして言った。
「あ、あの、丸山さん……」
明らかに雰囲気が悪くなる予感を女性イラストレーターは抱いたのであろう。
「ああ、うん。花世でいいよ」
丸山花世の視界にはすでに三重野の姿は無い。知りたいことはもうすでに知ったし、理解したいことはすでに理解した。
「ちょうどいいから、うちの社長に会ってください」
斉藤女史も三重野のことは嫌い。これ以上同じ場所の空気を吸いたくはないのかもしれない。それ以上にこのまま丸山花世を放置しておけば、警察沙汰になるかもしれない。豪胆な小娘に比べるとイラスト女史は神経質で潔癖である。
「あ、うん、そうだね」
物書きヤクザは頷いた。三重野と神田は放置しておいても構うまい。もとよりそれほど価値のある人物ではない。花世は三重野に特に何も言わずにその場を離れる。社会人のマナーは気にする必要が無いというチーム三重野の掟に従ったまでのこと。
「社長。見んのは初めてだね」
「社長の事務所、別階だから」
「……」
「それにしても、丸山さん、あなた、言いたいことは何でも言ってしまうのね」
イラスト殿はちょっと非難しているようでもある。
「言いたいこと言わない作家は作家じゃないっしょ」
花世はしれっと言い、それを聞いた斉藤女史は苦い顔を作った。
「……まあ、そうだけど」
イラスト殿は苦い顔のまま丸山花世を奥へといざなう。
この娘には何を言ってもダメ。あるいはべれったは諦めたのか。
「それと……やっぱり、丸山さんはやめて。能力のある年上に『さん』付けされるのはやっぱり人として間違ってるよ」
「……能力の無い年上に『さん』付けされるのは?」
「それは当然でしょ」
丸山花世は自分が来た方を振り向いている。三重野と神田。遠くから見る二人連れは周りからも相手にされず、非常にうらぶれて見える。
「それでは……花世……ちゃん」
「ちゃん……か、まあ、いいや」
花世はあいまいに言った。
果たして。洋風居酒屋の奥。一番奥まった席。そこに有限会社グラップラーの社長が鎮座していた……というか、置き忘れられていた、というべきか。そばにいるのは若い女性社員だろうか? 一人いるきり。
「社長、丸山花世さんです。次の作品のシナリオを担当します」
「……ああ、あなたが」
まだ若い社長。線の細い、学生上がりの企業家といった風情の人物。
「どうぞ、座ってください」
社長は言った。あたりにはあまり人がいないが……それでもコンパニオンがついているだけ三重野よりはましか。
「こんちわ。丸山っす……」
物書きヤクザは頭を下げると進められた席について。初めて会う社長殿は……三重野よりはましな人物である。
「なんか随分と奥まったところですね」
まるで座敷牢。そうでなければ床の間。居酒屋奥の角席を物書きヤクザは見回している。と、なると社長はお飾り、か。
「まあねえ……」
若い社長は笑っている。年齢は三十、四十……三重野と同じぐらい、あるいは、それよりも若いのか。覇気の無い笑顔に物書きヤクザは内心渋い顔をしている。
――屑がのさばるのはトップがだらしないからか……。
この会社、もつんだろうか。花世はそんなことも思っている。だが、それはそれ……。
「ええと、まだお若いんですね。高校生?」
「ああ、はい。そうです」
丸山花世は動じないで言った。
「高校生なのに、もう一人でやって行ける。たいしたもんですね」
社長は人の良い笑顔を作り、花世は言った。
「そうじゃないです。高校で、親のすねをかじっているから、こういうことができるんです。一人でやっていける作家はほとんど稀ですよ」
「しっかりしたお嬢さんだ」
社長は楽しげであった。
「今日は、この子、この子の歓迎会をしようとそういうことだったんだけど」
若いIT系広告会社の社長殿はそういって、脇に控えている女性を指し示した。どうもそやつはコンパニオンではなかったらしい……。
「なんか、いつの間にか大事になってしまって」
向こうでは高原が太古のアニメについて講釈を垂れている。
「……会費制ではないですよね?」
花世はぼそりと言った。
「ああ、うん。それは、うちで経費で出すから……」
社長殿は丸山花世の発言の真意をどうも理解しなかったようである。物書きヤクザは自分の懐の心配なんかはしない。そうではなくて、会社のことを心配しているのだ。それは無駄金ではないか。三重野の権威付けのための大パーティー。そんなものに意味があるのか――だが、社長はそのことについては気がつかず、かわりに斉藤女史がじっと物書きヤクザの横顔を見ている。
「僕、実はオタクのことはよく分からなくて」
社長は小声で言った。
「同人とか言われても、ねえ。何が良いのかさっぱりで。エロ同人とか……それだったら風俗行けばいいと思うんだよね。まあ、僕は嫁さんも子供もいるから、風俗なんか行かないけど。オタクと呼ばれる人の考えていることはよく分からないよ。丸山さん、君、分かる?」
「分かるオタクもいますけど、分からんオタクもいます。オタクにもまっとうな人生送れる奴から、どうにもならないろくでなしまでいろいろといますから」
奥まった床の間。まるでテロの打ち合わせのような会話は続く。
「そうか。なんかねー。ガンダムがどうとか言われても、僕はよく分からなくて。新作……なんだっけ? やってるとか言われても、何がなんだか」
社長殿は呆れているらしい。
「僕が古いのかなあ」
「いや、それがまともだと思いますよ」
花世の向こうでは高原が、自分が昔、関わったアニメ作品についてウンチクを語っている。
――昔、オレが会ったあの監督は陰険な奴で……。
何が面白いのか某監督のネタであるとか、作品の解説。丸山花世は聞くとはなしに聞いている。
「なくても誰も困らんもの、ですよね。絶対に」
花世は勝手に一人で燃え上がっている高原に醒め切った視線を送っている。
「同人も利益出ているから、僕も口は出さないけれど」
社長殿は言った。どうもグラップラーの社長は単に気弱な青二才というわけではないようである。数字だけは読める。変なルサンチマンを抱えて業界にしがみついているオタク上がりよりはよほどましである。
「現場を知らない人間が口を挟んでも混乱するだけだしね。お金さえきちんと入ってくれば、こっちも文句は言わない。そういうふうにしてるんだよ」
「そっちのほうが賢明かもしれんですね」
花世は言った。
「クリエイター上がりの社長って、たいてい、数字が読めないから。クオリティーがどうとか言っても、利益が吹っ飛んでちゃあねえ……」
小娘は作り手ではあるけれど、案外、コストに対してはシビアである。作りたいものを作りたいようにどうぞ。けれど、自分の身の丈にあったものでないと作りきらん。少女はそのことを知っているのだ。
「四十近くになってアニメに夢中ってねえ……あんた。親、泣きますよ」
丸山の言葉に、社長も斉藤女史も、コンパニオンだと思っていたアルバイトも苦笑いをしている。
「まあ、新作、お願いしますよ。僕は、ただ祈ることしかできませんが」
社長は言った。
「なんか絶望的で、衝撃的な作品を作るとかなんとか。連中、そんなことを言ってたから」
新作の内容については社長の耳にも届いている。小さな会社であれば当たり前か。そこで丸山花世は言った。
「できる限りのことはするし、手抜きはしない。それは約束する。でも……」
「でも?」
決然として言う少女に、社長君はつられて言った。
「もしかしたら、あのプロデューサーや、ディレクターでは、私についてこられないかもしれないっスよ」
少女の言葉の意味を社長は理解せず、アルバイトの女性はもちろん何も分からず、ただ斉藤女史だけが不思議なものを見るように丸山花世を眺めている。
「……ま、どうなるかわかんないけど」
丸山花世は曖昧に言った。
絶望。後味の悪いもの。それは花世の心の中には無い。それは三重野や高原たちの心の内にあるもの。だとすれば苦悩のツケを支払うのは丸山花世ではなく、スタッフたちということ。
その意味が分かっているのはただ一人丸山花世のみであるのだ。
人ばかり多くてあまり盛り上がらない会は九時前には終わってしまった。派手ではあるが内実が伴わない宴。花世も結局、ほかのライターやイラストと会話をすることはなかった。普通、こういう場面ではいろいろと同業者内で接触もあるものなのだが、そういうものは一切なし。誰も彼もが丸山花世の存在を無視し……そして、無視されたからといって物書きヤクザもどうということはなかった。
――まあ、えにしってそんなもんだよなー。
秋葉原の駅前ビル。入り口のところから、三々五々に散っていく社外スタッフを見ながら少女はそんなことを思っている。
「さて、私も帰るか……」
秋葉原から新橋まで十五分少々。で、あれば、アネキ分の店に寄っていく暇はあるか。だが。
「あ、ちょっと……」
少女はそこで呼び止められた。
丸山花世を呼び止めたのは、べれった。斉藤女史。
「ああ、なんだ。サイトーさんか……」
少女は言った。社長も去り、三重野たちはカラオケだかに行ってしまった。外注スタッフも帰途についた。残っているのは丸山花世と斉藤女史の二人きり。
「どしたん?」
「ん、いや、ちょっと、お話をしないかなって。そう思って……」
「スタッフのアホさ加減を愚痴りたい?」
花世はずばりと言い、イラストレーターは呆れている。
「あなたは本当に……本音しか言わないのねえ」
「うん。そう……そうだね」
丸山花世は言った。いつでも本音。建前も言わないし、お追従も言わない。本当のことを言う。でも、それは、嘘では相手に思いが伝わらないから。
「ああ、あのさ……」
丸山花世は不意に言った。
「ん、何?」
「サイトーさんって、本名、なんていうの? 下の名前」
「亜矢子です」
「斉藤亜矢子。ふーん。亜矢子ね。うん。分かった」
物書きヤクザはテキトーに三、四回頷いた。
「で、なんだっけ?」
「……うん。そうね。ちょっと歩かない?」
「歩くって……駅、すぐ、そこなんだけど。まあ、いいや」
人間、回り道をしたい時があるのだろう。丸山花世は道草ばかり食っているので、そういう心情が分からないのだが。
秋葉原の駅前は平日、九時過ぎということで人の流れが途切れがちである。ちょっと淋しい夜の街。ネオンの明かりが派手な分だけ余計に物悲しい。斉藤亜矢子は会社の方角、万世橋の方角に歩き始める。丸山花世もそれに続く。
「……」
誘っておきながら斉藤亜矢は口数が少ない。
「……ねえ、丸山……花世ちゃん?」
「何?」
「……うちのスタッフって、やっぱり、相当おかしいかな」
三重野。高原。雨宮。そして神田。
「私はほかのところ、あんまりよく知らないし」
「おかしいかどうかは知らんがジグジグスパトニックみたいだよね」
「ジグ……はあ?」
突然奇妙な呪文を唱えた丸山花世にイラストレーターは目を見張っている。
「ああ、ジグジグスパトニックっていうのは、イギリスのパンクバンドで……八十年代ぐらいの? なんかすげーキモい奴らで『俺達はスーパースターだ!』とか喚いたりしてて、顔に変なパンストみたいなのかぶったり。とにかく、小心な癖に自己顕示欲だけは強い、そんな連中。でも、メンバー全員が楽器を弾けなくて……」
「メンバー全員が楽器、弾けないの?」
「うん。誰一人として。楽譜も確か読めなかったんじゃなかったっけ? でも、自分たちはスターで億万長者になるとか言ってて。で、レコード会社を買収して嫌いな、自分たちよりも売れているアーティストをクビにしてやるんだとかいきまいて」
「……そんなことできるの?」
「さあ。できなかったんじゃねーの? だからいつの間にかいなくなっちまった。今、あいつら何してんだ?」
パンクな娘のテキトー発言に、べれったは笑って良いのか悪いのか思案顔である。
「うん。三重野のおっさんとか見てるとさ、やっぱりジグジグスパトニックっぽいんだよな。作品を作る力はない。ハートも弱いし、頭も弱い。でも自己顕示欲だけは強い。その自己顕示欲もストレートなもんじゃなくて、曲げてくる自己顕示欲っつーか」
「曲げてくる?」
「うん。なんかこすっからいんだよね。会社の金で宴席ぶってみたり。血の巡りの悪い男だよね」
「あなた、言いたい放題ねぇ」
「うん」
花世は自分が間違っているとは思っていないので怪訝な顔をしている。
「ああ、そうだ、あのさ、サイトーさん」
丸山花世はもののついでにいった。
「雨宮。雨宮っていんじゃんか。グラフィッカーの?」
「うん。いるけど」
「雨宮っていうグラフィッカー、あの野郎、ゲイじゃない?」
「……え?」
突然の言葉にイラストレーターは頭の中が真っ白になっているようである。
「は? 雨宮君が?」
「うん。あのいきがったチンピラ。あいつ、ホモだと思うんだよね。そうじゃなければバイセクシャル。ああいう、なんかマッチョで突っ張ってて、ことさらに自分を強く見せたがる奴、男らしさに必要以上にこだわる奴って隠れゲイの場合が多いから。新宿二丁目とかに隠れて入り浸ってるんじゃない?」
「いや、それはどうか……どうなのかしら?」
そこまでは知らない。斉藤女史は困惑している。そして花世は事実が確かめられなくてもどうということはない。少女の中では雨宮は同性愛者認定は済んでいる。そして、雨宮が同性愛者であるからといってどうということもない。作っているものがよければ国籍も性別も人種も性癖も関係ない。丸山花世の価値基準はいつでもぶれない。
「まあいいけどさ」
少女は適当に言葉を吐いて散らす。
「どっちにしたって、発展性のない連中なわけだし」
その発展性のない連中と机を並べている自分の立場はどうなるのだ。女性イラストレーターはそんなことは言わなかった。何故ならば、丸山花世の言葉はそのまま斉藤亜矢子の心のつぶやきでもあるのだから。
「作品を作る能力がない、か……」
斉藤女史は小さな声で、だがはっきりと言った。
「三重野さんはもちろんそうだけれど、ほかの人たちも、一線ではやっていけない人たちで。私も、人のことは言えたガラではないけど……」
「……」
「不思議よね、花世ちゃん。ジャズが好きな人は、演奏者の質については語るけれど、自分でも演奏できるって思う人は少ない。食べ物でもそう。食べ歩きが趣味な人はお店の技量の良し悪しは言うけれど、自分でも人に出せるほどのお寿司を握ったり、てんぷらを揚げる人はいない。で、そのことを別になんとも思わない。作り手と受け手の間には境界線があって、それをみんな当然と思っている。ただ秋葉原に集まってくるような人たちだけが、自分も一線級の作り手と同じか、それ以上のことができると思っている」
自分でもできる。自分でも。自分でもイラストぐらいは描ける。自分でもマンガぐらいは描ける。自分でも小説ぐらい書けるし、プロデューサーやディレクターにはなれる。でも、それは本当なのか。
「まあ、そりゃ、あれだよね、要するにオタクはアホってことなんじゃねーの? 常識がねーっつーか」
「そうかも」
斉藤女子は笑った。
二人連れは万世橋のたもとにたどり着く。
ネオンの明かりが春の夜空に妙に白々しい。
「三重野さんね、この前もトラブルを起こしたばかりなのね」
「……」
「三重野さんはどうも私のことを自分の手駒とか、そういうふうに考えているみたいなのね。俺が管理してやってるっていうか。そんなことしてくれなくてもいいのに」
――能力の無い人間のおせっかい、か。
憎まれる人間は何をしても憎まれる。
「ある雑誌で連載を戴いて。で、はじめようとした矢先に、自分を通していないのは納得がいかないとか突然怒りはじめて。私も出版社の人と揉めたくなかったんだけれど、でしゃばってきて。話が壊れてしまって」
斉藤女子は中年男の暴走に疲れ果てているようである。
「なんかね、そういうことが多くて」
「そりゃ、そうだろうね」
人間の組み合わせは二×二で全部で四つ。バカと利口、でしゃばりと控えめ。その二×二。利口で控えめ、利口ででしゃばりはまあよしとして、バカで控えめまでは許される。だが、バカなでしゃばりは手に負えない。
「出版社や同業者。アニメの製作会社。いろいろなところに出入りして。でも、何の意味もなくて。ただ、走り回って。ただ、知り合いが増えたって名刺の束を自慢して」
「まあ、どうにも痛い四十男だよねー」
深刻な斉藤女子に比べて、丸山花世は外部の人間ということもあって平気な顔をしている。
「高原さんは風見鶏で頼りにならないしね。自分を引っ張ってくれた三重野さんに義理があるのかな。神田君は若すぎるし」
誰にも話す相手がいない。斉藤女史も気の毒な人物である。
「あのさー、サイトーさん、私、ロボット神田よりも年下なんすけど」
花世は橋の欄干にもたれていった。
「うん。そうなんだけれど、あなたはちょっと普通の人には見えないから」
少女は変な顔をした。自分はまともではないのか。丸山花世には思い当たる節がないわけではない。
「なんでかな。なんで、みんなそんなふうに変なことになっちゃうのかな」
斉藤女史はつまらなそうに言った。
「高校出て、専門学校行って。デザイン勉強して。Aポイントのほうにデザイナー候補としてアルバイトで入って。で、イラスト描いたりしているうちに、ゲームの部門がてきて、そっちを手伝って。そうしたら、作品が売れるようになって……」
「……」
「最初はアダルトの作品に戸惑うことばかりだったけれど、作品が売れるからやめることもできなくなって」
「でも、こんな生活いつまでも続かないって私も知ってて。だって、そうでしょ? そんなにいつまでも続かないよ。若い人、どんどん出てくるし。私もうば桜。今年で三十歳……」
「え? サイトーさん、そんなに年なの?」
「……」
じっとりとしたイラストレーターの視線に花世は珍しく言葉を詰まらせた。
「花世ちゃん。あなたもあっという間に三十よ。ホントなんだから……」
「そいつは……覚えとくよ……」
丸山花世も面白くなさそうにして言った。年をとるのはそれだけあの世との距離が縮まること。それほど芳しいことではない。
「このまま……このままでいいのかなって思うのね。時々。五十、六十まで続けられるか。五十六十までエロ原画。そんなの無理。実力がないのは、私もおんなじ。能力のない人間が底辺で足の引っ張り合い……みっともないよね」
「ふーん」
花世はうなった。
「子供の頃は絵を描いていれば楽しくて。幸せで。ただ、それだけでよくて。漫画家になりたいとか、そんなことも思っていて。でも……いつの間にか何もかもがルーチンワークになってしまって。本数とか数字とか。魂が擦り切れていくようで……」
イラストレーターは肩が痛いのかしきりに右の腕をゆすっている。そして花世はいつものようにテキトーにかつはっきりと言った。
「結婚したらいいんじゃねーの?」
「……」
誰かの慨嘆には付き合わない。丸山花世はそのあたりストイックである。
「えーと……そういう話では……」
「そういう話じゃねーの?」
丸山花世はしれっとしている。
「女なんだからさ。結婚して逃げっちまえばいいんだよ。別にそのことで誰も何にもいわないっしょ。寿退社なんだから。子供生んで出生率の低下に歯止めかけてやるんだ。文句言われる筋合いねーっつーの」 」
物書きヤクザは相手のことを茶化しているわけではないのだ。本当に心からそう思っている。本当に、結婚してしまえば言いと思っている。そして、それは案外だが、斉藤女史にとっては一番良い選択ではなかったか。
「ダンナの稼ぎあてにして、で、テメーはテメーで出来る範囲でやりたいことをやる。竹内まりや状態? ああ、でも、そのためにはまともなダンナを見つけないとダメだけど。男ってすぐ髪結いの亭主化しちまうっからさ」
「……」
「結婚が嫌なら……会社辞めちまえば? フリーでやってきゃいいんだよ。賢鳥は良木を選って止まるって言うじゃんか。アホと一緒にいてもいいことないしさ」
「会社辞めるって……今辞めたら、グラップラーは立ち行かないと思うの。高原君のラインは赤字続きだし、三重野さんがやるっていうラインも……ねえ」
丸山花世は全ての本質を理解しようとしている。
絶望。絶望的な作品を。三重野たちはなんでそんなことを言い始めたのか。稼ぐのは斉藤女史。極論をすれば斉藤女史以外の人間はいてもいなくても同じ。三重野はもちろん、ほかの連中もいくらでも取替えがきく。若いアルバイトを雇ってそいつらに仕事を割り振ったほうが経営的にはプラス。それがみんな分かっている。それがみんな分かっているのだ。だから拗ける。一方で、そうやって拗ける連中の全員が業界に対する気が狂ったような執着心を抱えている。三重野も高原も神田もそしてゲイ雨宮も、オタク業界にしがみつきたいと思っている。著名なゲームのプロデューサーやアニメの監督と同じ舞台に何としても乗っていたい。そこから下りたくない。神様がそれを望んでいないことはみんな理解している。自分たちにはヒット作を作り、業界の風雲児になるという逆転の目が残っていないことは、三重野達も分かっている。分かりきっているのだ。それでもその場にあり続けたい。
夢。眩い夢――。
たいして稼げもしないどうでもいい業界からはさっさと足を洗うほうが賢明という小娘の正論は三重野たちには通らない。三重野たちは違う。三重野たちは何としても業界に生息し続けたいのだ。だが、実力が無い。実力がまったく無い。一流どころか、二流にすらなれない。何も作れず、何も描けず、何も語れない。何の才能にも恵まれない。だから拗ける。
奇をてらった、
『衝撃的な作品』
の意味は結局それ。手を伸ばしてもどうしても届かない憧れ。同じ業界で働いている人間なのに自分たちは栄誉に浴することはない。同僚の女性イラストレーターにすら届かない。
『記録よりも記憶』という言葉に対して、
――売れるもん作ったほうが良いんじゃないの?
と言った丸山花世の言葉に、雨宮がイライラしたように『そんなことはない』と反論したのも、そのような『絶対に突破できない閉塞感』を感じていたから。
だが、そんなことは丸山花世には関係のないことなのだ。と、いうか、それは三重野たちの個人の問題。誰かが代わることが許されない運命。雨宮や神田が小便に行きたくても、それを丸山花世が代わってやれないのと同じ。
だから丸山花世は言う。
「いーじゃん。グラップラーなんかなくなったって。あんな会社なくなったって消費者はどうってことないよ」
暴言に斉藤女史は固まっている。
「どーせさ、グラップラーなくなっても、デブとハゲとホモとロボットが路頭に迷うぐらいでさ。連中がどうなろうと知ったこっちゃねーっつーの。っていうか、あんな連中、むしろ三、四年、路頭に迷ったほうがいいよ。ホームレスでもやって、世間の厳しさとテメーらの馬鹿さ加減思い知りやがれってんだ!」
「……」
「オタク業界なんてさ、パイも小さいどーでもいい業界じゃんか。それだったら農業とか林業とかやったほうがいいんじゃないの? そっちのほうがよっぽど世のため人のためだよ」
「過激……よねぇ、あなたは」
イラストレーターは感心しているようである。
「人のおこぼれを貰って、人の金使って、それで偉そうにしようなんてそれ自体が根性腐ってるっつーの!」
「……」
三重野たちの問題は三重野たちの問題。一方で、斉藤亜矢子にも問題はある。それは、三重野たちの問題のポジとなるもの。
「サイトーさんもさ。ぐちぐち悩んでないで自分でやってみりゃいいんだよ。会社がどうとか、社長がどうとか、そんなカンケーねーよ。奴らは奴らの人生があって、それは奴らで勝手に解決してくよ」
女子高生の言葉は暴言だが、言葉の響きがとても澄んでいる。
「サイトーさんは、結局、自分に言い訳してるんだよ」
斉藤亜矢子は沈黙している。丸山花世は怒っているわけではない。ただ、適当に思ったままを語るだけ。
「私、いろいろな人を見てきたよ。大抵は自分ひとりでやってる人。自分だけ。ピンで仕事をしている人たち」
伊澤もそうだし、山田もそう、亡くなった龍川もそう。みんな、世間の波風にもまれながらそれでも一人で戦っている。たった一人で。丸山花世のアネキ分もそう。実力のあるなしではない。みんなそうやって運命に向きあっている。丸山花世にはそのことが潔いと思われるのだ。だからこそ、三重野たちは瞳に醜く映る。
「社内のクリエイターは、そういう一人でやってる奴に比べると明らかにひ弱い。編プロとか事務所に所属して仲間内で仕事回してる奴とか。そういうのは、人としても作り手としても細い。だから会社が崩れるともちこたえられないんだ」
花世は続ける。
「社内クリエイターは金と会社が厚い壁になって、だから、外がどれほど熱いか、どれほど寒いか、そういうことすら分からなくなっちまう。で、そうやっているうちにどんどん時代からずれていっちまうんだ」 」
少女は淡々とした口調で続ける。
「結局さ、きちんと作品の神様と向き合ってないんだよ。みんな。だから何かあると簡単に折れっちまう」
「作品の神様……か」
「そーだよ。作品の神様はズルが嫌いなんだよ。まじめに作品に取り組まないヤローには天罰を下す。でも、まじめに真剣に向き合う奴には恩寵を与えるんだ。実力のあるなしじゃない。思いがどれだけ真剣か。大事なのはそれだけだよ。大事なのはどれだけ作品を愛しているか。どれだけ相手に伝えたいか、どれだけ真心があるかだ」
少女は斉藤亜矢子の顔を覗き込むようにしていった。三重野であるとか神田にはそういう話はしない。アホに話をしても無駄だし、実際に作品を作らない人間にはそれは理解できないこと。
「作品ってさ。パンチと一緒だよ。体重乗ってないとお客をぶっ飛ばすことなんか出来ないんだよ。相手の魂に響かない。会社に雇われている作り手ってさ、ゲイ雨宮とかもそうだし、サイトーさんもそうだけれどいつも安全圏にいて、会社に守られてるんだよ。お金の面でも、保障の面でも。でも、だからこそ、筆先に体重が乗らないんだよ」
「……」
「お客はいつでも裸で待ってる。けれど、作り手は戦車に乗ってる。それではフェアじゃない」
花世は若くして亡くなったたっつんのことを思っている。龍川であれば、きっと物書きヤクザの言葉に、
――まったくだ、丸山さん、その通りだ! その通りなんだよ!
と賛同してくれるに違いないのだ。山田や伊澤もそうだし、大井弘子もきっとそう。だから丸山花世は語り続けることが出来る
「エロ屋の人たちはほかに仕事を持ちながら、それでもエロを書いてる。ラノベの作者でも警備員やったり、マックでバイトしながら仕事している。だってそうしないと食ってけないから。でも、そんだけ苦労してでもやっぱり作品、作ってたいんだよ。だから苦労もこらえるし困窮も我慢できる。本当に愛しているから」
斉藤亜矢子は沈黙している。
「そういう作品はさ、サイトーさん、尊いんだよ。誰が何と言っても、どんなにおかしな、どんなに気が狂った作品でも、それはそいつの人生。だから本当に貴いんだ」
「……」
「そういう連中に比べれば、そういう連中が作った作品のことを思えば……やっぱりサイトーさんは本当の意味で自分の仕事を愛してないんだよ。絵を描くことを本当の意味では愛してない。サイトーさんが愛しているのは自分なんだよ」
丸山花世は直球を放り……デッドボールを急所にもらったイラストレーターは立ち尽くしている。
「三重野のデブとかもさ、本当に作品作りたいんだったら、作ってみればいいんだよ。一人で。何度失敗したっていいじゃんか。努力して、努力して、プロデューサーとかディレクターとか、そんなチンカスみたいな肩書き頼りにしないでさ。そりゃ、人に褒められるものなんかはできないかもしれないよ。でも、それでいいじゃん。不細工だってみっともなくたっていいんだよ。でも、そいつが、その作品こそがそれを作ったその野郎自身なんだ。その不細工な作品がそいつ自身。それでいいんだよ。何を恥じる必要がある? 何万部、何十万部売れるかは関係ない。自分がそいつに納得できるか、大事なのはそれだけだよ。それ以外のことはカンケーない。『注目されたい』ってことと『作品を作りたい』っていう気持ちは別なんだよ。それは一緒じゃない。注目されたいんだったらテレビの芸人でもなればいいんだ」
丸山花世は穏やかであるが、言葉はヘビー級ボクサーのボディブローのような破壊力がある。
「……花世ちゃん、あなたは……すごい子ねえ……」
社内イラストレーターは重カノン砲のような丸山花世の言葉の砲弾によって半死半生になっている。だが、そんなことは物書きヤクザは気にしない。
「うん。そうかもね。でも、やっぱり、サイトーさんは自分の足で立って自分の運命を見定める必要ってあると思うよ。それ、名前が売れた人間の責務だよ。否も応もないし是も非もない。やらなきゃならない使命」
口の悪い高校生にぼこぼこにされる。けれど、斉藤女子は怒っていない。マゾヒストの気があるからなのか、あるいは、心のどこかで誰かに背中を叩いて欲しいという気持があったからなのか。
「……ねえ、花世ちゃん、あなた、学校でもそうなの?」
イラストレーターは疲れ果てたようにして言った。
「あ?」
「学校のお友達にもそういうことを……そういう話をするのかしら?」
「クラスの連中にはこういうことは言わないよ。言ったって、どうせ理解してもらえないと思うし。別に理解してもらう必要も感じないっしょ。っていうか、学校には友達いないからさ。一人も。でもいいんだよ」
物書きヤクザはあっさりと言い、斉藤亜矢子は毒気に当てられたのか頭を二、三度振った。
「話す価値のある奴には話す。サイトーさんはさ、話をするに値する人だと思うんだよね。だから、本気で向き合う。それに力があんのに守りに入ってる奴にはやっぱり蹴りのひとつも入れてやんなきゃいかんと思うしさ」
丸山花世は言い、そしてべれったはため息をついている。
「今時の女子高生って、しっかりしてるのねぇ……」
どうも斉藤亜矢子は性格的に自信を持てないそういうタイプであるのか。
「そうかね?」
斉藤亜矢子は何か深く考え込んでしまっているが花世はあまり気にしていない。言いたいことは言ってしまったし、相手は三十女。大人というものは自分のことは自分でなんとかするものだろう。
「ああ、それから……」
「ん、何?」
「私、サイトーさんの、イラスト、結構好きだよ。気に入ってる。たっつん……もう死んじゃったけど、龍川綾二もきっと私と同じ意見なはずだよ」
丸山花世は自分の言葉に『うん』とひとつ頷いた。斉藤亜矢子が物書きヤクザの言葉にどう思ったのか。言葉を投げかけた丸山花世にはよく分からない。
ただ――。
丸山花世はひとつだけ分かったことがあるのだ。それは、自分が三重野たちと作るだろう作品のスジ。作品が生まれてくるための理由。作品が作られる意味。
べれったという小さな控えめな太陽と、その小さな太陽にすら目がくらみ拗けているほかのスタッフたち。だからこその絶望。絶望的な作品。高みにたどり着けないオタクたちのルサンチマンの物語は同時に、迷っているイラストレーターを無理やりに空に追い立てる乱暴な作品でもあるのだ。
――こいつは相当やばい作品になるけど、まあ、仕方ないよね。
作品を作るのに必要なのは技術ではない。いつでもハートなのだ。淋しげなネオンを写す掘割と深く考え込む斉藤亜矢子。丸山花世は交互に見ながら、凶悪な作品の構想をすでに練り始めている――。
「と、いうことでですね、製作会議を始めたいとね、思うんですよ」
意気揚々としてヒゲデブは言った。
洋風居酒屋での虚しい歓迎会から数日後。丸山花世は再び有限会社グラップラーの会議室を訪れることになった。
集まっているのは三重野と神田。そしてゲイ雨宮。
「あれ? 高原さんは?」
ハゲが一人欠けていることに少女は首をかしげた。
「高原はね、実家のほうでちょっといろいろとありましてね、今日欠席です」
「何よ、実家のほうでいろいろって」
「お爺さんがね、危篤ということでしてね」
三重野は言い、丸山花世は渋い顔を作った。
「ぬるい会社だね。会社休むならジジイ死んでからでも遅くないんじゃないの?」
物書きヤクザは言いたい放題である。
「いや、そうは言いましても……」
ロボット神田がぼそぼそと言った、何か言いたいことがあるのかそれとも何も言いたいことはないのか煮え切らない態度のディレクターのことを花世は気にしない。
「でもさ、実際問題として、作品、いろいろと仕切れるのはあのおっさんだけなんじゃないの? 三重野さんは作品の良し悪し、何にもわかんないんでしょ? 雨宮さんはグラフィッカーで……で、神田さん、あんたが仕切れるわけ?」
「……」
若いディレクターは沈黙している。自信が無いのだろう。
「それからさ、気になってたんだけれど、イラスト、誰が担当すんの? サイトーさんは別ラインなんでしょ?」
「えーとですね、それは……」
三重野が口を開いた。突っ込まれると沈黙する神田。一方、三重野は痛いところを突かれると多弁でごまかす、そういう性質であるらしい。どちらにせよ、立派な人間ではない。
「これから決めようと思っていまして……今、いろいろなところに打診をしておりまして」
「泥縄だね」
丸山花世はあっさりと言った。
斉藤べれったに対する対抗心であるとか、クリエイターへの憧れ。嫉妬心。自分でもできるという自負心。そして焦り。だから見切り発車。けれど、焦って動いたものに優れたものはない。
――この作品はならないな。
丸山花世はそのようなことをなんとなく察している。それでもアホなスタッフに付き合うのは、やはりそこに意味があると思うから。
「まあいいや。イラストのほうはそっちでなんとかするっしょ。私は私の仕事すっから」
丸山花世はシナリオの外の問題についての話を適当に切り上げた。
「で、それで、高原さんがいないで、やっていくとして、何か、話の筋とか考えた? 私はまだ何にも考えてないけど……」
「はい、それは……」
三重野は言った。
乗り気なのは三重野だけ。雨宮のほうは……ゲイ仲間にでもフラれたのかじっとりとした顔をしている。神田は、何も考えていないのか電池が切れたよう。結局、これは三重野の発案にして三重野の作品。三重野がでしゃばりたいだけの作品。
「あ、その前にさ、三重野さん」
丸山花世は言った。
「これ……三重野さん、売るんだよね?」
「はい。売るの僕です」
「ふーん」
いったい何故そのような事を聞くのか。スタッフには分からないようであるが、それはそれでかまわないこと。丸山花世が確認できればそれでいいのだ。
「売るの僕……売るの僕。うん分かった」
丸山花世は迷いを断ち切っている。そして。
「で、どういう話にするの? っていうか、どういう話にしたいの? なんか絶望的で、人が死んでいくとか……記録より記憶とかそんなこと言ってたけど」
「はいはい、そうなんですね!」
三重野は嬉々として言った。死地に笑いながら飛び込んでいく人間は潔い。だが、そこが死地だと分からないままに喜んで飛び込む人間は愚かである。
「で、スタッフといろいろと考えまして……」
「うん……」
丸山花世は首をかしげている。会社の金を使って、自分の頭の中にある設定を人に押し付けて作品を書かせる。能力のある人間であれば立派な原案も出てくるだろうが、つたない能力ではそれもまず無理。
「原案はね、一応、僕ということで……」
「ふーん」
原案三重野保。
クレジットに載る自分の名前。
随分とせせこましい野望ではないか。丸山花世は幼稚園児のようにを輝かせている中年男に冷徹な視線を送っている。あるいは……三重野に隠れた才能があるかもしれない。万に一つの可能性をしかし丸山花世は考慮していない。
「学園ものにしようと。そう考えているのですよ」
「ふーん……」
少女は三重野という男の顔を眺めている。
「生徒達がどんどん死んでいく。呪いを受けて……」
「呪い、ねえ……」
「呪いを解く術は無くて、どんどん死んでいく……友人が、恋人が……むごたらしく死んでいく!」
三重野は楽しげである。普通、人が死んでいくのは悲しいこと。丸山花世はそのことをいやと言うほど思い知らされたばかりである。だが、この男にはそれが楽しくて仕方がないようである。三重野は自分が死ぬときもそのように嬉々としているのだろうか?
「……で?」
丸山花世は尋ねた。
「ですから、そういう話にしてくれとね、そういうことなんですよ」
「売るの僕だから?」
物書きヤクザは退屈そうに言った。
「……」
三重野は沈黙している。
「ただ人が死んでくだけでは、話として成り立たないよ。だって、現実に、この世界ではこの瞬間も人は死んでいくわけでさ。だいたい、そういうのを面白く読む人っているのかな?」
「それを書くのが丸山さんなわけで……」
三重野は言った。
「原案としてですね、そうやって、呪いで死んでいくというコンセプトがあって、それを何とか丸山さんにお願いしたいわけですよ」
「……」
苦労は人任せ。使う金は会社のもの。どこまでも他人を頼る。けれど、名声は欲しい。でも……そんなに世の中は甘くない。
「……ええと……高原さんがですね、なんか、悪魔とか、そういうのを出して欲しいというそういう要望がありまして」
それまで黙っていた神田が口を挟んだ。
「悪魔、ねえ……」
自分は休み、おかしな指示だけは残していく。けれど、丸山花世は頷いた。
「そうなんです、高原もそのようなことを言っていまして……」
三重野が慌てて付け足した。全てがやっつけ。全てが泥縄。けれど丸山花世は怒らない。
「悪魔を出すのね。ふーん。分かった。で、呪いで、どんどん死んでいく……そういうシナリオにすればいいのね」
「そうなんですよ」
「それから……携帯電話を使ってくれって、そういうことも……」
神田が言い、丸山花世は聞いた。
「携帯電話? なんで? それも高原のおっさん?」
「いや、それは、僕ですね」
三重野が目を輝かせて言った。
「あんたか……」
「最初はね、ノートに名前を書いていくと人が死んでいく……そういうのを考えていたのですが」
「考えるって、そういう作品あっから」
丸山花世は念を押してもう一度語った。
「そういう作品、すでにあるから」
「いや、それは……もう分かっているんですよ、ははは!」
笑っている三重野のことを花世はじっと見つめている。普通の人間ではちょっと居心地が悪くなるような視線にも三重野は動じない。『感じる』という部分がもしかしたら三重野の欠落しているのかもしれない。
「で、神田君と雨宮君がね、それだったら携帯を使ったらどうかと。携帯で写真を撮ることで呪いを伝播させていく……」
「ふーん……」
「是非ね、このネタを使って欲しいんですよ! 作品のキモってやつですか?」
「キモねえ。まあいいけど」
丸山花世は適当に言った。やってくれと言われればいくらでもやる。何故ならば作品のキモはおそらくそこではないから。枝葉の部分での妥協はいくらでもする。
「あと……七日で死ぬっていうのもやるんじゃなかったんすか?」
ぶすっと押し黙っていた雨宮が言った。
「そうそう! 七日! 高原と考えたんですけれど、呪いは携帯で写真を撮られると発動して……七日後に死ぬわけですよ! で、それを防ぐには、自分以外の誰かを写真で撮って、悪魔を移し変える必要がある」
「ふーん……」
説明が後手後手になるのは……このスタッフの流儀なのか。
「ですからね、主人公達は葛藤していくのですよ! けれど、仮に悪魔を移し変えても結局は無駄。七日後にみんな死んでいく。死んでいくんですよ!」
三重野はひどくうれしそうである。そして丸山花世はそんな三重野の言葉を翻訳して聴いている。
――結局何をやってもダメ! もう先がありません僕達は! 才能のない僕達は結局このまま死んでいくんですよ!
三重野の言葉の本当の意味、三重野自身も理解していない無意識の言葉の意味はそういうもの。
「気の毒といえば気の毒だよなあ……」
花世はぽつりと言い、スタッフ達はそこで不思議な沈黙を作った。
理性と理性の交渉、ではない。
それは、業界という呪いにかけられて深い深遠に沈みこんでいく人々の魂と、それを見つめる傍観者の魂が一瞬交錯した瞬間。魂の交わり。
作品とは人生。人生こそが作品。
「……で、あとは? ほかには?」
花世はちょっと疲れたように言った。雨宮も神田も何も言わず、ただ一人、三重野保だけが喜んでいる。
「いいえ! もう十分ですよ!」
「ふーん。分かったわ。だいたいは」
「そうですか!」
三重野は魯鈍に笑っている。花世は最終確認をする。
「読者に衝撃を与えて、後味の悪い、絶望感を味わわせる作品にする……んだよね」
「そうです!」
三重野保は笑って言った。
「で、学園物で、悪魔が出てきたりする。あとは呪い。携帯電話を使って増殖すんのね、呪いは」
「そうですそうです!」
「で、そっから、あとは私が適当に作品を作ればいい……そういうことなんだよね?」
「ええ! その通りです!」
「ふーん」
丸山花世は納得した。
――アバウトな指示だよね。
とは物書きヤクザは言わない。
「で、『売る』のは三重野さん」
「その通りです!」
「分かった」
物書きヤクザは首を縦に振った。
「あのさ、それで、ひとつお願いがあるんだけれど」
「なんでしょう?」
「支払いのこと。お金。お金はさ、全部書きあがって、それをあんたらで読んで、それで、値段をつけて欲しいんだよ。価値が無いと思ったらゼロ円でいい。価値があると思えばいくら出してくれてもいい」
「……」
少女の申し出に、スタッフ連は戸惑っているようである。
「いい作品を作ることは約束する。けれど、それがあんたらの気に入るものになるかは分からないからさ」
「ははは、そんなことを言わないで、いいんですよ! お支払いはちゃんとしますよ!」
三重野は丸山花世の言葉を理解できておらず、だからいかにも明るい。だが。少女は首を横に振った。
――その金はあんたのじゃなくて、会社のお金じゃんか。
三重野という男の道楽のために作品を作る。それは結構なこと。でも丸山花世がそういう道楽に付き合う必要性もまたないのだ。三重野のやっていることは結局はお座敷でコンパニオンに芸をさせるのと同じこと。そして作品はそういうものではない。花世は知っているのだ。名も無い作り手たちがどれほど真剣か。そういう人々のささやかな努力を知っているものとしては、『金を撒いてやる、お前はオレの言うとおりに働け』というような輩に、
――はい、そうですか。
と笑って付き従う義理はない。その金は他人のもの。自分は何の担保も保証もしない。かといって的確な指示も出せない。知恵も出せず金も出さず。ただ肩書きがプロデューサーだから命令する。そんな命令に重みなどない。やるからにはやる。けれど筆は曲げない。それは丸山花世のポリシーである。
「それから……」
「なんでしょう?」
「ひとつだけ断っておくけど、あんたら、私と同じ立場ではないから」
「……」
「あんたらは、私と同じ側にいて、読者の方を向いていると思っているみたいだけれど、そうじゃないからさ」
花世は決然と、だが馬鹿にも分かるように言った。
「あんたらも私にとっては読者だからさ。私の外にあって、私の作品を眺めるものはみんな読者。衝撃的なもの、絶望的なものを作れといわれればそれは作る。でも、その絶望は当然、ここにいる全員も味わうことになる……それ、分かってる?」
「……」
三重野は意味が分からずぼんやりしている。神田は最初から電源が入ってないのかこちらは硬直している。雨宮は……つまらなそうな顔をしているばかり。
「私が爆心でさ。だから、一番近くにいるみんなが、一番精神的なダメージを蒙るんだ。そういう作品でないときっとお客には本当の意味での後味の悪さって伝わらないと思うんだよね」
「……?」
丸山花世の言葉はおそらくスタッフには伝わっていない。だが、それでいいのだ。
「一応確認するけど、そういうの、あんたらには耐えてもらうけど、いいね?」
「ええ、耐えるのはね、神田君ならば慣れていますしね! 前の会社で上司にいびりまくられてもじっと我慢して耐えていましたしね!」
三重野はまったく状況を理解しておらず、だから明るく笑った。何もこのようなところで部下の屈辱的な人生を詳らかにしなくてもよさそうなものだが、そういうことをする。三重野という男はそういう男。
「うん。そういうことだったら、まあ、いいや」
花世は頷いた。分かってないならば分かっていないうちにバラして始末してしまうのがいい。
「だったら、他に特に、何もないみたいだったらすぐに作業に入るわ」
ヤクザよりも怖い物書きヤクザの真骨頂を見せるときである。
「よし……まあ、こんなところか」
液晶画面を見ながら丸山花世はつぶやいた。
いつものように、液晶モニターにはメモが貼り付けられている。
キャラ名
一 一ノ瀬穣……三重野保
二 鷹畑真二……高原浩二
三 天木彰人……雨宮博明
四 上林昇一……神田要
物書きヤクザによって紡がれる『衝撃的で絶望的』といういかにも頭の悪い作品。その作品のキャラは当然、それを望んだスタッフたちの分身でなければならない。
花世本人が絶望的なものを書きたいとそう思ってはじめたのであれば、キャラは当然丸山花世の分身となる。使うべき原材料となる魂は自分のもの。だが、丸山花世はそのような作品を望んでおらず、それを望んでいるのは三重野たち。だとすれば、材料はそれを望んだ連中から徴収する。金は会社のもの。労力は丸山花世に丸投げ。それで名声は自分が持っていこうというその根性はいかにもさもしい。
「それに『売るの自分』って言ってたし……」
売るのは自分。三重野は『商品を営業で売るのは自分』という意味で言っている。だが、丸山花世は別の意味でそれを捉えている。
『僕を切り売りして良いですよ』
三重野はそう言っている。丸山花世はそのように理解している。曲解、であるのだが、小娘の耳には、むしろ、
――自分を切り売りしてください。
という言い回しのほうが三重野の本心に近いように感じられる。そうしてでも業界にしがみついたい。血を流してでも業界にいたい。けれど、そうするのは怖い。自分ではとてもではないが自分の暗部、恥部をさらけ出すことができない。恐れと不安。渇望。だったら花世がそれをすればよい。料理は料理人に任せればいいのだ。ただ、そうまでして関わり続けるほどにオタク産業に価値があるのかは花世には分からない。
学校名 私立神明高等学校
物語は都内の私立高校、神明高等学校が舞台となる。斜陽の映画産業に憧れる若者。いつか業界に入って作品を撮ろうとする青年一ノ瀬穣が主人公。友人には元野球部の若者で一ノ瀬の良き相談相手となる鷹畑がいて、美術部に所属する天木がいる。そして後輩でライトノベル作家志望の上林。そしてヒロインの原のぞみ。子供の頃からの仲の良い若者達。穣の父親である清の存在、であるとか。あくまで設定は普通の作品。普通の青春ドラマ。けれど、それは普通の作品ではない。
「で……悪魔と」
小娘は呟く。
〇 夢魔……丸山花世
悪魔の代わりに夢魔。物語には作り手となる丸山花世もちゃんと出てくる。てるてる坊主のような風体の怪物。それが丸山花世の分身キャラ。
「物語の中心となるのは夢魔」
コンピューターの画面を見ながら小娘はぼんやりと言った。
怪異。そやつが突然主人公、一ノ瀬=三重野の前に現れるのだ。日常は破綻し、精神ドラマは青春ドラマではなくなる。
――あのさー。あんた、一週間後にくたばっから! 死にたくなかったら、写メで誰か撮影して。そしたら、あんたは助かって、写メで撮られた奴が死ぬから。
夢魔のそのような言葉に当然一ノ瀬は惑乱する。自分は死ぬのか。そんな馬鹿なことがあるのか?
――ああ、それから、誰が自分の写メ撮ったか、それを暴いたら、あんた死ななくて済むから。かわりに、あんたに私を押し付けてきた悪人がくたばるからさ!
誰かに呪いを押し付けるか、誰が自分に呪いを押し付けてきたのか暴くか。選択は二つに一つ。それは三重野たちが思いつきで作ったルール。不細工でデタラメな法則。
「不細工な仕掛けだよね……」
キーを叩きながら小娘は嫌な顔を作った。ゲームであるから、取るべき選択はプレイヤーに任されているが……どっちにしろ、主人公は死ぬ。死ぬのだ。何をしても無駄。何をしてもだめ。結局はみな死ぬ。なぜならばそれがクライアントの意向であり……そして、三重野の願望であるのだから。ちなみに作品が売れるか売れないかはどうでもいいこと。会社的には問題のあることだが、少なくともチーム三重野は売上には関心はないらしい。そしてそんな連中に雇われる丸山花世の立場は微妙。
――まー、頑張ってよ。一週間しかないけど。でも一週間あればいろいろなことできるっしょ!
花世の分身である夢魔は必ずしも悪ではない。ただ真実を抉り出すのだ。キャラクター、つまり三重野の分身たちは、夢魔が映し出す自分たちの真実の姿に怯え、哀しみ、怒る。それは当然、シナリオを読むスタッフ達の心にも大きな痛手を与えることになるはず。それをこそ絶望といい衝撃というのだ。
「三重野も他の連中も、ま、自分の人生を見つめなおすといいんじゃねーの?」
丸山花世はぼそりと言った。
丸山花世の分身である夢魔はキャラクターの感情からは超然としている。それは自分とは関係ないもの。ただ、一方で夢魔は、行き場の無いままに死んでいく一ノ瀬たちキャラに深い同情を覚えている。一ノ瀬たちは三重野の分身である。現実にいる三重野たちの写し身。だがそうやって生まれたキャラはそのパーソナリティを丸山花世によって与えられているのだ。むしろこのあたり本人というよりは子供であるとかクローンに近い。魂のクローン、である。
――無能なクライアントによって無理やりに死地に送られるように定められた気の毒なキャラクター達。
そういうキャラクターを亡くなった龍川が見たら何と言うだろう。
「たっつんだったら、きっと怒るだろうなあ……」
頭の悪いプロデューサー気取りの中年男が手慰みで作るキャラクター。それは当然丸山花世の怒りにもつながる。
「テメーら、物語をテキトーな気分で作るんじゃねーっつーの。それも他人の金で」
花世は誰かの能力の無さを侮ったり嘲ったりはしない。そいつが出来る範囲で出来る限りで自分の言葉をつむいでいく。それこそが一番尊いこと。そうでないのならば……それは当然侮蔑の対象になる。
「会社の金で芸人に芸をさせる、か。ま、やってやりましょ。売るのはあんたってことだから。そういう覚悟は買いましょ」
丸山花世はパソコンに向かう。物書きヤクザは普段あまり見せない羅刹の顔でキーボードを叩き続ける。物語は軽快に、怒りをはらんで進んでいく。
五 佐藤晃……サイトーさん(一応)。
三重野保≒一ノ瀬穣であるならば、彼の心の拗ける原因となった人物もまた作品に登場を願わなければならない。それが、佐藤晃というキャラクター。一ノ瀬穣の友人という設定で、この男は名前として出てくるだけで本編には登場はしない。
「佐藤晃は優れた能力を持っている。高校を中退して渡米、映画をたった一人で作り始めているという設定だよね……」
丸山花世はキーボードを叩き続ける。
『オレはプロデューサー。晃は監督。そうやって、いつか、俺達の映画を作るんだ!』
作中、一ノ瀬穣はそのような夢を仲間達に語り続ける。
オレがプロデューサー。晃は監督。そしてそのことを仲間達も認めている。
『オレの元で晃にいい作品を撮らせるんだ!』
だが、プロデューサー志望である一ノ瀬は物語の中で特に何か努力をするわけではない。ただ、そう言うだけ。アクションを起こすわけではない。それを誰かに指摘されると一ノ瀬はこう答えるのだ。
『晃は海の向こうで修行しているし。それが終わってからでも動き出すのは遅くないだろう? オレもまずは勉強だよ』
そして仲間達はそれ以上に一ノ瀬のことを問いただしたりしない。プロデューサーに必要なのは金。一介の学生ではどうこうできないレベルの金。
『まあ、そうだよな。金を集めるのは難しいよな』
全ての人がそのように納得する。ただ夢魔だけが、そんな一ノ瀬の本心を見抜いているのだ。若者に取り付いた悪魔はことあるごとに彼を愚弄し嘲笑する。
――あのさー。なんでプロデューサーなんよ。あんたの年だったら、監督じゃないの? 監督になって好きな映画を撮る。違うん?
歯に衣着せぬ夢魔の言葉は、それはプロデューサーを名乗る三重野に対する言葉でもあるのだ。
――あんたさー、プロデューサーなんて名乗っちゃいかんよ。何のサイノーもないんだから。
花世は自分の作品の中で言いたいことを言う。それが作り手の姿勢であると知っているから。そして、そんな夢魔=丸山花世の言葉に一ノ瀬は激しく反発する。
『おまえには関係ない!』
心の奥に踏み込んでくる夢魔に一ノ瀬は錯乱し、絶叫する。だが、夢魔は相手が錯乱しようが、どうなろうが知ったことではない。
――なんかさー。心の弱い奴ほどすぐに言うんだよね『カンケーない』って。弱い心のバロメーター?
そして。間の悪いことに海の向こうから朗報が届くのだ。物語序盤から中盤にかけての出来事。それは、佐藤晃の作品が海外のコンペで認められたという知らせ。一方で、それは一ノ瀬穣にとっては苦い報せ。友人の成功。当然のように夢魔はそのことを突いてくる。
――佐藤晃、か。うまくやってるみたいじゃんか。同じ年。同じ街で生まれて、同じ高校。友達。でもあっちはコンペで賞貰って雑誌の取材攻勢とか。いいねー。あやかりたいねー。
夢魔は……つまり、丸山花世は一ノ瀬≒三重野の心を見透かしている。
――『オレはプロデューサー。佐藤は監督、ね』。それって結局はルサンチマン。友人に対する嫉妬。海の向こうで友人は有名人になる一歩を踏み出した。けれど、あんたは、ただのチンピラ。誰もあんたのことを知らんし、誰もあんたのことを気にもとめない。まー、当然か。
キャラクター一ノ瀬は死の恐怖もそうだが、夢魔の言葉に一ノ瀬は追い詰められていく。当然そのセリフはそれを読む三重野も追い詰めていくはず。
――いい作品を撮れない。作品を作る自信がない。作れないから監督ではなくてプロデューサーならできるかも、か? 甘いっつーの、馬鹿! プロデューサーなめんな! まともなプロデューサーは脚本自分で書くし、コンテだって切るっつーの! スペシャリストになれないからゼネラリストっていう感覚がふざけてんだよ! あんたはゼネラリストでもない。何にも出来ないただの無能なんだよ。
丸山花世は残酷であり無慈悲……だが、それを望んだのは三重野本人。
ただし。
ただし、一ノ瀬は≒で三重野であって=で三重野ではない。
このあたりは少し複雑である。丸山花世は三重野保つという男のことをまったく評価しておらず、このような人間に慈愛をかけるのは文字通りの無駄である思っている。だが、一ノ瀬というのキャラに対してはそうではない。一ノ瀬は三重野の分身であるが百パーセントの同人格ではない。
――一ノ瀬よー。一週間あんだから、頑張ってみろよ。最後まであきらめんじゃねーっつーの。
物語の中で夢魔は一ノ瀬を嘲弄する一方で励ましもする。
――最後まで人生、わかんねーだろ?
心の奥にルサンチマンを抱え、仮面をつけてそれでも生きていく。世間を騙し、自分を騙し、虚勢を張って生き続ける。三重野はそのことを当然としているが、三重野の魂を勝手に切り取って丸山花世が立ち上がらせた三重野の息子はもう少しまともであり、で、あるから自分の人生に疑いを持っている。
――オレは……本当にこんなのでいいのか。何かできることはないのか。
『キャラは絶望の中で死んでいく。それがいいんですよ!』三重野は嬉々として言っていた。 だが。キャラにはキャラの思惑がある。
彼らは人が作り出すもの。しかし彼らは形こそもたないが彼らの意思があるのだ。少なくとも丸山花世はそう思っている。名前をいただき動き出すことで、彼らはまるで実在する人と同じように、考え、行動を始める。であるからこそ、キャラクターというものは自分の思い通りになると考える時点で、そいつは作り手として相当に拙い。わかっていない人間の発想。そして、わかっていない人間が作るものが売れるということはない。それだけは絶対にないのだ。だからこそ丸山花世はアホなクライアントに最後までつきあうつもりはない。むしろ、アホなプロデューサー一人を生贄にして金が儲かるならばそっちのほうがましと考えている。
「三重野潰して会社儲かるならそっちのほうがよっぽどいいよなー」
小娘はぼんやりとした表情でメモをもう一度見やった。
六 一ノ瀬清……三重野保
メモにはさらに別キャラの名前がある。それは一ノ瀬穣の父親。かなり重要なポジションの人物。
「売るの僕なんだから……ま、売ってあげましょ」
丸山花世は軽薄にキーボードを叩く。
「同僚のイラストレーターに嫉妬して、その裏返しての横車の押し放題。テメー、実力の無い人間が伍していけるほど世の中甘くねーぞ」
一ノ瀬清。それは一ノ瀬穣の父親という設定。
「魂の分割……と」
少女はつぶやいていた。
それはずっと以前にアネキ分に教わったやり方。ある種の魔方陣、といっても言い。作品を作る上でのテクニック。三重野保という実在している人物の魂を二つに分割する。一方を主人公の穣とし、そしてもう一方を父親の清とする。
ただ単に主人公の一ノ瀬穣が死んでいくのであれば、そこには何の変化もなければ、何の感動もない。何も無ければ、何も残らなければならない。ただそれだけの記録。作品が展開される一週間の間に何のドラマが無いのであればそれはキャラの存在意義がないということであろう。だから丸山花世は三重野の魂を二つに分割して二人のキャラを作り出した。
まともな部分を残した息子。そして、三重野の汚れた部分の全てを押し付けられた父親の清。
傲慢、倣岸。相手が強いとへりくだり、相手が弱いと苛め抜く。虚飾とは裏腹に心の弱い、拗けた人物。そういう三重野の汚れた部分の結晶が父親の清となっている。丸山花世は思い出している。
「目からビームにょ! か」
部下を突然小突いてまわすような男。
「あれで四十だもんなー」
結局は、そういう人物。そのような三重野の薄汚い部分を抽出した一種の純粋悪が一ノ瀬清というキャラ。
「……いやな親父だよね。キヨシは。全然、清くねーじゃん。穢れっぽいよね。一ノ瀬穢?」
丸山花世は自分で作り出したキャラクターに本気で怒っている。
それでも、物語が始まった当初は一ノ瀬穣は父親のことは尊敬しているのだ。自分を養育してくれている相手。
「父ちゃんは、ゲーム会社じゃなくて出版社勤務、と。職種は『営業』、と」
中小の出版社に勤務する清は元は大手の出版社の営業担当という設定。だが、仕事をリストラされては再就職、リストラされては再就職と転げ落ち、現在の会社の社長に拾ってもらったというそういうことになっている。
意図的に一ノ瀬清の人生は三重野保と重なるようにしている。それは、丸山花世の当然の選択である。言いたいことは作品の中で言う。相手が気がつくように。相手がこちらの意図に気がつくように。気がつかないのでは意味がない。それは花世が望んだことではない。そうではなくて、三重野こそが自分自身で言ったのだ。
『絶望的な作品。後味の悪い作品を書いてくれ!』
不幸にしてくれ。客を。読み手を。その読み手の中には当然三重野も含まれる。だから花世はそのリクエストに従っている。ただそれだけのこと。そして、そうすることは、多分、物語の神様が望んでいること。
「ま、こんなところか……」
丸山花世は物語を書き進めていく。
一ノ瀬穣と彼に取り付いた夢魔の会話を中心に物語は進んでいく。突然現れた夢魔に対して不安を覚え、反発する一ノ瀬穣は最初は夢魔の言うことを信じない。
『そんなことあるものか。信じられるものか』
だがそんな一ノ瀬の希望的な観測もむなしく、彼の仲間達は次々に死んでいく。しかも、彼ら自身のルサンチマンを抉られ、暴露された上で錯乱しながら。鷹畑という青年は、野球部枠で入学しながら、練習についていくことができずにドロップアウトをしたことを気にやんでいるという設定。中学時代はエースだった鷹畑。だが、それも今は昔。誰も彼の業績を覚えてはいない。鷹畑の生き方はそのまま高原の人生につながる。アニメ業界に入り、そこでうまくやれずにエロゲー業界に流れついた高原。彼が関わった作品のことを今覚えているものはほとんどおるまい。
『昔、オレが会ったあの監督は陰険な奴で……』
中学時代に世話になった野球部の監督について熱心に吹いて回る鷹畑の言葉は、かつて高原が業界に入った頃のアニメの監督についての評とまったく同じ。居酒屋で丸山花世の耳に偶然に入った高原の言葉そのままであるのだ。
――オレだって。オレだって昔は。オレだって……あのままアニメ業界にいれば。
高原の無念さは彼と≒となる鷹畑の口惜しさにつながる。
――あのまま……あのまま続けていれば。
そして、そこに夢魔は襲い掛かるのだ。夢魔は鷹畑というキャラを通して高原に語りかける。
――だったらさー、ずっとやってりゃいいじゃんかー。アニメ屋。
それができない。鷹畑もそして高原もできなかったのだ。
――なんで道を全うしないのよ? すりゃーいいじゃん。
金が稼げない。生活苦。手が遅い。他人とうまくやっていけない。自分が愕然とするほどにうまい奴らがごろごろいる。実家が金を持っていて、だから、金の心配をしなくてもいいような奴らがいて。それに比べて資産のない自分はそうではなくて。だから逃げ出した。持ちこたえきれなかった。
さまざまな理由。ただ結果として自分は持ちこたえ切れなかった……それが高原という実際の男が業界を去った理由。
挫折、である。そして挫折しながらも思いを断ち切れない。思いを何時までも引きずっている。夢魔はそれを……ただ嘲笑するだけでははなく、時に哀れみ、同情もする。夢魔とて、殺したくて殺しているわけではない。
『衝撃的で後味の悪いものを作ってくれ!』
という依頼があったからこそ夢魔は夢魔をやっているのだ。
――頭、切り替えたほうが良いんじゃねーの? 幸せってさ、得るものじゃないよ。気づくもんなんよ。
だが、鷹畑≒高原は丸山花世の言葉には耳を傾けない。傾けないままに死んでいく。
高原だけではない。天木もそう。美術部の若者もまた挫折を味わっている。グラフィッカー。有限会社グラップラーの中でべれったに一番屈折した思いを抱いているのは雨宮ではないか。
『誰もオレの才能を理解していない。理解できる奴がいないんだ!』
つっぱり、いきがって攻撃的になる矮小な画家志望。そんな天木というキャラにとっては佐藤は眩く、シンパシーを感じながらも恐れている相手。何も持たず、身一つで、海の向こうに渡って行った無謀な友人。羨ましくもあり、尊敬もする。けれど、心のどこかで友の失敗を願っている。
『オレもダメだったよ』
天木はそうやって友人が尾羽打ち枯らして逃げ戻ってくるのをどこかで待っている。でもそうはならない。ならないのだ。それがクライアントのプロデューサーの要望であるのだから。
小娘はぼんやりとしたまま呟く。
「サイトーさんは……佐藤みたいな強さとか無謀さはねーよなー」
物語の中で、実は唯一、佐藤晃だけが斉藤亜矢子とは重なっていない。ほかのキャラは全てグラップラーの関係者の近似値。佐藤晃だけが≠で斉藤亜矢子。
「ま、サイトーさんはライン別の人だしね……」
斉藤亜矢子は作品に携わっていない。彼女は、別に衝撃的な作品を望んでいないわけで、望んでいない人間の魂なり人格を引っ張ってくることはこれは許されない。で、あれば、佐藤晃という人物はこれは世間一般の『成功者』たちのイメージ。海外に渡ったメジャーリーガーであり、新製品を作って売りまくる企業のトップであり、無一文から成り上がって宰相にまで成り上がった人物であるとか。そういう成功者の魂。眩く輝く太陽のような人々。ただ。夢魔は決して、そういう輝かしい業績を持つ人々を手放しで褒めたりはしない。
――光が強けりゃ、影は濃いんだけれどさ……チューヨーって知ってる? チューヨー。中庸。なかなか人間ってそうならないからさ。別に偉くてもいいことってないんよ。金のない奴は金が無いことで悩むけれど金がある奴はあることで悩むんよ。名誉やサイノーも同じだって。
だが。
輝ける人物に憧れ、目がくらんでいる天木には丸山花世の言葉が理解できないのだ。
『オレだって! オレだってチャンスがあればなんとでもなったんだ! なんであいつが! オレじゃなくてなんで佐藤が!』
そして、天木の腹の中の憎悪を夢魔は冷静に見つめている。
――そりゃー、あんた、やったもんがちでしょー。外国行って作品作ったの、佐藤って人であって、あんたじゃない。あんた、自分で何にもしてないのに誰もオレの功績を認めないって怒るのは、そりゃ、ずうずうしいってもんよ。あんたも文句があるんだったら、パリでもニューヨークでも行きゃいいじゃんか! あんた、自分が心弱いだけじゃん。
そして、友人が浴びる賞賛に激しい怒りをたぎらせながら天木に夢魔は追い討ちをかける。
――おまえ、実は、ホモなんじゃねーの
それは丸山花世の勘。雨宮という男が発する独特の匂い。多分そう。だからそのことを相手にぶつける。
『そ、そんなことは……ない。そんなことはおまえには関係ない!』
天木は喚きながら……校舎から転落し、全身を強打して死亡する。そして夢魔はつぶやくのだ。
――まー、確かにカンケーないけどさー。
そしてそれは丸山花世の呟き。
三重野のリクエストの通り、一ノ瀬のクラスメイト達は次々に死んでいく。ライトノベル作家志望の上林も例外でない。小説家志望の若者も結局は殺される。だが。
丸山花世は迷っている。
「本当は……一人ぐらい生かしておきたいんだけれどなー」
一人ぐらい、生き残るしぶとい奴がいてもいいはず。けれど。
「ま、いいか。三重野のおっさんが俺たち全員殺してくれって言ってるわけだし……」
皆殺しがお望みならばそういたしましょう。
――気弱でぼんやりした上林はイジメにあっている。それを一ノ瀬に救ってもらったことがあるのだ。だが、一方で、上林は自分を救ってくれた一ノ瀬が本質的に自分を馬鹿にしているということを理解している。だから、心の中では一ノ瀬に反発している。
「……ま、設定はこんなところか」
本当は慕っていない。本当は憎んでいる。だから曲がる。拗ける。それでも表面上は付き合っている。小突かれたり、嘲られたり、恩に着せられたり。デリカシーのない一ノ瀬穣のことを嫌いながら、付き合わざるを得ない。それは……三重野保と神田要の関係との相似。
そういう関係が状況を悪化させることになるのだ。
『死にたくない。だから、誰かを呪う』
花世は呟く。
「原、原、原……原のぞみ、ね。うん」
七 原のぞみ
メモの最後に書き記された最後のキャラ。ヒロイン、である。
上林は夢魔に唆されて、一ノ瀬の幼馴染のである原のぞみに夢魔の呪いを押し付ける。自分が助かるために。だから呪う。
「この女の子は……モデルはいない。なぜならば、この子は希望だから。私自身の祈りだね」
丸山花世は作品に希望を残したいと思っている。三重野たちは勝手に絶望すればよろしい。だが、作品には希望を残す。苦悩したいのはスタッフであって、読者やユーザーではないのだから。
「独りよがりなんだよね。三重野のおっさん達は。同人だから、まあいいだろうってそういうなめたコンジョーがムカツクんだ。同人に命かけてる奴もいるわけでさ。そういう奴らの思いを考えれば、手慰みに作品作ってごまかそうってそういうさもしい根性はやっぱりゆるせんよなー」
――次々に仲間が死に、彼らの仮面が引き剥がされていく。そこではじめて一ノ瀬穣は自分が友人達から真にどう思われているか、自分がどういう人間であるかを思い知って行く。そして、幼馴染ののぞみを助けようと最後の抵抗を試みる。
それは……三重野たちが望んでいない結末。
だが、それでも構わないのだ。嫌ならば、原稿を突っ返してくればいい。最初に花世は言っている。金は、気に入ったら払ってくれ、と。
「ま、そういうことで……」
――時間はない。期限は迫る。ではどうやって、のぞみを救うのか? 一ノ瀬は少しずつ本当の敵が誰であるかを理解していく。それは……自分を作った人間。自分を作らせた人間ではないのか?
自分をこのようにしたのは誰?
そこで必要とされるのが一ノ瀬清。父親。
息子の穣が三重野を素材にしながら、オリジナルに近い人物であるのに対して、父親の清は三重野そのままの人物像となっている。小心で傲慢。無責任。大きなことばかりを言い、やたらと著名人と会いたがる。そしてそのことを喧伝し実力の無い自分をことさらに大きく見せようと画策する矮小な人物。
「会社の金で宴会やって、でも、集まった連中にはまったく感謝されず……」
業界に何としても留まりたい、ルサンチマンの塊。三重野の悪い部分を全て集めた純粋悪。息子は、この愚かな父親に反発するようになる。それはキャラの三重野に対する敵意であり怒り。一ノ瀬穣の父親に対する怒りはそのまま三重野という男に対する怒り。自分が侮蔑と憎悪の対象であることを三重野は知らなければならない。
『内実を理解すればするほどに愚かな父親。こんな人物が生き、オレの幼馴染、清い心の乙女が死ぬのは間違っている。そんなことあっていいわけがない』
そして夢魔はそのような一ノ瀬穣のことをけしかける。
――そーだそーだ! あんな奴、ぶちのめしちまえ!
そして、一ノ瀬穣は父殺しを決行するのだ。それが物語りのクライマックス。人気の無い荒れ寺に父親、三重野≒一ノ瀬清を呼び出した息子は、まず、自分に憑いていた呪いを父親に押し付ける。さらには、のぞみに命じて穣自身にのぞみについた呪いを写させる。そして。父親がおかしなことをしないように、これを自分自身の手で殺害する。
「三重野のおっさんね、全員殺してくれって言っとったし……ま、納得してくれるだろーよ」
だが、しぶといだけが取り得の父親、一ノ瀬清は息子に牙を剥く。もみ合いになり、争いとなり父子は相打ちとなる。致命傷を負った一ノ瀬穣は幼馴染の少女に思いを告げ、自分の傲慢と独善をわびてると寺に火を放ち絶命する。
結果、三重野保の魂を素材にして作り出されたキャラクターはここに全員が灰燼に帰す。それは三重野保が望んだとおり。
――死ね。そいつがあんたの望んだことじゃんか。
物書きヤクザのそれが結論。そして作中残されるのはただ一人。希望を背負った少女のみ。
それが作品のあらまし。三重野たちが望んだ絶望の終局。
「不細工なストーリーだけどしかたないよなー」
丸山花世は、ぼそりと言った。
「ほかの人がやったらもっとうまくやるんだろう。連中に取り入って、金だけむしるような作品を作ったり……」
だがそれは丸山花世にはできないこと。なぜならば、彼女はライターではないから。
「ま、どんどんキャラが死んでいくし、絶望的だし、これだけぼろくそに書けばさすがの三重野のおっさんもゼツボーしてくれんじゃねーの?」
クライアントの指示通りに仕事をして文句を言われる筋合いもあるまい。
果たして三重野たちは完成なった作品をどう読むのか。大喜びしてくれるだろうか?
一方で物語を書いている丸山花世自身が苦く思っている。
死ぬこと。
普通の人間も実態を持たないキャラも同じなのだ。
「三重野のおっさんもそうだけれど、死ぬことがどういうことか本当に分かってんなのかね」四十年近く生きていれば一人や二人大事な人を亡くしていてもおかしくないだろうに。高原などは祖父だかが危篤だったのではなかったのか。
「死をもてあそぶ、か。ちょっとバカなんだろうな、あいつら」
暑い曇り空の六月――。
丸山花世はいつもと同じようにアネキ分の店に顔を出していた。
イツキ。新橋の地下にある小さな居酒屋。時刻は十時をちょっと過ぎる。土曜日ということもあって、お客はいない。
「ふんふんふんー」
少女は意味のよく分からない鼻歌を歌いながら焼きおにぎりを食べている。一方、店の主人はそろそろ後片付け。
「花世。テストはどうだった?」
「ああ、うん。全然ダメだった。カンニングしようとしたけれどうまくいかなくて……」
大井弘子は成績の芳しくない妹に特に何も言わなかった。
「でも大丈夫だよ。補講受けてテキトーにやっとけば。どうせ最後に帳尻合わせるしさ」
物書きヤクザは言った。学業に意味など無い。丸山花世はそのように世の中を見切っているのだ。
「どうせそんなに勉強しなくてもエスカレーターで大学行けるしさ。良い学部は無理だけど」
少女はスカラベのペンダントを指で弾いている。
「ダメだったら、結婚すりゃいいじゃん。楽なもんだよ」
相手はどこで見繕うのか。その算段を丸山花世は立てていない。
と。
いつものように、閉店間際のイツキにその日最後のお客が現れる。それは女性。初めて顔を出す一見客。
「あの……」
少女は聞き覚えのある声に振り返り、そこで言った。
「あれ、サイトーさん……」
斉藤亜矢子。べれった。突然の訪問に物書きヤクザは不思議そうな顔し、一方大井弘子は穏やかに笑った。
「斉藤……亜矢子さんね。べれったさん。花世がお世話になったとか」
斉藤亜矢子はちっょと困ったような顔をしている。
「サイトーさん、なんでここに?」
「岡島さんにね、教えてもらったの……あの、お店、大丈夫ですか?」
大丈夫とはつまり、開いているのか、ということ。
「どうぞ」
女主人はそう言って笑った。
「何か、飲みます? ビール?」
「あの、それは……」
呑みに来たわけではない。斉藤女史はそう言いたげであるが、丸山花世はそんなことは気にしない。
「まあいいじゃんか。金はちゃんと払ってもらうけど」
少女はテキトーに言い、イラストレーターは困った顔のまま席に着いた。
「だったら……ウーロン杯を」
「はい」
大井弘子は頷くと、すぐに準備に取り掛かる。
「ああ、だったら、花世、ウーロン杯、作ってくれる?」
「ああ、いいよ、分かった」
グラスに焼酎を注いで、あとは氷、それからウーロン茶を混ぜればそれで出来上がり。
「こんなもんか、焼酎、多めにしといたから」
何故アルコール分を多くするのか、その意味が分からないが、丸山花世は言った。サービスなのか。
「あい」
丸山花世はそう言ってグラスをべれったの前に置いた。
「で、今日は何の用? アネキと話?」
「ああ、そうだ、大井一矢さんって、あなたの親戚だったのね」
「うん。そう」
丸山花世は自分の席に戻ると再び焼きおにぎりをかじり始める。
「知らなかった。そんなに有名な人の親類の人だったなんて。しかも、大井一矢さんって女の人だったなんて……」
大井弘子はただ笑って、イラスト女史の前に小鉢を置いた。トコブシをしょうゆで炊いたもの。
「どうぞ」
「あ、はい……」
甘辛く煮た小さな貝。イラストレーターは不思議そうに見ている。
「アワビですか?」
「ちがうよ。トコブシだよ。知らんのん? サイトーさん」
「え? うん……」
「余らせてしまって。召し上がってくださいな」
大井弘子は言い、斉藤女史はトコブシに箸をつけた。
「……うん……おいしいですね。ああ、プロの人の料理をおいしいというの失礼ですか……って、大井さんは、本職はなんなんですか? ライター? 小説家? それとも料理屋さん?」
斉藤亜矢子は尋ね、大井弘子はただけ首をすくめただけだった。
「それよりも、どしたん、サイトーさん? アネキに用?」
丸山花世はこちらも不思議そうな顔をしている。いったい何をしに斉藤女史はやってきたのか。わざわざ岡島に確認してまでイツキにやってくるということは、相当のことであろう。
「あのね……」
斉藤女史は居住まいを正して言った。
「実は……まあ、大井さんにも伺いたいことがあったんだけれど、あなたに聞きたいことがあったの。花世ちゃん」
「何よ」
「作品。シナリオ」
「?」
丸山花世は終わったもの、終えたことには興味が無い。だが。
「グラップラーに送ってくれた作品、私もね、見せてもらったの」
三重野原案、聞き書き丸山花世。絶望的な作品。タイトルは未決。丸山花世はその作品をたった三週間で書き上げていた。書きあがった原稿はそのまま送信。それからしばらく過ぎているが、グラップラーの側から反応はまったくない。
――反応なんてなくていいけどさ。
丸山花世はそう思っている。
良いと思えば採用すりゃいいし、いらなければゴミ箱にどうぞ。けれど、自分は最善の努力はした。本当にそこだけしか通せないスジを通した。丸山花世にはそのような自信がある。
「あれは……」
斉藤女史はちょっと怯えているようでもある。
「何?」
「あの登場人物って、三重野さんたちの分身よね。モデルっていうか。言葉遣いとか、経歴とか……」
「うん。そだよ」
丸山花世は悪びれたところが無い。
「だって、それが三重野のおっさん達の望んでいたことでしょ?」
「まあ……そうだけれど」
イラストレーターは複雑な顔をしている。
「三重野さんたちは……どうもああいう作品は望んでなかったみたいで……」
「ふーん」
丸山花世はあまり興味がない。
「っていうか……なんか、みんな、暗い顔になってしまって。あなたの作品読み始めてから……」
罵声。嘲り。侮り。
夢魔の言葉は三重野たちに向けられたもの。でも……それは事実。
「みんな……そういうことになるとは思ってなかったみたいなのね。そんな……作品になるとは。自分たちが作品を介して批判されるとは」
斉藤女史は途方に暮れているようである。
「……もっと、適当な、もっと、ありがちで、悪く言えば、どこかで見たような……パクリのような作品。その程度のものをみんな考えていたみたいなのね」
斉藤女史はまた肩が痛むのだろう。しきりに右腕を気にしている。
「……無理やりに自分たちと向き合わされるような、そんな作品になるとは思っていなくて。特に雨宮君なんかは相当のショックを受けたみたいで」
「ふーん」
丸山花世は曖昧に頷いた。
――雨宮のおっさん、やっぱゲイだったみたいだね。
まあ、そういうこと。斉藤女史は続ける。
「……本当に絶望的な作品になってしまったのね」
「でも、それを三重野のおっさん達は望んだわけっしょ」
「でもねえ……」
斉藤女史はどうにもやりきれないといった表情である。そして大井弘子はアスパラガスを茹でている。
「ねえ。花世ちゃん。ひとつ聞いていい?」
「どーぞ」
「作中に出てくる佐藤……佐藤晃のモデルは、私?」
斉藤女史は丸山花世の瞳を不安そうに覗きこんだ。
愚かしくもせせこましい主人公達。その嫉妬心の向かう先であり、とても追いつけないと絶望する相手。それは、もしかしたら自分なのではないか。斉藤女史はそう考えている。そして丸山花世は首を横に振った。
「佐藤のモデルはサイトーさんじゃないよ。サイトーさんは海外に行ったりはしないっしょ」
「そうだけれど……」
「佐藤は成功者の一種のイデアだよ。いろいろな人、先駆者の総合。それが佐藤。だから、サイトーさんがもしも自分を成功者だと思っているのだったら、サイトーさんも佐藤の原型の一人、とは言えるよ」
丸山花世は揺るがない。
「そうなんだ。やっぱりそうなんだ……」
一方、斉藤女史ほうは戸惑っている。
「……ねえ、花世ちゃん」
「何?」
「……みんなはやっぱり、私に悪い感情を持っているのかな」
斉藤女史は気に病んでいるのだろう。三重野たちが自分をどう思っているのか。三重野たちが本当のところで自分をどう感じているのか。なんとなくではあるが理解していたこと。うすうすとであるが感じていたこと。だからこそ斉藤女史は卑屈な笑みを浮かべる三重野たちのことを心の底から軽蔑していたし、今も軽蔑している。だが、そのことを作品として突きつけられるのは斉藤亜矢子としてもショックなこと。才能がある人間のことを人はいろいろと言う。だが、才能がある人間が鋼の魂を持っているというわけではないのだ。
「ああ、うん。三重野たちはサイトーさんのことを嫉妬してるんだよ」
丸山花世はだが、決然として言った。
「ただ、作品は現実とは違うよ。だから、私が書いたシナリオは現実と寸分たがわないものではない。でも、一方で、作品は人生の投影。作品こそが人生。そうでしょ、アネキ」
丸山花世は強情である。女主人は茹で上がったアスパラを切っている。ウーロン杯が入ったグラスの周りには水滴がついている。外は梅雨空。
「みんな、なんか様子がおかしくなって。暗くなって。本当に絶望してしまったみたいで。私も三重野さんたちのこと、実際にはそれほど好きではなくて。でも、気の毒になってしまって。三重野さんも痩せてしまって……」
「でも、それ、自分達で望んだことなんよ」
丸山花世は言った。
「優しい愛の物語を書いてくれって言われれば、そりゃ、私もそう書くよ。勇ましい冒険譚を書いてくれって言われればそうする。でも、連中は絶望を書いてくれって言ったんだよ。触れた人が気分を害して、後味が悪くなるような、そんな作品。私が、連中の意向を無視してそういう作品を作ったんだったら、それは私が悪い。でも、連中がそれを望んだんだよ」
丸山花世は続ける。
「もとよりスタッフが落ち込まないような作品は、お客も落ち込まないんだよ。だから、ほかに私には通せるスジってなかったんだよ」
丸山花世は誰かを嘲ったり、侮ったりもしないし、怒っているわけでもない。
「ほかに方法はない。いや、あったのかもしれないけれど、私には思いつかなかったんだ。本当だったら、そこで、三重野のおっさん達が、いろいろと指示を出せばよかったんだ。でも、それができなかった。やる気が無かったのか」
丸山花世の解説を聞きながら、大井一矢が茹でたアスパラを斉藤女史の前に置いた。斉藤所はそれには手をつけない。
「でもね……なんていうか。私も……いろいろとあって……」
「いろいろ?」
丸山花世は不思議そうな顔になった。
「やっぱり……ねえ、あんなにストレートに誰かを悪者にするのは、ねえ」
斉藤女史は大人である。そして、丸山花世は子供。
けれど、どちらが正しいというわけでもない。
「そうかね?」
少女は柔和な表情をしている。
「連中は……悪だと思うよ」
物書きヤクザは断言した。
「三重野のおっさんたちは悪だよ。サイトーさん」
「悪? そうかな……おかしな人たちだとは思うけれど……」
「おかしな性格は別にいいんだよ。それは悪じゃない。作り手の悪は……そういうことじゃないんだよ」
「……」
「作り手にとっての悪は自分の作品にマジになってないってことだよ。それ以外に作り手の悪はないんだ」
「マジ……」
物書きヤクザは続ける。
「そう。『同人同人』ってさ……なんか、三重野のおっさん、自分たちでやっているくせにその同人の仕事を侮っているんだよ」
丸山花世は淡々としている。怒りも侮りもない。冷徹に、冷静に。
「……」
「同人の世界でさ、良い作品作ろうって頑張っている子たちも大勢いるわけじゃん。個人でやってる奴とか、仲間内でやってる小さなサークルとか。で、そいつらはバイトしたり、いろいろやって資金を工面してやってる。それで、笑ったり泣いたりしてやってる」
丸山花世には丸山花世の理屈がある。
「でも、三重野のおっさん達は違うんだよね。『売るの僕です』とか『同人だったらそれほどの損がないので問題ない』とか臆面も無くトンチンカンなことを言いやがる。そうじゃないと思うんよ」
「……」
「それはすりかえだよ。大事なのは、そういうことじゃなくて、想いの部分。一生懸命な、ひたむきな想い。何かを作りたいっていうまっすぐな気持。でも、三重野おっさんたちにはそれがかけらもないんだ。親会社の金流用して、自分たちはやりたい放題。私、思うよ。そんな薄汚い想いで作ってる作品で店の棚を占領しちゃいかんって。三重野のおっさん達のラインが作ってるソフトさえなければ、その棚に、真剣に作品と向き合ってる連中の作品が並ぶ可能性が出てくるじゃんか」
物書きヤクザは抑えた語調で、言葉を選んで語り続ける。
「ルサンチマン抱えたオタク崩れが手慰みで作るような作品。グラップラーから仕事恵んでもらってるシナリオライターはそれでいいのかもしんないよ。それで。ってか、金さえもらえりゃそれでいいんだろう。でも、私は違うよ。私はそんなのは嫌だよ。そんなの間違ってると思うもの。作品に対して真摯な気持になれない、なる意思もない、そんな奴が幅を利かせていては、その業界はいずれ破滅してしまうよ」
「だから、三重野のおっさんやチンピラ雨宮が私の作品見て、少々こたえたっていうんなら、それは、私にとっては万々歳。てめーら、ちったあ反省しろって。てめーら、作品をなんだと思ってやがるんだって。自分で作る作品に愛着もない、他人に対する作品への尊敬もない。『記録より記憶』なんて何、拗けてんだって」
丸山花世は続ける。
「あるのは自分の見栄と業界への執着心ばかり。おまえら一度で良いから自分たちの作品に本気で向き合ってみろよ。三重野のおっさんも、自分でシナリオ書きゃいいんだよ。高原のおっさんもそう。雨宮もグラフィッカーなんて逃げ回ってないで、テメーで原画から立ち絵から全部描けば良いんだよ。みんな自分でやってみりゃいいんだ。それでは売れない? でも、いいんだよ、売れなきゃ売れないで。それが連中の実力じゃんか。その程度の実力なんだよ。でもそれでいいじゃん。何を恥じることがある? 売れなくたっていい。売れなくたって手塩にかけたわが子同然の作品。いとおしいと思えればそれでいいんだよ。ってか、そういういとおしい気持があるから作品って作れるんだよ。作り続けることかできるんだよ。いとおしいと大事に思うからこそ作品って作れる。 まっすぐに『大事だ』って思えっからこそ作品作れるんだ。サイトーさん、それ以外に何があんの?」
物書きヤクザは澄んだ瞳でイラストレーターの顔を覗き込んでいる。
「同人ってそういうもんでしょ? それでいいから同人なんじゃんか」
「それは……」
斉藤亜矢子は困っている。会社をバックにしているのはそれは斉藤亜矢子も同じ。そして丸山花世の言葉はあまりにも純粋。
「絶望的な作品。そりゃそれでいいよ。作れば。でもさ、テメーらの心の弱さのせいで殺されていくキャラクターのことを連中はちったあ考えろよ」
――消費されていくキャラ。だからいとおしい。
龍川はそう言っていた。亡くなった若者はそう言っていたのだ。そしてそれは丸山花世も同じ意見。生み出されるキャラクターはすでに、そこで人格を与えられている。
「キャラクターはさ、言霊が乗ってて、そいつはもう一個の人間と同じなんだよ。奴らには奴らの痛みがあって哀しみがあるんだよ」
真剣に作品に向き合う丸山花世にとっては。一ノ瀬も、鷹畑も、一個の生ける人間として感じられる。だから、丸山花世は彼らのことをあざけりながらも深い同情の目で眺めている。そしてその反射としてキャラをゴミとして扱う三重野たちには醒めた視線を送る。
「死ぬために生まれてくるキャラなんてさ、 気の毒な子たちだよ」
丸山花世は静かに続ける。
「サイトーさんもさ、結局は、ここにやってきたのは、会社の中でおかしな具合になって自分の立場が微妙だからって、そういうことなんしょ? 分かるよ。でも、それは単に、やっと目が開いたってだけのことじゃんか。今までは目つぶっていた。分かっていたのに知らんぷりをしていただけ。でも、三重野のおっさん達はずっと昔からサイトーさんのことも、ほかの能力のある人も、みんなを煙たく思ってたんだよ。もしかしたら、あのおっさんは、雨宮とか、高原みたいな自分の部下も本当は妬ましかったのかも。部下が伸びて、自分を追い越していくのが恐ろしくて仕方がない。気の毒といえば気の毒だけど、そんなものに私らがつきあう必要もないわけでさ」
何も出来ない人間がトップを張ることの弊害。一方で、そんなトップを打ち破ることが出来ない部下の実力不足。愚将と弱卒の組み合わせ、であろう。そして、傭兵としてそのような愚将の配下となった丸山花世は敵も味方も皆殺しにしてしまった。
「サイトーさんも、そんな連中のことを本当は馬鹿な奴らだって、軽蔑してたんでしょ?」
「……」
「自分の暗い感情に知らない振りしてて。それが抑えきれなくなって。だから、ここにやってきた。そういうことじゃんか」
はっきりと事実を言う少女に、斉藤亜矢子も怯んでいる。そして大井一矢はカウンター席で座っている客の様子をうかがうとはなしにうかがっている。誰かがレフェリーとして止めないといけない場面はある。その瞬間がいつか。主人はそれを見定めている。
「サイトーさんも、私のシナリオで気分害したかもしれないけどさ。それはしようがないよ。もともと亀裂がなかったわけじゃない。亀裂は厳然として会社の中にあって。それをただ私は書き写しただけ。それだけじゃんか。黙ってりゃいいっていう意見も分かるよ。でも、それ、黙っていたら物語にならない」
「……」
「今まで三重野のおっさん達が手がけていた作品が売れなかった理由はそれなんだよ。想い、曲げてるから。それじゃ、お客さんのここにボールは届かない」
丸山花世は独自の理屈を披瀝し、その上で、斉藤亜矢子の顔を覗き込んでいる。
「なんか……私の言ってること、変かな?」
変。変といえば変。でも正しいといえば正しい。
「うーん……」
多分、普通の人間であれば、
――変わった思考だな。
ということに落ち着く。作品に対するスタンス。丸山花世の捉え方は宗教に近い。でも一方で、斉藤亜矢子はなんとなくだが、丸山花世の考え方に共感もしているのだ。
――自分が描いたキャラなりを踏みにじられたら、どんなに傷つくか。顔では笑う。仕事だから。でも胸が痛む。心が痛む。
だからイラストレーターは沈黙している。
「なんかさ……最初っから、この作品は誰にも愛されず、誰にも喜ばれないって分かってたんよ。誰にも祝福されない。まあそうだよね。でも、サイトーさんは、もしかしたら、なかなか面白いって言ってくれんじゃないかって、そんな淡い期待をしていたんだよね」
丸山花世はちょっとだけ笑った。それは普段小娘があまり見せない淋しげな表情。そして斉藤亜矢子は黙り込んだまま。
「……ま、いいけどさ」
丸山花世は言った。一瞬だけ見せた淋しげな表情はもう消えていた。
「アネキ。もう帰るわ」
「そう」
少女はそう言って、残っていた焼きおにぎりを口の中に放り込んだ。
「ごっそさん……」
丸山花世はさばけた口調に戻ると、ぞんざいな様子で店から出て行く。
イツキ。
それは新橋の地下にある小さな居酒屋。
残されるのは女主人とイラストレーター。
「ぶしつけな子ですみません。ご迷惑をおかけしたのでしょう」
大井弘子はまずはわびた。レフェリーストップはついにかからなかったのだ。斉藤亜矢子は最後までリングに立ち続けた。それは……やはりイラストレーターが自分の評価とは裏腹に一流だから、であろう。
「いえ、その……」
「ただ作品的な面では、私はあの子の肩を持たせてもらいます。ご迷惑をおかけしたのはあくまで、皆さんの心情の部分において、です」
女主人は回りくどい言い方をした。要するにそれは妹の弁護であるのだ。
「斉藤さん。作品は私も読ませてもらっています。私は花世の作品は良い作品だと思います。読みきったスタッフが血を吐くような作品。売れるかどうかは分かりませんが、三重野さんと仰いましたか、その方が勇気を振って作品になされば、記憶に残る後味の悪い作品になると思います。作品としてはクライアントの指示にきちんとこたえていると私は断言します」
「……」
「あなたも心に迷いが生じるぐらいの作品なのですから、それはもう一級の『絶望的な作品』でしょう。そう、思いませんか?」
大井弘子は笑っている。丸山花世はこれは恐ろしい化け物のような存在だが、実は上には上がいる。女主人はそう言いながらチョリソーとチーズを斉藤亜矢子の前においた。
「なんでも破壊する大きな龍。誰も花世を制御出来ない。天災みたいな子。私もコントロールできない。まあ、私も自分自身をコントロールしきれない部分があるから、やっぱり、血筋なのかしら」
女主人は穏やかに言った。斉藤亜矢子はなんともいえない表情をとして言った。
「……花世ちゃんは、私を買いかぶってるんですよ。きっと」
「さて。それはどうか」
女主人はグラスに安焼酎を半分ほど入れて、そこにレモンのスライスを浮かべる。客の前で呑むというのは大井弘子にとっては珍しいこと。
「私は、嫉妬されたり、憎まれたり……そんな人間じゃないです。ただ一枚いくらでイラストあげて、なんとか生活して。それだけです」
「でもルサンチマンを抱えている皆さんはそうは見ないでしょう」
「そうなんでしょうか……でも、私が三重野さんたちの考えを私がどうこうできるってものでもないんですよね」
斉藤女史はため息をついた。
「あの……大井さん?」
「なんでしょう?」
「どうすれば……いいんですかね。私。なんかいろいろと迷うことばかりで。このまま年ばっかりとって……」
大井弘子は物事をよく知っている。斉藤女史も、丸山花世には相談できなくても、大井弘子には安心して胸襟を開くことができるようである。
「肩も痛いし、目も悪くなるし」
「お互い、切実、ですね」
大井弘子は笑った。妹分は理想論だけ。若さ。けれど。アネキ分は長く生きていて、だから人の性、というものを知っている。
「私は、こう思うんです」
女主人は言い、斉藤亜矢子はカウンター越しに主人の顔を見上げる。
「人間って……大過なく生きられない。そういう生き物なんじゃないかって。大きな会社に入って、一生安泰。そんなのは幻想。祈りなんでしょう。そうあって欲しいという想い。でも、実際は会社が潰れてしまったり、人員整理にあったり。何も無く平穏無事に生きている人がこの世に存在しているという考えは、間違いなんですよ。みんな何か抱えていて、傷を負っていて。肩も痛いし足もむくむ。腰も痛い。それなのに同僚は無理解で……」
「そうなんですよねえ……」
斉藤女子はため息をつくようにして言った。
「本当にそうなんです……」
イラストレーターは続ける。
「……花世ちゃん、さっき、同人にまじめに取り組んでる人たちの多くは誰のバックもなく、会社の支援も無いままにやってるんだって、そんなこと言ってたでしょう……私、それ聞いてすごく耳が痛くて。確かに……私も、想い、汚れているのかなって。そんなことを思ってしまって」
「そんなことはないでしょう。花世はあの子はあれで物凄く潔癖で極論しか言わないから。結局、想いが正しければ、個人だろうが法人だろうが何でも良いんですよ。そのことはあとであの子にもいって聞かせるつもりですけれど」
「でも……ねえ。花世ちゃんと話をしていると、いろいろと凹むことばかりで……」
言いたい放題の丸山花世。言われる側は大変。
「良くも悪くも誰かの心に何かを残すことができるのはいい作り手なんですよ」
「……私、他人に何かを残してきたのかなあ」
斉藤女史は物憂げに呟き、すぐに大井弘子は言った。
「残してきたではありませんか。さっきの花世の顔、見たでしょう? ちょっと淋しげで。もしかしたら斉藤さんだったら自分の味方になってくれるんじゃないかって、あの子、そんなこと言ってでしょう?」
「ええ……そうですね」
「あなたも花世の心に何かを残したのでしょう。だから、あんなことを言った。あの子にああいうことを言わせることがきるのは、やっぱり、同じぐらいの質量を持った魂だからなんですよ」
「同じぐらいの質量……」
「魂にも重さがある。斉藤さん。小さな魂の人たちは大きな魂が持っている重力に惹かれる。それがファンです」
「うーん……」
「小さな魂の人たちは一度大きな魂に引き込まれるとなかなか抜け出せなくなる。時には、大きな魂の人に取りこまれて一体化して、自分がなくなってしまうことすらある。私達の目には見えないですけれど魂の世界にも物理法則は当てはまるんですよ」
「……」
「三重野さんですか。その方たちもきっと、重力に引かれて抜け出せなくなってしまったんでしょう。それは、どうしようもありません」
業界に惹かれて。でも、何の能力も無い。拗けて、ただ拗けてこまねずみのようにして走り回る。行き着く先はどこなのか。
「ご本人が幸せならばいいのですが……そういうわけでもなみたいですね。でも、それも仕方が無い。男ですからね。自分で何とかしなくては」
「穏やかな顔をしてきついことを仰るんですね、大井さんも」
「そうですね」
大井弘子は焼酎を一口。
「斉藤さん。人生は……多分、空中ブランコ。こっちからあっちへ。恐ろしくても向こうのブランコに飛ばなければいけない。今乗っているブランコにいつまでもしがみついてるわけには行かないんでしょう。ブランコはやがて揺れ幅が無くなり、止まってしまう。止まってしまっては、あちらに飛ぶことはかなわない」
「人生は空中ブランコ、ですか……落ちたら、どうなるんですか?」
キャリアも名声も全て無くなる。べれったとしての小さな名声。それでもその小さな名声がなくなるのは恐ろしい。だが。大井弘子は平然として言った。
「また初めからやればいいんですよ。初めから。本当の空中ブランコとは違って人生はやり直しがきく。命まではとられないでしょう。それでいいんですよ。何度でも立ち上がればいい。それだけ。そう思いませんか?」
大井弘子はハートが強い。それは丸山花世も同じ。
「自分の作品も。そして他人の作品も許し、愛する気持があればいくらでも立ち上がってくる勇気は沸いてくる。そういうもの。私はそう思いますよ」
「作品を許し、愛する、ですか」
斉藤亜矢子は少しだけまだ迷いを残している。すぐには出せない結論。でも、結論を見出した誰かがすでにいるということが分かっていれば、厳しい道のりも多少は楽になるだろう。
「なんか……不思議な人たちですね。花世ちゃんも、大井さんも」
斉藤亜矢子は言った。
「血筋でしょう。そういう」
女主人はそういってナスの漬物を客の前に置いた。
「そうだ。斉藤さん。そのうち一緒に仕事をしましょう。欲得抜きで」
女主人はそう誘い、斉藤亜矢子はちょっと考える。
「欲得抜き、ですか……」
「適当なもの。肩肘の張らないもの。自分たちが描きたいもの」
「それはいいですね」
斉藤亜矢子は始めて楽しげに笑った。作者は、作ることが出来ればそれだけで楽しい。
「うん。そうですね。それはいいですね……どこかの小さなイベントで、自分たちでROMを焼いて。手売りで」
「花世にも手伝ってもらいましょう」
大井弘子と斉藤亜矢子の交渉は妥結し、ウーロン杯のグラスについていたしずくがすーっと滑るようにして流れて落ちていった。
そして丸山花世は新橋の夜空の下を野良猫のようにして彷徨っているはずである。
当然の帰結であるのだが、丸山花世渾身の『絶望作品』が商品となることはついになかったし、そのことで物書きヤクザが気落ちするということもまたなかったのである。
むべやまかぜを 黄支亮 @20890
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