第2話 自称業界人または時代に取り残された人々
新橋の烏森口から徒歩五分。
雑居ビルの地下にイツキという店がある。
何ゆえ『イツキ』なのか?
もともとの店の主が前田樹という中年男だったので、その名前をとってイツキ……という説があって、景気良く『イッキ』としたかったところを、間違えてイツキと看板に書いてしまったのでイツキという店名になったという説がある。何かが居ついてるからイツキとなったという説もあるが……店に何かが居ついていることをアピールする理由はどこにあったのか。
いずれにせよ事実として言えることは、店を開いた中年の店長が焼酎の飲みすぎで病院送りとなったということがひとつ。そして、その酒を飲みすぎた店長に代わって、いつの間にか色白の若い女性が店を仕切るようになったことがひとつ。最後に、若い女性の店長が切り盛りするようになったあとのほうが客が多くなったことがひとつ。そして最後にひとつ。地下にあるカウンター席だけの小さな店には時々だが風変わりな物書きヤクザがやってくるのだ。
いつものようにいつものごとく――。
閉店間際のイツキ。お客がはけてひと段落している地下の居酒屋。 丸山花世は階段を下りていく。
「ふふふーん……ふんふん……」
機嫌が良いので鼻歌交じり。
少女にとってはそこはいってみれば秘密基地。普通の女子高生であれば、利用するのはマクドナルドであったりスターバックス。けれど丸山花世は違う。あくまで居酒屋。アネキ分がやっているイツキ。物書きヤクザにはうらぶれた地下店舗こそが似つかわしい……。
「って、あれ?」
カウンター席には客の姿が。
「……」
少女はそやつのことを汚物を見るような目で凝視する。
変な男。
まさに変な男、であった。髪の毛は金髪。脂ぎった顔には妙な丸眼鏡。切りそろえられた髭は本人は洒落ているつもりだろうが、丸山花世に言わせれば古くなった歯ブラシのよう。三つボタンの背広にベストはブランド物。多分イタリアかどこかのモデルが着れば栄えるのだろうが、ちんちくりんな小太りでは、何を着ても一緒。むしろ、その様子は頭の悪い飼い主に無理やりに衣装を着せられた気の毒なブルテリアのよう。
「まずはですね、ブレストをしましてですね……」
――なんだ、この野郎は……。
物書きヤクザは思ったことがそのまま顔に出る。
「……」
時々いるのだ。
大井弘子目当てにやってくる筋の悪い客が。店が終わる時刻をわざと狙ってやってきて、あわよくばその後にいい思いをしようとするさもしい連中。
――四十、五十っていう、もう落ち着かなきゃいけない連中ほど下半身に節操がねーかんな。
一方の大井一矢のほうも……妹分がやってきたことに気がついたようである。
「来たわね」
「あ、うん……」
大井一矢は……おかしな客に辟易しているというわけてもなさそうである。
――なんなんだ、こいつ。
素性のよく分からない男に警戒しながら物書きヤクザはカウンター席のひとつに腰を下ろした。
「ブレインストーミングをしまして、それからですね」
客は言い、そこで小娘は眉を軽く動かした。
「ところでえーと、あなたは、大井先生の……ご身内か何かですか?」
ちんちくりんはそう言って丸山佳代を見ている。物書きヤクザは混乱している。
――大井先生? なんじゃそりゃ。
店に来る人間で、一矢のことを『先生』と呼ぶような人間は始めてである。
――先生……ねえ。
慇懃も過ぎれば無礼になる。必要以上のおもねりは傲慢の裏返し。物書きヤクザはそのことを知っている。
「妹さんかなにかですか?」
気持の悪い男は言い、丸山花世は複雑な顔のまま応じた。
「うん。そんなとこ」
「なるほど、さようですか……大井先生のお身内ですか。なるほどなるほど」
「あんた、誰?」
物書きヤクザはいきなり荒れている。出来損ないの成金のような男。慇懃で妙になれなれしい中年男のことを丸山花世は一目見ただけで、
――胡散臭いヤローだ。
と嫌っている。
「私、松風書院の末吉と申します……」
「ふーん」
脂ぎった男は物書きヤクザに名刺を手渡した。
――松風書院 オメガ文庫。
丸山花世は名刺をじっと見つめている。
「先年立ち上げたオメガ文庫の編集長でして……」
ソツが無さ過ぎる人間は、本人はうまくやっているつもりだろうが、丸山花世のような人間からすると、どうしても最後の最後で信じきれないのだ。
「……」
カウンターの奥の大井弘子は穏やかに笑っているが……妹分にはわかっている。
――こいつはどうでもいい客だな。
「オメガ? 知らんなあ」
「昨年に創刊いたしましたもので……ま、ラノベの業界では新参ですが、作家さんも皆さん、それなりのビッグネームをそろえております」
「ふーん」
少女はほとんど聞いていない。
「松風って……あれだよね、グラビアとかマンガ雑誌の版元だよね」
「さすがは大井先生の関係者、よくご存知で!」
「それぐらい知ってるよ」
馬鹿にすんな。物書きヤクザはいらついている。そのいらつきを見て取ったのか、女主人が雑炊の入った椀を一つ、妹分の前に置いた。
あまりもののカニ雑炊。野沢菜の漬物が入った小鉢がおまけ。少女は頷くと雑炊に取り掛かった。慇懃なチンドン屋については……まあ、ほうっておいても害はあるまい。
「本日はですね、大井一矢先生に、うちで立ち上げたオメガ文庫で作品を書いていただこうと思いまして、それでこうやってやってきたということでして……」
「ふーん」
丸山花世は興味がないので適当に頷いている。時々だが、こういう手合いがイツキにもやってくる。そのことは妹分も知っているのだ。だが。
「昨今、ライトノベルは大手の寡占状態にありまして……しかも、売れるものは売れる、売れないものは売れないと二極化しているわけです」
金髪の不細工はいらん解説をしてくれる。
「うちでもいろいろな作家さんを引っ張ってきているのですが、どうも、皆さん売れ行きが非常に芳しくない。そこで、大井さんのお力を拝借しようと、まあ、こう思ったわけですね」
物書きヤクザは嫌な顔をした。
――こいつ……デリカシーのねー野郎だな。自分が引っ張ってきた作家に対して『売れ行きが非常に芳しくない』って……それって、テメーの能力不足を作家におしつけているだけじゃん。しかも、それを作家であるアネキに言うなんて、馬鹿な男だな。
「さまざまな方面でご活躍されている大井先生であれば、業界に与えるインパクトもきっと大きいはずでして……」
言葉が上滑る。舌のよく回る奴は気をつけたほうがいい。特に横文字を使う奴は危険。クリエイター。ポジティブシンキング。インパクト。ブレインストーミング。横文字をさも自慢げに振りかざす人間はまず危ういことを丸山花世は知っている。
――インパクトなんて言わんと『衝撃』でいいじゃんよ。
と、不満げな顔をしている妹分が口を開く前に、アネキ分が笑って言った。
「末吉さん、花世を使ってみる? 能力は十分よ」
「花世といいますと?」
「そこにいる子。私の妹」
まさかそのようなおかしな球が飛んでくるとも思わなかったのだろう。金髪の編集者はきょとんとしている。
「こちらの方を、ですか?」
「そう。たいした実力の持ち主よ」
少女はめんどくさそうな顔をし、そして末吉は鈍いのだろうか、少女の表情に気がつかないままに言った。
「いや、まあ、そうですね。大井先生がご推薦してくださるならば考えさせていただきます。まずはほかのスタッフと話し合ってみます。ご返答には少々時間がかかると思いますが……」
末吉は慇懃に言い、物書きヤクザはつっけんどんに言った。
「いや、いいです。そんなことしてくれなくて」
少女は足下に断った。アネキ分の出来の悪い冗談に付き合う必要はない。
「話し合ってくださらなくて結構です」
「……」
もしかしたら末吉は自分が憎まれているということにすら気がついていないのかしれない。とにかく丸山花世の出座はあっという間になくなってしまったのであるが、そのことで物書きヤクザが残念がるということも無い。そこで大井弘子、ペンネーム大井一矢は末吉に言った。
「とにかく……まあ、オメガ文庫ですか。そちらのほうは私のほうでも考えてみます。私もお店のことであるとか、いろいろとやらなければならないことがありますから」
「はい……ご多忙は存じ上げておりますから……」
「スケジュールの調整とかいろいろと考えてみます。ご返答には時間はかかりません。お返事は明日の昼十二時までに差し上げます」
大井弘子はわざと末吉の言葉にかぶせるような発言をした。それはある種の報復であるが……どうも、金髪の編集は大井弘子の言葉の意味を理解していない。これは相当に頭の悪い人間である。
「そうですか。はい、分かりました……」
穏やかな店の主人の物言いに、末吉は満足しているようである。どうも、編集殿は大井一矢の返答を『ポジティブ』ととったようである。
そして丸山花世は思っている。
――こいつ相当の馬鹿だな。
「私もドラッケンマガジンの立ち上げに携わった頃からこの業界にいますけれど、今ほど、厳しい時期は見たことがありません。本当に厳しい」
末吉はそのように言い、自分が古株であることをアピールしたが、そのようなことにはまったく意味は無く、要するに偉ぶりたいだけなのだろう。その小物振りが物書きヤクザには鼻につく。
「へー。ドラッケンマガジンの編集部にいたの、あんた」
「ええ。いろいろな作家さんの原稿を扱わせていただきましたよ。私が育てた作家さんも大勢いる。漫画家さんや絵師さんもそうですね。多分、あなたも良く知っている大家と呼ばれるラノベの作家さんたちですよ……」
「ライトノベルの大家ってなんか変じゃない? 立派な屑ヤロウっていうのと同じことでしょう?」」
「……」
少女は暗く醒めた目でちんちくりんな中年男を見ている。
「でも、なんでドラッケンにいた人が、松風に行っちゃったの? 版元ちげーじゃんよ」
「それは……」
まさか目の前にいる小娘がそんな足払いをしてくるとは思わなかったのだろう。金髪の中年男は言葉に窮している。
「……えーと、それはですね、私はオメガの編集部の人間ですが、同時にSDPという会社の代表取締役で……」
男は言い訳のようにして言い、そして丸山花世は全てを理解してこう言った。
「なんだ、あんた、編プロの人間なんだ……だったら、そう名刺に書いたほうがいいよ。僕は下請けですって。名刺に松風の代紋掲げるなんて虎の威を借りてるみたいでみっともないじゃん」
「……」
少女の直球に中年男は思考が停止したようである。
「な?」
丸山花世はダメを押すようにして言い、大井一矢は助け舟を出すようにして笑った。
「末吉さん、必ず明日十二時までにご返事を差し上げますから」
「は、はい……そうしてください」
末吉は……丸山花世のことをどう思ったのか。猫なで声の慇懃無礼な中年男。卑屈な乞食は傲慢な暴君。もしかしたら、はらわたが煮えくり返っているのかもしれないが、そんなことは少女にとってはどうでもいいこと。
「……ああ、それではとにかく、よろしくお願いします。うちもレーベルが立ち上がって半年。そろそろ勝負に出なければなりませんから」
胡散臭い業界ゴロはそのように言った。もうすでに原稿は取ったも同然。末吉はそのように勝手に算段を立てている。もちろん、算段を建てるのは勝手だが……。
「それでは、失礼します」
卑屈な金髪男は支払いをカードで済ませると居酒屋から出て行った。残されたのは姉と妹。
「なんだよ、ありゃ……」
妹ははっきり言って末吉のことを嫌っている。一目会っただけで十分軽蔑される。金髪の編集殿は素晴らしい才能の持ち主であると見える。
「ああいうのはいけ好かないね。たいたいさ『返答には少々時間がかかると思います』っていうようなことを平気で言う奴に仕事のできる奴なんかいないんだよ。その場で決めりゃいいんだよね。ゴーかストップか。テメーがトップなんだからさ。『何時になるか分かりませんけど、考えさせてくれ』なんて言ったら、それを真に受けた相手が何時まで待てば良いのか分からなくて気の毒じゃんよ。遠まわしに今は謝絶するけれど、相手があとで伸てくるのもまずい。だから、恨みを買うようなことはしないで今は先延ばしってことなんだろーけどさ、そんな保身ばっかりの奴にまともな仕事ができるか、馬鹿!」
丸山花世は悪態をついた。そして、笑って聞いているアネキ分もそれは同じなのだろう。だから、わざと、
――明日の十二時までに。
と時間を区切ったのだ。相手に対する配慮をすることで、相手の配慮のなさを指摘する。もっとも、血の巡りの悪い中年男には大井弘子の反撃はあまり意味が無かったようであるが。
「で、アネキ、あんな奴の依頼受けんの? オメガ文庫だっけ……」
「さて……」
大井弘子は曖昧に笑った。妹分は、それだけでもうだいたい理解している。
「まあ……アネキはやる時はその場でやるって言うよなあ。気を持たせるようなこたーしないか」
物書きヤクザは満足したようにして言った。
「レーベルにも人と同じように運命がある。短命なレーベル。長命なレーベル。長生きをするレーベルはやっぱり、作っている人の想いがあるのよ。なんとかして長続きさせたい。なんとかして存続させたいっていう思い……」
「今のチンピラにはあんまりそういう想いいってなさそうだったよなー」
丸山花世は適当に吼え続ける。
「調子がいいだけの業界ゴロみたいな奴だったし……なんか、知力もスゲー低そうで。三国志のゲームで言ったら曹豹とかぐらいのレベル? テメーどんな学校出てんだよ」
そして、喚き散らす少女の背後で動きがあった。
曹豹レベルのゴロツキが戻ってきた……わけではなかった。もっとも、たとえ末吉が戻ってきたとしても、倣岸な小娘はどうということもなかっただろう。
「……えーと、店、もう閉まった?」
喚き散らす少女の後ろで声があった。それは……丸山花世もよく知った人物の声。タブロイドの新聞を後ろのポケットに刺した人物。
「ああ、山田さん。この前は花世がお世話になったみたいで……」
大井弘子はそのようにして客を向かえ、妹分のほうは、話の分かる援軍に不機嫌な顔を引っ込めた。
「なんだ、ダンナ……もう、看板だよ」
「ああ、そうなのか?」
眼鏡のエロ屋はちょっと胡乱そうな顔をしている。
「ああ、まあ、でもいいよ。ダンナは。それよりも、競輪、あれから行った?」
「いや、船橋のオートレースには行ったが……」
龍川綾二が夭折してしばらくしてからの日曜日、丸山花世は山田に連れられて松戸の競輪場に行ったのだ。言ってみればそれは自棄酒ならぬ自棄博打。理性の働かない博打で勝てるわけもなく、二人あわせて五万円の大損。物書きヤクザは哀しいやら悔しいやらで最後は半泣きだった……。
「今度、大井の競馬場行くか?」
「ああ、望むところだね」
少女は言った。松戸の借りを大井で返さなければならない。それが亡くなった友への供養。
「それよりも今日は?」
博打談義に盛り上がる山田に大井弘子が尋ねた。
「ああ、版元に行ったもので。で、打ち合わせが済んだから寄ってみようか……でも、もう看板なんですか」
蔡円殿は……美人の女主人には気を遣っているようである。
「いいですよ。ゆっくりしてってください……ビールにします? 瓶? 生?」
「ああ、じゃ、生ビールを……」
山田は喜んで席に着いた。
「やっぱり山田のダンナも美人が好きなのかね?」
物書きヤクザは言い、山田は応じた。
「そりゃそうさ」
「でも、アネキを調教とかそういうことは考えないほうがいいよ。アネキは空手やってるし、喧嘩、つえーから」
「あのなあ。馬鹿なこというなよ。こっちだってガキじゃないんだ。そんなこと考えるか」
菜園男は呆れたような顔を作っている。大井弘子はそんな山田の前にイカと大根を炊いたものが入った小鉢を置いた。
「ああ、すんません……」
「それ、サービスじゃないかんね。金はちゃんと払ってく」
「分かってるよ、そんなことは……」
次々に飛んでくる言葉の矢に山田も頭を抱えているようである。と。山田が思い出したようにしていった。
「あ、そういえば、さっき、そこで末吉さんと良く似た人を見かけたんだけれど……SDPの末吉さん。見間違いかな?」
末吉。大人気である。丸山花世はすぐに応じる。
「ああ、あいつだよ。ビンゴ。だいたい、あんな、出来損ないのチンピラみたいな人間、そう何人もいないっつーの」
「まあ、そりゃそうだが……なんだ、丸山ちゃんも末吉さん知ってんだ」
「さっき、ねえ」
大井弘子は笑っている。
「会ったばかりだけれど、あいつのことはもう見切ったよ」
物書きヤクザは吐いて捨てるようにして言った。
「なんかさー。小物なんだよね。変に外見、取り繕ってる奴って、だいたいがろくでなしでさ。自分に自信が無いから、見てくれで他人を圧倒しようとする。形から入っても中身がなきゃ意味ねーじゃん!」
「……ああ、やっぱり、丸山ちゃんが嫌いなタイプか。末吉さんは」
「鼻につくんだよね。必要以上のへりくだりが。内心では、オレは偉いとか思ってんだよね。ああいうタイプは。馬鹿か。おまえが偉いんだったら養鶏場のブロイラーだって偉いわ!」
ただ二、三言葉を交わしただけでこの悪態。丸山花世のお眼鏡にかなう人物になるのは難しい。
「まあ……確かにそうだよな。胡散臭い人だし、仕事はやりっぱなし。風呂敷を広げては畳みきれずに逃げ出す……そういう人だからなあ」
山田も金髪の編集殿には良い感情を抱いていないようである。
「オタク上がりで、専門学校か何かに在学していたときに業界にアルバイトで入って……それで、いろいろとやって。もう四十過ぎじゃなかったかな?」
「四十年生きて、まだあれかよ」
丸山花世は怒り、女主人は妹分の罵声を楽しげに聞いている。
「マンガやったり、ラノベやったり……確か、映画か何かもやっていたはずだったな。あの人」
「映画? あんな奴に何が撮れるの?」
「いや、製作じゃなくて、海外のB級映画を買い付けたか何かで……でも、当然だけれど売れないよな、そんなの。結局、大失敗で大赤字……」
丸山花世は怒っているが、山田のほうは年をとってるだけあって、ただ怒っているわけではない。何か思うところがあるのだろう。
「今から、二十以上前の業界、なんだよな。まだバブルで……って、丸山ちゃんはバブルを知らんが、そういう時代があって」
「……」
「業界全体が輝いていた……って言ってもオレも良く知らんけど。ドラッケンとかそのへんの雑誌が創刊された自分で、ライトノベルも百万部とかぐらい平気で売れて。アニメになってビデオになって映画になって。ゲームだって作れば作っただけ売れて。会社は大きくなっていくのが当たり前で。声優が急に憧れの対象になったり……。アニメの脚本上がりのライターが天狗になって幅を利かせたり。末吉さんの青春時代って、そういう業界の輝いていた時代と重なってるんだよな」
山田はちょっと淋しげに続ける。
「楽しかったあの頃。経費は使い放題。風俗接待とか」
「タクシー券も湯水のように使って?」
大井弘子が言い、山田は頷いた。
「まさにやりたい放題。でも……そんな時代はとっくの昔。業界は右肩下がり。何もかもが縮小再生産。だというのに仕事のやり方は変わらないし変えられない。若い頃に刷り込まれた勝利の方程式。それを壊すことができない。資本金が百億円の会社でできた仕事のやりかたを資本金が一千万円の会社でやろうとしてもそれは無理なんだよ。金がないんだから。でも自分のやり方も意識も変えられない。だから、おかしなことになる。結局、あっちでぶつかりこっちでぶつかり、坂道を転げ落ちていく……」
山田の言葉に丸山花世も苦い顔になっている。
「全ては過去の妄執を断ち切れないそいつ自身が悪いんだ。でも、プライドが邪魔をして、過去の自分と決別できない」
安っぽい三つボタンのスーツも……傷ついたプライドの裏返し。
「能力の無い人間ほどプライドにすがる。能力のある人間は、別にプライドとかって関係ないからさ。褒められる人間は、自分を褒めてやる必要なんてない。誰かが褒めてくれるんだから」
山田の言葉に、大井弘子は特にコメントをしなかった。
「実力がない奴ほど突っ張ったりいきがったするんだよな……逆に言えば、いきがっている奴は……怯えてるんだよな」
「……」
丸山花世は頷いた。
「みんな年取っちまったんだろう。アニメーターも漫画家も作家も編集も。でも……気持ちだけは若いまま。っていうか、いくらやっても大人になりきれない。幼稚なまま。結局はどこででも通用しない人間。時間だけは待ってくれないよなあ……」
菜園男は末吉よりも一回り以上年が下。けれど、世の中の見方は遥かに醒めている。そして物書きヤクザにとっては、いまだにどんぶり感情で世の中を渡っていけると信じている痴れ物ブローカーよりも、小松菜一束いくらという計算をしている若いエロ作家のほうがまともなように思われるのだ。
「時間は待ってくれない、か。そーだよね。気がついたらあんな小太りの中年になってるなんて、不運だよねえ……」
少女は他人事なの簡単に言い、そして、そこで思い出したようにして言った。
「あ、そだ。ダンナ、オメガ文庫って知ってる?」
末吉が置いていった奇妙な案件。それはアネキ分への依頼。
「なんかさ、さっきのブローカー野郎がアネキに仕事を依頼したいとか言ってて……」
少女の問いに、山田は不思議そうな顔を作った。
「あれ、オメガって末吉さんのところがやってたんだ。松風だよね」
「そう。なんかさっきのオヤジがそんなこと言ってて……でも、あんまりよく知らん」
丸山花世はカウンター内にいるアネキ分のほうを見やった。大井弘子も、オメガ文庫には興味がないらしい。残り物のメバルを切って、お造りにしている。
「へー、あの文庫、まだやってたんだ……」
「まだやってた? なんじゃそりゃ?」
丸山花世は怪訝な顔をした。まるで潰れかけの定食屋のような扱いをされるレーベル。いったいそれはどういうことなのか。
「松風、前にもレーベル作って、何文庫って言ったかなあ……アルファ文庫だったかな? 十年ぐらい前かなあ。でも儲からなくてすぐに潰れて……」
「あったわね……そういえば、アルファ文庫……」
大井弘子は笑いながらメバルのお造りを客の前に置いた。丸山花世は勝手に白身の魚をくすねると口に放り込んだ。
「……んー、なんだアネキも知ってたのか」
「地味に、ね」
「松風も何考えてるのかな。末吉さんのお追従に乗せられたのかなあ。よくは分からないけれど、ライトノベルが儲かるって思ったのか。前ダメだったのが、今になってよくなるわけないと思うんだけど……」
「ふーん」
丸山花世はうなった。他人が左前になる話は聞いていてもなかなかに気分がよろしい。
「前に聞いたけれど確か、相当の数、刷ってるんだよな。二万とか三万とか。大手でもそんなに出ないのに……」
「なんでそんなに刷るの? 資源の無駄だし、レーベル長く続けたいならば刷り部数おさえて赤字出さないほうがいいんじゃないの?」
「それじゃ、末吉さんのところがうまみがないだろ。部数多ければ多いだけ金を抜くことができる」」
「なんだよ結局私利私欲かよ、あのゴロツキめ……」
物書きヤクザは呪うようにしていった。
偉そうな口をききながら、結局は自分の欲得。慇懃な態度の裏には金、金、金。最初から胡散臭い嫌な奴だと思っていたが、骨の髄まで腐っているとはこのこと。
「ただ、まあ、そんなでたらめなことだからセールスも全然ダメだってことだぜ、オメガ文庫は。なんか最近では刊行のスペースがぐちゃぐちゃになってるとか……」
「そうなん?」
丸山花世は訊ねた。ごたごたに内紛。他人の家の揉め事だったらぜんぜんオッケー。
「ああ。出るものが出なかったり……松風も切り時を探ってるのかなあ」
丸山花世は苦い顔を作り、一方、アネキ分のほうは平気な顔をしている。
「そんな状況でアネキを引っ張り出そうなんて……もしかしたらレーベル、なくなるかもしれんのでしょ?」
「そうだな。っていうか、なくなるのは決定じゃないか?」
「なくなるかもしれないレーベルに作家つきあわせて……それで何かあったらあの業界ゴロが責任取ってくれるのかって言ったら、とってくれんのでしょう?」
「まあ……そうだな。多分、そういうことはほっかむりだろうな。そういう性格の人だし、もともとそれだけの金があのおっさんには無いわけだし。所詮は下請けだから」
「腐ってやがるな、あの馬鹿……」
慇懃なだけ。阿諛追従の世渡り上手。欲得。全ては自分の金のため。薄汚い中年男のやり口に物書きヤクザは憤激している。
「アネキ、あんな、クソ野郎の依頼、受けないほうがいいよ! あんな馬鹿に付き合ったら、ろくなことにならないから!」
妹の警告に姉は笑っている。言われなくても、思慮に飛んだ女主人は泥沼にはまったりはしない。
「そうね。今日中にお断りのメールを送りましょう」
「そうだよ。それがいいよ!」
少女は当然のようにして憤り、山田はそんな小娘のことをやれやれといった具合に眺めるばかり。そして笑って聞いていた大井弘子がしみじみとした口調で言った。
「……虚業よねえ」
嘲るでもない、侮るでもない。同情するような女主人のつぶやきに、物書きヤクザも菜園男も沈黙している。
「人生を浪費している。そのことに気がつかない。気がついていても……気がつかないふり。楽しいカーニバルはとっくの昔に終わってしまっているのにね」
女主人の言葉に山田は何も言わず、丸山花世は適当に頷いた。
オメガ文庫はそれからしばらくして廃レーベルになった。
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