むべやまかぜを

黄支亮

第1話 エロラノベ業界考察

 新橋。そこはくたびれたサラリーマンの似合う町。

 薄汚れた烏森口改札を出てパチンコ屋の前を通り、廃校となった小学校の校庭を横切り、レンタルビデオのチェーン店の前で右に曲がる。駅から歩いて五分ほどの距離のところにイツキという居酒屋があった。古い雑居ビルの地下奥の小さな店にはカウンター席が十ほどあるばかり。有線放送で流れるのは巨人戦が有るときは野球中継。野球のない日は演歌――ではなくて何故か八十年代のニューミュージック。

 ものすごく流行っているというわけでもないし、名店として雑誌に載るわけでもない。だというのに何故か潰れることのない不思議な店。店の主は三十半ばの女性。なかなかの美人で腕も決して悪くない。

 ――今日のお勧めは大目鱒。

 小さなホワイトボードに書かれた文字が僅かにかすれている。時刻は午後の十時を過ぎる。そろそろ本日の営業時間もおしまい。だが。カウンター席には客が一人。この客がなかなかに重い腰を上げようとしないのだ。客は見たところ二十代半ば。トレーナーにジーンズ、はいている靴は底の減ったスニーカー。運動不足なのか青い顔をした不健康な客はしきりに貧乏ゆすりをしている。出されたウーロン杯の氷はとうの昔に解けてしまっている。

 「ダメか……」

 カウンターには客の携帯電話が乗っている。

 「一矢さん」 

 神経質そうな客は店の主に呼びかけた。カウンターの中で洗物をしていた一矢、つまり女店主が顔を上げる。長い髪を後ろで結わえた色白の美人。ジーンズにワイシャツ。シャツの上からエプロン。居酒屋よりももっと別に働き口はありそうな、そんな女性。客は主人にこう尋ねた。 

 「ここ、携帯の電波入りますよね?」

 「入るわよ」

 「そうか。そうですよね……入りますよね」

 若い客は苦い顔をして頷いた。誰もがわかることであるが、客は待ちぼうけを食らったのだ。

 「だめか……」

 若い男は顔をしかめた。

 「十時……もう、過ぎてるもんなー」

 客はうんざりしたようして時計を見た。

 「まあ、ダメだと思っていたけれど、やっぱりダメか……地方のライターってこういう時に困るんですよねえ」

 「弱小エロ版元の哀しさ? 岡島さん?」

女店主はそう言って、客の前に皿を出した。じゃこと紫蘇を混ぜ込んだおにぎりが二つ。

 「『できます』『やります』って言っておきながら、いざという時は連絡が取れない。連絡取ろうにも携帯の電話切ってるし……」

 若い編集者はほとほと疲れ果ている。口から漏れる愚痴にも元気がない。

 「十時迄に連絡入れるとか言って、結局入れてこないし……」

 「メールは?」

 「どうですかね。無理だと思いますよ……。あの人、メールほとんど使わないし。今時、フロッピー郵送ってねえ。しかも、そのフロッピーにデータが入ってないこともしばしばで……」

 編集殿は長年の歯軋りのせいで顔が僅かに左側にゆがんでしまっている。それもこれ全ての元凶は不実なライターやエロ作家、さらにはイラストのいい加減な態度。

 「田上さんのイラストも上がってこないし……あの人も『できます』って言って、それできちんとやったためしがないんだよな……」

 編集殿は疲れ果てている。

 「できないならできないといってくれれば良いのに……」

 店の主は笑って聞いている。

 「でも……田上さん、画集出たんでしょう?」

 「ああ……あれは、ベスト社の編集長が印刷所に田上さんを監禁してようやく上げたって話ですよ」

 若い編集は苦りきっている。 

 「なんでみんなもっとちゃんと仕事できないのかなあ。芸術家肌もいいけど、芸術家気取るほどには才能もないわけだし。たかがイラストレーターの分際でアーティストっていうのも……。コミケで名刺配りまくっている暇があれば目の前にある仕事を片付けるほうが先だろうに……」

 「ま、そういうこともあるのでしょう。絵の人はいろいろと難しいし、ナイーブな人が多いから」

 店の主は適当に頷いた。そして、若い編集者は言った。

 「一矢さん、誰か……誰か、ライター知りません?」

 溺れるものはなんでもいいからすがるのだ。それが酒たとえ場の女主人でも……いや、そうではない。この女性は実は……。

 「さっきのお仕事の……豊中さんの代役?」

 「ええ、まあ……そうです」

 「でも……時間がもうないのでしょう?」

 「ええ、それもまあ……そうです」

 女主人は少し考えて、それからこう言った。

 「うーん……そうね。一人知ってるけれど」

 「いったいそれは……誰ですか?」

 編集者は身を乗り出している。この女性は……ただの居酒屋の主人ではないのだ。愚痴もたまには言ってみるもの。

 「会ってみる? 締め切りは厳守。その点については約束できるわよ。ただ、なかなかに扱いは難しいわよ。言いたい放題の物書きヤクザだし、私と一緒でWCAの人間だから」

 「物書きヤクザ、ですか……」

  編集殿は苦い顔をしている。片や口先ばかりのライター。で、代役は言いたい放題の物書きヤクザ。何故この業界、まともな人間がいないのか。まさに場末も場末。だが。若い編集殿の立場は微妙なのだ。作品の刊行を今ストップさせれば書店の棚は失われ、上司は烈火のごとく怒るに違いない。

 「WCAは、まあ、それはいいとしますよ。あそこは電波みたいな人多いけれど、一方で一矢さんのような普通の人もいるわけですし。変なライトノベルの賞貰って一作で消えてく若手のちんぴらよりはよほどましでしょう」

 岡島の言葉に女主人は言った。

 「さて。私は普通なのかしら。表面だけで判断をすると思わぬところで足をとられないかしら?」

 「……十分もうとられてますから、いまさらもういいですよ」

 編集殿はやけくそ気味に続ける。

 「ヤクザでもなんでもかまわないですよ。一矢さんが推薦してくれるのであれば。もう、えり好みはできないです」

 岡島は承諾し、そこで、女主人も頷いた。

 「分かりました。それならばちょっと待ってて。今、電話してみるから」

 女主人はそう言って店の電話を取り上げる。使い込まれたコードレスの電話。

 「あの子、このあたりで遊んでいることが多いから。マンガ喫茶かカラオケか……ファストフードか。うまくいけば……あ、もしもし?」

 回線が繋がり、店の主人はこう切り出した。

 「ああ、私です。今どこ? うん、ああ、そう。良かった。ちょっと今、編集の人と話をしていて……うん。そう。手を貸して欲しいの。話を聞くだけで……いいわよね?」

 いいわよね? は岡島に対する問いかけ。若い編集者は頷いた。

 「わかった。うん。そうして。はい……」

 女主人はそう言って電話を切った。

 「近くのゲームセンターでメダルゲームしてたみたい。五分ぐらいでこっちに来ると思うわ」

 「五分ですか……」

マンガ喫茶か、カラオケか、ゲームセンター。新橋界隈で十時過ぎまで遊んでいるというとはいったいどういう人物であるのか。岡島は首をかしげている。物書きヤクザとはこれいかに。

 「いったい……どういう人なんですか?」

 「どういうって……そうねえ、話をしてみれば分かるっていうか。一口には説明の難しい子だから」

 「難しい子……」

 と、いうことは、女主人よりも年下ということか。

 「能力はあるわよ。根性もあるし、義理人情を大事にするタイプ。だから物書きヤクザ」

 女主人は説明をする。

 「醒めたものの見方をする割には、すぐに熱くなったり……大人っぽくもあり子供っぽくもあり……」

 「はあ……」

 岡島の頭の中では『物書きヤクザ』のイメージが膨らんでいる。身長は百八十センチ。体重は百キロ。色黒でがっしりとした顎の持ち主。性別は当然だが男で、ブレザーよりも学ランが似合うタイプ。頭髪はパンチパーマかスキンヘッド……。異様に歯が丈夫で缶詰の蓋を噛み切ることも可能。果たしてそんな人物を自分が御していけるのか? 一抹の不安を覚えた岡島はこう尋ねる。

 「その……その、もの書きヤクザは、ちゃんと日本語が通じますよね?」

 「そうね……時々通じなかったり通じたり……」

 「……」

 EPOの曲が有線放送で流れ始める。土曜の夜はパラダイス。そして、その曲が終わる頃に居酒屋に通じる階段を足音が下りてくる――。

 「来たわね」

 女主人は音だけで理解している。軽い足音。そして若い編集は身構えている。もしもゴリラのような奴が入ってきたらどう対処したものか。だが。不幸な編集者岡島の不安はある意味杞憂に終わり……そして、一方で彼の不安は実際以上に的中することになったのだ。

 「ういー」

 呼び出しを受けて召還された人物は意味不明な声を上げながら店に入ってきた。地下にいる岡島たちは分からなかったが、どうも外は雨が降り出しているらしい。それも相当強い雨である。

 「ひどい雨だ……春雨にしては、ちっと寒いやね」

 ずぶぬれになったそやつはぶつぶつと言った。まさに濡れ鼠。

 「ええと……」

 岡島は、惑乱している。

やってきたのは……小娘が一人。ショートヘアーの少女。美醜を問われれば『不細工ではない』という実に微妙な返答が戻ってくる、そういうタイプの人物。十人並みよりちょっと上。好きな人は好きな顔。不快感を与えて万人に嫌われるタイプではないが、多くの人に支持される人物でもない。B級プラスというか、A級マイナスというか……。店の主はそんなハンパな娘に言った。

 「雨降ってたの? タオルあるわよ?」

 中性的な少女はタオルを受け取って頭を拭きながら言った。少年のようなしぐさをする娘であった。

 「あ、うん。だいぶ強くなってきた……」

 少女はどちらかというと物怖じしないタイプ……であるらしい。気取らず飾らず。特段に化粧をするというわけでもない。

 「朝からずっとゲーセンでメダルゲームをやってたんだ。結構出したんだけれど、全部呑まれた……」

 少女は制服のブレザーを着ている。三月半ばであれば、春休みであるのだが。

 「補講は?」

 女主人は訊ね、少女はこともなげに答える。

 「サボった。で、なんだったっけ?」

 万事物事にかまわない娘はそういって席についた。受け取ったタオルは首にかけたまま――銭湯帰りのような有様であるが少女は気にしない。 

 「作家がいるとかいらないとか……アネキ、なんなのいったい?」

 少女の言葉に編集者は食いついた。

 「アネキ……妹さん? 一矢さんの?」

 岡島の言葉に今度は少女が言った。

 「誰? この人?」

 そして二人を知っている女主が言った。

 「これは花世。丸山花世。私の親類……まあ、でも妹みたいなもんか」

 少女は笑いもせずに軽く頷いた。

 「で、花世、こちらは岡島さん。ペルソナマガジン社の編集さん……」

 仏頂面で頷くだけの花世と違って編集はサラリーマンであり、だから『挨拶』という儀礼がこの世にあることを知っている。

 「岡島です」

 編集殿は名刺を出して、それを少女に渡した。女子高生は、ふーんと言いながら名刺を手にとって眺めている。

 「で、何なのよ、その岡島さんが」

尊大といえば尊大。思い上がっているといえば思い上がっている。けれど、それは実力が伴わなければ、の話。実力が伴う尊大は必ずしも尊大とはならない。それに丸山花世の口調はさばけていて、どことなくユーモラスな響きがあるので、相手に必ずしも不快感を与えることがない。得な人物、であるのだ。

 「あなたに仕事を任せたいそうよ」

 女主人は、花世の前に椀をひとつ置いた。梅肉の入っただし汁のにゅうめん。

 「仕事?」

 少女は割り箸を取ると面倒くさそうに言った。

 「仕事って、物語の仕事だよね?」

 「さて」

 女主人は笑っている。どうも花世の反応を楽しんでいるようである。一方の編集殿は楽しむような余力も余裕もない。

 「ええと、ですね、大井一矢さんには以前からいろいろとお仕事のことで相談をしていまして。で、今回も誰かいいライターさんがおられないかと伺ったところ、丸山さんのことをご紹介いただきまして……」

 「ふーん」

 丸山花世は変な顔をして、そのままにゅうめんの入った椀に箸を突っ込んだ。

 「ライター、ライター、ライター。ね。まあいいけどさ」

 少女は何か不満そうであるが、その不満の原因を口に出したりはしなかった。一方、女主人は妹分のひっかかった部分が何であるのか分かっているので苦笑いをしている。 

 「それで、何よ? 私に何をさせたいのよ」

 少女は気乗りしない様子であるが一応、であろう、細い麺をすすりながら訊ねた。岡島はこう言った。

 「その、ええと、ちょっと待っててください」

 岡島はカウンターの下に突っ込んであったかばんを取り出し、中から新書本を二冊取り出した。一冊は『魔法少女エム』。もう一冊は『くのいち秘闘伝』。少女は割り箸を置くと二冊の新書を受け取った。

 「……」

 岡島は少女の反応をうかがっている。いわゆるアダルトライトノベル。あるいはエロラノベ。カラーの口絵にモノクロのエロイラストが何枚か。そしてあとは本文。対象となる読者は十代から二十代の若い男性。当然だが、そういうものを喜んで手に取る女性は少ない。というか、普通は、そういうものを若い女性は唾棄すべきものと憎むもの。岡島の表情にはだから自分を卑下するような色があった。それでも。これは仕事であるのだ。仕事仕事仕事仕事仕事……。

 「魔法少女エムは先月出たものです。で、くのいちは今月……」

 丸山花世は小さく首をかしげている。ただ首をかしげているだけではない。首から下がっている何かを指で弄んでいる。少女が指先で突付いているのは銀のネックレス。ネックレス先には水晶球を抱えたスカラベのペンダント。

 「うん……」

 少女は岡島を軽蔑することもなかったし、触手に絡みつかれた女性のイラストに嫌悪の表情を見せることもなかった。ただ……ただ、新書に手を置き、中をぱらぱらとめくり、時々、何かを聞くようにして耳を傾けている。

 「……この本、売れてるでしょ?」

 丸山花世はずばりと言った。岡島は頷いた。

 「はい。いいセールスで……もう増刷がかかります」

 「うん。作り手の人が真剣にやってるのがわかるよ」

 少女は重々しく言った。

 「作品は、触れれば分かるよ。真剣な作品は大崩れってしないもんなんだよね。この二冊は、作者の人が本気で書いている。これは作者の人が自分が『こういうものが欲しい』と思って書いたんじゃないかな?」

 少女の考察は鋭く、だから岡島も乗り気になっている。この子は……やはり美人の女店主が紹介してくれるだけのことはあるのだ。

 「四次元ノベルズ……うん。聞いたことあるよ。あんまりこのあたりの本屋さんにはないよね。秋葉原だよね、売ってるとすれば」

 少女は業界に相当詳しいと見える。編集としてはこういう相手と話をするのはやりやすい。

 「はい、その通りです。『秋葉原を制するものがエロラノベを制する』といいますし……」

 岡島はちょっと興奮して言った。そして、少女がじっと自分の顔を見つめていることに気がついたのだろう、若い編集は恥じ入り、それから自嘲気味にこう言った。

 「……日陰の業界ですけれど、まあ、僕もこの仕事には愛着、あるんですよ」

 そして自虐的な編集者にカウンターの中で話を聞いていた女主人が言った。

 「自分の仕事に誇りを持つのは大事なことよ。でも自分の仕事に誇りを持ちすぎないことはもっと大事なことよ」

 女主人の言葉に丸山花世も賛同した。


 「私もアネキと同じ意見だよ。なんかさー。時々、大手の編集に、ひどく選民ぶってるクズがいるんだよね。俺達が時代を作ってるとか。テメーが時代作ってんだったらなんであんたの会社赤字なんだよ。私が小娘だと思ってえらそうに振舞いやがって!」

 少女の意見は辛い。

 「出版業界って……結局は広告とってなんぼじゃんか。でも、紙の広告って、動いているお金の部分ではウェブ広告にとっくに抜かれててさ。で、小説っていうジャンルは、そういう広告とってなんぼの出版の世界にあっても完全に傍流なんだよね。っていうか、世の人に見捨てられた存在?」

 丸山花世は続ける。

 「結局、日本の経済活動で傍流の日陰者でさ。で、エンターテイメントの世界で考えても、映画とかテレビとかゲームとか携帯電話とかあってさ。そういうのに比べても小説って傍流なんだよね。なんか、いつの間にか同人のゲームにも負けてるし……」

 歯に衣着せないもの書きヤクザの言葉に岡島もさすがに怯んでいる。

 「世の中の仕組みで見ても傍流。エンターテイメントの中でも傍流。ダブル傍流? で、そういう中で純文学のほうがえらいとか、ミステリが上だとか、ライトノベルは下だとか……馬鹿じゃん。不況の前にはどいつもこいつもいっしょだっつーの!」

 「……」

 「ルサンチマン抱えている奴にかぎって自分より弱い相手に偉そうに振舞うんだよね。本当はマスコミ人を気取りたかったのにオタク相手のライトノベルに配転されて、俺ってなんて不幸! それを悟られまいと偉そうに振舞ったり。アホかテメーッ! オタクなめんなっつーの!」 

 岡島はいたたまれないようである。けれど。少女はそんな岡島を応援しているつもりなのだ。

 「オカジーもさ、そういう大手編集みたいなのになっちゃだめだよ。ちょっと卑下するぐらいが人間一番良いんだよ」

 「はあ……」

 女子高生は言いたい放題である。そして、岡島はいつの間にかオカジーという愛称を戴いていたのだ。

 「で、えーと……なんだっけ?」

 少女はあまり記憶力の良いほうではないのかもしれない。

 「ああ、そうだ、本だよね。エロ小説……」

 少女に言われてオカジーのほうも自分の役割をようやく思い出した。

 「あの……それで、もし良かったらですが、ちょっと手伝って欲しいのです。ええと……丸山さんに」

 「花世でいいよ」

 「ああ、では、丸山花世さんに手伝って欲しいと」

 少女は受け取った二冊の本を丁寧に岡島に返そうとする。

 「それは、差し上げます」

 編集に言われて少女は作品を引っ込めた。少女には嫌悪の色はない。どんな作品も作品は作品。少女は本を傍らにやるとにゅうめんに取り掛かる。早く食べてしまわないと冷めてしまう。

 「手伝うってことは、ええと、それって私に、エロ小説を書けってそういうこと?」

 「ええ、まあ」

 岡島も相手が女子高生ということで気を遣っている。

 「触手とか、調教とか、異世界の怪物にレイプされるプリンセスとか、そういう奴だよね?」

 「はい。いわゆる官能小説というものではなくて、あくまでオタク世代に向けた、夢とファンタジーの世界というか……」

 「うーん」

 少女は困っている。

 「結構難しいよね、ねえ、アネキ?」

 丸山花世は先輩に援軍を求めるように言った。女主人はこう言った。

 「書かない? それとも書けない? 意味は全然違うわよ」

 『書かない』というのと『書けない』というのでは意味が違う。丸山花世もそのことを理解している。

 「うん。まあねえ……書かないんじゃなくて、書けない、のか。エロ小説って、案外難しいんだよね。なんでもいいから書けばいいってもんじゃないし。女が書くものって、男が読みたいものとビミョーに違う……」

 丸山花世は思案顔である。

 「エロ書けるって、結構すごいことでさ。エロ書ける人はどこででも通用するって、これは、WCAの偉い人が講義の時に言っていたことだけれど。私にそれができるのかね。時間かければ案外できるものなのかもしれないけど。ああ、その前に一応聞くけれど、それ、どれぐらいの時間がもらえるの?」

 花世は職人のような表情で岡島に尋ねた。もちろん彼女は状況がそこまで切迫しているとは思っていない。

 「二週間ですね」

 岡島はさらりと言い、花世は不思議そうな顔を作った。彼女は相手が言っている意味を理解していない。

 「四月の十日に刊行したいですから、できれば十日ぐらいであげてくださるとありがたいのですが」

 「今日、三月十五日でしょう?」

 丸山花世は怪訝な顔をしている。そんな馬鹿なことがあるのか? 計算が間違ってないのか?

 「そうですね。三月十五日です」

 編集は悪びれる様子もない。

 「来年の四月十日に刊行?」

 「いいえ。今年の四月です」

 「今年? あと二十五日しかないじゃんか」

 岡島は普通に言い、丸山花世はさすがに不安そうな表情を作った。

 「ええと、それで、それって何ページぐらいのものなの?」

 掌編であれば、まあ話は分かる。そうであっても花世にとってはしんどいこと。触手にからめとられた美女の姿を描写する。あるいはオークに囚われたエルフの美少女の末路であるとか――花世もそのような作品は作ったことがない。作ったことがないもの、書いた事がないものは、書きあがるまでの目算が立てられない。

 「二百十ページです」

 編集殿は当たり前のように言い、丸山花世は鋭く言った。

 「それって、新書丸々一冊ってことじゃんか」

 「そうですよ」

 「新書一冊、二週間で書けって? 書いたこともないエロラノベを? 私に? はあ? それはいくらなんでも無理っしょ」

 少女は怒るよりもむしろきょとんとしている。目の前にいる編集は馬鹿なのではないか?

 「まあ、普通ならば無理なんですが……」

 岡島は淀んだ瞳で言い、少女はあまりに不可思議な話にかえって興味をそそられたようである。

 「えーと、あのさ、いったい、どういうことなの? そんなタイト……っていうか、気が狂ったスケジュール、誰が立てたの?」

 目を丸くしている少女に、女主人はちょっと人が悪いのだろう。楽しそうに笑っている。

 「弘子ネエも笑ってないでさ……いったいどうなってんのよ?」

 一矢ではなく弘子。それが女主人の本名。

 「ええとですね、つまりですね」

 オカジーが説明を始める。

 「豊中アンジーというライターがいまして……この人に、作品をやってもらおうということになりまして。半年以上前なのですが」

 「豊中アンジー。知らんなー、そんな人。ペンネーム? アネキ知ってる?」

 「ああ、ライターの間では結構、有名なんですが。ゲームの紹介記事とか」

 ふーん。丸山花世は胡散臭そうに頷いた。ライターというのが少女にはどうにも気に食わない様子である。

 「ぜひやってみたいと、向こうの強い要望がありまして。なんか、この仕事で新たな境地を開拓したいとかなんとか。で、あちらにはプロットを出してもらいまして」 

「やってもらったらいいじゃん。そのアンジーとかいう奴に。最後まで」

 花世は言った。随分とおかしな話に小娘ははすでに半分にゅうめんのことを忘れている。

 「それがですね」

 オカジーは突然暗い顔をした。

 「いろいろとプロットを上げてもらったりして、それで、まあ、大丈夫だろうと最初は思ってたのですが……」

 どんな現場でもそうだが、トラブルの原因は最初の見通しの甘さにあるのだ。

 「最初の三十枚ほどを送ってもらったんですが、これが、ひどいものでして」

 「直してもらえばいいじゃん」

 花世は簡単に言った。オカジーは苦しげにうめいた。

 「いや、それは言いましたよ。四回ほど。三十枚ほど書いてもらって、総ボツにして、また三十枚ほど書き直してもらって、それでまた総ボツにしてってそうやっていたらあっという間に半年が経過し……」

 「経過し?」

 「ついに……豊中との連絡が途絶しました」

 ふーん。花世は頷いた。

 「今日十時までに連絡を入れるといっていたのですが当然のように連絡はなく」

 少女は街金の社員のようにして言った。

 「家に行ったら? どうせ家にいるんでしょ?」

 「大阪なんですよ。うちみたいな弱小版元、新幹線代なんか出ませんよ」

 なるほど。少女は適当に頷いて。割り箸をタクトのようにして振った。

 「でもさ、それってオカジーも悪いんじゃないの? そんな何回もやり直しなんてさ、書き手としては結構しんどいよ。そのアンジーもどうしてもやってみたい作品だったんでしょ? だったらそいつの思い通りにやらせてみればよかったじゃんか」

 丸山花世は編集ではないので、だから作り手にどうしても甘い採点をしがちになる。

 「物語ってさ、どんなへんちくりんな作品でも生まれる意味があって生まれて来るんだよ。そのへんちくりんぶりを含めて全ての作品を許すのが本当の意味で作品を愛するってことなんじゃないかな?」

 小娘は小生意気にも大の大人に説教を垂れている。

「生まれたいように生まれさせてやればいいんだよ。育ちたいように育たせればいいんだよ。人と一緒だよ。みんな自分の子供には良い子に育ってもらいたいって思うけれど、そうはならないわけでしょ。どうにもならないチンピラになっちゃったりさ。で、一方でとんでもないゴロツキの家に生まれた子が妙に人格者になっちゃったりすることもあるわけで……」

 少女には少女だけが分かる理屈というか、理論がある。運命哲学とでもいうべきか。

 「それは作り手と作品の関係だけじゃなくてさ、編集と作品の関係も同じだよ。もしもオカジーが本当にりっばな編集になる運命を持ってれば、適当にやっててもきっとヒット作に関わることができるよ。作為は無用だよ」

 花世の舌鋒はよせばいいのに読者にも向けられる。

 「だいたいさー。『良い作品』『良い作品』ってみんな言うけれどさ、それって、結局相対的なものじゃんか。へんちくりんな作品があるからこそ良い作品が輝くんだよ。地雷を踏みまくった人だからこそ、良作に当たったときの感動があるんじゃん。良い作品だけ選って楽しもうっていうさもしい読者ならいらねーっ言ってやりゃいいんだよ!」

 「そんなことしたら会社潰れますよ」

 少女の暴言にオカジーは疲れ果てている。本当に、この娘は物書きヤクザである。言いたい放題の失言娘はしかし自説を曲げない。

 「人が作品を作ってるんじゃない。作品が人を作るんだよ。作品が読者を作り、作者を作り、編集者を作るんだよ。時々『俺様が作者だ』なんてふざけた奴がいるけれど、そんなの傲慢だっつーの!」

 少女は吼えた。それは彼女の魂の叫びだった。だが、一方でそれは極論であるのだ。岡島はそこで無言のままかばんから何かを取り出した。コピー用紙の束である。

 「ん、何よ、これ?」

 「原稿です。豊中さんが送ってきたもので……第四稿です」

 岡島はなんともいえない顔をしている。作者のやりたいようにやらせていては会社は破産する。理想論を振りかざすアジ娘には現実を見せてやらなければならない。

 「見ていいの?」

 「どうぞ……」

 そのほうがお互いのため。そして、豊中アンジーのため。原稿を受け取った丸山花世はすぐにじっとりとした視線を編集に送った。

 「あのさー、オカジー、どうでもいいけど、せめて、印字は縦にしようよ、縦に……」

 エディターソフトの文書をそのまま印字した原稿。ぎちぎちに詰まった横書き原稿は、原稿というよりはむしろ始末書のようである。岡島は何も言わず、そこで丸山花世はやけくそ気味の原稿に目を落とした。

 「まあいいや……って、えーと何々……」

 

 ――一九九X年! 月の裏側で異変が起こっていた!

 

 オカジーはひどく恥じ入ったような顔をしている。他人が書いた珍作のために大恥をかかなければならない。編集という職業はマゾヒスティックな人間でなければ勤まらない。

 「すげー! 二十世紀の話なんだ! なんで二十一世紀にしないの?」

 少女は大いに感動しているようである。

 

 ――全長十五キロの巨大な飛行物体! それは、巨大な男性器そのものであった! ピンク色をした巨大な船体! 船体左右には巨大な球形の重力エンジン。ブースターからは真っ赤な炎が血潮のように噴出する!

 

 丸山花世は目を輝かせている。

 「これは……この作品はある意味すごいなー」

  

 ――それはチンゲヌス帝国の宇宙戦艦タマキーンであった!

  

 「チンゲヌス! タマキーン! アネキ、チンゲヌスだって! ぎゃはははは! すげー! なんちゅうネーミングセンス! あっはっはっは!」

 丸山花世は腹を抱えて笑った。

 「ぐははははっ! す、すげー! これいいなー! 最高ッ! オカジー、これ、出版するべきだよ! こんな作品見たことない! あっはっはっ!」

 少女の爆笑に編集はぐったりしている。

 

 ――チンゲヌス帝国の目的はただひとつ!地球の支配。人類ホチン計画だった! タイムリミットは三百六十六日だった。 

 

 丸山花世は笑いすぎて涙を流している。

 「はあはあ……なんじゃ、これ……いいなー、この滅茶苦茶感! なんだー! 人類ホチン計画って! 何のパクリだよ!」

 褒めているのかはたまたけなしているのか。 


 ――チンゲヌス帝国の動きをいち早く察知したマラカイボ教授は近所に住んでいる青年、武望に目をつけた!

  

 「え? ああ……へ? この武望っていうのが主人公? また唐突に現れるなー! え、『たけのぞむ』じゃなくブボーって読むの? なんじゃそりゃ! うははははっ! ブボー! 中国人なのか?」

 「さあ……そう聞かれましても……」

 ――マラカイボ教授はいじめに悩んでいたブボーを言葉巧みに研究所に呼び出し改造人間にしてしまう。

 

 「うわー、すげーテキトーな展開! いいねいいねー! うはははっ!」

 丸山花世は目を見張っている。

 

 ――かくして、ブボーは鼻をペニスに改造され、鼻チン人間としてチンゲヌス帝国と、さらには世の偏見と戦うことになった!

 

 「鼻チン人間!  鼻がチンチンなんだ! ぎゃははは! ペニスなの? それってどういうことなんだ?」

 少女は笑い転げている。

 「っていうか、世の偏見と戦うって……なんじゃそれ! だいたい地球を支配するっていうチンゲヌス帝国、ただ月の裏側でうろうろしてるだけで特に悪いことしてないし……むしろ、他人の鼻をチンチンに改造する教授のほうがよっぽど極悪じゃんか!」

 ――伏線であるとかプロットといったものは作品においては全然重要ではない。大事なのはその時の作者の気分。

 それが豊中アンジーの主張。実に清清しい意見ではないか。

 

 ――戦え武望! さつ 


 やたらとエクスクラメーションマークの多い物語は突然そこで切れていた。そして丸山花世の息も切れている。

 「はあはあはあ……さつ……なんだ? 何? さつって……」

 アンジーは『さつ』の後に何を書きたかったのか。どういう物語をつむぎたかったのか。残念ながらそれを知ることはかなわない。

 「ひー、おかしい……な、なんだよ、人類ホチン計画って……」

 少女は肩で息をする。女主人も、編集者もしばらく沈黙する。

 爆笑の後にはいつでも哀しみがつきまとう。物書きヤクザも、腹を抱えて笑った後に寂寥感を味わっている。そこで黙っていた岡島があらためてこう言った。 

 「丸山さん、これ、商品にできると思います? 本当に商品にできると思いますか?」

 岡島の問いに少女はうなった。

 「うーん」

 出版するべきだと笑って言ったものの、丸山花世も不安を感じている。 

 「これを、普通のお客さんが買ってくれると思います?」

 全ての作品には生まれるだけの意味があるし価値がある。

 少女は確かに言った。それでは豊中アンジーの作品が生まれてきた意味とは何?

 丸山花世も馬鹿ではない。作品の意味と商品としての価値が違うことは理解している。

 「仮に買ってくれる人がいるとしてです。そんな人が何人いるか知りませんが、いるとしましょう。けれど、いつ完成するか分からないものにつきあうのは無理なんですよ」

 豊中が半年をかけて築き上げたもの。四回の書き直しの末に出てきたのが『チンゲヌス』であり『タマキーン』そして『鼻チン人間』。確かにおかしい。だが、それは意図したものではなくて素でおかしいのだ。『おもしろい』ではなく単に『狂ってる』。

 「やっぱり、無理か……」

 花世はつぶやいた。少女も分かっている。もしも自分が読者だったとしてブボーの物語をお金を出して買うか。ヤクザな娘であれば買うかもしれない。彼女は好事家であるから。けれどそんなおかしな人間が滅多にいないことは少女自身理解している。 

 「ちょっと古いんですよね。豊中さんは」

 岡島は言った。

 「今年で四十三、四十四? 『一番影響を受けたアニメは宇宙戦艦ヤマトです』とか言われても、ねえ……」

 丸山花世はあいまいに頷いた。

 「感性、やっぱり、古くなるんですよね。若いつもりでいても、四十代。十代の読者とは感じるものが違うんですよね。だから、どこかで無理が生じるんですよ」

 編集殿はちょっと淋しそうな顔をしている。少女は原稿をじっと眺め、そして弘子であり同時に一矢である女主人は編集と少女の会話を聞くとはなしに聞いている。

 「結構、年配の作家の人でも、うちに営業かけてきたりするんですよね。昔、ミステリー書いてた人とか。で、ダメになってエロに流れてくる。エロは向こうに比べると景気がよさそうに見えるんですかね。でも、やっぱりダメなんですよね。皆さん、『そこまでは落ちたくない』みたいな変な気負いがあって。だから、書いているものに気迫が感じられない」

 岡島はぼやいている。

 「豊中さんも、やっぱり最後の最後で自分をさらけ出したくないっていうそういう無意識のリミッターがかかっちゃうのかなー」

 エロはエロなりに難しい。

 チンゲヌスやタマキーンのような珍妙なネーミングセンスも見方を変えれば、単に、危険地帯に踏み込みたくないという糊塗。

 ――馬鹿にされたくない。笑われたくない。変態扱いされるのはごめん。俺は偉いんだ。こんなゴミみたいな仕事はしたくない!

 それが豊中の本心。

 実際、ミステリ本の作者といえば女も口説けるが、触手大活躍のオタク向け本では女を口説けない。生きるための金は必要。かといって自分の本質に踏み込みたくない。それは恐怖。信念のなさが筆を曲げさせる。どこまでが本気でどこまでがギャグなのか分からない原稿も、結局は怯えの産物。 

 「たかがエロの分際でとかって言う人いますけど……そのたかがのエロもこなせない人間にご高説を垂れられるのも、ねえ」

 岡島の投げやりにぼやくと沈黙する。

 「物語は技術ではない。ハートの強さ、ね?」

 黙って聞いていた女主人が言った。花世も渋い顔で頷く。

 「確かにそうだよなー。時々、アマチュアの人で『文章力』がどうとかってめちゃくちゃにこだわる人いるけど、あんまりそういうのってカンケーないもんなー。ひどい文でも平気で作品作っているひと大勢いるわけだし。で、ケッコー面白く読めるんだよなー。そういう作品でも」

 少女は豊中の原稿とさきほど岡島から受け取った新書を見比べている。そんな妹に女主人は言った。

 「作品はラブレターと一緒。物語の神様はいつでも技巧より作り手の想いを大事にするもの」

 巧言令色鮮仁。綺麗な言葉をつむけばつむぐほどそれは偽りになる。花世はつぶやいた。 

 「ハートのない人間の最後のよりどころ。そいつが文章力、か」

 技術ではない。最後に頼りになるのはハート。二冊の新書にはハートがある。あるから読者にその強さが伝わる。だが豊中の原稿にはそれはない。

 「ねえ、オカジー」

 少女は何かを決めたようである。

 「はい、なんでしょう?」

 「仮に、この話を請けるとしてだよ、何か秘策みたいなものってあんの?」

 「秘策、といいますと?」

 岡島は逆に聞き返した。

 「だからさ、二週間で、新書一冊っていうのは無理なんだよ。常識的に。もちろん、そういうことができる人もいると思うよ。でもさ、家と同じでさ、早く建つものは早く壊れるんだよ」

 少女は首を横に振って続ける。

 「何でもそうだけれど、やっつけ仕事って心に残らないよ。二週間で作られた作品は二週間で忘れられていくものなんだよ」」

 「それは、そうなんですが……」

 「だからさ、なんか、こう、そういうのをうまく切り抜ける秘策みたいなもの、編集の側にないのかな? 私の側にはそういうのってないから」

 岡島の顔色は冴えない。どうも察するに編集殿にも秘策というものは無いらしい。丸山花世に断られればそれで全てが終わる。上司に怒鳴りつけられ、何とか開拓した書店の棚は永遠に失われる。

 「ええと、やっぱり無理ですか、二週間は」

 「四十歳のオッサンが半年で無理なもの、私に二週間でやれって、そりゃ無茶でしょう}

 「だったらどれぐらいの時間があれば……」

 「うーん。やったことないからわからないけど。…そうだなー、やっぱり一月半。二月はいるんじゃないかなー」

 少女は言った。彼女は年は若いが自分の馬力やスピードをきちんと理解している。

 「いずれにせよ二週間は無理。私にもいろいろとやることあっからさ。ゲーセン行ったり、カラオケ行ったり」

 はあ、やっぱりダメですか。岡島は万策尽きたようにしてうめいた。そう。もはやこれで全ては終わり。編集殿の雀の涙程度のボーナスに何がしかのダメージが加えられることがほぼ決定……したかに見えたその時のこと。

 「一人で書くから時間かかるのでしょう?」

 女主人が口を挟んだ。

 「一人で全てを背負い込むから難しいことになる」

 大井一矢の言葉に丸山花世は僅かに頷いた。

 「短編集にしろってことなのかな? それだったらもしかしたら」

 岡島がすぐに口を挟んだ。

 「短編集、売れないんですよね」

 女主人は笑って言った。

 「そうじゃなくて、大勢で分担してひとつの作品を書くのよ」

 「大勢で分担してひとつの作品を書く? はあ? 普通、物語は一人で書くものっしょ」

 「そうね。でも、ゲームのシナリオは何人かで分業するでしょう?」

 ギャルゲーであるとかエロゲーといったゲームのシナリオは攻略できる女性ごとに担当のシナリオが違うことがある。ちょうどプレハブの家であるとかブロック建造の船のようなもの。それを最後に結合してひとつの作品にする。

 「えー、でもさ、エロゲやギャルゲーと小説は違うじゃんか」

 「だったらアニメはどうかしら? AパートとBパートでスタッフが違うということはよくあるでしょう?」

 女主人は言った。

 「前半十五分と後半十五分で分けて作る。アニメでできるのであれば小説でもできるでしょう?」 

 女主人の名案に、だが、女子高生は納得がいかない様子である。

「うーん……アニメとかゲームと小説って違うと思うんだよなー。っていうか、それこそアネキがいつも言ってる『物語の神様を馬鹿にしている』行為なんじゃないかな? そんなやっつけの仕事は……」

 「大事なのはハート。作品をなんとかしようというハート。レーベルをなんとかしようというハート。アダルトライトノベルをなんとかしようというハート。そのハートが間違っていなければ、物語の神様もきっと許してくれるでしょう」

 正しいような正しくないような。正論のような正論でないような。

 「うーん。なんか、いつもアネキには言いくるめられているだけのような気がするんだけれど……」

 少女は不満顔である。だが、岡島のほうはというと……。

 「なるほど、分担か」

 と、こちらはえらく乗り気であるのだ。

 「一人で二ヶ月ならば、二人ならば一月、三人だったら二十日。丸山さんがエロが苦手だというのであれば、丸山さんにはエロに絡まない部分を書いてもらうとか。一冊分は無理でも、少しぐらいならば手伝ってくれるライターさんだったら手配できると思いますし……うん。十分いけますよ!」

 「オカジー、あんた、勝手に話すすめないでよ……」

 どんどん転がりだしていく話に女子高生だけが渋い顔なのだ。そしていらぬ知恵を授けた女主人が言った。

 「ただひとつ、大事なことがある。それは、集めた人の実力をそろえること。能力にばらつきがあると、あとでぴったりと結合させることができないから」

 それは寄木細工のような小説。

 「でもさ、そんな作品、売れるかな。っていうか、そんな変なキメラみたいな作品、作る意味、あんのかな?」

 丸山花世だけが反対をしている。彼女にはこの合体小説が生まれる意味が分からない。全ての作品は運命を持って生まれる。だとすれば、こんな奇妙なつぎはぎのフランケンシュタインの試作品を産み落とすことにどんな意味があるのか。女主人はそこで穏やかな声でこういった。

 「花世。人が作品を変える。けれど人もまた作品によって変わるのよ。そして、変わる人は読者だけではない。作者もまた変わっていく」

 「つまり、私が変わるってこと? 私は別に変わりたいとも思わないんだけれど」

 はっきりさせておくべきだろう。女主人は妹分にこの仕事をできればさせようとしている。そうすることにどれほどの価値があるのかは重荷を押し付けられる丸山花世のほうにははかりかねるのだが……。

 「まあ、いいや。とりあえず、そういうことなら」

 少女は結局最後は頷いた。アネキ分がそういうのであれば多分そうなのだろう。それに、人を集めるといっても、このような土壇場の修羅場に喜んで飛び込んでくる馬鹿が本当にいるとも思えない。結局は『いろいろと人を探しましたけれど、集まりませんでした。この話は無かったことに』ということになるのではないか。少女はそのようなことを考えている。

 ――どうせそんなやっつけ仕事、うまくいかないよなー。

 うまく行かないのであればほうっておけばよろしい。

 「ええと、それだったら僕は社のほうに戻ります……」

 「え、これから? オカジーまだ仕事あんの?」

 土曜日の十一時過ぎ。岡島はこれから仕事があるのか。いったいペルソナマガジンの就業規則はどうなっているのか。労働基準局は何をやっているのか。少女は気の毒そうな顔をしている。

 「ええ、まあ、イラストを待たなきゃ行けないんで。丸山さんのほうには人が集まり次第連絡しますから。ああ、そうだ、連絡先ですけれど」

 「アネキのところにメールを送ってくればいいよ。そっから転送してもらうから。電話でもいいよ。アネキの家、私の家のすぐそばだから」

 少女は言い、大井一矢は笑って頷いた。

 「ああ、じゃ、そういうことで。また連絡します」

 岡島はそう言うと取るものも取り合えずといった具合に店を出て行った。後にはWCAの会員が二人。

 「本当にうまく行くのかなー。パッチワークのエロ小説なんて聞いたことないんだけど」

 「それをうまくやるのが貴女の仕事。そうでしょ?」

 丸山花世は腕組みをして小さくうなっただけだった。 

 成る成らぬも、結局は物語の神様の思し召し、だろう。


 そして週が明けての月曜日。

 外は再びの雨。

 有楽町近くにあるペルソナマガジン社の会議室に丸山花世の姿はあった。

 「まさか、本当に集めるとは思わんかったなー」

 アネキ分にもらった古着のジーンズにピンクのブラウス、モスググリーンのジャケット。前回と違い、私服姿の物書きヤクザは感心するというよりもむしろ呆れている。

 「多分、ダメだと思ってたから、昨日の夜、アネキのほうから電話貰ったときは結構びっくりしたっていうか」

 少女の言葉に岡島は青い顔をしたまま言った。

「まあ……八方手を尽くし……ました……からね……」

 まさに青息吐息。フルマラソンを走りきったような編集殿は続ける。

 「電話掛けまくって、知り合いに頭下げまくって……それでなんとか……間に合いました……」

 キメラのようなエロラノベ。

 大井一矢の余計な一言から始まった瑣末なプロジェクト。栄光も栄冠もなければ、後になってテレビのドキュメント番組で取り上げられることもない後ろ向きでどうでもいい仕事。

 「で、ほかの人たちは?」

 物書きヤクザは訊ねた。どうも、会議室への入りは花世が一番早かったらしい。時刻は一時をちょっと過ぎる。物書きにとってはもしかしたら早い時間になるのかもしれない。

 「すぐに来ますよ」

 「そいつら、ホントーに信用できんの?」

 丸山花世の言葉に岡島は頷いた。

 「大丈夫ですよ。豊中アンジーとは違います」

 岡島は続ける。

 「どんな業界でもそうですけれど、能力だけじゃ生き残れないですよ。社会性がないと」

 「そりゃまあ、そうだね」

 少女はあいまいに頷いた。花世自身の社会性については、少女は特にコメントをしなかった。やがて。

 「ああ、どうも……」

 会議室に一人の男が入ってくる。タートルネックのセーターをつけた僅かに小太りの男性。年のころは三十半ばか。

 「ああ、お待ちしていました……」

 岡島が迎え、そして黒いかばんを抱えた男は言った。男のかばんは濡れていた。雨脚が強くなってきたのか。

 「雨も、この季節には悪くないですね。花粉症にはありがたいですわ」

 男はかばんを机の上に置くと言った。

 「岡島さん、この子は? 彼女?」

 「いいえ。違います」

 岡島ではなく、丸山花世がはっきりと言った。そのようにはっきりと否定するのは少女としては当然のことなのだが、編集者としては間髪入れないヤクザ娘の反応に少し傷ついたようである。

 「ええ? あ、じゃあ、君もライターさん?」


 人のよさそうな三十路男は笑いながら言った。自意識過剰なクリエイターという印象は男の表情からは見られない。むしろ、そこら辺の信用金庫の職員のような風情であるのだ。

 「……まあ、そんなところです」

 丸山花世はライターと言われたことがちょっと気に入らないのだ。

 ――ライターと作家は違う! 絶対に!

 だが、そのことについていちいちこだわっていては話がややこしくなるばかり。ただでさえ話はおかしな具合にこじれているのだ。

 「へえ。ええと、あの、君、年、いくつ?」

 タートルネックの男は丸山花世に訊ねた。

 「十六です」

 少女の言葉に男は声を潜めて言った。

 「あの、岡島さん、いいの? 高校生にエロ小説なんか書かせて。まあ、エロアニメの作画監督か何かを二十歳前の子にさせていたっていう例も過去にはあったみたいだからいいのかもしれないけれど」

 「しようがないでしょう。人数足りないですから」

 岡島は苦渋の表情で続ける。

 「ええと、丸山さん、こちらが伊澤さん。伊澤浩二さん」

 伊澤は笑った。人懐こい笑顔であった。騙されやすく人に利用されやすい人物。けれど、そうでありながら今まできちんと生きてこられたということは運が強いタイプなのか。

 「丸山花世です。作家の大井一矢の親戚です」

 少女は言い、伊澤は目を丸くしていった。

 「ああ! 大井さんの! 以前お会いしたことがありますよ。どこかの版元のパーティで……どこだったかなあ」

 大井一矢の名前は津々浦々に知れ渡っている。ただの居酒屋の女主人というわけではないのだ。 

 「同人ソフトで、一年ぐらい前に出た作品。青のファルコネットって作品、あれ、一矢さんがシナリオやってるって噂なんだけれど、本当? 相当売れてるって聞いたんだけれど」

 伊澤はそのように尋ね、そこで少女は言った。

 「売れてっかどうかは知らんですけど、あれはアネキの仕事ですね」

 「ああ、やっぱりそうなんだ。文章が一矢さんだろうってみんな話しをしていて。あの作品、面白いんだよなあ。きちんとしたミステリを書ける人でないとあれは作れないよなあ。それにしても、いろいろなところで仕事してるよねえ、一矢さんも」

 信金男はいたく感心している。そして、感心が過ぎたのであろう、伊澤は余計な一言を漏らした。

 「美人だしなあ」

 どうも、伊澤は美人が好きなようである。そして、美人が好きな伊澤は思い出したようにして続ける。

 「……あのさ、一矢さんって独身なの?」

 「そいつについては言及を避けるようにとアネキから厳命されてます」

 少女は事実を語った。伊澤は愉快そうに笑った。

 「そうか。ふーん。私生活もまたミステリアスか。そうだよなあ」

 どんな業界でもそうだが長く仕事が続く人間は基本的に陽性。

 そして。物書きヤクザが伊澤と話しをしていると、会議室に二人目の命知らずが入ってくることになった。

 「どうも」

 背の高い眼鏡の男。チノパンにカラーシャツ、灰色っぽい青のジャケットをつけた男が持っているのはタブロイドのスポーツ紙のみ。それ以外に荷物は見当たらない。傘すら持っていないのだ。これから重馬場の大井競馬場にでも行くような風情のそやつは見たところ、二十代半ば、といったところか。

 「お、来たな……」

 信金男はそのようにして言った。どうも伊澤とやってきたばかりのタブロイドの眼鏡は顔見知りであるらしい。

 「ああ、なんだ、伊澤さんもいたのか。ご苦労なこって」

 眼鏡の男は軽い口調で口笛を吹くようにしてそう言った。そして丸山花世が何かを言う前に編集殿がささやいた。

 「あれは蔡円さん。うちでもいろいろと作品を出してもらってます」

 「蔡? 中国人……じゃないよね?」

 少女は尋ね、岡島は言った。

 「ペンネームですよ。本名は山田直樹さん……」

 岡島の言葉を蔡円はきちんと聞いている。なかなかの地獄耳であるらしい。

 「実家が菜園をやってるから蔡円。まあ、あんまり意味のあるペンネームではないよね」

 眼鏡の男は言い、それから丸山花世のほうに視線を落とした。

 「ええと、新しい編集のアルバイトさん?」

 「いや。この子もうちらと同じくちだってさ」

 伊澤が言った。少女は自分で自分を紹介する必要もないと見える。

 「え? エロ屋なの? 君が?」

 タブロイドの眼鏡男は目を丸くしている。

 「大丈夫なの? 倫理的に……」

 「倫理的には知らないけれど、大井一矢さんのところの子らしいから、能力的には大丈夫なんじゃないのかな?」

 伊澤が言い、そこで山田というありきたりな名前の男は頷いた。

「へえ。一矢さんのところの……え? ってことは親戚か何か?」

 「ま、そんなところです。本家と分家、ですか」

 丸山花世は悪びれずに言った。

 「はあ。そうなんだ。ふーん。一矢さんのところのお店、新橋にあるお店には何回か行ったことがあるよ。駅前の競輪の車券売り場に行った帰りに。ええと、なんて名前のお店だったかな。地下にあるんだよな」

 「イツキです」

 「そうそう。イツキ!」

 タブロイドの男はやはり博打好きであるらしい。それにしても大井一矢。たいした著名人ではないか!

 「茶碗蒸しがうまいんだよな。あの店……」

 山田は言い、物書きヤクザも答える。

 「よく知ってますね」

 丸山花世は、自分が崩れたところがあるので、だからこの博打好きの男になんとはない親近感を抱いている。と、伊澤が言った。

 「僕と山田君と、丸山さん。三人ですか? 岡島さん、集まるのは?」

 「いや。あとは、龍川君が来ます」

 岡島がそう答え、山田が頷いた。

 「ああ、綾二君。あのガテンの兄ちゃんか」

 「ガテン? ガテンってなんですか?」

 少女は尋ねた。少女の質問に、タブロイドの博打好きが答えてくれる。

 「龍川君は工事現場でアルバイトやってんだよ。山形だかから出てきて。エロだけじゃ喰ってけないから、それで、アルバイトをしている」

 蔡円の言葉に伊澤が続ける。

 「この業界、副業持っている人のほうが多いよなあ……山田君は野菜作ってて、横峰君は学校の教師。僕も古書店の店員やってるし……」

 「原稿料だけでは喰ってくの大変だしなあ。よっぽどのことだよな。これ一本で生きてる人って」

 山田が言った。そして満足に稿料を払えない岡島は苦い顔をしている。

 「こちらとしてもできればきちんとお支払いしたいのですが、何といってもニッチな産業でして」

 「岡島さん主張の六千限界説、か」

 菜園男が楽しげに鼻で笑い、そこで丸山花世が尋ねる。

 「なんなんですか、その六千限界説って?」

 少女の疑問には伊澤が答えてくれる。

 「えーと、それは、岡島さんの説なんだよね。特殊な性癖を持っている人間は日本で六千人」

 「はあ? どういう意味ですか?」

 伊澤の説明はかなりアバウトなもので、であるから補足が必要だった。そして岡島自らがその補足役を買って出る。

「つまりですね、世の中にはいろいろな性癖を持った人がいるわけで。たとえば、ショタという性癖……ご存知でよね?」

 「うん。知ってる。小学生ぐらいの男児が好きな人のことでしょ?」

 「そうです。そういうショタ好きの人で、かつ、そういうショタ系のエロ作品をあえて買い求めるような人は……日本の全人口で六千人がマキシマムだってことなんですよね」

 「え? そうなの? 誰が決めたの?」

 珍説に少女は変な顔をしている。岡島は丸山花世の問いには答えず自説を強引に展開する。

 「同じように、たとえば、そうですね、性転換モノに惹かれて、なおかつ実際にそういう作品を購買してみようという人は、これまた六千人」

 「一億二千万の日本人で六千人ってこと?」

 「そうです」

 岡島は力強くうなった。

 「女性で男性器を具えたいわゆる『ふたなりもの』もマキシマムは六千人。それ以上は出ません。頭打ちです。データで見ても明らかです」

 「ふーん。そんなものかねえ」

 花世は感心したようにして呻き、岡島は続ける。

 「ですから『特殊な性癖の人で、なおかつエロラノベを買う人はどんなに多くても六千人』」

 うーん。

 少女は相当強引な編集殿の発言に腕組みをしたままうなった。

 「ただ、こういう特殊な人たちはいわゆるノイジーマイノリティですから、2ちゃんねるなどでは物凄く声が大きい。で、彼らの声を信じて商品を作るとですね」

 「大失敗ってわけかー。ふーん。いろいろとあんだねえ」

 六千以上の部数が絶対にはけない。上値が決まっている商品はやはり会社としてはありがたくないのだ。

 たかがエロラノベ。けれど、案外奥が深い。伊澤がそこでこう付け加える。

 「マンネリマンネリって言うけれど、かといって、変化球には誰も食いついてこない。お客さん、すごく保守的だからね」

 それは長年この業界にいたものの実感、であろう。そして、そういう先人の言葉は丸山花世にとっては重要な指針となるものなのだ。 

 「そうなんだよなあ。一ミリでも基本から外れるともうアウト」

 一ミリの違いでアウト。いったいどんな精密機器を作っているのか。

 「あとさ、伊澤さん、SFとか、設定が小難しいのもダメじゃないか? 読者、食いつきがすごく悪い」

 「うん。悪い。細かい描写とか、みんな嫌う。まあ、当たり前だよね、そういうものを期待して買ってるわけではないんだから」

 岡島が口を挟んだ、。

 「どうも読者の読み込む力が年々落ちて言っているみたいで」

 「そうかな。僕は、前からこんなものだと思うよ」

 伊澤が言い、蔡円が言葉を継いだ。

 「記号論……なんだよな。お姫様はお姫様。看護婦は看護婦。妹は妹。そういう記号が読者の頭の中にあって、だから、記号と合致しない行動をするキャラは受け付けてもらえない」

 菜園男は言い、丸山花世は尋ねた。

 「それって、あれですよね、作者の書きたいものや書きたいことが読者にとっては邪魔だってこと?」

 少女にとってはそれは、感心しないことであったのだ。けれど。

 「うん。そうだね」

 信金男の伊澤がはっきりと言った。

 「僕達は別に芸術作品を作ってるわけでもないし、エンターテイメントの作品を作ってるわけでもない」

 では、何を作っているのか? 少女が尋ねる前に蔡円が言った。それは、彼らの間では何度も議論され、語られてきた末の結論。

 「俺達が作ってるのは作品じゃなくて、道具。ツールなんだよ。ツールとして使い勝手がよければそれでいい」

 「それって、作者として、いいんですか、そういう態度は? もうちょっとこう……物語の神様に対してきちんと顔向けできるような、そういうものはないのんですか?」

 多分、丸山花世は自分が思っているよりもずっと幼く純粋なのだろう。抗議するような口調の少女に先輩諸氏は笑った。

 「確かにそうだけれど、しようがないんだよ。そういうフォーマットの元でやっていく仕事だから」

 伊澤は人格者なのだろう。穏やかに諭すように言った。それに蔡円が続ける。

 「エロラノベはやっぱり特殊だよな。いわゆる官能文庫とは違うし、かといってラノベとも違う。鬼っ子みたいな存在だよ。まあ、でも、やってみると結構面白いもんさ。作者もいろいろとおかしな奴がいるしな」

 そこで突然岡島が立ち上がり喚いた。

 「そうです。変な自費出版にお金むしられるんだったら、どうして、みんな、うちに投稿してこないのか!」

 確かに。丸山花世は男達の会話を聞きながら思っている。

 ――こいつらは面白い連中だ。

 いったいいつまで雑談が続くのか。と、いうか、雑談を聞いているほうが面白いのでないか。少女がぼんやりと思ったときのこと。

 「遅れました! ほんと、すみません」

 若い男が会議室に入ってくる。擦り切れたジーンズに皮のジャンパー。泥のついた安全靴。年のころは二十そこそこ。そやつが最後の仕事人。

 「お、来たか」

 蔡円が言った。

 「すみません、山田さん。伊澤さんも……現場の作業が押してしまって」

 若者はひどく低姿勢だった。それほど背の高いほうではないが、筋肉質なせいで、厚みを感じさせる人物。それが召集命令を受けてやってきた最後の人物だった。

 「まだ、アルバイトやってんの、たっつん?」

 蔡円が言い、遅れてきた若者は日に焼けた顔に笑顔を作って答えた。

 「ええ。まあ。やっていないと食ってけないですから」

 最後にやってきた若い作家はいかにも屈託のない人物であった。ひねたところのない素直な人物。美男子ではないが、好感の持てる若者である。 

 丸山花世はこの最後に来た人物のことをもう少し詳しく知りたいと思ったのであるが、その時はかなわなかった。編集殿がこう口火を切ったからである。

 「龍川さんも来てくれましたし、これで全員がそろいました。時間もないですから、さっさとはじめましょう。ああ、ええと、その前に、こちらがさっきから話しに出ている龍川さん。この前、丸山さんには渡しましたが『くのいち秘闘伝』の作者さんです」

 丸山花世は岡島から手渡された二冊の新書を思い出していた。

 「本当はもう一人、魔法少女エムの作家さんも呼びたかったのですが、名古屋のほうに住んでおられるので断念しました」

 「そりゃまあそうだよね。名古屋は無理だわ」

 少女は適当に頷き、そこで龍川は先輩二人とは違う反応を見せた。

 この少女は誰? こんな子にエロ小説書かせていいの? そのような常識的な反応ではない。

 「あれ、あの、君さ」

 若者は真剣な顔をしている。その真剣な表情に丸山花世も胡乱な表情となった。

 「え、何?」

 龍川は、丸山花世が首からぶら下げているネックレスを見ている。それは少女がいつも身につけているもの。タマオシコガネ、要するにフンコロガシのペンダント。

 「それ、そのスカラベのネックレス、もしかしてWCAの?」

若者は相当興奮している。物書きヤクザは頷いた。

 「あ、うん。そう」

 「ああ、丸山さん、WCAの人なんだ」

 伊澤が少し驚いたようにして言い、そこで、よく分かっていないらしい蔡円が訊ねる。

 「え? なんだ、そのWCAって……」

 「知らないんですか、山田さん、WCA。ワールドクリエイターズアソシエイションのことですよ」

 何をやっているのか。先輩のくせに。工事現場でアルバイトする若い作家は頼まれもしないのに解説をしてくれる。

 「作家とか、シナリオライターとか……物語を作ることを生業とする人だけが入会を許されるコミュニティですよ。知らないんですか?」

 龍川の言葉には非難するような色があった。

 「ああ、世創協のことね。それなら俺も知ってるよ。ちょっと……なんというか、会員の人を前にして言うのは気が引けるがあそこは変な集団だよなあ」

 蔡円は言いにくそうにして笑い、一方、若い作家のほうは素直に感動している。

 「ああ、でも、すごいな。WCAって入るの難しいんでしょう?」

 おかしな興奮をしているガテン作家に丸山花世もちょっと怯んでいる。

 「いや、そうでもない。講義受けて。それで、テストやって。それが終わったら認定証とこのお守りが送られてきて。何で通ったのかもよく分からないし、っていうか、あんなテストで何が分かるのか」

 「ふーん」

 若い作家は安物のペンダントをまぶしそうに見ている。スカラベが転がしているのは丸い水晶球。実際の値段は二、三千円程度のものであろう。

 「このペンダント、持ち主の能力が上がって、物語の神様に認めてもらえると」

 小娘は適当に言った。

 「色が変わっていく……だろう?」

 伊澤は人格者にして事情通でもあるらしい。

 「ええ。でも、そんなことあるとは思えないんすよね。私も、ずっとそれがほんとか確かめてみようと思って肌身離さず持っているんだけど、今のところ水晶の色が変わったことはない……」

 その水晶は、持っている人間が成長するたびに色合いを変え、輝きを増していく。そしてついには物語の神様と交信ができるとかできないとか。小娘丸山花世もそのようにしてアネキ分から教えられていた。もっとも、水晶の色が変わるなどということは常識的にありえないことであるのだが……。

 「WCAに入ってても、あんまり得なことはないっすよ。まあ、入会金とか年会費もいらんから損もしないですけど」

 少女は事実をありのままに言い、蔡円がそれに応じた。

 「ちょっと宗教っぽいところがあるからなあ。物語を作ることは作品の神様と対話をすることであるとか……試験も相当変な奴だろ。前に知り合いに聞かせて貰ったれど、忘れちまったよ」

 丸山花世も自分が受けたテストのことを覚えている。テストはたった一問だけ。

 

 Q 物語の作り手が文学作品の賞を受賞することにおいてもっとも重要なファクターは何か。簡潔に述べよ。

 

 丸山花世はそのようなおかしな試問にパスして晴れてWCAの会員になったのだ。もっとも、会員になっても会報が来るわけでもないし、何か特別な集まりがあるというわけでもない。特典なども皆無。ただ、安物のペンダントを貰っただけ。丸山花世も自分とアネキ分である大井弘子以外の会員には会ったこともないのだ。

 「私もなんで、会員になったのか判らん……」

 少女はフンコロガシのペンダントをそれが自分のものだというのに不思議そうに見ている。

 「いつの間にか……そうなっていた。まあ、特に問題もないので退会したりもしないんですけど、っていうか、どうやって退会するのかも知らん」

 丸山花世は彼女にしては曖昧な口調で言った。そして、そこで岡島が言った。

 「ええと……それでは、こういうのはどうでしょう?」

 何がこういうのは……なのか。話のつながりがよく分からないが、要するに編集殿は話をさっさと進めたかったのか。

 「WCAはの話は置いておくとしてですね、仕事の話なのですが」

 「ああ、そうだね。そろそろ始めようか」

 伊澤が頷いた。全ての作家に異論はない。

 「ええと、それで、今回の作品については、詳しいことは電話で話したとおりなのです」

 岡島が言った。

 「四人でそれぞれブロックごとに話を書いてつなぎ合わせるってことだろう?」

 蔡円の言葉に編集殿が頷いた。

 「そうです」

 そして丸山花世は心配げに尋ねる。

 「うちのアネキが言い出したことですけれど、そんな変なこと、誰かやったことあるんすか?」

 物書きヤクザの問いに対する答えは簡単だった。全員がいっせいに首を横に振った。

「まあ、でも、なんとかなるんじゃないかな」

 伊澤が落ち着いていった。

 「修羅場はいつものことだし」

 修羅場はいつものこと。まるで蟹工船のような職場である。

 「ええと、それで、どんな話にするんですか? 構成とか。僕は何にも考えてきてませんよ」

 龍川が言った。いろいろと勝手にしゃべる書き手達に編集も一杯一杯になっている。

 「とりあえず、編集としては物語の構成とか、全体の流れについては丸山さんにやってもらおうと思っています。で、エロは皆さんに……」

 「え? 私がやんの? 私も何にも考えてないんだけれど……」

 勝手に話が進んでいくことに物書きヤクザも多少の不安は感じている。だが。

 「ああ、それはいいな。WCAの人がどういう作品の作り方をするのか、僕もちょっと興味あるし」

 今度は伊澤が言った。小娘にとってはプレッシャーである。

 「うーん、でも、私、エロラノベって書いたことないから、よく分からんのですよ」

 「テキトーだよ、テキトー」

 博打男が笑った。

 「そんなのテキトーでいいんだよ。物語はあればいいってぐらいでさ」

 蔡円の言葉に、龍川が反論する。

 「いや、それは……ある程度物語は作っておかないと。ただ単に、エロだけでそれで良いだろうというのは極論だと」

 「たっつんは難しく考えすぎなんだよ。お客はそんなに細かい部分は望んでないよ。エロけりゃいいんだよ。ツールなんだからさ」

 「いや、でも、山田さん、それは自己否定だよ」

 「自己否定も何も、お客が望んでいないものを作るのは職人としてやっぱりまずいだろうよ」

 「職人って……けれど、枠の中でも最大限の努力をする必要が僕らにはあるはずで、それがないのは怠慢ですよ」 

 たかがエロ小説で議論を始める男達。酔狂な連中だが、丸山花世はむしろ感心している。

 「『これでいい』ばかりでは結局マンネリになってしまいますよ」

 龍川は言い、山田は応じる。

 「エロの読者ほど保守的な奴らはいないぜ」

 再度再度の脱線。この調子では仕事の話に入る前に日が暮れる。そこで伊澤がやんわりと後輩達の話の間に割って入った。 

 「まあ、それはいいじゃない。とりあえず、作品に対するスタンスはスタンスとしておいておくとして……」

 伊澤はやはり人格者である。年上の先輩にたしなめられて博打男もガテン作家もあっさりと矛を収めた。もともと言い争いをしているわけではない。どちらが正しいわけでもない。むしろ、相手の意見は実は一度は自分も思い至った考え。そして二人の結論がこれからもずっと同じというわけではない。博打男もガテン作家も意見が変わるということは十分に有り得ること。

 いずれにせよ意見をぶつけ合うことができるのは現場がまともに機能しているということ。ルーチンワークになった仕事には未来はないのだ。

 ――案外まともな連中であるな。

 少女はそんなことを思っている。そして伊澤が言った。

 「そういうわけだから、まあ、物語りの流れについてはやっぱり丸山さんにお願いしよう」

 伊澤は穏やかに言い、そこで丸山花世は頷いた。

 「まあ、そういうことならば……やりますがね」 

 良くはわからないが、テキトーにやればいいのだろう。少女は一瞬、思案して、それから口を開いた。

 「ええと……うーん。それで、SFはダメなんですよね?」

 「ダメじゃないけど、売れないなあ」

 山田が言った。作品に対するスタンスは違うが、SFがダメだというその一点に関しては龍川も意見は同じらしい。

 「SF系のエロは本当にダメだよね。四次元が出るずっと以前、二十年ぐらい前の作品にはそういうの結構あったんだけれどいつの間にか全滅してしまったよね。作者の人たちもほとんど残っていない」

 黙って作り手たちの話を聞いていた岡島も頷く。

 「SFはダメです。豊中さんの作品もSFベースでしたけれど。っていうか、豊中さんの作品はジャンル以前の話でしたが。宇宙船のエンジンについて延々と解説されても、こっちとしてはどうしようもないんですよね。そんなもの誰も望んでいないっていうか。けれど、そういうの書く人、何故か多くて」

 編集殿は疲れ果てたようにして言った。丸山花世はそこで頷いた。

 「ああ、じゃあ、SFっぽいのはダメということですか。あい分かりました」

 丸山花世は話しながらすでに作品を頭の中で組み立て始めている。潰して建てて、また潰して。粘土細工と同じである。そういう技術を物書きヤクザはいつの間にか身につけていたのだ。あるいは、それはアネキ分の影響であったのかもしれない。

「ミステリ仕立てのエロとかも、あんまり見ないですよね」

 龍川は丸山花世の顔を覗き込むようにして言った。どうも、この若い作家は花世が頭の中で作品を組み立てたり壊したりしていることを感覚として理解しているようである。だから、語る言葉のトーンが低い。丸山花世の思考の邪魔にならないように、だが、言葉は相手に届くように。ガテン作家は言葉を選んでリーダーの思考の補助に勤めている。

 「四次元ではないですね。官能文庫のほうには時々ありますけれど。企業の調査モノとか……」

 岡島が言った。編集殿は龍川のように丸山花世の内面の動きを追いきれていない。だから、語調がいつもと変わらない。

 「ミステリもいいけど、トリックを追ったりするのは読者としては面倒くさいと思うんだよな」

 博打男が言った。エロ=ツールという意見の持ち主にとってはエロミステリはありえないのだろう。

 「エロは情念で、推理は思考。両立させるのは難しい。まあ、そういうのできちんとした良い作品作る自身があるんだったら、こんな寄せ集めの作品ではなくて、丸山ちゃん個人の作品でやればいいやな」

 博打男の言葉に伊澤も頷いて言った。

 「『いい案は自分のために取っておけ』って奴だよね」

 「……だったら、そうだね」

 丸山花世はさまざまな函数を頭の中に放り込んでいく。あれもダメ、これもダメ。そうやってダメなものを消していく。同時に、いい物を取り入れていく。

 「だったら、どういうものにお客は食いついてんの?」

 物書きヤクザは訊ねた。すぐに岡島が応じる。

 「やっぱりファンタジーですかね。エロとファンタジーは相性いいんですよね」

 丸山花世はさらに尋ねる。

 「ファンタジーといっても、バリバリの正統派から、ラノベにありがちな、現実モノにほんの少しだけファンタジー風味っていうものまで、幅って結構あるでしょ?」

 少女の問いに龍川が応じる。

 「学園モノで少しだけファンタジー要素って結構あるよね。あれ、読者的には分かりやすいよね。いまさら説明する必要はないし。でも、まあ、それでいいのかって気はするけれど。ライトノベルの系統はがちがちのファンタジーはもうほとんど絶滅しているね」

 山田が続ける。

 「そうだな。美人の先生は美人の先生。先輩は先輩。幼馴染は幼馴染。マンガなりゲームでこれまでに営々として築き上げられたイメージのただ乗り。説明省けるから書くほうも読むほうも楽だわな」

 「でも、それって作者と読者の『怠慢の共謀罪』だと思うんだよね……」

 何か新しい地平を切り開くのが作り手の役目だろう。龍川はそう信じて疑わない。一方、山田のほうは若者の理想論にはもはやつき合わない。それはまた今度。酒飲みついでの話にでもすればよい。

 「丸山さんが好きなものを作るといいよ。僕らはそれについていくから」

 伊澤がそのように話をまとめ、少女は、黙ったまま男達のことを見やった。物書きヤクザの演算は終わったのだ。

 「うん。それだったら」

 エロ担当の三人。分隊長となった少女は一人一人を見ながら言った。

 「もう、決めたことがあるので、それから説明をするわ」

 花世は立ち上がると会議室のホワイトボードに向かった。

 「えーと、話の内容については、まだ詰めてないんだけど、とりあえず作品の基本構造だけを話すわ」

 大井一矢の話していたこと。ゲームのシナリオと同じやり方をする。丸山花世はそのことを覚えている。

 「まず、時間がないわけで。だから、順番に新書の頭のほうから作業をしていくのでは間に合わない。設計図だけ渡して、よーいドンでみんなが一斉に仕事に取り掛からないといけないわけで。だから、さっさとやることにする。まずはキャラから」 

 物書きヤクザはそういってホワイトボードに向かう。

 「エロラノベだから、然、女性が出てくる。女性キャラね。このキャラを三人にして」

 甲乙丙。少女はそう縦にボードに書き記す。

 「この甲乙丙を一人ずつみんなに割り振る……と」

 丸山花世は甲乙丙という文字の横に集まった命知らず共の名前を書き込む。

 

 甲 いざわ 

乙 やまだ 

丙 たつかわ

 

 「一人一殺……ではなくて、一人一姦?」

 丸山花世は自分が作った新造語の不細工さに辟易している。

 「こういうやり方は、なんと言うか、機械的で、非人間的な気がして好かんのだけれど、もはやこれしかやりようがない」

 丸山花世は苦渋の表情である。

 「二週間で新書一冊なんて、そういうことができる人もいるんだろうけど、そういう書き飛ばした作品の質ってやっぱり劣っているわけで。二週間で建った家は二週間で崩れる。それだったらこっちのやり方のほうがまだましっしょ。一人二週間で、四人で八週間。八週間もつ作品だったら……それでも、まあ哀しいか。でも、仕方がない」

 少女は集まった作り手たちの顔を見ている。

 ――こいつらならば、大丈夫。大崩れはしないし、また、自分の割り振られたパートをそつなくこなしてくれるに違いない。

 物書きヤクザはそのように判断している。

 「まだ話は決めてないけれど、三人の女性が、次々にいやらしい目にあっていく、と……そういう状況に持っていけるようにこっちのほうで話を作るわ。お話は、そうだね。やりやすそうなものを選んで」

 少女は続ける。

 「まずは名前。けれど今はちょっと待って。一晩だけ考えさせて。名前については明日までにみんなにメールすっから……」

 名前は大事。

 そこから惹起されるイメージについてももちろんそうだが、それよりも大事なのは名前に集まってくる空気のようなもの。言霊。生まれてくる言霊のようなものを大事に育てる。それが作り手のなすべきこと。伸びたいものを伸びたいように。で、あるから作り手は育て手。よい作り手は良い名前を作り、良いキャラクターを育む。ダメな作り手になりたければ良い作り手と反対のことをすればそれで事足りる。

 「話はやっぱり正統派のファンタジーがいいか」

 丸山花世はぼそっと言った。やりやすいもの。自分ができそうなもの。簡単とは言わないが、時間がないのだから、難解なものには手を出す暇がない。それに。

 「うん。やっぱり、ファンタジーにしよう。現代モノとかだと、実在する女の人の名前をつけたりしなきゃいけないわけで。そうなると、作品のキャラと同じ名前の女の人、嫌な気分になると思うし」

 少女は女性の目線で言った。カヨであるとか、ヒロコ。そういう主人公では同名の女性は読むに耐えないのではないか。丸山花世の決断にほかの作り手たちは笑った。

 「女の人は、四次元は読まないですよ、丸山さん」

 龍川が言い、そして、山田も笑って言った。

 「ああ。女で読んでるの、見たことねーな。でも、お袋の名前と同じキャラのエロ作品は、俺も嫌だよなあ。萎えるわ」

 伊澤が後を継いで言った。

 「そのあたりのことは丸山さんにまかせましょう。好きにやってください」

 少女は一瞬だけ沈思した。物書きヤクザも多少は恥というものを知っているのだ。確かに、エロラノベを読んでいる女子高生を彼女は見たことがなかったのだ。

 「あー、まあ、とにかく、そういうことで。名前についてはあとで送るとして、先にキャラの設定だけ、今、ここで作っちまいましょ!」

 丸山花世は気を取り直して言った。時間は限られている。

 「それで、ですね、えーとまずはキャラなんだけど、名前はともかくとして、外観であるとかはもう決めた」

 新米少尉殿の説明に古参兵たちは身を乗り出して話を聞く。新米と侮るなかれ。この娘はたいした人物なのだ。

 丸山花世は説明を開始した――。

 

 「もうこんな時間か」

 龍川綾二はそのように言った。三月の有楽町はすでに日が暮れている。丸山花世はちょっとぼんやりした表情のまま歩き続ける。JRの駅までは徒歩で十分ほど。ちなみに山田と伊澤のコンビは何か用があるとかでペルソナマガジン社の前で別れている。

 小雨が降ったりやんだり。

 龍川は傘を持っておらず、そこで、物書きヤクザの傘に入れてもらっている。もっとも、ガテン作家の幅のある体は丸山花世の傘には少し納まりが悪い。

 「案外あっさりと決まってしまったよね。丸山さん、話、ホントはちゃんと作ってきていたんじゃないの? なんか説明に迷いとかも全然なかったし」

 「え? あ、いや。そんなことないんだけれど」

 少女は傘の柄を握ったまま言った。

 作品の内容についてはそちらで適当にやってください。岡島のリクエストは簡単。であれば、あとは小娘の仕事。丸山花世が会議の場で提示した作品の指針は以下の通り。

 

 一 編集殿の要望その他から物語はファンタジー系のものとする。

 二 魔法であるとか、作中に登場するモンスター、クリーチャー等は、先人たちの作ってきた小説、マンガ、ゲーム等から見繕って『パクる』『リスペクト』ではなく『パクる』。

 三 主人公、あるいはヒロインとなる女性陣は全部で三人。名前についてはカタカナ名とする。その際に、キャラ名は難解なものを避ける。キャラ名に関しては翌朝までに各人に通達の予定。 

四 舞台は雪の多い小さな公国。イラストを発注する場合はドイツの古城を参照。

 

 「丸山さん、絵も描くんだね」

 龍川は少女をまぶしそうに見ている。傘の上ではぽつぽつと小雨が爆ぜる音。

 「あ? ああ。絵ね。うん」

 

 ――キャラの名前はすぐに送るとして、先にキャラクターの雰囲気を伝えとくわ。イラストにはホワイトボード、コピーをしたのを送っといて。

 

 丸山花世は頭の中に浮かんでいたキャラクターの絵をホワイトボードの上に描いて説明をしていた。

 

 ――一人は赤毛。ショート。髪の毛は癖があって、こんな感じ。一人は金髪ね。髪の長さはロングで。ひっつめてデコ出しているバージョンと、それから普通に下ろしているバージョンと二つ。最後のは髪は黒、あるいは、青系。ボブカットにしようかと思うんだ。背の高さ、体格については……こんな感じで、赤毛の子は身長百六十センチぐらい。で、黒髪が身長で百七十センチぐらい。女王陛下はその中間……百六十五センチぐらい?

 

 龍川はホワイトボードの上に描かれたキャララフを思い出している。

 「ずいぶんと、綺麗な絵を描くんだね。マンガ家になったほうがよかったんじゃないの?」

 「マンガ家? 面倒だからいいよ。トーン切り貼りするのしんどいし」

 少女は空いている右手を振って言った。物書きヤクザは基本面倒くさがり。

 「前に伊澤さんが言っていたことだけれど、いい文章を書く人は絵を描かせてもうまいんだとか。実際、マンガ家の人とか良い文章書く人、多いし」

 「そうかね?」

 少女は首をかしげた。そんな話は聞いたことがない。

 「いい絵を描く人は歌もうまいし、踊りもうまい」

 「……」

 花世は変な顔をしている。絵と文章はもしかしたら関連があるかもしれない。だが、絵がうまい人間と歌や踊りがうまいというのは明らかに関連性にかけている。だとすればゴッホやゴーギャンは盆踊りが得意だったのか。リアルプロ盆踊らー、ポール・ゴーギャン。そんなことがあっていいのか。

 「私は、あんまり踊りはしないけど」

 「伊澤さんの説だよ。けれど、筋肉を統括しているのは脳なわけで、指先の筋肉に上手に命令を出せる脳は、足の筋肉や声帯にも正確な情報を出せることができるわけで。だから、伊澤さんが言っていることも正しいと思うんだ」

 「そんなもんかねえ。っていうか、綺麗な絵を描くのと綺麗な字を書くのは同じかもしれないけど、文章と絵はやっぱり違くない? まあいいけど」

 花世は曖昧に言った。医学的な話はあまり興味がないのだ。医学に興味のない少女に龍川はさらに言った。

 「丸山さん、あのさ……」

 「あ、うん、何?」

 「幾つか聞きたいことがあるんだけれど、いいだろうか?」

 どうも、ガテンの若者は話し好きなようである。いや、丸山花世という存在に興味を持っているのか。確かに、物書きヤクザは、人としてみたとき相当の珍種である。

 「いいけど。何よ?」

 「キャラの割り振りをしたときのことだけれど」

 「え? あれ、何か、気に入らんかった?」

 少女は訊ねて返した。何か相手の気に障るようなことでもしたか。

  

 ――赤毛の子が主人公ね。年齢は十五、六を想定しています。担当は龍川さんにお願いします。金髪は女王陛下とか……年齢は高めです。これは伊澤さん。黒髪のは山田さんでやってください。

 

 丸山花世はそのようにキャラの割り振りをしていた。そのことを龍川がとがめているのか。少女はそのように疑ったのだ。

 「あ、いや。気に入らないとかじゃなくて。ただ、どうしてああいう結果っていうか、ああいう割り振りになったのかなって」

 「え? うん。それは……そうだね。いろいろとみんなのことを見たりして、で、雰囲気とかを調べて。キャラって、結局は書き手の分身なわけでさ。だから、自分にない性質のものを書くことって難しい……っていうか、根本的にできないと思うんだよね、そういうの。異性のキャラを作るときにも自分に似たキャラのほうがやりやすいじゃん。伊澤のおっちゃんは、人物ができていて、包容力もある。だから、そういう慈愛に満ちたキャラを押し付けてやればいい。山田のダンナはちょっとひねたところがあって……でも、あれで案外、学とかはあるみたいだから、つっけんどんなオールドミスとか、知的で意固地なキャラを書かせるときっといいと思うんだ。で、たっつんは直情的で白黒をつけたがるタイプ。主人公タイプ。戦隊モノだったらレッドだね。だから、主人公をあてがった」

 少女は続ける。

「本当は名前を先にする。私はいつもそう。そうでないとイメージって固まらないから。でも、今回は時間がなかったし。ただ、幸いなことに今回はモデルとなるものがあった。みんなの……ちょっとオカルトチックな言い回しになるけど『魂』って奴? みんなの魂の形、それがポジとすればネガとなるような女性の雰囲気を絵にしてみた。で、今回はそのイメージにあう名前を後でつけていく。そういうことにしたんだ」 

 花世はなんでもないといった具合に言ったが、聞かされる龍川は首をすくめている。

 「アニマ、アニムス……か」

 「そう。そういうの。アネキに前に教えてもらったんだよ」

 「なんか変な感じだね。あの女の子のイメージイラストが僕のネガだっていうのは」

 「あんまり気にしないで。こっちも適当にやってるだけだから。説明はあと付け」 

 「でも、確かに言われてみれば、そうだよね。うん。女王様は伊澤さんに向いている」

 うん。丸山花世は軽く笑った。

 「あれだけの短時間でよくそんなところまで見ていたね。やっぱり女の人は見る目が厳しいよね」

 「え? あ、うん……そうかね?」

 少女は自分ができることは誰もができることだと思い込んでいる。

 「それぐらいはすぐにできるんじゃないかな? 誰でも」

 龍川は少女の言葉に何も言わなかった。そこで丸山花世は言った。

 「時々、作者と作品は違うって言う人いるけどあれ、嘘だよ。作者イコール作品。物凄い変態の作家なのにびっくりするぐらいに清らかな作品作る人がいて。でも、それって当たり前なんだよね。根が深いほど木は高く枝を張れるわけで。って、こいつはアネキの受け売りだけど」

 年は少女のほうが下。だが、龍川のほうはそんな少女のことを対等の存在と考えているようである。エロ屋には年齢も性別も関係ない。学歴も出身も関係ない。売れるものを作るものが立派なのだ。

 「誰かの魂を書き写して、それをキャラにするっていうやり方も、実はアネキに教わったことなんだ。嫌な奴とか、むかつく奴に出会ったら、そいつのことを観察してよく覚えておく。自分の心に焼き付けておく。いつか作品で勝手にそいつの魂を切り貼りして使う。嫌な奴ってなかなかあれで書くの難しいから」

 「ふーん」

 龍川はうなった。若いガテン作家は腕組みをしたまま何かを考え込んでいる。そこで今度は物書きヤクザが言った。丸山花世の側にも言いたいことはあるのだ。

 「ねえ、たっつん、あのさ」

 「なんだろう?」

 「エロの人って、案外まともだよね。山田のダンナも伊澤のおっさんもまともな人だったよね。私、エロの人ってもっと匂ってくるような人ばっかりだと思ってたんだけれど」

 少女の言葉には僅かに失望の色がある。

 花世は実は、もっと悲惨な会議を想像していたのだ。どこででも全裸になるような人間。下着を盗むのが趣味であるとか、覗きで逮捕歴有りとか、あるいは消しゴムを食べたり、機械油を呑むような奴。ほんとうにしようもない連中が大挙して集まっているのではないか。少女のそのような期待は完全に裏切られてしまっていた。

 「伊澤さんも山田さんも一応選抜したんだと思うよ。岡島さんが」

 「選抜?」

 「まともでない人もいるんだよね。神経質で何かにつけてすぐに激昂する人とか、自分自分自分で、自分語りの鬱陶しい人とか。一作しか書いてないのに妙に偉そうに大家ぶったりする人とか。ただ、人を殺したり、放火をしたりとかそういう人はいないけれど」

 「そりゃ、そういう奴らは塀の中から出られんでしょう」

 犯罪者は作品云々という前に娑婆には出てこられない。

 「特に若い作家さん、他人とコミュニケーションを取れない人、結構いるから」

 「たっつんだって若いっしょ?」

 「まあ、そうだけれどさ」

 龍川は話し続ける。

 「ネット作家とか、オタク上がりの同人作家とか。一冊本が出るのって大変なことなんだよ。だから作品が出たことで人生狂ってしまう人、いるんだよ。たかがエロ小説なのにね」

 「……」

 「すごく低い場所、すごく下のほうのポジションで小さくまとまって。落ちないで焼け残った線香花火みたいになってしまう人もいるんだ。そういう人は、やっぱり、人には合わせることができないし、会わせることもできないんだ。伊澤さんや山田さんは普通の人で……って、普通の定義も良く分からないけれど、少なくとも他人の話している内容とかは理解してくれる。人生経験豊かだし、常識人なんだよね、二人とも。岡島さんも、丸山さんには会わせていい人を会わせたんだと思うよ」

 「オカジー……」

 気を遣いすぎて磨り減っていく消しゴムのような男。岡島に明日はあるのか。そして龍川の話は続く。

 「以前だったら、『エロなんて』って嫌がる人もいたけれど、同人ソフトの人が何億も儲けて。それで大手の版元がそれを取り上げたりするようになってから、風向きって変わってしまった。だから、若い人でもそんなにエロに抵抗がないって言うか」

 龍川の言葉は微妙だった。自分と業界の置かれた状況をそれほどは喜んでいない。そのような口ぶりであったのだ。

 「いいことだとは思わないの、たっつんは? 自分のいる業界に脚光が当たることが」

 「悪いことだよ」

 龍川の言葉は少女が驚くほどストレートだった。

 「僕らのやっていることはイリーガルとまではいかないけれど、やっぱり裏稼業なんだよ。大手を振って威張れるような仕事ではない。同人のエロも同じだよ。そういうものを……大手の版元が売れるからということで引っ張り出すのは、どこかが狂ってると思うんだ。僕らの仕事は落ち葉の下でこそこそやっているハサミムシみたいなもので。それ以上のものであってはいけないと思うんだ」

 「ハサミムシか」

 「大手の版元の人も同人の人間をただ掠め取ってくるようなやり方をして、そのことを恥とも思わない。本当だったら、自分で原石を見つけて、探して、育ててっていうのが編集だと思うんだ。自分が育てた花を売る。綺麗に咲かせた花を売る。公衆便所の脇で勝手に生えていた水仙を売り払って、それで自分はブームを巻き起こしているなんて言うやり方は僕にはそれは男らしいやりかただとはどうしても思えない」

 「……」

 「結局それって、保身だと思うんだ。もしも企画が当たらなくても『同人業界では売れているのでうまくいくと思っていました』って言い訳を先回りして用意しているだけ。自分で誰かを育てないのも、同じ。もしも自分が見つけた原石が活躍しなければ、それはその編集の責任になってしまう。自分が責任を取りたくない。一度手に入れた社員という特権は手放したくない。だから、人の成果を掠めてくる。それは卑怯だよ」

 龍川は怒っている。激しく怒っているのだ。少女はそのことよりもむしろ別のことを不思議に思っていた。そして、いつものことであるが彼女は思ったことは口にしないと気がすまない人物なのだ。

「ねえ。たっつんは、だったら、どうして、そんなイリーガルな作品を作り続けるの?」

 ハサミムシ。ハサミムシの世界。日の当たらない落ち葉の下の世界。ニッチで、マックス六千の世界。そんな世界にい続けるのは何故? 肉体労働をして、睡眠時間を削って。そこまでしてやるべきことなんだろうか。エロは。そんな必要があるのか。誰にも褒められず、むしろ貶されるだけの作品。山田は言っていた。作品ではなくてツールだと。

 少女の問いに龍川綾二は言った。

 「中上健次っていう人を知ってる?」

 「ああ、うん。作家のお偉いでしょ? もう死んだんじゃなかったっけ? 中上健次がどうしたの?」

 作家。中上健次。丸山花世も著書を何度か読んだことがある。なんでも最後には差別に持っていってしまうワンパターンな人。

 「中上に憧れてる?」

 「ううん。いや、うん……ええとね……」

 若者は少し迷っているようだった。

 すでに有楽町の駅は目の前。夜の帳が下りた月曜日の駅前では、ネオンに照らされたか雨傘がゆったりと行きかっている。家路に着く傘。待ち合わせの傘。どこかに遊びに行く傘があって、これから出勤の傘もある。駅前は人が行きかう場所。多くの人生が交錯する場所。 

 人の丸山花世は行きかう人々を見ながら、同業者の言葉に耳を傾けている。

 「中上がやっていた文学のサークルにさる地方の素封家の跡取り息子がいたんだ。そいつは、お金を持っていて、裕福で、性格も傲慢で……だから、中上という人も腹に据えかねていたんだと思うんだ。中上はそれで言ったんだ。『おまえ、ふざけんな。アルバイトして必死の思いで作品書いている奴がいるのに、おまえは親の金で外車乗り回したりしやがって。まじめに作品と向き合う意思はないのか。本気でやるならば、何もかもを失う覚悟でないとだめだ。おまえにそれだけの覚悟、あるのか?』って」

 随分と……熱い人間である。中上健次。もしも生きていれば、彼は丸山花世のことをどう思っただろう。

 「言われた後輩は、すぐにこう言ったんだ『そんな覚悟はないです』って。それで……そいつはサークルを辞めて去っていった」

 話は続く。だが、駅までの距離がない。少女とガテン作家は自然と足が止まった。

 「『そんなところまでしたくない。そんなことまでするような価値がない。たかがサークルのくせに何を偉そうに。馬鹿馬鹿しい。俺にはもっと大きなことができるんだ。ちまちまとしたことは誰かに任せておけばいいんだ』サークルを辞めたその後輩はそう言っていた。でも、僕には分かるんだ。本当は……そいつは単に怖かったんだって。親の威光も、財産も、車も、何もかもが運命の前では無力だ。そして作品を作ることって一人で自分の運命に向き合うことだから」

 その『後輩』は龍川のいったい何? とは花世は尋ねなかった。聞かないほうがいいことは世の中にたくさんある。本人が語るのを待ったほうがいいということもまた世にあふれている。物書きヤクザはただ黙って相手の話を聞くばかりであるのだ。

 「中上っていう人は、後輩の弱さを見抜いていたんだと思う。心の弱さ。卑怯さ。愚劣さ。だから、試してみたんだと思うんだ『覚悟はあるのか』って。そして後輩はその一言で遁走してしまった。たった一言だけで。僕は思うんだ。どうして、その後輩は『ある』っ言わなかったのかって。その一言を言えば、きっとそいつの人生って変わったと思うんだ。別に立派な作家にならなくたっていい。偉大な人物にならなくたっていい。最後は夢破れたっていいんだよ。何もかもが壊れてしまっても『ある』って言い切ることできっと何かを得られたはずなんだ。でも、そいつは扉を開けるその前で逃げてしまった。開けて中に何があるかを確かめてみればよかったんだ。若かったんだからいくらでも取り返しってつく。でも、そうしなかった。しなかったんだよ」

 少女は何も言わない。ただ、耳を傾けるだけ。もしかしたら龍川が、そんなことを他人に話すのは初めてなのかもしれない。

 「僕……僕はそういう負け癖のついた人間を軽蔑する。僕はそういう人にはなりたくない。だから、エロをやっている。だから、みかん箱を前にしてエロ小説を書いている」

 「……」

 「エロラノベ。そこに出てくるキャラクターはみんなかわいそうな子ばかりだよ。消費されていくだけのキャラ。誰も大事に想ってはくれない、想ってはくれないんだ。そういうキャラの物語。でも、それが僕にはいとおしい。それだからこそ僕はそういう気の毒なキャラの話ががいとおしいんだ」

それはきっと若者の叫び。ずっと溜め込んできたは龍川の想い。そしてそこで丸山花世はしみじみとした口調で言った。

 「……たっつん。あんたはいい奴だよ。尊敬に値するいい奴だ。私はあんまり誰かを褒めたりしないんだ。だから、私の褒め言葉は素直に受け取って」

 「……」

 龍川は生意気な小娘の言葉にちょっと赤くなった。丸山花世。誰に対しても上から目線。いったい貴様は何様であるのか……と、龍川は憤らなかった。それは丸山花世が真顔であったから。物書きヤクザは奇矯な人物だが、誰かの真剣な想いを薄笑いでごまかしたりはしない。

 「……丸山さん、君は……あんまり見かけないタイプだね」

 「ああ? そうかね?」

 「みんな僕の言葉を聞くと……なんていうか、逃げてしまうんだよね。本当の気持ち。本当のことだというのに、みんな、僕がそのことを言うと、半笑いのまま去っていくんだ」

 若者は淋しげに言い、そして、丸山花世は語調を変え、轟然として応じた。

 「本音語っただけで逃げるような奴ならいなくて結構だっつーの」

 「……」

 「そんな軽佻浮薄な奴ならば、むしろいないほうがまし。薄笑いでお愛想言ったって、そんな連中、どーせいざとなったらクソの役にもたちゃしないんだから。たっつんも友達選んだほうがいいんじゃねーの」

 少女はずばりと言い、そのあまりの舌鋒の鋭さに龍川は目を丸くして、それから小さく笑った。その笑顔は、龍川の心からの笑顔であったのだ。

 「君は……あれだね。強い人だね」

 「そかね?」

 それはいつもの丸山花世。本心しか言わない。建前なんかクソ食らえ。もっとも、そのせいで学校では浮いているが、だからなんだというのだろう?

 「……うん」

 龍川は何か重い荷物を下ろしたような、ほっとしたような表情を作り、それから言った。

 「ここで別れよう。僕は有楽町線だから」

 「あ、うん。私は新橋行くから」

 「そうか……」

 若い作家は頷いた。

 「キャラ名、今日明日中に送るわ」

 「うん。そうしてください。じゃ!」

 龍川は律儀に頭を下げ、それから楽しげに笑って去っていこうとし、そこで花世が慌てて、言った。

 「ちょ、ちょっと、待った!」

 いったい何事か。足を止めるガテン作家に少女は傘を差し出した。

 「持ってきな。体が資本なんでしょ、ガテン系は」

 「えーと、その、大丈夫だよ」

 「新橋のアネキの店に客が忘れていった傘が山ほどあっから。持ってけって」

 「ああ、でも……」

 龍川は女性にプレゼントを貰った経験は……多分、あるのだろう。傘を差し出されてもぎこちなさのようなものはなかった。

 「アネキの店は新橋の烏森口からすぐだし、だから、私のことは気にしなくていいから」

 若い作家は、ちょっと考えるようなしぐさをして見せた。気恥ずかしいのか、それとも誰かに借りを作りたくないタイプなのか。

 「借りを作りたくないって言うんだったら、その傘、オカジーに渡しといてよ。どうせまた会うんでしょ? オカジーにアネキの店に持ってきてもらうから」

 少女はわざと軽薄な笑顔を作った。そして若者は傘を受け取った。

 「分かった。ありがとう。それではお言葉に甘えて。必ず返すよ」

 「急がなくて良いよ。ほんと傘だけは売るほどあるから。アネキの店は」

 龍川は明るい顔を作ると、そのまま傘を持ったまま走り去っていった。そして、見送る丸山花世はぽつりとつぶやく

 「……理解者、か」

 理解者を得られるというのは、本当に人生に何度もない幸せなこと。たとえそれがどんな相手であっても、理解してくれる相手がいることは幸せなこと。龍川も……多少なりとも幸せな気分になったのだろうか。

 「まあ、いいやな。とにかく、今は」

 丸山花世のほうは笑顔を消して思案顔となった。それは彼女の作り手としての表情、である。

 「まずは名前……名前、だよな」

 作品を何としてでも二週間以内にあげなければならない。そうしないとヤクザな娘はどうということもないが、オカジーの給与査定が悲惨なことになるのだ。それに。少女はアネキ分の言葉を思い出している。

 「やるだけの価値、か」

 たかがエロ。されどエロ。

 サラブレッドは結局、G1であっても地方競馬であっても走ることができればそれで幸せ。それと同じで、作り手は作れる場所があれば幸せ。

 「ま、やってみっか」

 丸山花世は頬に手を当ててうなった。


 ――記録管マルケスの記録に曰く。メルツェンは人口二十万。ドゥブローの河をはさんだ両岸をはさんで広がるこの都市は、もともとはオクティウムと言ったが、それはドゥブロー河に八本の橋が架かっていたからである。近隣は良質な琥珀の一大産地となっている。この地で採られた琥珀は遠く北海の彼方のアルビオンにまで運ばれる。

 

 丸山花世はパソコンに向かっている。画面を見ているようで見ていない、不思議なまなざし。体はそこにあって心はしかしその場にあらず。半分眠っているような奇妙な表情のまま。それでもキーボードを叩く指先によどみはない。

  

 ――メルツェンを治めるのは女王で、名前をセレネと言った。生まれたときが満月であったことから月の精になぞらえてそのように名づけられた。

 

 物語は、王宮付きの記録監リィの報告によって幕を開ける。核心となる事件は全て終わったあと。そのあとで記録監が手記をまとめているというそのような構図となっている。いったい何がどうなっているのか。作品の舞台はどういったもので、そこに出てくる登場人物はどういったものなのか。一番最初に全ての情報を開示してしまう。説明がくどくなりがちだが、それは仕方がないこと。

 

 ――国王は娘の生誕に喜び、魔術師達に王女の行く末を占わせた。魔術師達は言った。

 「この王女は高貴にして盛運の持ち主。必ずやメルツェンの女王となることでしょう」

 国王は喜びながらも、男子ではなく女子が王位に就くことには不満であった。で、あるから国王は『風渡り』と呼ばれる賢者ジゼルを呼んで同じようにして王女の行く末を占わせた。風渡りはさまざまな世界を経巡り、年齢は四百歳を超えているという話であったが、外見は二十歳そこその若造にしか見えなかった。世捨て人は言った。

 「光のあるところ影もまた深し」

 国王も含めて誰も世捨て人の言わんとすることを理解できなかった。

 

 「うん……こんな感じか」

 物書きヤクザはぼそっと言った。

女王セレネ。それから賢者ジゼル。ジゼルはこれは丸山花世の分身。言ってみれば、この人物がキールキャラ。物語を支える役割を担う重要な竜骨の部分。物語の核心とはつかずはなれず。一定の距離を保ちながら作品の進行を見守り、作品が暴走するようなことになれば、これを先回りして制御する。作品全体を押し上げる大黒柱。普通はキールキャラは主人公であることが多いが、今回は主人公とキールのキャラは別。

 「……」

 少女はキーボードを叩き続ける。パソコンの液晶モニタの上には付箋が張ってある。付箋の上にはボールペンで殴り書き。

 

 セレネ女王――いざわ

 女司祭ヨハンナ――やまだ

 騎士見習いの少女ヘンリエッタ――たっつん

 

 さらには『メール済み 十七日十八時』という赤字。全ては物書きヤクザ自身の手になるもの。物語はリィの報告書を経て静に進んでいく。

 

 ――メルツェンの王城近くには古い時代の塔が存在する。何人も触れてはならない神聖なる聖域。中に何があるのか、そのことをすら語ることが許されぬ場所。王女セレネが戴冠し、女王セレネとなって十年。この禁忌の場所を法王庁から送り込まれてきた女司祭ヨハンナの調査団が訪れる。

  

 「……月並みっつっちゃあ月並みな展開だよなあ。でも、まあ、仕方ないか。ほかの連中との兼ね合いもあるし。大事なのはエロいこと」

 丸山花世は、龍川の『作品』ではなくて山田の『ツール』という提案を採用したのだ。女王様は女王様。先輩は先輩。幼馴染は幼馴染……。記号、である。丸山花世はキーボードを叩きながらモニターにつぶやく。

 「ハイミスで職務に忠実なヨハンナちゃん……がんばってちょうだいな」

 それは物書きヤクザのキャラに対する語りかけであり、エール。そして、担当となる山田に対する叱咤。頑張って中高生、さらには大きなお友達を興奮させてちょーだい……。

 

 ――ヨハンナは法王庁の命を受けて聖遺物を探索している。失われて久しい救世主の残り香。だが、それがなんであるのかは法王庁自身も理解していない。まずは各地の調査……。

 

 黒い髪をした色白の美人。お堅い印象の女司祭の姿。そのイメージはすでに丸山花世の中にある……と。

 「あれ……」

 突然、少女の携帯が鳴った。すでに時刻は夜中の一時を過ぎる。携帯の番号は……物書きヤクザがすでに知っているもの。

 「誰だ……ああ、オカジーか……なんだ、いったい。はい、もしもし?」

 丸山花世は携帯を取って喚いた。

 ――もしもし? あの、岡島です。

 「何? あれ、オカジーまだ会社なの?」

 ――ええ、まあ……あの、ラフ、メールで送ったんですけれど、見てくれました?

 ラフ。イラスト。もうあがったのか。物書きヤクザは急いでメールを確認する。丸山花世ののパソコンにはすでに何通かのメールが届いている。返信、返信、そのまた返信。岡島のメールであったり、伊澤のメールであったり、あるいは、龍川や山田のメールであったり……。既読のメールの列の一番上に未読のものがひとつ。十七日午後十一時二十九分。件名は『ラフです』とある。

 「あ、来てる! ちょっと待って、今、確認すっから……」

 メール添付のデータ。データには、女性のラフスケッチが三点。電話の向こうの岡島の声はひどく得意げであるのだ。

 ――イラストの人に急いでもらいました。

 「うん……」

 画面に映し出された女性陣のラフスケッチ。丸山花世が描いたものをベースにしているが、やはりプロの絵は違う。

 「たいしたもんだね。これはいいや」

 黒い髪のハイミス、ヨハンナ。女王セレネは清楚な表情をしている。そして、主人公のヘンリエッタ。毅然としたまなざしが実に良くできている。

 「オカジー、このラフ、ほかの人にも送ったの?」

 ――はい、送りました。

 編集殿は少しハイになっているようである。花世も満足している。

 「ああ、だったら、これまで私のほうで書きあがったところを、とりあえず、みんなに送るわ。話の内容とかプロットについては、さっきオカジーたちにも送ったけれど」

 少女は言い、岡島が応じる。

 ――え? もう作業はいってるんですか?

 「あ、うん。二十キロバイトぐらい……まかないと、時間、間に合わないでしょう」

 物語の方向性、内容についてはすでにメールで通知済み。

 「ヨハンナが封印を開けようとして、それを、騎士見習いのヘンリエッタが止めようとする、と。ヘンリエッタは聖遺物の守護の家の生まれでそれを守っている。けれど、ヨハンナはそれを聞かずに封印を解いてしまう……」

 丸山花世の頭の中にはすでに物語の終着点が描き出されている。

 「それで、そこには古い時代の鎧があると。それを着けたヨハンナがいろいろと悪さを始める。女王に襲い掛かったり。で、ヘンリエッタが助けに行くのだけれど……返り討ち。って、返り討ちにあうような騎士じゃどうにもならないんだけれど、負けないとエロにならんからさ」

 ――そうですよね。勝っていてはエロにならない……。

 岡島もそんなことは分かっている。

 ――それで、あの、このお話、最後、どうやって終わらせるつもりですか? エンディングについてはさっきいただいたメールには書かれていなくて。

 「あれ? 書いてなかった? ごめん。忘れとった。ええと、聖遺物は実は、ヘンリエッタの一族の血筋そのもので、各地にあった古い時代の邪悪なものを封じるために救世主が遺していったものって……そういうオチにしようかと思ってるんよ。なんか、いいネタがあったらよかったんだけれど、月並みなエンドになってしまった」

 少女はちょっとだけ苦い顔を作った。もう少し、なんとかならなかったのか。けれど、いろいろと考えた末の結末がそれ。落としどころというものを見つけるのは実は相当難しい。

 ――いいですよ。そんなに難しいものを望んでいるわけではないですし。無理言ってんのこっちですから。それにこういう作品の作り方はこれっきりだと思いますから。

 もうちょっとうまい方法はないのか。もう少し綺麗なエンディングは持ってこられないか。それは花世も悩むところ。だが。時間がない。

 「あとは、まあ、ほかの三人の力量次第。祈るしかないよね」

 少女は適当に言った。そして岡島のほうは一番気になっていた作品の結末を聞いて少しだけ安心したようである。

 ――分かりました。それではできた分だけ、作品送ってください。

 「あ、うん。分かった」

 丸山花世は頷き、そこで編集からの電話は切れた。

 そして画面には司祭ヨハンナの姿。少女は自分の頭の中にあるものが現物として目の前にあることに満足している。

 「こいつは、面白いね」

 キメラみたいな作品を作る意味はあるのか? 何の価値がある? やってみれば全てのことには価値があるのだ。

 

 三月二十二日。

 午後十時。場所は新橋の小さな居酒屋イツキ。

 カウンター席だけの店で洗い物をしているのは美人の女主人。客は……すでにはけている。店内に流れるのは山下達郎の古い曲。今日の客入りはまあまあ、といったところ、か。

 と。

 「ういー……」

 意味の分からないうめき声を上げながら入ってきたのは、丸山花世である。

 「来たわね……」

 女主人はどうも、物書きヤクザがやってくることを予期していたようである。

 「また雨になっちったよ……嫌だね、雨は」

 少女の前髪は僅かに濡れている。

 「タオル、あるわよ」

 大井弘子からタオルを受け取った少女は曖昧に頷いた。

 「ニュー新橋ビルのゲーセンに競馬のゲームが入ったんだ。それをやってた」

 問われてもいないのに少女はそのように説明をし、女主人はそんな妹分に味噌汁と大きなおにぎりを二つ、くれてやる。

 「ああ、うん。あんがと」

 丸山花世はタオルで髪の毛をぐしゃぐしゃと拭いている。

 店の主と客。また従姉妹同士。二人の顔は……あまり似ていない。曽祖父が一緒というだけ。ただ、能力だけは似ている。

 「どう、うまくいってる?」

 大井弘子は訊ねた。『何が』うまくいってるかは問わない。そんなことは、言わなくても分かっているのだ。全ては作品のこと。

 「うん。どうなのかね」

 少女はぼさぼさの髪の毛のまま言った。

 「うまくいってるのかは知らんし、売れるものが書けているのかもわからない。けれど」

 「けれど?」

 「楽しいな。割合に」

 花世は頷いた。

 「いろいろな人間の書き筋を見られるのは面白い。まさかそういうことになるのかって、驚くようなことばかりでさ」

 人は作品に触れて変わる。読者もそう。作者もそう。

 「指示を出すじゃんか。みんなに。で、それが、しばらくすると形になって戻ってくるんだよね」

 花世は最初に全ての作品の構成を頭の中で立てている。

 

 序。リィによる報告

 主人公ヘンリエッタの日常、ならびに女王との交友。

 司祭ヨハンナの赴任

 聖遺物を探索しようとするヨハンナとヘンリエッタの確執

 ヨハンナによる調査。鎧に取り込まれるヨハンナ★

 操られるヨハンナ。女王に対する暴挙★

 ヘンリエッタのヨハンナへの攻撃。ならびに攻撃失敗

 ヨハンナによるヘンリエッタへの拷問★

 ヘンリエッタの反抗、エンディング

 

 構成についてはすでに愉快な仲間達に送信済み。ちなみに、★の部分に三人の古参兵たちによるそれぞれのエロテキストが入ることになる算段。

 「なんかさ……思っていたものと違うものになっていくんだよね。良い意味で。私が考えてるのとは別の方向に物語が広がっていく。そういう体験ははじめてだね」

 少女は面白そうに言った。 

 メールを送る。

 ――かくかくしかじか、こういう物語にしました。ですから、貴兄はあとは好きなようにエロいシーンを書いてください。

 そのような花世の指示に対して、その戻りがやってくる。そして、戻ってきたエロシーンは、これが常に丸山花世の思惑を遥かに超えたものとなっているのだ。

 「やっぱりさ、作品はそいつ本人だよね。作品=人間」

 丸山花世は深く頷いている。

 「みんなやり方が個性的でさ。仕事の進め方も、話の内容も。好きにやって良いって言ってるから当然なんだけれど。それにしても小説って性格って出るよねえ。まるで本人と話しているみたいだよ」

 隊長である花世は女性であり、だから、あまり男性の興奮するツボが分からないのだ。そこで勢い指示は大まかなものとなる。

 お話の構造上、出てくる人間は誰と誰か。場面はどこそこ。周りにあるものは何か。時刻は、気温は、夜か昼か夕暮れ時か。そのような大まかな設定だけを出して、あとは、各人にお任せということになる。

 「伊澤さんはやっぱり、あれだよね、丁寧だよね。自分が必要とされている役回りを過不足無くやってくれる。こちらの指示に対して『ああ、それではこうします』っていう方針をすぐにメールで返してくれて、そのメールの内容とほぼ同じものが上がってくる。律儀な性格だよね。山田のダンナは、やっぱりちょっと、ひねたところがある。メールとかは『勝手にやっとくわ』って感じで、何をするのか深くは言わない。もしかしたら、本人も書き始めないと何が起こるのかわからないのかも。それは、私とちょっと似てるかな。で、上がった原稿、そのままこっちに投げてくる。山田のダンナが、筆は一番早いよね。だから、私も困んないけど。たっつんは……そうだな、たっつんが一番難儀かな。迷ったり、悩んだり、書き直しさせてくれとか一番生真面目。で、その性格がそのままキャラに乗り移っている。本当に読んでて面白いよ」

 丸山花世は大いに満足しているようである。アネキ分はそんな物書きヤクザの話に耳を傾けている。

 「で、みんなから貰った作品のキャラを見ながら、私が書いている部分のキャラの口調であるとか性格を微調整する。外科手術みたいだよね」

 丸山花世はそこでようやく握り飯にありついた。小娘は世の中をなめきっているが、仕事に対してはそれなりに真摯な態度であるらしい。

 「たださあ、やっぱり、私は女なんだよね。男連中に一人の女がいたぶられるのはどうも我慢ならなくて。そのことを伊澤のおっちゃんとか、山田のダンナに言ったら、まあ、そういうのは気に入った案を作ってくれって言われたんだけれど、たっつんだけが『男性が絡まないエロはエロじゃない』とか言ってきて。それも、メールだけじゃなくて、わざわざ電話までかけてくるんだよね。伊澤のおっちゃんがとりなしてくれて、私の案を取ってもらったけれど、あのにーちゃんは本当に、エロに対するこだわりが深すぎるよねえ。私なんかに言わせれば、山田のダンナぐらいにテキトーなほうが良いんだけれど」

 少女は感心しているのか辟易しているのかよく分からない。

 「まあ、一度ぐらいはこういうおかしな仕事のやり方って言うのもいいかもなー」

 丸山花世は味噌汁をすすった。揚げと切干大根が入った味噌汁。

「エロの人たちもさ、会って話してみると面白くて。まあ、ひどい奴らもいるみたいで、だから、私なんかは実は、そいつらのほうを一度見てみたかったんだけれど。仕事を一緒にはしたくないけどさ」

 丸山花世は箸を振り回しながら続ける。

 「なんか山田のダンナの話だと、自分でまったく書けずに、百パーオカジーが手直しをしてようやく売り物に仕立て上げたって、そういう奴もいるとかなんとか……私、そいつに会ってみたいと思って」

 と、話しかけていた少女の言葉が止まった。

 誰かが店に通じる階段を下りてくる。すでに暖簾は下げてあるのだが。

 「あれ、誰かな」

 少女は足音に首をかしげ……そして来客が何物であるかはすぐに明らかになった。

 「あの……」

 傘を二本かかえてやってきた若い男性。物書きヤクザはその人物のことをよく知っていた。

 「あれ、たっつん、なにやってんの?」

 龍川。律儀で生真面目なエロ小説家。龍川のほうも、花世が店にいることにわずかに驚いているようである。

 「丸山さん、なんで?」

 「なんでって、あんた、ここは私のアネキの店じゃんか」

 物書きヤクザはおかしな顔をしている。何故こんなときに、こんな場面で龍川が現れるのか。

 「たっつん、あんた、ノルマ終わったの? まだ、ヨハンナとヘンリエッタのレズのからみのシーンに途中でしょ?」

 丸山花世は言った。レズのからみのシーンの催促をする女子高生というのも、たいがいなことであるが……。

 「ああ、うん……それは、まだ……ちょっと……」

 編集よりも怖い鬼の分隊長。龍川は困惑気味である。

 「まあいいから。入って。龍川君ね。花世から話は聞いてるわ」

 大井弘子はそのようにして来客を促した。龍川は少し緊張をしているようである。物書きヤクザはその様子に鋭い視線を送っている。

 「いや、今日は、その、傘を返そうと思って……」

 ガテンの若者はモゴモゴと言った。

 「まあ、そう言わず。ビールでもどう?」

 「いや、その……」

 傘を返しに。

 傘は……岡島に渡しておいてくれ。丸山花世はそのように言ったはずだが。

 「ふーん」

 物書きヤクザは疑惑の視線を龍川に向けている。こういうことはしばしばあること。と、いうか毎度のこと。

 「たっつん、アネキの顔、拝みに来たん?」

作家連や編集連。大井一矢が美人だと聞いた業界人の多くが、事実を確認しにイツキにやってくるのだ。あるいは、龍川もその手のクチか。

 「……」

 龍川は正直な若者である。黙り込んでいる。

 「アネキ、空手やってっから、変なこと考えないほうが良いよ。下手したら奥歯折られるよ」

 丸山花世は一応の警告をした。龍川の顔が僅かに引きつった。

 「奥歯?」

 「うん。前ね。アネキに襲い掛かった馬鹿がいて。それで、かかとで頬を蹴ったら奥歯が二本折れて、病院送りになった……」

 「……本当なんですか?」

 恐ろしい事実について店の主人は何も語らず、代わりに、瓶ビールと自家製のイカの塩辛が出てきた。

 「人生、長く生きていればいろいろとあるでしょう」

 女主人は穏やかに笑った。事実を肴にする酒はいつでもまずい。

 「ま、いいや……」

 丸山花世は適当に言った。若い作家は恐縮したようにカウンター席に着いた。

 「……山田さんに聞いたんです。この店のこと」

 若者は隠し事ができないタイプであるらしい。

 「大井一矢。青のファルコネットの作者さんですよね? あと、トリエステ日記とか。丸山さんの親戚だって、僕、昨日山田さんに教えてもらったんです」

 「あれ、たっつんに言わなかったっけ?」

 丸山花世の言葉に龍川は黙って頷いた。

 「アネキ、アネキって誰かと思っていたんだけど、まさか大井一矢だったとは……」

 何という粗忽。

 「それで、どうしても、どういう人なのか会ってみたいと思ってここまでやってきたんだ。バイトも早く上がったし。山田さんがすごい美人だって言うし……」

 若者は本当に素直である。あまりにも素直な若者はそのせいで自滅する。

 「丸山さんは……あんまり大井さんとは似ていないね。親戚……なんでしょう?」」

 「あんた、喧嘩売ってんの?」

 丸山花世はブラウスの下に手を突っ込んで腹の辺りを掻きながら言った。そしてそこで龍川は自分が失言をしたことを理解した。

 「あ、いや、丸山さんが不細工だというわけではなくて……」

 丸山花世は渋い顔になり、女主人は涼しげに笑った。

 「あー、もういいよ。フォローは。見苦しくなるだけだから」

 少女は言い、恐縮したガテン作家はうなだれている。

 「まあ、とにかくどうぞ」

 店の主人はエイヒレをあぶったものを出してくる。龍川はさらに恐縮している。そしてその日最後の客は言った。

 「えーと、その、山田さんに聞いたんです。大井さん、お店をやりながら作品書いているんだって。それで聞いてみたいことがあって。傘も借りているし、だから、こうしてやってきたんです」

 「聞きたいこと?」

 大井一矢は不思議そうに言った。

 「お店やってて、それで、作品書いて……いったい、どうやって両立させてるのかなって」

 龍川はちょっと疲れたような表情である。

 「工事現場でバイトしたり。やっぱり時間がタイトになってしまって。どうやれば時間的にうまくやりくりできるのか。悩みなんですよね」

 「そうねえ」

 大井一矢、本名大井弘子は首をかしげた。

 「僕もプロのライターですから、時間は作るものだって分かってるんです。けれどなかなか、うまく行かなくて……」

 「こんなところに遊びにやってくるのが悪いんじゃねーの?」

 大井一矢ではなくて、丸山花世が言った。

 時間は作るもの。わかっているならば居酒屋なんかに寄っている場合ではないだろう。それこそが無駄。省くべき回り道。

 「それに……たっつん、ライターは作家と違うよ」

 おしゃべりな丸山花世をアネキ分は楽しそうに見ている。

 「え? ライターと作家って違うの? 同じじゃないんですか?」

 若者は大井一矢に尋ねた。女主人は笑っただけだった。

 「作家はさ、言ってみれば恒星だよ。自分で勝手に輝く。誰もいなくても、誰に見られていなくても勝手に光る。そいつが作家だよ。ライターはそうじゃないんだよ」

 「えーと、そうなのかな?」

 物書きヤクザ殿は当たり前のことを聞くなという具合に続ける。

 「作家は船で言ったら動力船だよ。エンジンがついていて、どこまででも勝手に走っていける。けれど、ライターはそうじゃないっしょ。ライターは何か対象がないと成り立たない商売。ゲームのライターはゲームがないとできないし、フードライターは食品がないと仕事にならん。経済ライターは株が上がったり下がったりしないと書くことがない。ライターはだから帆船なんだよ。書くべき対象とかクライアントっていう風がないところでは走ることができない」

 「うーん……」

 納得がいくようないかないような。龍川は首をかしげている。

 「たっつん、ライターと作家は違うんだよ。それは、コマーシャルフィルムと映画が違うのと同じ。綺麗なコマーシャルフィルムを撮れる監督が良い映画監督とは限らないっしょ。画家とイラストレーター、漫画家とイラストレーターだって違うじゃん。似てるけれど違う仕事って結構あるんだよ」

 少女には少女の節がある。

 「たっつんも自分のことをライターなのか、作家なのか、どっちなのかはっきりさせといたほうがいいと思うよ」

 君はどっちなの? とは龍川は尋ねなかった。少女は自分をライターだとは思っていないことはいまさらに確認するまでもないこと。

 「ふーん。ライターと作家は違うか。そんなこと、僕は考えたこともなかった。同じものだと思っていたし」

 感心したような、しないような。若者は丸山花世の説の是非を頭の中で考えているようである。そして、それまで黙っていた店の主が言った。

 「そういう考え方もあるってことだから。花世は原理主義者だからね」

 「アネキだって同じようなもんじゃんか」

 「そうね」

 大井弘子は穏やかに笑っただけだった。言葉にするかしないか。その差がいかに大きいか。アネキ分と妹分の違いは結局はそこにあるのか。大井弘子はそして言った。

 「龍川君。時間をどうやって作るのか、そういうことよね」

 それは、若者の質問に対する答え。龍川は作家とライターの違いについての講義を突然頭に押し込まれて僅かに混乱しているようで、だから、女主人の言葉に一瞬ぼんやりとした表情を作った。

 「時間。仕事とどう両立させるか……それを聞きに来たんでしょう?」

 「あ、はい。そうです。どうすればいいのかなって」

 若者は頷いた。本当は……ほかにも目的があったのかもしれないが、とりあえず、今はそれだけでいい。

 「それはね、龍川君、自惚れを捨てるといいと思うわよ」

 大井弘子の言葉は澄んでいた。

 「自惚れですか? 僕は、自惚れてなんかはいないですけれど。だいたいどうして自惚れが……」

 「自分はもっと良く書ける。もっと立派に。書き直せば、もっと良くなる。もっともっと。だから時間が足りなくなる。でも、書き直せば良くなるというのは、それは本当?」

 「……」

 「適当に流せって言っているわけではないの。書き直して、苦吟して、それはとても大事なこと。でも、そうしている自分に酔っているところはないかしら? 誰かに揚げ足を取られないかと怯えている自分はいないかしら? 今の自分以上の自分がどこからにある。でもそれは、単に今の自分を嫌っているだけではないかしら?」

 丸山花世は龍川の様子を見ている。アネキ分は龍川のことを知らない。ただ一般論として話をしているだけ。

 「今、そこにある自分がそのままの自分。それ以上の自分はないんじゃないかしら?」

 「でも、大井さん、それは弱きに流れているだけではないですか? そういうのは……そういう考え方は堕落に繋がる」

 「堕落は悪いこと?」

 大井一矢は穏やかに、だが間髪をいれずに言った。まさかそういう答えが戻ってくるとは思っていなかったのだろう。若者は口ごもっている。

 「自分を幸せにしない作品は人を幸せにしないの。ダメなところがあって、おかしなところがあって、それでいいの。完璧なものを目指す必要はないの。人間は神様にはなれない。どうやっても。人間は人間。だから、私たちには許すという力があるの。私は、私の許す力を信じている。読者が私達を許してくれるということも信じている」

 「でも……でも、そんなことをしていたら……それは甘えですよ、大井さん。そんなことをしていたら読者は離れていってしまう。作品は売れなくなりますし、そうすれば……」

 龍川は惑乱している。一方の女主人はぶれない。

 「読者の人が離れていったら、何か困ることがあるの?」

 「え……」

 そこで龍川の思考は止まった。

 「読んでくれる人がいなくなって、だから、それがどうしたの? 何か龍川君は困ることでもあるの?」

 「だ、だって……それは……」

 若者は恐れているようである。一方の女主人は穏やかな顔をしたままであるのだ。

 「あなたは、本当に書くことが好きなの? 物語と触れ合うことが幸せではないの? 大事なのはそのことであって、他人があなたをどう見るか、あなたの作品をどれだけ買ってくれるか、ではないんじゃないかしら?」

 丸山花世はアネキ分の毒にはなれきっている。原理主義は姉も妹も同じ。

「他人はどうでもいいの。誰も読み手がいなくなったとしてもかまわない。大事なのは私がどう思うか。プロもアマも関係ない」

 「……」

 「向上というのは……結局、まわりの人の賞賛を得たいから。それは、見栄。虚飾。お金も欲しいし、ステータスも欲しい。欲得。本当に作品を愛することと、欲得は違うのよ、龍川君」

 それは極論。けれど、龍川のような若者にはあるいはそのような極論のほうが耳に心地よいのではないか。 

 「そう考えれば、肩の荷も下りるでしょう。ダメだったら今度。今回はうまく行かなくとも次。その次の次。そうやって輝きを一生かけて追い求める。それが物語の作り手なんじゃないのかしら?」

 龍川は女主人に見入っている。一方、花世はいつものことなので握り飯をぱくついている。説教やご高説は……まあ、アネキに任せておけば良い。

 「作家は旅人。永遠に世界を巡り続ける旅人。歩みを止めることはできない。そういうさだめ、でしょう。龍川君」

 「……旅人ですか」

 「もう少し読者の人たちを信じてあげるといいわよ。読者の人は……もちろん、おかしな作品をつかまされれば怒るでしょう。けれど、男と女の仲と同じで、一度愛した作品や作者というものはなかなかに切れないものよ」

 女主人は静かに言った。

 「作品は人。作品と人との出会いは結局は作者と読者の出会い。大事なのは良い作品を作ること以上に、私達が愛される人間になること。そのことが何よりも大切なことよ」

 女主人の諭すような言葉に、握り飯をかじっていた丸山花世が続ける。

 「そーそー! 読者にも編集にも『惚れたテメーの負けなんだよ』って言ってやりゃあいいんだよ!」

 暴論に若者はちょっと混乱したようであった。混乱した青年は相手の様子を伺うようにして訊ねた。

 「大井さん、それでは、どうすれば愛される人間になれますか?」

 愛される人間は何もしないでも愛されるのではないか。少なくとも丸山花世は特に努力をしていないが、たいていのことは許される得な人物のように見える。女主人は穏やかに言った。

 「幸せになることよ」

 「……」

 「不幸な人を友達とする人はいない。幸せな人、明るい人がみんな好きなの。みんな輝きを求めている」

 輝き。まぶしい輝き。勝手に輝く恒星。

 「小手先で何かしようとしてもだめ。龍川君、あなたが幸せにならないと」

 「うん。そーそー。幸せは大事だよ」

 丸山花世はテキトーに茶々を入れて、龍川の前におかれたエイヒレを勝手に奪ってしゃぶっている。

 「虚飾を愛する人はいない。龍川君。飾られた万言の台詞は、幸せな人間の本心の一言に負けるのよ」

 女主人ははっきりと言い切った。それは龍川にとってはそれまでの人生を覆す言葉。努力に努力を重ね、苦悩に苦悩を重ねて……結局全ては無駄だった! 

 「幸せ、か……」

 若者はぽつりと言った。

 「……難しいですね。それは。幸せになる……うん。それは、文章を直すよりもよっぽど難しい……僕には、本当に難しいですね。僕は……」

 途切れ途切れに若者はつぶやいた。若い作家は何かに思いをめぐらせている。

 「そう言っている私も、本当に自分が幸せかどうかは分からないのだけれど。ただ、そう思い込んでいるだけなのかも。花世は……そうね。花世は幸せ?」

 女主人は若者のことを傷つけないようにそのように言い、それを受けて小娘は言った。

 「あー? うん。幸せなんじゃない? 不幸じゃないから」

 その能天気さ。明るさ。意味も無ければ根拠も無い自分に対する信頼感。それが自走できる機関付きのスクリュー船の所以。ただ、百万馬力のエンジンを抱えた丸山花世は、困ったことに舵がないので、どこにたどり着くのか誰にも分からないのだ。

 「結婚詐欺師の言葉よりも、普通のニーちゃんのプロポーズのほうが気が利いてるってことだよね。たっつんも、結婚詐欺師にならないほうがいいよ。女泣かせる奴、まともな死に方しないからさ」

 少女は適当に言った。それを聞く若者は何事かを深く考えている。

 「それよりもさ、たっつん、ノルマ、ちゃんとやってよ! もう時間押してんだからさ!」

 丸山花世は最後のエイヒレを奪うと口の中に放り込んだ。龍川は、なんとなく浮かない顔をしている。

 ビール瓶には水滴が浮いている。

 地上はまだ雨が降っているのか。

 

 パソコン画面を見ながらキーボードを叩く。

 「よし……終わった……」

 丸山花世は頷いた。

 メールで指示を出し、その返信を確認。こちらで書いた原稿を添付したメールを送り、イラストの確認。それから分隊の部下から上がってくる原稿の確認。確認した原稿をつなぎ合わせ、張り合わせする。

 龍川とイツキで話をしてから七日後。

 編集者岡島の期限を一日遅れたが、ついに前代未聞のパッチワークのエロ小説は完成した。

 小さな雪深い王国で起こる淫らにして安っぽい物語。

 けれど、それは物書きヤクザを筆頭に、仲間達が必死の努力で完成させたもの。まさに血と汗の結晶。

 「うーん。できた……いいのできたんじゃないの?」

 物書きヤクザは少し興奮している。

 「テキトーにやったにしては、うん。いいね、いいね……少なくともとチンゲヌスよりはましだっつーの!」

 少女は作品を見返している。

 鎧に犯されるハイミス、ヨハンナの屈辱。純潔を守ろうとして果たせず、堕ちて行く女王の敗北と恍惚。気丈なヘンリエッタの戸惑い……丸山花世が率いた分隊の兵士達はそれぞれが最高の力を発揮している。

 「こりゃー、女の私が見ても、ぞくってくるねー! うんうん! これは……これは、そこそこの傑作だな」

 少女は頷いた。伊澤、山田、龍川と、三人の分隊員の違いについては丸山花世はなるべく消したつもりである。もちろんそうすることは、本人達の了承を得た上であるが、それでも、塗りなおした文字の下に透けて見える原画の色は完全に消しきることが出来ないし、そのようなことが不可能であることは物書きヤクザ自身も理解している。

 「やっぱ、三人とも雰囲気が違うよなー。手堅くて王道の伊澤のおっさんに、ひねた言い回しの山田のダンナ。で……」

 龍川の書いたヘンリエッタには……僅かに苦悩と迷いがあるように丸山花世には感じられた。

 ――これで良いのか。これで。

 作品に対する問いかけは、多分、龍川自身への問いかけ。

 自分の書き方はこれで良いのか。自分の作品はこれで良いのか。自分は愛される人間か。自分は幸せか。幸せなのか。

 自分に対する問いかけがヘンリエッタの言葉に表れ、行動に顕れている。龍川の思いが作品に深い陰影を与えている。

 「作品は人。作品は人生。作品は人生の交差点」

 作家達。編集。そしてイラストや校正。取次ぎであるとか販売員。そして読者。一冊の本は、人生そのもの。

 「こういうことか。こういうことなのか」

 アネキ分の受け売り。自分で口に出して言いながら、実は少女はその意味を理解せず、エロのライトノベルを一冊仕上げて、そこで、ようやく自分が語っていた言葉の意味を理解したのだ。

 「消費されていくだけ。だからこそいとおしい、か」

 誰にも見向きもされない日陰の仕事。けれど、だからこそいとおしい。その作品に出てくる登場人物たちがいとおしい。そこで必死になって働いている連中がいとおしい。物書きやくざは楽しそうに笑うとこうつぶやいた。

 「今となっちゃあ豊中アンジーでさえいとおしいやね」

 時刻は十一時を過ぎる。

 まだ岡島は編集部にいるだろう。

 「こいつを送信すればそれでおしまい、と……」

 丸山花世はメールに原稿を添付すると、そのまま送信ボタンをクリックした。これにて任務は終了。

 「ふいー」

 小娘は意味不明な奇声を上げた。ちなみに作品のタイトルは岡島が編集会議で決定すると、そういうことであるらしい。

 「あー、くそ、なんか、もう春休み終わりじゃんか。エロラノベだけの休暇ってなんだよそれ」

 全ては終わり。

 これにて一件落着。そして、栄光無き勝者を称えるようにして、少女の携帯電話が鳴った。

 「お、オカジーか?」

 ――やりましたね、丸山さん! 脱稿ですよ!

 編集殿の歓喜の声を予期して丸山花世は軽く笑った。物書きヤクザたちは立派に仕事を終えたのだ。誰にも賞賛されない、ハサミムシの功績。けれど、そこには間違いなく人間の苦悩のあとが残されている。丸山花世は自分達の小さな仕事に満足しているし、それは岡島も同じなはず。

 「あれ?」

 携帯を手に取った少女は胡乱な顔をする。着信の表示は……。

 「なんだ山田のダンナかよ」

 電話を寄越してきたのは編集ではなく、何故か山田。

 「……競輪の誘いかね?」

 丸山花世は菜園男とは前回の電話の打ち合わせで、競輪を一緒に見に行こうという約束をしていたのだ。で、あれば、あるいはその誘いか。

 「はい、もしもし?」

 少女は状況を理解しておらず、で、あるから言葉がいかにも明るい。仕事も終えて、気分的に重石の取れた状態になっていたのだ。

 ――あ、よかった、つながったか……。

 山田の語調は明らかにおかしかった。

 「どしたん、山田のダンナ……」

 ――うーん……。

 菜園男の口は重い。

 「なんか……作品のことでまずいことが起こった?」

 努力はしたけれど編集サイドの諸事情で結局はお蔵入り。この仕事ではよくあること。もっとも仮にそうだったとしても花世にとってはどうということもない。作品は作ることに意義があるのであって、売り買いはどうでもいいこと。

 ――ああ、いや、そうじゃないんだが……。

 「うん?」

 ――その、たっつんのことなんだが……。

 「たっつんどうしたの? たっつんのパートはおとといにはもう全部あがっていて……だから、問題もないんだけれど。ってか、作品だったら、もうオカジーのほうに全部送信したよ。書き直しとかはだからもう無理で……」

 ――龍川綾二な、死んだんだ。

 「……は?」

 丸山花世は相手が言っている意味が分からず、だから怪訝な顔を作った。

 「何だって?」

 ――龍川綾二な、死んだんだよ。

 それは理解に苦しむ言葉であった。

 「死んだって? 何が?」

 山田は一瞬だけ口をつぐんだ。

 「死んだって、たっつんが? ええ? この前……ついこの前会ったばかりで、作品もおとといか、メールで送ってもらったばかりで……はあ?」

 相手の言っていることがよく分からないので、少女は惑乱している。そんなに簡単に人は死ぬのだろうか? 少女のまわりの人間は……少なくとも両親や親族は、つつがなく大過なく生きている。昨日今日会って突然この世からいなくなるなんて、そんな失礼な話は聞いたこともない。

 「あのさ、ダンナ、そういう冗談はやめたほうが良いよ。もういい年なんだからさ」

 花世は口笛を吹くようにして言った。人の生死をギャグにするのはいただけない。そして山田のほうは自分の発言をジョークだとは言わなかった。

 ――岡島さんからも連絡行くと思う。俺は無理だけれど、山形か、お通夜に行くって言っていたから……。

 「……」

 少女は口を閉ざした。それは事実。

 ――事故だったってことだ。昨日の夜か、現場から帰るときにトラックにはねられて。ほとんど即死だったみたいだ。

 「ね、ねえ、ダンナ、それ本当なの?」

 本当だ、とは山田は言わなかった。事実だからこそ言いたくないということがある。

 「だってさ、おとといだよ、メール貰ったの。ダンナと競輪、見に行こうって約束した次の日で……」

 ――もしかしたら伊澤さんからも連絡いくかもしれない。あの人も相当ショックを受けていたみたいで……。

 「……」

 ――たっつんさ、山形の大地主か何かのご子息で。なんか家庭環境がいろいろと複雑みたいらしくてさ。後妻か何かの子、なんだよな、たっつん。で、、オヤジとなんかもめてたみたいで。それで東京に出てきたんだって、以前、そんな話を岡島さんから聞いたことがある。

 それは先般、龍川が話してくれたこと。負け犬のようになって逃げ出した素封家のお話。あれは、自分の父親の話であったのか。そうではないかと丸山花世も思っていたのだが……。

 ――そういうことなんだ。とりあえず伝えたからな。

 「あ、うん……」

 ――競輪見に行くのは、また今度な。

 「……」

 山田は電話を切りかけ、そこで丸山花世はあわてて言った、

 「あのさ、ダンナ……」

 ――ん、なんだ?

 「今回の作品か……たっつんの遺作ってことだよね。絶筆」

 そうだな。山田は言った。

 「それって……それって、いいのかな。そんなので。そんなふうなのでいいのかな……こんな、エロラノベが絶筆だなんて……そんなの、たっつん気の毒に過ぎないかな。もっと、もっと、いろいろと書きたいことってあったと思うんだ。もっと……」

 世の中にはくだらない連中であふれている。物書きヤクザに言わせれば、こいつは死んだほうがいいというような連中が大手を振ってのさばっている。一方、龍川は薄幸にして夭折した。何かおかしい。何かが間違っている。

 「もっと……そう、もっと、いろいろなものを書いてみた見たかったと思うんだ。たっつんは、阿諛追従が得意なだけのチンピラライターとか、編プロに入って仲間内で仕事回しているような、そんな奴らよりもずっと実力があって……だから、こんなのはやっぱりおかしい。何かが間違っている。底辺の底辺で……それで、そのまま日の目も見ず死んでいくなんて、そんなの世の中狂ってるよ」

 丸山花世は吼えた。山田は少しだけ沈思して、それから言葉を選ぶようにして言った。 

 ――丸山ちゃん。たっつんのことを褒めてやってくれ。真剣に生きたあいつのことを。何万の人間の羨望交じりの賞賛よりも、たった一人の真心のほうが遥かに価値があるんだ。

 「……」

 通話は途切れた。

 そして、残された少女はぼんやりとするばかり。

 「こんなのは……おかしい。おかしいよ……」

 

 エピローグ

 

 夜。新橋。

 四月の風には僅かだが次の季節のにおいが含まれる。遠く、中年男がカラオケでがなる歌声が聞こえてくる。

 小さな廃校。

 人気の無いかつての小学校のブランコの上に丸山花世は腰を下ろしている。

 八重桜が美しく咲き誇り――そして、ネオンの明かりと焼き豚の煙。足元には茶色い猫がまるで瞑想する禅僧のようにして座っている。

 「……桜、か」

 今年も丸山花世は桜を見られた。思えば……人が生涯に眺める春の風景は限られているのだ。来年も桜の下で会おう。そう約束しても必ずしもそれが果たせるとは限らない。

 「……たっつん、か」

 少女は少し憂鬱な表情になっている。そんな表情を彼女が作ることは実はまれなこと。自分が中心。自分が世界の中心。実際にはそうでなくても、世界の中心。傲慢な小娘は、だから内省であるとか反省、後悔ということをあまりしない。何かあったとしても『酸っぱいブドウ』で済ませてあとはさっさと忘れてしまう。けれど、そうできないこともあるのだ。

 若い作家。一緒に戦った戦友。あっという間にこの世を駆け去っていった同業者。少女はその相手のことを思っている。

 「……エロラノベ、か」

 丸山花世は岡島から貰った新書を手にしている。刷り上ったばかりの見本。

 ――黒ノ杜都ノ物語リ

 カタカナ交じりの奇妙なタイトルのエロラノベ。

 それは、丸山花世の作品にして、仲間達の苦闘の結晶。作者は龍川綾二。

 ――作者は……作者はたっつんにしよう。

 丸山花世は伊澤や山田、そして編集殿にそのように提案をし――そして、その提案に誰も反対するものはいなかったのだ。だから、作者は龍川綾二。ほかの名前などありえない。

 「早死には……まわりがびっくりするよね」

 丸山花世は八重桜を見上げるようにしていった。それは死んでしまった友達に対する言葉。お互いの物語をやりとりすることは魂をやり取りすることと同じ。少女は自分の魂の一部が消えてなくなってしまったような錯覚を覚えている。それは、丸山花世だけではない。伊澤も、そして山田も感じている痛み。

 丸山花世もそうだが、仲間達は若い作家の死を惜しんでいた。

 こんなところで。こんなことで。まだ若いのに。何故。

 葬儀に赴いた編集殿も憔悴しきっていた。原稿を取るための新幹線代は出ないが、葬儀に出るためだったら自腹を切る。なかなかに男らしい岡島のことを丸山花世は大いに見直していたのだ。

 「……お知らせ」

 丸山花世は街灯の明かりの下の、新書の一番おしまいのページに目を落とす。あとがき。普通であれば、作者の駄文が乗せられるページには岡島の言葉が書き記されている。

 ――大変残念なお知らせです。本作の作者である龍川綾二氏が去る三月二十八日に事故で急逝されました……。

 そんな一文を読まされる丸山花世の気分も最悪だが、そんな一文を書かざるを得なかった編集殿の気持も最悪だったのに違いない。

 「……なんでこんなことになっちったのかなあ」

 丸山花世はぼそりと言った。

 なんで。何故。どうして?

 答えは出ない。

 そして。ぼんやりしている少女の背後に足音があった。なんとなく気配で察するということがある。少女は人影に振り返らなかった。

 「花世……」

 声をかけたのは大井弘子。エプロンを外してジーンズ姿になった女主人は残り物の食材を入れたタッパを抱えている。

 「学校、サボったの?」

 少女はアネキ分の質問には答えなかった。学校は生き死にに比べればたいした問題ではないはず。

 「アネキ」

 丸山花世は難問に途方にくれたようにして言った。この問題は、残念なことに解法が存在しないのだ。

 「なんでこんなことになっちったのかなー。こんなに簡単に人って死んでいいものなのかなー」

 少女は悲しいというよりも不思議なのだ。

 「たかがエロラノベ。六千部売れれば御の字のニッチな本。そんなもののためにたっつんは命を削ってた。それで、死んでしまった」

 大井弘子は黙って聞いている。

 「そんなことするだけの価値ってあったのかな。たっつんは、そんなことをしてないで、フツーに学校に行って、就職して、結婚して。そうしたほうが幸せだったんじゃないかな」

 丸山花世は岡島から聞いた葬式の話を思い出している。

 ――お父様は憔悴しきっていました。息子のことを最後まで理解できなかったって。

 「残っているのは、後悔ばっかりでさ。こんなんでよかったのかな。私らは、ホントに正しいことをしたのかなって。もうちょっと、みんながうまくいく方法ってなかったのかな」

 それは結果論。ありえない架空の話。

 「たっつんって、何のために生まれて来たのかな。何のために。ただエロ小説を何冊か書くために? それだけのために? たっつん、幸せだったのかな?」

 「それは」

 大井弘子は一呼吸を置いて言った。

 「幸せだったでしょう」

 その一言があまりにも断定的だったので、丸山花世は振り返ってアネキ分の顔をまじまじと見上げた。

 「幸せだった。決まっているでしょう」

 居酒屋の女主人の言葉はひどく澄み切っていた。まるでどこか別の世界から響いてくるような声。物語の神様が下りてきて、女主人の唇を通して発している。そんな透き通った言葉。

 「最後まで真剣に自分に向き合って、仕事に取り組んで。それで、誇れる仲間とめぐり合えた。そんな人生を不幸と思うのは、龍川君の人生にたいする冒涜よ」

 アネキ分の言葉に丸山花世はブランコの上で小さなため息をついた。

 「誇れる仲間……か。私が誇れる仲間か。そうかね? だといいんだけど」

 少女は無意識にスカラベのペンダントを指先で弄んでいる。女主人は続ける。

 「ときめきを感じる作品に関われることができるのは、本当に一部の作者だけなの。心の底から『携われてうれしい』って思える仕事に巡り合えるのはごく僅かな作り手だけなの。それは、一流の人間の特権なのよ」

 「特権ね。たっつんは、一流だったのかな」

 「それはもちろん一流に決まっているでしょう。こんなに貴女に大きなものを残して言ったのだから。二流の人間は普通は誰にも、何も残していかないのよ」

 寂しさを残していくのだったら、何も残さない二流のほうがありがたいのではないか。

 「龍川君は本当の意味で作家だったんでしょう。輝きを持つ本当の意味での作家」


 大井一矢がそう認めたのだったら、多分、そうなのだろう。それは、妹分にとっては僅かだが心の慰めとなるもの。。

 「そっか。たっつんは一流だったのか。アネキが言うんだったら、間違いないよな……うん。間違いない」

 少女はちょっと淋しそうに笑った。

 「でもやっぱり、ちょっと淋しいよなあ」

 少女の友達は来年の春を臨むことはないのだ。そして、少女は、

 ――あれはひどい仕事だったよなあ。

 と語り明かす相手を永遠に失った。

 「春は、追い立てられるみたいで嫌いだよ」

 物書きヤクザはブランコの上でつぶやいた。

 夜風に八重桜のぼってりした花が揺れている。 



  
















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