新しい友達

 その夜、私は夢を見る。

 夢にはお父さんが出てきた。そして私も。

 八才の私はずぶ濡れで、大口を開けて泣き喚いている。それをやはりずぶ濡れのお父さんが、どうにか泣き止ませようと必死になってなだめていた。

 そんな惨状を、十四才の私が上から覗き込んで見ている。実に申し訳ない。私を怒鳴りつけてやろうと声を出しかけたところで肩に手を置かれた。お父さんだ。

 お父さんは微笑みながら声をかけてきた。


「あれはあれで、後から愉快な思い出になるんだよ」

「そうなの?」

「そうだよ。あの時はどうしようかと思ったよって、お母さんと笑い合ったもんだよ」

「それはそれで恥ずかしいよね」


 聞いただけで顔が赤くなる。


「迷惑かけられているうちが幸せなんだ。今はもう、無理だからね……」


 お父さんの表情が急に曇った。


「行かないで! お父さん!」


 遠ざかっていくお父さんを追いかける。でもどんどん距離が離れていく。


「さようなら、さようなら、さようなら」


 お父さんが私を見送るみたいに手を振る。お父さんの方が遠ざかっているのに。

 違う。離れていってるのは私の方?

 私は離れたくないんだよ? でも時の流れが私を押し流し、お父さんとの距離はどんどん大きくなってしまう。


「さようなら、さようなら、さようなら」


 お父さんが遠くなる。でも、お父さんは決して消えてしまわない。ずっとずっと、見つめてくれている……。




 翌日学校から帰ると、私は借りていたカメラを持って『宝蔵寺記憶写真館』に向かった。

 そこは私の家の最寄り駅から二駅行った先の駅の脇にあるマンションで、正直言って、小汚い。

 動きのぎこちないエレベーターで三階まで行き、ヒビの入った窓やら壁やらを眺めながら歩いていくと、一番奥の扉に『宝蔵寺記憶写真館』という左上端の欠けた看板が貼り付けてあった。

 インターホンを押しても応答がない。電車が通り、建物が揺れる。どうしたものかと思っていると、急に横の部屋の扉が開いた。


「あ、悪い悪い、家で寝てたよ」


 タンクトップの若子さんだ。

 若子さんは『宝蔵寺記憶写真館』の事務所の隣に住んでいた。それが楽でいいらしい。

 やっとこさ通された事務所は、やはり小汚かった。リビングを応接室にしているようだが、今座っているソファも含めて部屋全体が埃っぽい。壁際の棚に収まりきらない物品を詰めたらしい段ボール箱が床に転がっている。

 カメラはごちゃごちゃの棚の中にしまわれた。大事な商売道具なのに、あんなんで大丈夫なのかな? まぁいいか。


「で? 首尾はどうだった?」


 紫のタンクトップにベージュの短パンの若子さんが、ペットボトルのお茶をそのまま持ってきた。そして私と向かい合ったソファに身を沈めると、サンダルを脱いでムカつくくらいきれいで長い素足をテーブルの上に投げ出す。


「んー、まぁねぇ」

「あ、まだ教えてくれないんだ?」


 どうしようか。でも、昨日より私の気分はずっと晴れている。自分の中で凝り固まっていたものが幾分か溶け出たのだ。いいかな、この人になら。


「まぁ、その、納得しきれてませんけど、ちょっとだけ理解しました」

「なんだそりゃ?」

「お母さんが浮気したって、ずっと思ってたんだよね」

「浮気か……、なるほど、それは言いづらいよね」

「でもね、お父さんって三年前に亡くなってるんだよ」

「じゃあ、浮気じゃないよ」

「だよねぇ。そうなるんだよねぇ、世間的には」

「ああ、納得できないんだ、思春期の少女は」

「そういう言い方はどうかな?」


 それこそ納得できなくて首を傾げてしまう。


「お母さんっていってもまだ若いんだろうし、恋のひとつやふたつくらいしてもいいじゃん、別に」


 両手を頭の後ろにやってそんなことを言う。


「なんか、他人事みたいだよね」

「そりゃあ、赤の他人だもの」

「そりゃそうか……」


 親身になって話を聞いてくれると思ったらこれですよ。


「恋は置いといてもさ、誰か隣にいて欲しいってわけでしょ?」

「そんなことを言ってた」

「一人だとお母さんもいろいろ大変だろうしねぇ」

「いや、私がいるでしょ?」


 ここはちゃんと主張しておきたいところだ。


「何言ってんだよ、むしろお荷物じゃん」

「はっきり言うよね」


 口を尖らせてしまう。


「はっきり言うのが友達なのさ」

「友達? さっき赤の他人って言ったじゃない」

「友達ってのは赤の他人だよ、当然。赤の他人だから、何でもずけずけ言えるのさ。いいもんだよ? 友達ってのは」

「そういうもんですかねぇ」


 私には今までそんな友達はいなかった。せいぜい一緒に遊ぶ程度。


「やっぱりキミはまだまだお子様ってことだよねぇ。せいぜいお荷物にならないよう頑張ることだ。そしてお母さんの幸せもちゃんと考えてあげる」

「お母さんの幸せ?」

「そうさ。お父さんのことはお父さんのこととして、新しくできた一緒にいたい人と寄り添って生きてく。それがお母さんの幸せ」

「私だけじゃ幸せじゃないんだ?」


 その辺りがまだ納得できない。


「愛する我が子の知鳥ちゃんが側にいるだけでも幸せかもしんないけどさ、愛する男の人と一緒に生きてくってのは、また違った女の幸せなんだよ」

「女の幸せ……」

「母親であると同時に女でもあるからね、キミのお母さんも」

「ずばっと言っちゃうよね」


 なんだか生々しい。お父さん以外の男の人と一緒にいるのがお母さんの女としての幸せだなんて、あんまり聞きたくない話だ。


「友達だからね。お母さんが言いにくいことでもずばずば言っちゃう」

「はぁ……」


 若子さんが伸びをして立ち上がる。そして私の側に立つと、頭を軽く叩いてきた。


「知鳥ちゃんと、お母さんと、その恋人さんと、三人で支え合って生きていけばいいんだよ」


 三人か……。お母さんはお父さんを忘れていない。その上で新しく一緒に歩きたいと思える人を見付けた。そしてその人と生きていくのがお母さんの幸せ。どんな人なのだろうか。一度くらいは会ってみないと、何も分からないのかもしれない……。


「じゃあ、とりあえず相手の男の人と会ってみるよ」

「そうしてみなよ」

「どれほどの男か、じっくり見極めてやる。どう足掻いても、お父さんより格好いいなんてあり得ないけどね」


 にやっと若子さんに笑いかける。


「このファザコンめ」


 頭にチョップを食らわせてきた。


「ファザコン上等だよ」


 胸を張ってやる。


「まだ亡くなったの認められないとか?」

「認めたくないけどね。でも分かってる」


 お父さんはもう戻ってこない。本当はとっくの昔に分かってる。私は全部を受け入れられていないけど、それでも少しずつ顔を上げていこうと思うんだ。夢で会ったお父さんは、どんなに遠く離れてもずっと見てくれていたんだから。


「それならいいさ。じゃあ、まずはここの掃除してもらおうかな」

「え? 何の話?」

「いや、あんな貴重なカメラ、タダで貸すわけないじゃん。これから知鳥ちゃんには助手やってもらうから」

「はあ? 聞いてないんだけど、そんな話!」

「今初めて言ったんだから、初耳に決まってるよ」

「せっかくいい人だと思ったのにっ!」

「世の中そんなに甘くないってことさ。キミはまだまだ知らないといけないことが多いねぇ」


 そう言うと、口を目一杯横に広げた意地悪な顔をこっちに向けてきた。

 畜生め。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

若子さんのカメラと記憶の中の光景 いなばー @inaber

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ