私たちの写真

 お母さんが手にしていた写真を放り捨てる。


「何、今の?」


 お母さんの手から離れた写真は、どこかの男にネックレスを着けてもらっているお母さんの画から、今のお母さんが写った状態に戻っていた。

 思ったとおりだ。ネックレスの話を持ち出したら、そのネックレスに対する一番の記憶、つまりはそれを誰かから贈られた時の記憶が写し出されるはずだった。

 そしてネックレスをお母さんにプレゼントした人というのは、当然お母さんにとって特別な人……。


「今の誰?」


 私は冷たく問いかける。


「いや、今のは……」

「私、分かってたよ。お母さんは時々いつも以上におめかしをして会社に行く。その、最近になって着け始めたネックレスをハンドバッグの中にしまってね。そしてそんな日は必ず帰りが遅くなるの。今朝ネックレスに気付いたから、私は学校に行くのをやめたんだ」

「学校は関係ないでしょ……」

「行く気になれるわけないよ。お母さんが何をしてるかって考えたらさ。そりゃあ、お母さんだって、たまには羽を伸ばしたい日だってあると思う。ずっと仕事と子供の世話ばかりじゃ疲れる一方だもんね。でもさ、ものには限度ってものがあるんだよ」

「話を聞いてよ……」

「これって裏切りだよね!」


 ずっと我慢していたのに大声を張り上げてしまった。胸の内から湧き出る思いを止められない。


「う、裏切りって何よ?」

「裏切りじゃない! お父さんを裏切って、他の男なんかと付き合ったりしてさ!」

「お父さんは……あなたのお父さんは、もう亡くなってるの。三年も前に」

「三年前も昨日も変わらないよ! お父さんはずっとお父さんだ! 裏切るなんて、私は許さない!」


 立ち上がって強くテーブルを叩く。

 お母さんは慌てたように、何故か髪を整えている。


「でも三年なのよ。いい加減、私達も前へ進まないといけないの」

「そんなわけない! お父さんが知ったら悲しむよ! お父さんが帰ってきた時どうするの!」

「もう帰ってこないのよ!」


 お母さんも立ち上がっていた。私の両肩に手を置いて言い聞かせてくる。


「もうお父さんは帰ってこないの。残された私達は、私達の道を歩かないといけないの」

「触らないで!」


 苛立つ私はお母さんの手をはね除けた。


「分かってよ……私は今のまま一人で歩いていけないの。誰かと支え合う必要があるのよ」

「一人? 私がいるじゃない! お父さんだっているじゃない!」


 私は涙にまみれて前もよく見えなくなっていた。


「それだけじゃ駄目なの。あの人は私達と一緒に歩いてくれる。知鳥にももうすぐ紹介するつもりでいたけど……」

「イヤだよ、そんな人! 赤の他人なんて、なんで紹介されないといけないの! お父さんがなんて言うか!」

「お父さんは忘れなさい!」

「はあ?」


 信じられないことをお母さんの口から聞いてしまった。信じられない……。


「ごめんなさい。今のは違うの……」


 お母さんがうつむく。ただ勢いに任せて言っただけ? それとも今のが本音?


「お母さんは忘れたかもしれないけど、そうかもしれないけど! 私の中ではまだお父さんは生きている! ほら、お父さんは生きてるんだ!」


 私は涙を拭うと、もう一つ持っていた私が写った写真をお母さんに突き出す。そこには私をなだめるお父さんが写っている。


「政弘さん……」

「そうだよ、お父さんだよ! お母さんはもう、忘れたかもしれないけどねっ!」

「違うのよ!」


 お母さんが私の手から写真を奪い取った。


「私だって政弘さんを忘れたことはない! 忘れるわけないでしょ!」


 お母さんが手に持つ写真は、いつの間にか画が変わっていた。そこには赤ん坊が写っている。私?

 その私を抱えているのは……若いお父さん。そして若いお母さんも横から私を覗き込んでいた。


「私たち?」


 私にはその写真の意味がとっさに理解できない。


「あれ? さっきと違う? これ、何なの?」


 お母さんも首を傾げる。


「この写真はね。その人の一番の思い出が写るの」


 そう、そのはずだ……。


「ええ、生まれたてのあなたを、お父さんとお母さんはこうしてかわいがってたの。一番の幸せよ」

「お父さんも写ってる。お母さんの記憶には今でもお父さんが?」

「当たり前じゃない。お父さんを忘れるなんてできない。お父さんはいつでも私達と一緒よ」


 お母さんが私に微笑みかけてくる。

 そうなの? お母さんもお父さんを忘れてなんていない?


「知鳥は難しい赤ちゃんでね。毎日毎日よく泣いてたわ。あやしてもあやしても、夜中もずっと泣くの。本当に困ったわ」


 少し肩をすくめるお母さん。そういう話は前にも聞いたことがある。私には随分手こずらされたと、お父さんは笑って言うのだ。


「お父さんはそんなあなたを夜中もずっと抱いて揺らしてあげた。そうするとようやく知鳥は寝息を立てるの。明日も仕事があるし早く寝ないと、って言ってもお父さんは知鳥を抱き続けたわ。その横顔は、本当に幸せそうだった。今でもすぐに思い出すことができるわ」

「でもさっき……」

「ごめんなさい、言いすぎたわ。ただ……後ろだけを見ていたら駄目なの。前を見て、歩いていかないといけないの」


 お母さんが私の肩を揺する。その手からお母さんの体温を感じる。


「前を見て歩くの? お父さんは置いてけぼりになっちゃわない?」

「お父さんは、後ろからずっと私達を見守ってくれている。それを頼りに、前へ進むの」

「イヤだよ。私はお父さんを置いていけない……」


 私はうなだれしまう。


「今すぐでなくてもいい。でも、あなたにも前を向いて欲しいの」

「お母さんはもう前を向いてしまって、新しい男の人を見付けたんだ?」

「ええ……あなたにはショックかもしれないけど、私は見付けたの。これから、一緒に歩いてくれる人を」

「そうなんだ……」


 私はお母さんの手を取ると自分の頬に当てる。温かく、柔らかい手。この細い手で、お父さんとの間に生まれた私を今まで育ててくれた。お母さんはお父さんを裏切ってなんていない。今でもお父さんを大事に想っている。それだけは、よく分かった。


「ごめんなさい、こんなことになって。もっと前から話し合っておくべきだったわ」

「うん……私もごめん。お母さんに酷いこと言った」


 私はお母さんの手をぎゅっと握る。

 お母さんはいつまでも私の頭を撫でてくれた。

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