026 霊力

「こんにちハロー、よく来たね将くん」

「こ、こんにちは……」

 昼休み、将は美香先生に呼ばれて保健室を訪れていた。どうして昼なのかといえば、彼女曰く、「ああ、私、朝は弱いから。ちょっと遅く登校しちゃうのよねー」ということだった。出席簿を届ける朝にいないのは、このためかもしれない。保健室とはいえ教師がそれでいいのか将には疑問だったが、深く考えないことにした。


 保健室は空調が効いていて、ソファと、カーテンに囲まれたベッドが置かれ、微かに医薬品の匂いが漂う居心地の良い空間だった。

 部屋の一番奥には机があり、美香先生はそこで待っていた。彼女が座っているのと同じ丸椅子に将は向かい合って座る。少し落ち着かなくて、視線を動かしてしまう。


「あっはは、誰もいないから大丈夫よ」

 先生は朗らかに笑い、自分の膝を軽くぱんと叩いた。



「さて、将くん。これからのことについてお話ししましょうか。私はあなたを全力でサポートしたい。そのために、あなたのことをもっと詳しく教えて欲しいのだけど、そこんとこ、どう? 踏み込んであれこれ訊いても、構わない?」

「それは、願ってもないことですけど――答えられることなら、なんだって答えます」

「うんうん。サポートって言うのは、たとえばあなたが変身しちゃった時の避難場所として此処を提供することよ。他の生徒がいるかもだけど、そこはなんとか誤魔化します。理想は、あなたの変身する周期を割り出して、事前に対応できるようにすることだけど」

 それは、本当に願ってもないことだった。誰かに自分の事情を聞いてもらえるだけで充分だと思っていたので、避難所をくれるなんて露ほども考えていなかった。


「でも先生、ひとつだけ気になるんですけど、どうして今まで一度も呼び出しとかしてくれなかったんですか? 俺のこと、色々調べてるって言ってましたけど」

「うっ」

 相手の顔がひきつる。どうも地雷だったらしい。


「いや、私も色々忙しかったし! 上に掛け合って準備する必要もあったし! それに将くんてば、ほぼほぼ完璧に猫化を隠し通してたし!」

「は、はあ。別にそんなに気にしてないんですけど……そうですか」

「じゃ、じゃあさっそく訊いてくわね、まずはと――」

 なんだか強引に話を戻されたが、それから将はひとつひとつ、できるだけ丁寧に答えようとした。霊猫、ぎんに出会ったのはいつなのか、どれくらいの変身をこれまでしてきたのか。今は五日に一回ほどの頻度で猫になることや、霊能力が扱えるようになったことも話した。先生は頷きながら、パソコンの中のカルテに書き込んでいった。彼女は全てに興味津々という様子だったが、一番大きく反応したのは、将がやえと生身で戦ったということだった。


「あの状態のやえちゃんに立ち向かって無事だったのは、奇跡としか言えないわ」

「やっぱり、あいつは滅茶苦茶強いんですか」

「強いって、そりゃ人間じゃないしねえ。比べることがばかばかしくなっちゃうもん。人狼って名前だけで大体イメージできると思うけど、怪力や脚力があるのに、その上人間の頭脳があるから」

「それは……もう出会ったら最後って感じですね……」

「いやもう、本当その通り。でも逃げることも難しかったのかな――妖怪は霊力が高いものに惹かれるからねえ。やえちゃんは抑えが効かなくなったんだと思うわ」

 それを聞いた将は、長い間抱えていた疑問を口にすることができた。


「霊力って、なんなんでしょう? テレパシーとか透視とかの、霊能力とは違うらしいんですけど」

「お。よく知ってるねえ」

 美香先生はやえにしたように、将の頭を撫でた。


「…………」

 こう、子供を相手にするように接せられると困ってしまう。そりゃあ、先生から見たら高校生なんてガキなんだろうけれど。

 やがて満足したのか、相手は撫でるのをやめて言った。


「霊力っていうのは、妖怪にとっての血液、と言えばいいかな」

「血液、ですか」

「実態のある妖怪もいるけれど、ほとんどの妖怪は血液の代わりに霊力が流れているの。それがないと、彼らはあっさり消えてしまうわ。だから霊力を求めて他の妖怪を食べるの。まあ、最低限のルールはあるみたいだけどさ、彼らの社会が弱肉強食なのも頷けるでしょ。霊猫は、なかでもかなり霊力の蓄えがある妖怪だと思っていたけれど……それが尽きてしまえば消えるのは変わらないから、栄養源が欲しくてあなたを手に入れようとしたんでしょうね」

 霊力を吸う、眷属を作る……じゃあ、あいつは吸血鬼みたいなもんじゃん。そういえば、初めて会った時、あいつは俺の血を吸って、俺をしもべにしたんだった。

 思い出したついでにその話をすると、美香先生は興奮した様子で身を乗り出してきた。


「ほうほう! 血を吸われたのね! それはどんな感覚だった? 気持ちが良かった、悪かった?」

「せ、先生……なんか楽しそうですね……」

 聞かれなかったから答えなかっただけなのだが、そういえば猫から人間に戻してもらう方法がキスであることも話していなかった。だが、これ以上の反応が返ってくると思うと話す気にはなれない。

 

「うん。言い得て妙かもね。話が逸れちゃうけど、霊猫っていうの、要は霊鬼だし。鬼っていうのは妖怪全般を指すのよ。だから霊猫が吸血鬼っていうたとえも間違いではないと思う。それにしても、うーん! 血を吸うとはね。霊猫が人間の眷属を作る方法を知ったのは初めてだから、興奮が止まらないわ」

「はは……」

 将はてきとうに笑って流した――これまでそんな知り合いがいなかったから仕方ないけれど、妖怪であるぎんに聞くより、同じ人間であり妖怪に詳しい先生から聞いたほうが、ずっと分かりやすいんだよな――将はほっと小さくため息をつく。もう少し、気になることを聞いておきたい。熱心にキーボードを叩く先生の方を見ながら、彼は訊ねた。


「じゃあ、人間の俺が霊力を持ってるのはなんでですか?」

「ん、それはわかんない。生まれつきじゃない?」

「……」

 あまりにも適当に即答されて、将は固まってしまった。相手はこちらを見もせずに続ける。


「たまにいるらしいのよ、相当霊力を持ってる人。これは修行を積めば増やせるものでもないし……洗練することはできるけど……私にはこれという理由は思い浮かばないかな」

「そうですか……」

 だが、彼の一番気になることは、それではなかった。将は思い切って言ってしまうことにする。


「ところでこの猫になる現象、治せないんですか」

 そこでようやく、美香先生は将の方を見た。


「え、将くんはどうしたいの?」

「どうしたいって」

「今すぐにでも猫化をやめたい、ただの人間で過ごしたいって言うことなら、方法はなくはないわ。だけど」

「教えてください!」

 将は思わず立ち上がっていた。だが、相手はどういうわけか口をつぐんだまま、将を見上げるだけだった。困った顔をしているようにも、悲しんでいるようにも見える。彼女はこれまで表情豊かな人だという印象があったが、今は全く感情が読めない。将は心が読めないかと試そうとしたが、焦っているせいか上手くできない。


「先生――?」

「うん。やっぱりやめましょう」

「どうして!」

 将はだんだん自分が苛々していくのを感じた。もう一度「教えてください」と言おうと、息を吸った時だった。

 彼の意志に反するように、嘲笑うかのように、全身が痺れ出した。はじめは春の海に浮かぶように心地良いが、このあとどうなるのかを将は知っている。身体が細かく痙攣を始め、まともに立っていることも難しくなった。

 将は痛みを抑えようと片手を椅子についた。手足が徐々に縮んで、深い黒の毛に覆われていく。


「こんなこと、何回も繰り返したいわけ、ないじゃないですか!」

 言葉が伝わらなくなる前にと、強く訴える。美香先生はやはり、感情の読めない顔をして将を見つめていた。そんな目をしないで欲しかった。いっそのこと先程までのように、変身の実況をしてちょうだいと、食いついてきてくれたほうがましだった。


「方法ってなんですか!」

 もう、この声が人のものか猫のものなのかも分からない。将は観念して変身に身を委ねた。抵抗したところで、どうにもならないことは彼が一番よく知っていた。今や手は椅子に届かなくなったし、制服は形を保てなくなった。そんな将を見下ろしながら、彼女はゆっくりと口を開いた。



○●○●○●



 ぎんは昼休みが終わる頃にやってきた。

 この姿で授業を受けるわけにもいかない。将は教室には戻らず、保健室のベッドの上に座っていた。今の姿は猫なのだからとベッドの下にいようとしたのだが、美香先生がそれを許さなかった。


「どんな姿であろうと、あなたは人間なのよ。将くん」

 確か、そんな風なことを言っていた気もするが、よく覚えていない。なんだか頭がうまく働いていなかった。

 だから、ぎんがカーテンの隙間からやってきた時も、将はぼんやりと宙を見つめたままだった。


〔……どうした?〕

 ひらりとベッドの上に飛び乗って、ぎんが将の顔を覗き込む。……彼女が一部始終を知らないはずがないのだが、こうして聞いてくるということは、今の将の心情が分からないのだろう。


〔ほれ、人間の姿に戻してやるぞ〕

「……今はいい」

〔――何?〕

「なんていうか、そういう気分じゃない」

 顔を逸らしながら将は言った。ぎんは少し間を置いて、訊ねてきた。


〔先刻からそちの様子がおかしいのは感じておった。じゃが、何がそちをそうさせたのか、妾には分からん〕

「……そうだろうなとは思ったよ」

 ぎんは妖怪だ。人間とは違う常識を持っていて、違う世界に生きている。妖怪の世界は、たぶん、思っているよりずっと弱肉強食なのだ。将はそうに違いないと思った。なぜならば――


「さっき、教えてもらったんだ。俺が変身しなくなる方法」

 美香先生が教えてくれた方法は、実にシンプルなものだった。


「考えてみりゃ、そうだよなー。関係を終わらせるには、それが手っ取り早い」

〔……?〕

「なあ、ぎん。お前にもし主人がいたとして、そいつがどうしても好きになれなくって、……とにかく縁を切りたいってときに、主人を殺せるか? 俺にはできないんだよ」

 ぎんを殺せば、関係は断てる。そんなのあんまりだと思ってしまった。そんな殺伐とした世界で生きてないし、人生観も持っていない。先日やえが妖怪の残滓、影を、ぱくりと食べてしまったけれど――それと同じことをぎんにできるかと言えば、将には無理だった。

 ぎんは最後まで分からないといった様子で聞いていた。やはり彼女には造作もないことなのだろう、弱肉強食の世界で生きているのだから。そうやって生きてきたし、そうやって死にそうになったから、将を選んで、勝手に主従関係を結んだ。

 それに先生が言うことには、元々霊力があった以上、霊能力が使えることは変わらないらしい。「普通の」人間に戻ることなどできないのだ。そう考えると、自分がどうしたいのか分からなくなってしまったのだった。

 

 しばらくぎんは真ん丸の瞳で将を観察していたが、やがてこう言った。

〔妾を生かしたくも殺したくもない――そんなそちの考えの方が、妾には理解しがたいがのう〕

「……うん」

〔それで、戻る気分ではないと言うのじゃな? 接吻が一番霊力を吸う効率が良いんじゃが、それ以外となると今からそちの体を全身舐め回すしかなくなるぞ〕

「それはやめてほしいな」

 思わず吹き出してしまう。ぎんの方を見ると、首を傾げている。落ち込んだり笑ったり、変わった奴だとでも思っているのだろう。それでいいや、と将は自分に言い聞かせた。中途半端な自分には、中途半端な関係でいい。ぎんとはこれくらいの、軽い言い合いをするくらいの仲でいたかった。

 だから、猫になることも受け入れていこう、と。そう決意したのだった。

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しろくろファンタズム 楓麟 @fooring

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