025 侵入
午後は矢のようにあっという間に過ぎていった。赤組がぐんぐん点差を引き離していく様子を、今年の優勝は決まったな、と将は欠伸交じりに眺めていた。
彼の予想通り、体育祭の順位は赤組一位、白組二位、青組三位という結果に終わった。やえが出場した競技はすべて赤組が一位をもぎとっていったので、彼女の功績はかなりのものだと言えた。
そうして閉会式の後、将は楠穂希、平野ナツメ、相沢三月と合流して、鶴岡先輩の指揮のもとパネルの取り外しを手伝った。
うんせとパネルを解体し、四人で美術室へ運んでいると、鶴岡先輩が大股で近づいてきた。
「お疲れ様です」
と二年が言い終わらないうちに、先輩はパネルを掴んで一緒に歩き出した。その力強い足取りに、将は引っ張られないようについていかなければならなかった。
あっという間に五人は美術室に到着した。丁寧にパネルを片付けて、次の解体作業に移ろうとした将と穂希を、先輩が呼び止めた。平野と相沢が出て行くのを見てから、彼女は言う。
「ありがとう。一ヶ月、本当にお疲れさま」
将と穂希をじっと見つめて、微笑んだ。
「特にきみたちは……デザイン科以上に手伝ってくれた。助かったよ」
「俺は、別に。穂希はそうだけど」
「まあ自分はそこそこ頑張ったと思うよ」
「お前正直だな……」
「いや、きみも穂希を見習いたまえよ。十二分に働いていたんだから」
鶴岡先輩に肩を叩かれる。その緩みきった顔を見て、照れくさくなった将は「はあ」と曖昧な返事しかできなかった。
「お世辞なんかじゃないぞ。きみたちの力で、パネルが完成したと言ってもいいくらいだ。これで私は悔いを残さず卒業できるよ」
「まだ文化祭があるでしょうが」
大げさだなあ、と穂希が小さく茶々を入れた。彼女もまた、自分と同じで照れているのだと将にはわかった。
「先輩お昼からずっとこの調子なんだよ。絵を見てはウルウルしちゃってんの」
「よ、余計なことを言うな」
二人が言い合いを始めたので、将はそっと教室を出て行くことにした。
同じようにパネルを運ぶデザイン科の生徒何人かとすれ違いながら、将が校舎の外に出ようとした時である。
平沢と相沢が目を覆いながら駆けてくるのに遭遇した。
「獣道くん!」
目を拭いながら相沢が言う。
「二人とも、どうしたんだ――? 片付けは……」
「それどころじゃないの!」
平野の目は充血していた。二人とも、砂まみれだった。
避難してきた生徒の数が増えて来た。気になった将は、呼び止める二人を無視して、皆と逆方向に歩き出した。
グラウンドは、逃げ惑う生徒たちと、避難を呼びかける大人たちで騒ぎになっていた。
見れば、大きなつむじ風が、砂を巻き込みながら人々を追い回していた――にわかには信じがたいが、そうとしか表現できないほどに、執拗に人間を狙っているように見えたのだ。
『将さま!』
将の傍らで、声だけが響いた。それはシダのものだった。混乱を避けるため、姿を現さないでいるに違いない。
『ご無事でよかった。ここは危険ですから、早く建物に避難を――』
ドンという音と、悲鳴。つむじ風がテントを倒したのだ。
「シダ……! なんだこの風は!」
『それは……妖怪の類いにございましょう』
「お狐さまの言っていた、この町のどこかに眠っているって言う……?」
『はい。正確には、それの影ですが』
よくない兆し、か。将は思い出していた。数時間前にシダから聞いたばかりのことを思い出す。かつてこの町で起きたという、妖怪大戦争。その発端となった妖怪が、復活したのではないかというのが、狐たちの見解だ。『兆し』にすぎないつむじ風ひとつですらこれほどの脅威なのに、妖怪そのものが動き出したら、どれだけの災害が起こるのだろう?
「ねえねえ」
いつから隣にいたのか、やえが声をかけてきた。その顔は、状況にそぐわず明るかった。
「人間や人間社会にジンダイな被害をおよぼす、あるいはおよぼしかねない妖怪は食べてもいい――っていうルール、だよね? やえ、間違ってないよね?」
『ええ、その通りでございます』
その知識は、将も得たばかりのものだった。お狐さまがつい先日言っていたばかりだし、教えは頭の中でいつでも引っ張りだせた。
妖怪は弱肉強食だ。弱者は強者の餌となる。ただ、例外もある。いくら強い妖怪でも、人間にとって脅威となる存在は、バランスを崩すため捕食の対象とされるのだ。
「あの風の渦の真ん中に、何かいるの、見える?」
「本当か……!? 誰か巻き込まれたってんなら、助けないと」
「ううん、人じゃないの」
将も目を凝らしてみる。しかし、砂が舞い散る中、目を開けていることすら難しかった。
『やえ様には人間には見えないものも見えるのですね。左様、そいつが影です』
諦めて目を閉じた将の脳内に、思いがけず映像が飛び込んできた。サーモグラフィで見る感覚に近い。グラウンドの真ん中に、黒い何かが蠢いている。
これが、やえとシダの言っている妖怪、なのだろう。想像していたものよりも形が曖昧で、なんとも形容しがたい。だが、どうすればいい? 真実を知っているのは自分たちだけだ。
「じゃあ、やえがなんとかしてみるよ」
姿勢を低くしながら、彼女は言った。
将とシダが止める暇もなく、やえは駆けだしていた。
将たちの他には、もうグラウンドにいる人間は皆無だ。つむじ風は、今や大きな黒い竜巻となっていた。それに突っ込んでいくなんて、無謀でしかない――将は追いかけようとしたが、砂嵐の如く舞う砂塵に、身動きすらできなかった。
「はあああああああっ!」
その中心目がけて、人間離れした跳躍力でやえは飛び込んだ。瞬間、彼女のシルエットは人間とも獣ともつかぬ形に変わっていた。赤い毛を揺らし、竜巻を内側から切り裂くと、将たちの所に戻って来た。
それは、あの満月の夜、将が対面した生き物だった。――そうだ。俺はこいつに襲われたんだっけ。思わず後ずさりをしてしまう将に、それは近寄って来る。
「獲って来たよ」
やえの声で、それは言った。
これが人狼の、変身した姿なのか。
赤い毛の犬に似ている。だが将の知る犬種のどれとも似ていない姿をしていたし、これほど犬らしくない犬も見たことがなかった。肩から背中は筋肉で大きく盛り上がっており、脚や鍵爪をただひと薙ぎで、致命傷を負わせてしまいそうに見えた。それに、やえの体操服を着たままなので、ひどくちぐはぐだ。彼女は口に何かを咥えている。
『影』は黒くてよく分からないモノだった。例えるなら机の上いっぱいに文字や絵をらくがきして、それが各々の意志で動き出した姿……という感じだ。今はやえに捕まって、無抵抗でいる。竜巻も既に止んでいた。
お見事です、とシダが褒め称える中、やえは影をもぐもぐと咀嚼していた。あまりにも慣れた所作である。これまでも、彼女は妖怪をこうして喰らってきたのだろうか? 妖怪だけでなく、人間も……そんな考えを振り払って、将も口を開いた。
「すごいな、やえ」
シダに合わせて、言う。自分だったら、あの嵐のような渦の中に飛び込んでいく勇気はない。一発で影を仕留めることだってできなかっただろう。それをあっさりやってのけたやえは、自分とは全く違う存在なのだと分かった。
次の瞬間、将はやえに強く抱き着かれていた。ふにふにしたふたつの柔らかいものが当たる――彼女は人間の姿に戻っていた。
とびっきりの笑顔で、やえははにかんだ。
「えへへ!」
○●○●○●
『むふふ』
「何笑ってるんだよ、ぎん。気持ち悪いな」
『そちは妾のしもべじゃという自覚が薄すぎる!』
帰宅して早々、にんまり顔の白猫に迎えられた将は思わず本音を零してしまった。
あれからグラウンドの片づけを再開して、家に着いた時にはもう夜になっていた。幸い、怪我人はいなかったし、やえの正体を目撃されるということもなかった。……万一見られた場合でも、にわかには信じがたいだろうし、そういう時のために美香先生がいるらしいので、その辺りは心配いらない、とやえが言っていた。
「で、どうしたんだ?」
改めて訊くことにする。こういう時、ぎんの相手をしてやらないと拗ねてしまうことを知っていた。
『体育祭とやら、なかなか楽しんでおったようではないか』
「ああ……」
将は高校生の「青春」らしいシチュエーションには弱かった。たとえば、誰かと一緒に弁当を食べることだって、彼にとっては青春の一ページだった。
『それに、まさか人狼の娘と妖怪退治をすることになるとはのう。あっ、妖怪退治をしたのは小娘だけじゃったか』
癪に障る言い方をする。手も足も出す勇気すらなかった将に対して、勇猛果敢に竜巻に挑んだやえ――どうやらぎんにはそれが愉快だったらしい。
「あんなの初めてだったんだよ。自分の力で止められるなんて思うか、フツー」
『そちは霊能力はまだまだのようじゃから、仕方ないか。しかし、あの小娘に習えばそれなりに強くなると思うぞ』
「俺、別に陰陽師とか退魔師とかになりたいわけじゃないんだけど……ていうか、ぎん、見てたんならお前が手伝ってくれればよかったのに。霊力補充になったじゃないか」
『んー』
ぎんは微妙そうな顔をした。将は最近になって分かったことだったが、意外と表情豊かな奴なのだ。
『あまり、気乗りせんかった。あれを喰らう気にはなぜかならんかったというか』
「珍しい。辺り構わず霊力を食べてるもんだと思ってたけど、ぎんにも好き嫌いがあるんだな」
『どういう意味じゃ』
その時丁度、階下から護の呼ぶ声が聞こえて来た。夕食の準備ができたのだ。会話はそこで打ち切りとなった。
『今度霊猫になった時は覚えておれよ。平時の倍吸い尽くしてやる』
じっとりした目で睨むぎんを置いて、将は部屋を出て行った。
それから、食事中や入浴をしている中でも、ぎんの苛々とした念だけが送られてきたが、将は無視した。細かいことを気にするやつだな、と思った、
だが。
二階に戻った時、彼女の苛々の原因は先ほどのやりとりではなかったのだと気づかされた。
夜風が将の髪を撫でる。部屋の窓が開いていた。普段、将は窓の鍵を閉めずにいる。風で開いたのだろうか? 将が視線を移すと、ベッドの上に不機嫌そうな猫と、上機嫌そうな狼がいるのを見つけた。
「……えーっと」
「あ! 将!」
時刻、二十一時過ぎ。
友達とはいえど、男女が夜中に同じ部屋にいる。さすがにこれがまずいことくらいは将にも分かった。青春っぽいシチュエーションをとうに通り越してしまっている。
「遊びに来ちゃった」
「な――」
固まった表情で、将はゆっくり部屋の鍵を閉めた。妹が来たら大変なことになる。
「お前、どうやってうちが――それに、誰かに見られたらどうするんだ」
「においを辿って来たよ。入る時には誰にも見つからなかったから、大丈夫!」
「大丈夫なら、大丈夫なんだが……」
ひとりくらいは目撃者がいたのではないか、と心配になる将だった。そういえばやえにも、将にとってのシダのように、護衛してくれているおつきの狐がいたはずだ。
「うん、タマキちゃんのことなら、ちゃんといるよ。将んちに行くんだーって行ったら、いいよーって。だから誰にも見られてないの」
「本当かなあ……」
狐火による結界が張られていれば、人間に見つかることはないのだが。シダ曰く、タマキは何というか、結構緩い性格らしいので、どうにも不安は拭いきれない……。
いくら心配しても仕方ないので、将は考えるのをやめた。やえの姿が誰にも見られない見られていないことを願うしかない。
やえは人狼の姿でベッドに座っていた。服は着ていない。だから将は、初めて会った日以上に、彼女をよく観察することができた。
人間と狼の骨格を混ぜたような見た目だ。頭頂部からは尖った三角耳が、突き出した口からは長い牙と舌が覗き、臀部にはふさふさとした尻尾が生えている。ぱっと見ただけでは、やえと同じ存在にはとても思えない。
じろじろと無遠慮に観察していたからだろう、やえは初めてもじもじと恥ずかしそうな素振りを見せた。
「夜はね、興奮するから変身したくなっちゃうの。将も、一緒に変身しないの――?」
「俺は自由に変身できないんだよ」
「ふぬん……そっか、まだなんだね」
「……?」
その確信した口ぶりに将は首を傾げたが、やえはそれに気づかずにベッドの上で跳ね始めた。
「将は、やえのこのカッコを見ても怖がらないよね。嬉しいなあ」
「いや、それは……」
語弊が合った。将だって、やえの獣の姿を見ると胸がざわついてしまう。あくまで、彼女と同じで獣に変身することに共感しているにすぎない。
「なあ……」
将は思い切って訊ねてみることにした。
「お前、人を襲ってたんだよな。あの満月の夜に」
「? 将のこと?」
「俺以外にも。だって俺見たんだ。道路に、千切れた服みたいなのがいっぱい……あれはお前の仕業だろう」
血に濡れた衣服の残骸。辺り一面に点々とついた血痕。今思い出しただけでも身震いしそうになる。
だが。
「あれはやえだよ」
「やっぱりお前が……」
「ううん、やえの服」
「は?」
やえは飛び跳ねるのをやめて、ベッドの端に丸くなった。ぎんは欠伸を噛み殺しながら聞いている。やえの前ではだんまりを決め込んでいるらしい。
「やえは、満月の夜は勝手に変身しちゃうの。欲望にチュージツになるし、ジガ? がうまく働かない。あの日は服を着たまま飛び出しちゃって。本能に逆らえずにびりびりに破いちゃった。血は、抑えようとして自分を引っ掻いた時のものだと思う」
「じゃ、じゃあお前は誰も襲ってなかったのか」
「将がやえと戦ってくれたおかげだよ。やえ、美香せんせーから貰ったお薬飲み忘れちゃって……本当にごめんなさい」
とんだうっかりだ、と将は思ったが、突っ込まないことにした。それよりも耳を垂れ、尻尾を丸める彼女の悲壮感漂う姿に何とも言えなくなった。
「もう謝るな。俺の心配ごとも勘違いだって分かったことだし、これから気をつけてくれればいいから」
言うと、やえの耳がぴくぴく、尻尾はふりふりとたちまち機嫌が良くなるのだった。よく見ると動きが可愛らしい。それにこれはこれで面白いぞ、将は思った。
気付けば、将はやえの頭を撫でていた。猫は苦手だが、犬は好きな部類に入る。彼女を警戒する要因がなくなった今、触れてみたいという感情が沸き上がっていた。
その毛並みはつやつやとして触り心地が良い。一度撫でただけで、くせになってしまいそうだ。それに、ちょっといい匂いもする。
やえは千切れんばかりに尻尾を振って起き上がった。
「将、優しい」
「うわっ!?」
ぺろりと彼の頬を舐めて、やえは将を押し倒してしまった。
ぎんは見ていられないとばかりに顔を逸らした。
このままではやえにべろべろにされてしまう。まずいと思った将は、零時になる前にやえに帰宅してもらうことにした。
呼びかけで姿を現したタマキに、帰りも見られないようにと頼み込んで、将はなんとか彼女を家に送り返した。やえ達の姿が見えなくなり、気配が消えてもなお、彼の胸はどきどきとして落ち着かなかったのだった。
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