024 慌ただしい昼下がり
将はしんと静まり返った校舎を歩いていた。
やえとなんとか別れた後、そのまま自分のテントに戻る気分にもなれず、トイレに寄ろうと思ったのだ。
自分の秘密を、理解してくれるひとがいる。それも二人もだ。まるで夢のようだった。緊張して、ぴんと張っていた心の糸がようやく緩んだのを将は感じていた。
「そういえば、トイレで変身したこともあったっけな」
今となっては懐かしさすら感じる。将は苦笑した。
けれどこれからは、保健室に駆け込めばいい。そしてぎんが迎えに来てくれるまで、美香先生のもとじっとしていればいいのだ。そんなことができる日が来るなんて、将は信じられなかった。
無人のトイレで将は用を足し、水道で手を洗い、ついでに顔を濡らした。
その時、正面の鏡から狐の首が飛び出してきた。
『こんにちは、将さま』
「どわっ!!」
将は飛び上がった。妖狐のシダはくすくす笑っている。
狐は元来、人を化かすと言われている。シダも悪戯好きなのだろうと思った。
「な、何かあったのか? 学校で出てくるなんて、珍しいじゃないか」
『いえいえ、随分と賑やかなものですから、僕もなんだか興奮してしまいまして』
「ああ……体育祭だからな」
稲荷神社を訪れたあの日以来、シダは将の護衛として傍につくようになっていた。お狐さまの言っていた、『よくない兆し』。将には感知ができないが、それは目には見えない形で広まっているという。シダは、その影響で現れた妖怪を――将たちに危害を加える前に――、退治しているのだ。
『ほほう、お祭りですか。祭りは我々も好きですよ。人間に混じって満喫することもあるほどです』
「体育祭はーーそういうのとはちょっと違う行事だけどな」
『なんと』
ようやく全身姿を現しタイルの床に降り立ったシダは、意外そうな声を出した。ぎんとは違って狐たちは人間事情には疎いらしい、と将は気がついた。
『ところで、先ほどの少女……やえ様ですが』
「ああ、見てたのか。あいつと同じ学校だったなんてな」
『それはもうばっちり。お手を繋がれて仲睦まじくされておりましたね』
「……」
やはり手を繋ぐのは、たとえ友人だとしてもやや異常なのではないか。将に不安がよぎった。
『将さま、やえ様にも話してくださいませんか。あの方はこの町に起ころうとしている災いをご存じありませんから』
「それくらいなら、お安い御用だけど」
ついでに美香先生にも話したほうがいいだろう。将は頷きながら、ずっと気になっていたことを訊いた。
「シダたちが言ってる災いとか兆しとかって、ある妖怪が原因――なんだよな」
『左様でございます』
「一体、何者なんだ?」
『……存じ上げておりません』
シダは、短く答えた。眉をひそめた将を見て、そのまま言葉を続ける。
『僕は、眷属の中でも最年少の若輩者でして。妖怪大戦争のことは、将さまがお聞きした概要程度しか分からないのです。皆、あまり語りたがりませんから』
「そっ……か」
口にしたくないほど恐ろしいものなのか。また神社へ立ち寄って、お狐さまに直接聞いてみようかと将は思ったが、あまり気乗りはしなかった。
そんな彼をじっと見つめて、シダは言った。
『将さまはお気になさらずとも良いのですよ。どうぞ学園生活を謳歌くださいね』
「そう言われると、逆に気になって来ちゃうもんなんだけどな」
その時将は、廊下を誰かが歩く気配を感じた。同時に足音も聞こえてくる。
コントロールこそできないが、将の五感や第六感はますます鋭敏になっていた。かつて妖狐に囲まれた時、人狼と違うことを察知できたのも、気配を読めたためである。
「そろそろ行かないと。……顔だけ出てくるのは結構怖いから、次からはなんか違う感じで頼むよ」
『かしこまりました』
うやうやしく一礼して、シダは一瞬で姿を消した。
丁度入ってきた生徒と入れ替わりで廊下に出ると、将は校舎の様子が違うことに気がついた。時刻は11時半。昼休みになったのだ。
「まずいな」
教室を利用しようと、生徒や保護者が押し寄せて来ている。意外と時間が経っていたらしい。
将は早足で外へ向かった。昼は護と食べる約束だった。仕事で来れない両親の代わりに自分が弁当を作る、と意気込んでいたものだ。
「遅い!」
待ち合わせ場所の裏庭で、護は頬を膨らませて待っていた。日陰にレジャーシートを敷いて、既にスペースを確保している。彼女の脇では、大きな重箱が存在感を放っていた。
「これ全部作ったのか……?」
「そうだよ。すごいでしょ」
「すげーけど、一言くらい言えよ。手伝ったのに」
靴を脱いでシートに座り、将は妹と向き合った。護は一段ずつ重箱を並べていく。おにぎりやウィンナーといった定番メニューはもちろん、牡蠣フライや唐揚げなど、将の好物が入っているのがすぐに分かった。
どんだけ気合い入れてるんだよ。将は舌を巻いたが、口には出さなかった。護が調子に乗るのが、目に見えていたからだ。
「午後はお兄ちゃん何やるの?」
紙皿に兄の分を盛りながら、護が訊いてくる。将は気恥ずかしくなって、彼女の手から皿を取り上げるが早いか、がつがつ食べ始めた。味はよく分からなかった。
「全学年男子の演武」
「へー。どこらへん?」
「あんなの見てもつまんねーから、これ食ったら帰っていいんだぞ」
「んん」
不満げにうなって、護もおかずに箸をつけた。ようやく落ち着いた将は、ゆっくりと玉子焼きを咀嚼する。なかなか美味いんじゃないか。
「あ」
将が感心していたその時、彼の背後から影が近付いてきた。振り返ると、そこには天野しずくが立っていた。見上げる格好での対面だと、いつもより迫力がある。護は天野を見て箸を取り落とした。
「なんだ天野か。お前、昼もう食ったの?」
「まだ」
将が問うと、天野は手に持っていた弁当をそろそろと掲げて見せた。
「灯ちゃんのとこに行く途中。お、お弁当誘われたから」
「そうか。良かったじゃん」
天野は顔を強張らせた。だが将には、彼女が照れているのだと分かった。天野と九十九。互いに名前で呼び合うくらい仲良くなったのだ、将は嬉しくて涙が出そうだった。
「……じゃ」
足早に天野は去っていった。やがて姿が見えなくなってから、護が静かに訊ねてきた。
「今の、誰?」
「隣のクラスの天野。ソフト部のエースらしいぜ」
「ふうん……確かに、すごいオーラだったけれど」
そんな人とお兄ちゃんが、なぜ。そう呟く護には気づかずに、将は口にアスパラ巻きを詰め込んだ。
「将くん」
その時、再び声が掛けられた。将が再び首を捻って見ると、困った様子の穂希が駆けてくるところだった。
「穂希? どうかしたのか」
「鶴岡先輩、見てない?」
ちらりと穂希は護のほうを盗み見た。一瞬、二人の目が合う。だが即座に穂希は顔を伏せた。
「いや、今日は見かけてねえな」
「そっか……」
「美術室とかは?」
「これから行ってみようかな。一緒に食べるのに、場所を伝え忘れちゃうなんて、先輩もおっちょちょこいだよね」
「おっちょこちょいな」
心配になった将は、彼女について行こうかと腰を上げかけた。ところが穂希は、
「じゃあ邪魔しちゃ悪いし、もう行くね」
そう言い残してすたこら行ってしまった。
変なやつだと訝しみながらウィンナーに箸を突き刺していると、護が再び訊いてきた。
「今のは……」
「同じクラスの楠穂希。体育祭のパネル、見ただろ。あいつも描いてんだぜ」
「そうじゃなくて」
「は?」
顔を上げて見ると、耳を赤くして護がこちらを見ていた。熱でもあるんじゃないのか、と将は思った。護は小刻みに震えながら主張する。
「だ、だってなんか名前で呼び合ってたじゃん!」
「友達だしな。それくらい普通だろ」
「でも、でも――」
「あ、将~!」
これ以上ないタイミングで、大神やえが将に飛びついてきた。間一髪、将は紙皿を離れたところに置くのに成功した。護は目をひん剥いてそれを見つめている。
「いたいた良かった! やえ、匂いをたどってすぐに見つけたよ」
「に、匂いって……お前、昼飯は?」
「友達と食べたんだ! 今はお菓子を求めてジュンカイ中なの」
きょろきょろと何か探す素振りを見せていたやえは、重箱に目を止めて舌なめずりした。その野生動物のような仕種に、将はぎょっとしてしまう。
「まだ沢山残ってるけど、食べきれる? やえ、もらってあげよっか?」
「やえさん、よだれよだれ……」
本当、本能で生きている奴だ。食べたいのならそう言えばいいのに、素直じゃないな……将が苦笑いしていると、つんつんと護に肩をつつかれた。彼女はそのまま耳元で囁いてくる。
「あの、お兄ちゃん、このひとは……」
「一年の大神やえだ。こないだっていうか、ついさっき友達になった、みたいな」
「さっき……?」
詰め寄る護にどう説明したものか将が考えていると、またまた声が掛けられた。
「おっ、獣道
小脇翔がにやにやしながら近づいてくる。日焼けで肌が真っ黒だった。
そういえば、妹がいることは話してたっけ。将が返事もしない間に、小脇はよっこらせと靴を脱いで上がり込んできた。硬直している護と、重箱をつついているやえを代わる代わる見て、言う。
「お前妹二人いたのかよ! 羨ましいぜ」
やえが口を尖らせた。
「やえは妹じゃないよ」
「そうなん? じゃあどなたさん?」
「大神やえ。やえって呼んで」
「やえちゃんね。了解了解」
まったく答えになっていないのだが、小脇はひらひらと手を振って頷いた。流れについていけない将は、ひとまずこう訊ねることにした。
「小脇、お前何しに来たんだよ」
「俺弁当二つ持ってきたんだわ。さっき他の連中と食ったんだけど、もう一つはここで食っていい?」
「まあ……勝手にしろよ」
将が答える前に、既に小脇は蓋を開けていた。もりもり食べる小脇とやえに対して、護が先ほどから何も口にしていないのが将は気になった。
「お前、具合悪いのか?」
「……私、お兄ちゃんが分からないよ!」
「え、どういうことだ?」
護は黙っている――こんなに美味しい弁当を作っておいて、それを食べることもできないなんて。これはよっぽどだぞ。
熱を測ろうと手を伸ばした将を避けるように、彼女はゆらりと立ちあがった。
「ちょっと、手ぇ洗ってくる」
「ああ、うん。気つけろよ」
護はふらふらと歩いて行ってしまった。いったいどうしたんだろう?
しかし、それにしても。将はおにぎりにかぶりついた。
去年は独りで昼を過ごしていた。それが今年は、妹が作ってくれた弁当を食べ、友人に囲まれている。贅沢すぎやしないだろうか? 口いっぱいに詰め込んだ弁当を噛みしめながら、そんなことを思った。
早くも食べ終わった小脇が口を開く。
「さっきのがほんとの妹?」
「そうだよ……つうか偽の妹がいてたまるか」
「ふうん。確かになんとなく似てんな」
それは、よく言われることだった。将はどちらかというと中性的な顔だちで、母親と妹と、三人で並ぶと一瞬で親子だと丸分かりなのだ。
妹に対する興味はもう薄れたようで、小脇は重箱を指差した。
「コレ、もらっていい?」
「ああ。食べきれそうもないし、もらってくれ」
それにしてもよく食う奴らだ。既に重箱はほとんど空になっている。二人ともたくさん出場したから腹ぺこなのだろう。一方で満腹になってきた将は、水筒に手を伸ばした。
その時、何かぷにっとしたものが頬に触れた。はっとした時には、その感覚は既に消えていた。
やえの唇だった。
「ご飯粒ついてたよ」
ぺろりと舐めとって、彼女は笑った。
全く気がつかなかった。米粒をつけていたことにも、やえが近づいてきたことにもだ。あと数センチ顔がずれていたら……。
将の顔がばっと赤くなる。小脇はぽかんと見ていたが、しばらくしてゲラゲラと笑い出した。さらに悪いことに、帰ってきた護にもしっかり目撃されていた。
「がーん」
声に出して言うと、護はその場にくずおれた。
やえに注意するべきか、小脇を黙らせるべきか、護に駆け寄るべきか。パニック状態の将には、どうすればいいか分からなかった。
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