023 体育祭
連休も終わった翌週の土曜日。快晴のもと、御津山高校体育祭は開会した。入退場門の両脇と、赤白青それぞれの組のテント前で、将たちが作成したパネルがてかてかと光っている。
最初の競技は男子100メートル走。半ば無理やり小脇に立候補させられた将も参加していた。
「おっつー」
白組のテントに戻ると、穂希が体操座りでこちらを見上げていた。普段は黒髪にオレンジのメッシュが入った髪型だが、今日はただの黒髪だった。
「えーと、誰?」
「いやいや酷いよ将くん!?」
将は頬を掻きながらそろそろと隣に座った。白組に穂希がいて良かった。一人でテントの隅でぼんやりしていた去年とは雲泥の差だな、と将は思った。
「地毛に戻したんだな」
「ん? 違うよ?」
穂希はおかしそうに笑った。
「あれはエクステだから元から染めてないの」
「えく、す……?」
「今日はずっと外だし蒸れるし付けてないんだ。ていうか、一日かそこらで髪の色が戻るわけないじゃん」
「ふーん……?」
エクステについて大した興味もなかったので、将は適当に返事をした。グラウンドでは、やる気のない足取りで女子が入場をしているところだった。
『プログラム二番、女子100メートル走』
スピーカーからアナウンスが聞こえてきた。九十九灯の声だ。
確か、放送部だったっけ――それじゃあ今日は一日会えたりはしなさそうだな。将は少しがっかりした。
整列する選手をぼうっと眺めながら、穂希が訊いてきた。
「ねえ将くん、結局うにゃむにゃになってたけど」
「言えてないぞ……有耶無耶を有耶無耶にするなよ」
「妹さんのことは解決したの?」
パン、とピストルの音が鳴り、歓声や声援が上がった。将はそれに掻き消されないくらい声を出さなくてはならなかった。
「たぶん、したんだと思う」
「良かったー。なんも言わないんだもん、心配しちゃうでしょ」
「
テントの前を選手が駆け抜けていった。少し遅れて巻き起こった風が、二人の前髪を撫でる。声援が収まるまで少し待ってから、穂希は口を開いた。
「うーやーむーや、と言えばさ」
言い間違えないように、今度はゆっくり発音していた。
「ゴールデンウィーク。一日さ、パネル休んでた日があったじゃない」
「ああ……」
「灯ちゃんとか、心配してたよ。自分は、妹さん関係かなーって思ったけど」
「連絡しなくてごめん。でもあの日は別にあいつとは……」
むしろ、二人でずっと過ごしていたくらいだ。将はそう続けようとしたが、口を閉じた。もうすぐ目の前を選手が通る。歓声が落ち着いてからにしようと思った。
先頭をぶっち切りで駆ける赤いハチマキが目についた。
華奢な体に長い手足。正面から風を受けてぴんと伸びた体操服。その所為で胸部がこれでもかと存在を主張していた。
周囲の男子の目線が、明らかに応援以外の意味で向けられている。将は嫌でも気がついた。しかし彼は、少女の髪から目が離せなかった。
ツーサイドアップの黒髪が、陽に当たって赤銅色に光っていたためである。
「――!」
将は思わず立ち上がった。あの色には見覚えがある。恐怖と一緒に、植え付けられた色だ。
「あの子、一年生でしょ。モデルみたいだって、クラスでも話題になってた」
下のほうでぼそりと声がした。振り向くと、穂希は膝に顔をうずめるようにしていた。
「そうなのか?」
「さあ。よく知らない」
穂希は少し不機嫌そうだった。目を細めているのが、拗ねたぎんにそっくりだと思った。今、彼女の心の声を聞ければ。そう将は思ったが、叶うことはなかった。まだ霊能力は上手く扱えないようだった。
そうだ、穂希はあまり周りと交流しない。どころか、興味がないタイプなんだった。知らない奴の情報をインプットする気がないんだろうな。将はこの話題を続けるのはやめようと思った。
「……お前、オレンジ色がないと印象変わるな」
「え」
とりあえず目についた髪の話題にシフトしてみると、相手はぽかんと口を開けた。が、すぐに口をきゅっと結んで毛先をいじり出した。
「もしかして、変かな」
「んなわけないだろ。日本人は黒髪が一番似合う。だから俺は黒髪が好きだ。だからってわけでもないけど、今の穂希は自然体で似合ってるというか、とにかく自信持てよ」
「そ、そんな力説されましても……」
穂希は口調が変わるほど引いていた。機嫌は直ったようだが、話題づくりに失敗した将であった。
そんな彼の肩に手が置かれる。
「お取込み中悪いけど、いいかね」
声の主は末永美智だった。青いハチマキを額にではなく、カチューシャのように髪の上に巻いている。意外と彼女のおさげに合っていた。絶対に体育会系じゃないのに。
「交代。救護テントに行って」
「あ、ああ……」
保健係のことで、わざわざ呼びに来てくれたらしい。将はようやく理解して、座ったままの穂希をちらりと見た。少し顔が赤いように見えるが――気のせいだろう。
「ちょっと行ってくる」
穂希はこくりと頷くだけだった。
将は末永のあとについてテントを出た。末永はくるりとターンして、将を見上げてきた。黒い瞳でじっとこちらを観察している。
将はたじろいだ。あの係決めの一件以来、将は彼女に苦手意識を持っていた。
「なるべく早く行かないとー」
末永はそう言い残してテントへ戻って行く。その背中を、将は眉をひそめて見つめた。早く行かないと、何なのだろう? 最後までちゃんと言って欲しかった。
救護テントはさっそく怪我をした生徒やら、先生と雑談ついでに涼みに来た生徒やらでごった返していた。ブーンという小さな音を発しながら、扇風機が二台、首を振っている。どうしていいか分からず将が立ちつくしていると、生徒の群れの中から声がした。
「保健係さん!?」
「あ、はい!」
反射で返事をして駆け寄ると、輪の真ん中のパイプ椅子にジャージ姿の女性が座っていた。保健室に世話になったことがなかった将だが、彼女が保健の先生なのだろうと判断した。
年齢はまだ二十代前半くらいに見える。すっと通った鼻筋に、首に巻かれた一本の長い三つ編み。同じく椅子に腰かける生徒の膝の上で、手早くピンセットを動かしながら彼女は言った。
「そこにテープがあるから」
どこがそこなのか一瞬分からなかったが、先生の脇の椅子に救急箱があるのに気がついた。将は言われるがままにテープを取り出して、既に患部にガーゼを当てていた先生の指をまたぐようにして留めた。
「ありがとサンクス」
早口で礼を言って、先生は次の生徒を呼んだ。これは大変な仕事だぞ、と将は身を引き締めなければならなかった。
○●○●○●
「美香せんせー!」
怪我人の手当を終え、将が熱中症で休んでいる生徒たちの後ろで適当にうちわを
「はいはいどうしたの」
と問いかけている。将は目を丸くして生徒を見つめた。見間違えようはずもない、赤銅色とツーサイドアップ。大神やえだった。大神はこちらに気づく様子はなく、笑って話している。
「100メートル走見てくれた? やえ、一番だったよ!」
「チラっと見えたわよ。やえちゃんはやっぱり脚が早いのね」
「えっへっへ」
頬をこれでもかと緩めて、大神は嬉しそうだ。取って食うつもりなのかと将ははらはらしていたが、そうでもないらしい。どうしたものかと考えていると、二人は視線に気づいて彼の方を見た。
「……すんすん」
大神は姿勢を正すと、匂いを嗅いだ。冷や汗が将の背を伝った。
「美香せんせー、このひとだよ。やえと似てる匂いがする」
「ふうん、なるほどね……?」
ふたりは意味ありげに目配せをして、再び将に視線を戻した。混乱する将をよそに、大神は目にもとまらぬスピードで彼に駆け寄ると、腕を掴んで引き寄せた。
結果、将は彼女の肩にもたれかかってしまう。かっと体温が上がるのを感じる間もなく、耳元で大神が囁いた。
「――大丈夫。美香せんせーは、すごいおねーさんなんだよ」
「え……?」
「こっち! 座って座って」
大神ははにかんで将を先生の向かいまで引っ張っていった。半ば強引にパイプ椅子に座らせると(とても女子の力とは思えない)、彼女は先生の背後に回って再び抱き着いた。
「やえのことは知ってるね。大神やえ。やえって呼んでね! 美香せんせーのことは、知ってる?」
「い、いや……」
保健室には小中高と、かれこれ十年ほとんど行ったことがない。それに、保健委員の将だが、この数か月、出欠表を届けに保健室を訪れても彼女の姿はなかったのである。大神は先生の首に細い腕を巻きつけながら言う。
「せんせーは、やえが普通じゃないこと、知ってる。人狼はもちろんだけど、妖怪のこととか何でも知ってるよ」
「――!」
慌てて将は誰かが聞き耳を立てていないか周りを見た。だが、やえは気にする様子はない。美香先生もおかしそうにくすくす笑っている。
「そんなに警戒しなくたって、みんな意外と聞いてないものよ」
「はあ……。じゃ、じゃあ訊きますけど、今大神が言ったことは本当なんですか?」
「大神じゃなくて、や・え! やえって呼んで!」
すかさず注意が飛んできたので、気圧された将は、
「や、やえ」
と即座に訂正した。
機嫌を直し、頬ずりし始めたやえの髪を撫でながら、「それよりも」と美香先生は言った。
「やえちゃんは将くんに言うことがあるんじゃないの?」
将は驚いてしまった。まだ自己紹介をしていないはずなのに……健康診断の時か何かに、覚えたのだろうか?
先生の言葉を受けて、やえの身体が電流が走ったかのように跳ねた。またまた猛スピードで将の前に移動すると、
「ごめんなさいっ」
頭を下げて彼女は謝った。将はぽかんとしてしまう。
「やえ、満月の日はうまくセイギョできなくて……将、死んじゃってたかもしれない。本当にごめんなさい」
「あ……いや……」
やえは下を向いたまま動かない。困った将はちらと美香先生の方を見た。
(『いいよ』って言って)
彼女は指でマル印を作りながらそう口パクしていた。
「い――いいよ」
あまりに棒読みで将は自分で呆れた。取り繕おうと慌てて続ける。
「あの時はすげーびっくりしたけど、でも俺、なんともなかったわけだし。気にすんな」
「えへへ!」
すると、やえは途端に上機嫌になって、パイプ椅子ごと将を強く抱きしめた。椅子は嫌な音を立てて大きく揺れた。
視線が集まって来た。だが将はそれどころではなかった。
柔らかい。それに良い匂いがする。将はくらくらした。
「ほらほらやえちゃん、将くんが窒息しちゃうでしょ」
優雅に脚を組みながら先生は言った。やえの熱烈なハグには見慣れている様子だ。
「将くん、質問の答えだけれど、イエスよ。
この町には昔からあやかしの類がたくさんいる。人間に交じって社会に馴染んでいるものもね。私は先生しながらその補助をしてる」
満足したやえはようやく将から離れると、美香先生の後ろで再び腕を絡ませ始めた。まるで甘えたがりの犬だ、と将は顔を赤らめたまま聞いていた。
「やえちゃんは日本では珍しい種族だから、国のサポート体制も整っていない。だから、ちゃんとした知識を持ってる私が傍にいるってわけ」
「サポート……知ってる人間なんてのがいるんですね。意外っていうか、考えたこともなかったです」
「ふふ……」
一瞬、先生は妖しげな笑みを浮かべた。
「実はね、きみのことも調べてるのよ」
「はい?」
「獣道将くん。A型、11月10日生まれ、身長167.5センチ体重58キロ彼女なし――」
「わ、やめてくださいよ!」
何かの呪文のように早口でプロフィールを暗唱され、将は思わず立ち上がって叫んだ。
「いえね、何かあった時のために、事情は知っておきたくて」
悪びれもせず美香先生は言う。
いっぽうでやえは、
「ジュウドウ将って言うんだね」
と間延びした声を出した。
この二人といると調子が狂う、将は席に着きながら小さく息をついた。
「何かって、なんですか」
「きみも、なかなか珍しいケースなの。こんな事例は見たことがない。猫に変化してしまう病気、あるいは呪い……それが漏洩して大事になるのは、避けたいでしょう?」
「それは……もちろん」
「だから、サポートさせてもらうわ。きみの意思とは関係なしにね」
将はじっと美香先生の目を見た。きらきらと、悪戯っぽく光っている。単に補佐するというよりも、どうやら彼女は自分に興味があるのだな、と悟った。
否、妖怪になるという特異な存在に。
逡巡していると思ったのか、やえが口を挟んだ。
「美香先生はね、魔法使いなんだよ。やえに暴走しないお薬作ってくれたりするし、他にも不思議なことがたくさんできるんだ」
「出来損ないだけど、それなりにはね」
先生はそれに応えた。
……また現実離れした単語が出てきた。将はひとまず話を合わせる努力をしようと耳を傾ける。
「やえちゃんがこうして通学できているのも、彼女の秘密が守られているから。自慢じゃああるけれど、それは私のサポートがあるからよ。きみもいつボロがでるか分からない。むしろこれまでよく一人でやってこれたわね」
「あ……」
「今まで大変だったでしょ」
将は何か熱いものが込み上げてくるのを、ぐっと堪えなければならなかった。
これまで将は、自分の身の上に起こったことを、家族や友人、誰にも話さず一人で抱えてきた。打ち明けることのできる人間などいなかったのだ。
やえや美香先生に出会ったことは、彼にとってこれ以上ないショックだった。秘密を共有し、助け合う存在がいることが、どれほど心強いか。
どうしたらいいか分からなくなった将は俯いて、ただただ頷いた。
「じゃ、今度いつでもいいから保健室に来てちょーだい。身体検査したいから」
指をわきわきさせながら、先生はにっこり笑う。将はごくりと唾を飲み込んだ。
「詳しい話はまたその時にするわ。もうすぐ係も交代の時間だから、テント戻っていいわよ。長居させちゃってゴメンね」
「あ……はい。ありがとうございます」
将が立ちあがった途端、どっと生徒が波となって押し寄せてきた。やれここを怪我しただのやれ気分が悪いだの、美香先生に訴えている。将は足早にその場を立ち去った。
「待ってよ~!」
なんとかテントから抜け出した将を、呼ぶ声がした。振り向く暇もなく、ぎゅっとハグされてしまう。
「や、やえ……」
「そうだよー! 置いてかないでよ。一緒に行こ!」
「分かったから、離してくれないか……」
あばらを締め付けられて、将は細い声を出した。可愛い女の子に抱き締められるのは悪い気分ではないが、やえはかなりの力の持ち主だった。骨や臓器を押し潰されるのも時間の問題だろう。
自我がコントロールできない。神社でそう言っていたことを、将はふと思い出した。もしかしたら、力を制御することも下手なのかもしれない。
やえは渋々頷いて、拘束を解いた。
「じゃ、手繋ご」
「はっ!?」
気づけば将はやえと指を絡めていた。やえは上機嫌で歩き出す。周囲の目はこれっぽちも気にならないようだ。むしろ、慣れている様子でさえある。だが将の顔は今にも爆発しそうなほどに真っ赤だった。
「ちょちょちょちょっと待ってやえさん、さすがに早過ぎるんじゃないか!?」
「? ゆっくり歩けばいいの?」
「そうじゃない! 俺たちまだ会ったばっかだろ。なのに手を繋いだり、抱き締めたりっていうのは、ちょっと……」
やえは立ち止まって、将の方を向いた。首を傾げて、要領を得ないという顔だ。
「だってやえ、どこか触ってないと落ち着かなくって」
「それは、なんとなく気づいてたけど」
「それに友達とはいつもこうしてるよ。これって変なのかな」
「……」
将は困ってしまった。友達とは手を繋いだりするのが普通なのだろうか? そういえば、小脇もよく絡んできたりするっけ。もしかしたら俺が今まで間違っていたのかもしれない。
そして何より将は、やえから友達だと思われていたことが嬉しかった。
「えーと、俺にもよく分からないけど、これはその、恋人繋ぎっていうやつだと思うから、別の繋ぎ方がいいっていうかな……」
「ふうん」
しばらくやえは考え込むように自分の手の平を見つめていたが、再び笑顔を浮かべると、将の手をそっと包み込んだ。
親子繋ぎだった。
「おかーさんがしてくれたやつだよ」
俺は子ども側か、将は心の内でぼやいたが、文句は言わなかった。
それよりも、真っ直ぐ赤組のテントに引っ張られながら、いつ自分は白組だと言うべきか、計りかねていた。
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