022 妖怪

 ゆうに二、三十匹はいる。

 目測だが、将は十を超えたあたりで数えるのをやめた。一匹でさえ脅威なのに、これほどの数がいるとなると、もはや笑いがこみ上げてくる。


「は、はは……」

『どうしたそち、気でも狂ったか!? おい!』

 力なく笑い出した将を、べちべち叩きながらぎんは叫んだ。

 群れはじりじりと距離を縮めてゆき、しまいには互いの肩がぶつかるほどになった。


『むう、さすがにこの数を相手取るのは無理か』

 だが、そう言うぎんには少し余裕が感じられた。三百年も生きていると、このような危機にも幾度となく巡り遭うのだろう。

 彼女はふっと笑い、上に高く高く飛び上がった。上空なら応戦できると思ったのか、あるいは逃げ切れると思ったのか。いずれにせよ、将にはぎんが何をしたかったのか知るすべはなかった。


『ぎゃっ!』

 バチバチという静電気のような大きな音と共に、ぎんが墜落してきたためである。将は慌てて彼女を受け止めた。


「ぎん!」

『結界じゃ……。こやつらは並大抵の妖怪ではないぞ』

「結界――?」

 将は動揺した。昨晩襲われたときは、そんなものは使ってこなかった。見境なく襲ってきていた単独時とは違い、群れだと随分統率がとれている。

 身を乗り出して獣を見てみると、彼らは風船のように尾を膨らませて威嚇していた。しかし、すぐに襲いかかってくる様子はない。

 

「ん……?」

 ふとした違和感が、将の中で徐々に大きくなっていく。


「ぎん、こいつら、昨日見たのとは違うぞ!」

『なに?』

「何て言えばいいのか分からないけど……雰囲気が違う」

 上手く言葉にできない。将は改めて記憶と照らし合わせてみた。

 雰囲気――纏っている空気が違うのだろうか。昨晩の獣には、ただただ恐怖しかなかった。だが今はむしろ、畏怖に近い何かを将は抱いたのである。


『お前たち』

 その時、視界の真ん中にいた獣が一匹躍り出て口を開いた。

 将はびくりと身を強張らせてしまう。ぎんと同じ、頭の中で反響する声だったからだ。ただし、目の前の獣から聞こえてくるのは、低い男の声だった。


『お前たちは昨晩人間を襲った妖怪ではないのか?』

『それはこちらの台詞じゃ』

 ぎんは将の腕を離れ、ふわりと浮いた。いつもよりも毛並みが銀色で、体が大きく見えた――将ははじめ、獣と同じく毛を逆立てて威嚇しているからだと思ったが、しばらくしてぎんが成猫の姿に変貌していることに気がついた。力の無駄遣いをしたくないと言う割に、すぐに消費する奴だ。これだからすぐに霊力が底を尽きたりしたのでは……と将は勘づいた。

 

『妾のしもべを襲ったのは、己等の仕業じゃと思っておったがのう』

 獣たちが動揺して目配せし合ったのを、将は確かに見た。前に出ている一匹が、再び問いかけてくる。


『しもべ? そこにいる人間、尋常ではない霊力を感じるが……本当に人間か?』

『妾が選んだ人間じゃ。霊力が並大抵でないのは当然』

『まさか、……貴女がたは』

 突然、相手は前脚を折って頭を深々と下げた。周囲の仲間たちも、ドミノのように次々と顏を伏せていく。呆気にとられる将をよそに、群れのまとめ役は言った。


ぬしさまに報告せねばなりません。どうか、我々と共においでくださいませんか』

『主? 己等のあるじに、何故妾が面会せねばならん?』

 一方のぎんは切り替えが早かった。敵意がないと判断して、威嚇を即座にやめる。


『数々の無礼はお許しください。しかし、昨今は妖怪が跋扈しているゆえ。昨晩行き遭ったという妖怪も、我々の管轄外のものです。

 よくないきざしも現れ始めております。その話を、直に聞いてくださりませぬか』

『兆し、とな……。で、主というほどじゃから、相当な身分の妖怪なのじゃろうな?』

『それは勿論』

 ぎんの問いかけに相手は顏を上げ、真っ直ぐこちらを見据えてきた。汚れのない茶の瞳はやはり、将に畏敬の念を抱かせた。


『この町のあらゆる妖怪を統べる、稲荷神社のお狐さまにございます』



○●○●○●



 一行は青白い狐火に導かれながら、路地裏を歩いていた。道を、両脇の塀を、狐たちは悠々と跳んでいる。最後尾の将はぎんを頭に乗せて、なんだかよく分からないことに巻き込まれてしまった、と思っていた。早く帰りたい。護は心配しているに違いないし、ろくにプレイできていないゲームもしたかった。

 

 狐のお願いに、ぎんが頷いたのは予想外だった。てっきり鼻で笑って回れ右するものだと将は予想していた。だがどうやら、彼女には興味を惹かれるものがあったようだ。


「この行列、誰かに見られなきゃいいけど」

 将の独り言に、目の前を歩いていた狐が彼の横に並んだ。


『ご安心ください。狐火で結界を張っていますから、普通の人間は気づきもしないでしょう』

「あ、そう……なんですか」

『ちょっと、ちょっと』

 すると狐は激しく尾を横に振り始めた。


『普段通りの言葉づかいで結構ですよ。僕はそのような身分ではないので』

「じゃ、じゃあそうするけど……えーと、お前は名前とか、あるのか?」

『名を訊ねられたのは初めてですね』

 狐は驚いたのか、少し目を丸くした。


『……どうぞ、僕のことはシダとお呼びください』

 そう彼は名乗った。確かにその尻尾の形は植物のシダに似ていた。


「シダ。ここにいる狐全部、今から会いに行くっていうお狐さまの手下なのか?」

『左様ですよ。我々は眷属と表現いたしますが。

 ぬしさまは千年以上この地を守り続けていらっしゃるお方です。眷属も十年に一匹ずつ増えておりますから、眷属はそれほどの数になりますね』

「へえ……」

 稲荷狐といえば神さまの使いというイメージがある。やはり凄い妖怪なんだろうな……。

 ぎんは将の頭の上で、退屈そうに欠伸している。図太いやつだ、と将は呆れた。千年と三百年では、かなり妖怪の格が違う気がするのだが、彼女がそのお狐さまに敬意を払う様子はとても想像できない。段々不安になってきた。


『そう緊張なさいますな! 主さまは基本的には寛容なお方です。まあ、が過ぎるものは、罰されますがね』

 シダは狐特有の裂けた口で、歪んだ笑みを浮かべた。将は思わずごくりと唾を飲んでしまう。


「……たとえば、いま人間を襲ってる妖怪とかか」

『すべては主さまの判断しだいですが。現時点では、処罰の対象に十分なり得ます。ただ、正体が掴めないのが厄介なのです』

「こんなたくさんの狐たち総出でも分からないなんて、やっぱり只者じゃないな」

『いえ、まだあと半分ほど、捜索に向かっております。いずれ分かりましょうぞ――さて、着きました』

 その時ふいにシダが足を止めたので、慌てて将も立ち止まった。

 暗闇の中炎に照らされて、ぼんやりと鳥居と階段が浮かび上がった。狐火は神社の周囲を漂っている。どうやらここを上るようだ。何年もこの町に住んでいた将であったが、こんなところに稲荷神社があるなんてこれっぽっちも知らなかった。

 

 足場の悪い急な坂道にも関わらず、シダたち狐は楽々駆け上がってゆく。将は息を切らしながら追いつくのが精一杯で、雑談をする暇もなかった。そんな彼などお構いなしに、根がお喋りなのか、ぎんが諌めるまでシダは始終話しかけてきたのだった。


 真っ赤な鳥居を幾度もくぐり、将が変わらない景色に飽きてきたころ、視界の開けた参道に出た。道の両脇には、既に到着していた狐たちがずらりと並んでいる。道なりに進めということらしい。

 神社って神域だよな。主とやらに会うのだし、体を清めたりしなくていいのだろうか。見当違いなことを心配しながら、将はシダの後ろを歩いた。ぎんは相変わらず頭の上で器用に座っている。

 

『さ、どうぞこちらへ』

 とうとう、最奥まで辿りついた。暗くてよく見えないが、2メートルほど先にこぢんまりした神殿とその手前に賽銭箱がある。どちらも塗装が剥げて古びている。

 傍に控えていた二匹の狐が、前脚を器用に使ってそっと神殿の戸を開けた。将は思わずあっと声を上げてしまった。


 そこに、まばゆい黄金の毛並みをもった巨大な狐の姿があったためである。その輝きで辺りが明るく照らされるほどだ。

 狐は窮屈そうに体を丸めている上に、何本もある尻尾が神殿の壁を突き破らんばかりにぎゅうぎゅうに詰まっている。

 明らかに、ほかの狐たちと違う。将は直視してはいけない気がして、慌てて目を逸らした。


『このような所までわざわざありがとうございます』

 テノールの声が、直接心に染みわたる。念で語りかけてくるのはぎんや眷属の狐たちと同じだが、そのどれとも違う深い重みがあった。


『あなたのことは存じておりますよ。霊猫が、この町を訪れたということは知っていました。しかし、まさか人間のしもべを得ていたとはね。面白い』

 金の瞳が悪戯っぽく、きらりと光った。対するぎんは、将の上で目を細めた。


『そなたはこの町を統べる妖怪だと聞いた。長居するつもりはないゆえ早速問うが、とは何じゃ?』

『いきなり本題ですか。しかしその前に、この老いぼれの雑談に付き合っていただきたい。話相手がいないと退屈なのでね』

 狐はお喋りじゃのうと愚痴をこぼすぎんをよそに、お狐さまは将の方を見た。


『名前をお聞きしても?』

 将はからからになった喉から声を絞り出した。


「獣道、将です」

『では獣道将さん。まず、あなたに警告をしなくてはなりません』

「俺に……?」

 お狐さまはゆっくりと頷いた。それに合わせて竹藪の葉もさわさわと揺れる。神社全体が、彼とひとつであるかのようだった。


『あなたは不運なことにも霊猫に目をつけられてしまいました。定期的に妖怪となり、こちらの世界に足を踏み入れることとなったのです。

 あなたは元々かなりの霊力を持ち合わせているようですが、これは危険です――妖怪も弱肉強食の世界で生きている。弱いものは狙われて、喰われる。昨晩のようなことが、今後幾度となくあるでしょう』

『妾がそれを見過ごすとでも思うておるのか』

『あなたはまだ完全に回復していません。先ほどのように大量の妖怪に囲まれたら終いでしょう』

 口を挟んだぎんを、穏やかながら諭すような口調でお狐さまは言った。

 一方で将は、微かに、すっきりとした気分を味わっていた。どうして自分が襲われたのか、疑問が解けた気がしたのだ。

 ぎんは最初、霊猫はこちらとあちらに立つものだと言っていたが、それは妖怪のことだったのだ。だから、自分が変身するのは、妖怪になるということ――どうして今まで気がつかなかったのだろう。


「そうか……霊猫に噛まれて霊猫になった。ってことは俺、妖怪になったってことだもんな」

『左様。――妖怪。あやかし。化け物。ファンタズム。その一員であるからには、どのような経緯であろうと、ルールに従ってもらわねばなりません。ぎん様からは聞いていないでしょうし、私が話して差し上げましょう』

 将はてっきり、これからお狐さまが時間をかけてゆっくりと、妖怪のルールについて説明してくれるのだと思っていた。

 だがそれは人間の常識だ。

 お狐さまが真っ直ぐに将を見据えたかと思うと、ごうんという強い風が巻き起こった。それを顔面に浴びながら、将はあらゆるイメージを受け取っていた。何が妖怪にとって常識であるのか、何をしてもよくて、何をしてはいけないのか、そんな諸々の知識を一気に叩き込まれた。


「うっ……」

 一瞬、受け止めきれずに半歩後ずさってしまう。

 風は既に止んでいた。もう新しい情報が送られてくる様子もない。将はひとつひとつを吟味する余裕もなく、息を切らして呆然と立ち尽くしていた。


『人間であるあなたには、口で説明するべきなのかもしれませんが、こちらのやり方のほうが忘れることもありませんので。大丈夫ですか?』

「ええ、なんとか、まあ……」

 胸のあたりを抑えながら将は答えた。お狐さまは口の端を歪めて笑う。悪意がなくても、狐は何か企んでいるような顔に見えるよなあ。そう将は思った。


『それで将さんは、学校はどうです。新しいクラスには馴染みましたか』

「へ?」

 呆気にとられる将をよそに、お狐さまはふふふと声を零した。


『いえね、気になるんですよ。最近の人間の子どもは、どんな生活をしているのかね』

『おい……そなたはそのような雑談をするためにここへ呼んだわけではないじゃろう』

 将の頭に爪を立てながらぎんが言った。微かに口の端が痙攣している。一向に本題に入る気配のない上に、相手にされずにいることが不満で仕方がない様子だ。


『まあまあ。もう少ししたら良いご報告もできるでしょうから、それまでの間』

 のらりくらりとかわすお狐さまだった。それから将は、彼に私生活について根ほり葉ほり聞かれることになるのだった。お狐さまはどうやら俗世間にかなりの興味があるらしいということに、将は否応なしに気づかされた。このまま何時間でもつき合わされるのでは、と恐ろしい想像をしてしまう。


『さて』

 だから、お狐さまがそう言って話を切ったときは大層ほっとした。


『ぎん様をお待たせしているのでそろそろお話したいところなのですが、その前に例のご報告をいたしましょうか』

『早うせい』

 ぎんはあからさまに苛々していた。態度もいつも以上に険悪になっている。お狐さまはそれには構わずに、二匹の狐を呼びつけた。声は聞こえなかったが、彼らに何かを念で言いつけたのだろうと将は気づいた。

 眷属は頭を深く垂れたと思うと、ぱっと姿を消した。


『将さん、あなたを襲った妖怪を捕らえました』

「えっ」

『住宅街を駆け回って、他の妖怪たちを喰らっていたところを発見したそうです。先ほども言いましたが、我々の世界は確かに弱肉強食です。弱いものは食われる。しかしそれでも、ルールがある。バランスを崩すことがあってはならない……ゆえに我が眷属を総動員して、草の根を分けて探させました。

 いま、ここに連れてこさせます』

 もう、捕まえたのか。嫌でも将は身構えた。あの恐ろしい獣と、対面することになるのだから。

 やがて神殿と将たちの間に、二匹の眷属が戻って来た。同時に大きな塊も現れて、どさりと硬い地面に落ちた。


 将は、ここ一番大きな声を上げた。

 赤い濁った血のような毛には、葉っぱやら木の枝やらが絡みついている。そしてその毛の間からは、白い透き通るような肌が覗いていた。紛れもない、ヒトの形であった。

 それは、ぐったりとうつ伏せに倒れている。気絶しているようだ。


『人狼です』

 お狐さまはわずかに身を乗り出したが、神殿から出てくることはなかった。


『私もこの目で見るのは初めてです。人狼は、この国の妖怪ではありませんから……』

 両手の汗を握り締め、将は人狼をまじまじと見つめた。丸裸で、あちこち痛々しい生傷が目立つ。髪の色こそおぞましいが、それ以外はただの人間と相違ない。ただ、昨晩見た毛むくじゃらの獣とは、見た目があまりにも違った。それに今は、あの時感じた殺気がない。


「う、ううん」

 間の抜けた声が人狼から漏れた。小さく身じろぎしながら、上半身を起こす。

 だがすぐに、見えない手に押されたように人狼は再び大の字に倒れた。


「ひぎゃ!」

『申し訳ありませんが、もうしばらくそのままで我慢してもらいますよ。あなたが何者か、知りたいのでね』

「何者かだって!?」

 人狼は叫んだ。凛とした少女の声だった。


「やえはやえだよ。大神おおかみやえ!」

『大神……? 日本姓ということは、日本にも人狼の一族があるということですね』

「そうだよ!」

 将は開いた口を閉じるのも忘れて大神を見ていた。同い年くらいのこの少女が、自分を襲った張本人だなんて。とてもではないが信じられなくなっていた。


「やえは大神一族の末裔。うまくジガ? がコントロールできないからって、最近ここに越してきたんだ。やえは、満月になると勝手に変身しちゃうし、欲望にチュージツ? になっちゃうから」

『ふむ……』

 しばらくお狐さまは、品定めするかのように大神を眺めた。困った風にも見えた。


『人間や人間社会に甚大な被害をおよぼす、あるいはおよぼしかねない妖怪は、私たちで処分しています。ですが、あなたはそうは見えない。ただ、ルールを知らないだけでしょう』

 そうして小さく息をつくと、先ほど将に施したのと同じ風を起こしたのだった。

 将自身がされたときはそれどころではなかったために気がつかなかったが、風は渦を巻いて、微かな光を纏っていた。それが大神の中に入っていくのを、将たちは静かに見守っていた。


『狐と猫は陰の生きものです。だが陽である犬は違う、どうしても相容れません。本能的に、攻撃してしまいかねない……我々には本能以上に理性がありますが、今後行いには十分気を付けるように』

「ふにゃ……」

 人狼の娘はとろんとした声を出して頷いて、再び気を失った。


『この娘を帰してやりなさい。この恰好のまま一人で行かせるわけにはいきません』

 お狐さまはまた二匹の眷属に命じた。今度はこちらにも聞こえるような念だった、と将は考えて、自分にも分かるように言ったのだと思い至った。また突如姿を消したら、どこへ行ったのか動揺するに決まっている。


『大した脅威ではなくて良かった』

 静寂を味わうように目を閉じていたお狐さまが、ゆっくりと首を振った。


『私も警戒しすぎているのかもしれない。ですが、よくない兆しは着実に現れている――ぎん様、将さん。この町のどこかに眠っているという妖怪の話をご存知ですか』

『なんじゃ、それは』

 将は首を横に振ろうとしたが、頭の上の声ではっとしてやめた。こちらの反応は予め予測していたようで、お狐さまはそのまま続けた。


『かつてこの町を中心に、妖怪の戦争が起こりました。すべてはその、一体の妖怪が原因です。多くの同朋が奴にやられました。

 ですが突如、奴は姿を消した。力を失ったからだとも、誰かが封印したからだとも言われていますが、私は前者ではないかと考えています。なぜなら――』

 そこで彼は、風の音に耳を澄ませた。もしかしたら、将には聞こえない音を聴いているのかもしれなかった。


『最近になって、奴の影が、気配が、見え隠れするようになりました。それはよくない兆しとなって、この町周辺を渦巻いています』

 お狐さまの言葉は漠然としていたが、それでも将の中に確かな恐怖を植え付けるには十分なものであった。妖怪の世界は弱肉強食。先程、学んだばかりのことである。人狼より恐ろしい存在が、この街にいるというだけで身が強張るのを感じた。


『気をつけなさい。奴はきっとどこかで、機会を伺っている。我々はあなたがたを――ぎん様や将さん、先ほどの娘、やえさんを――守りますが、すべての仲間たちに手が回るかが分かりません。

 気をつけなさい。良くないことが、起ころうとしています。それまでに、どうか。ぎん様は失った記憶と力を、取り戻してください』



 狐たちに見送られ、将はのろのろと石段を降りた。護衛にはシダがついた。もう夜も更けようとしていたが、狐火のおかげで暗い道もどうにか進むことができた。


「なあ、ぎん」

 ずっと黙りこくっている頭上の猫に、声をかける。相手はびくりと震えたが、


『なんじゃ』

 といつもの調子で返事をした。


「お前、記憶がないのか」

『じゃからなんじゃ』

「いや……教えてくれたっていいじゃないか」

『言えるか、そんなこと』

 拗ねたような声を出して、ぎんは丸くなった。数秒の空白の後、彼女は不機嫌そうに告白した。


『それを知るためにも、霊力が必要じゃった。記憶がないのも、弱体化しているからかもしれんじゃろう? 完全に回復すれば、きっと思い出すはず。そう思うてな』

 ぎんが霊力に執着する理由。単純に餌として欲していたわけではなかったのか。

 それを知っていたら、自分は猫になることを承諾しただろうか? 今よりも友好な関係を築けただろうか?

 分からない。だがそれを知った今だからこそ、将はできることはしてやりたいという気持ちになっていた。


 将は黙って聞いていた。わざわざ声に出さなくても、言葉にできなくても、この気持ちがぎんに伝わることは知っていたからだ。

 ぎんもまた、それに返事をしたりはしなかった。


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