021 変化

 翌日、寝坊した将は急いで朝食を済ませ、家を飛び出した。

 あの赤い獣が匂いを嗅ぎつけてやって来はしないかと考えるとなかなか寝付けなかったし、パネル作成の疲れが取れなかったからだ。将は係のメンバーの中でも貴重な男子生徒のため、力仕事を多く任されているのであった。



 駅に向かって近道をしていると、無意識のうちに昨日と同じ道を走っていることに気がついた。俺は馬鹿か、また奴がいたらどうするんだ――それでも今更引き返すこともできず、将はなるべく急いで公園を通り過ぎた。


 午前八時にも関わらず、道には誰もいなかった。昨夜あれほどのことがあったのだから、騒ぎになっているに違いないと将は予想していたのだが……連休でご近所さんは皆寝ているのか。あるいは、警戒して家に閉じこもっているのか。前者であると信じたい将だった。


 辺りは無人であるかのようにしんとしていた。朝にしては静かすぎる。鳥が一羽もさえずっていない。その時将は、何かが地面に落ちているのを見つけた。ゆっくりと近づいて足を止める。

 自分の心臓の音が煩い。

 はじめ、千切れた巾着袋か何かに見えた。しばらく観察しているうちに、将はそれが血に濡れた衣服の残骸であると気がついた。辺り一面にも血痕が点々とついている。


「……!」

 将はさっとUターンして元来た道を全力で駆けだした。

 これ以上先へ行くのはまずい、と思った。自分より前か、あるいは後に、襲われた人間がいるのだ。

 自分が呼吸をしているのが不思議で仕方がない。

 今日は休もう。とてもではないが、集中できそうにない。そうして彼は行きの半分の時間で家に帰りついた。その間、一度も後ろを振り返らなかった。



「護!」

 帰るなり、将は居間に向かって叫んだ。だが彼女の姿はない。将は居間から繋がっている階段に向かって再度名前を呼んだ。

 やがてばたばたと慌ただしい音がして、二階から護が降りてきた。


「え!? お兄ちゃん、忘れ物?」

「お前、今日は絶対に家を出るなよ」

 彼女の質問には答えずに、忠告する。護はしばらく兄の方を見ていたが、テレビに興味を示して、ソファに腰かけて電源を入れた。


「私、友達と買い物に行くんだけど」

「そんなの、今日じゃなくたっていいだろ?」

 護はもうこちらを見ようともしない。将はやきもきするのを堪えなければならなかった。事の深刻さに、護は気づいていない――無理もない。彼女はあの獣も、血痕も、見ていないのだから。


「そのさ、俺、今日はずっとうちにいるし、たまには映画とか見ようぜ」

「えー、……」

 しばらく護はぶつくさ文句を垂れてたが、渋々従った。その間、ずっと彼女はテレビの方を見たままだったが、目線が微妙に画面より下を向いていた。

 そんなことには気づかない将は、ほっとして二階へ上がろうと回れ右をする。だが、耳元で護に呼ばれた気がしてすぐに振り向いた。

 彼女は先ほどと変わらず、将から離れたソファに掛けている。


「いまお前、何か言ったか?」

「ひぇ!? い、言ってないよ」

 しかし護はかなり動揺していた。聞き間違いにはとても思えず、将は問い正そうと口を開いた。

 その時、また声が聞こえた。


「あっ……?」

 将は出しかけた言葉を呑み込んだ。

 耳元ではない。頭の中に声が響いている。この感覚はぎんと念で会話をするときと似ていた。だが、こんなことがあるだろうか? 

 護はしだいに心配そうな表情に変わっていった。


(――お兄ちゃん、どうしたんだろ?)

「……っ」

 間違いない。

 確信した将は、妹を無視して階段を駆け上った。そして転がるように自分の部屋に飛び込む。


「ぎん!」

『んむう、やかましいのう……』

 不服そうな返事があった。しかし、彼女の姿は見当たらない。きょろきょろ周囲を見回して、将は声のする方――ベッドを見た。そこに、いつの間にかぎんの姿があった。

 いや、違った。

 将の目には、ベッドがその下にいる彼女が見えたのだ。


「う、うわあああ!」

『なんじゃい。いい加減にその猫嫌いをなんとかせんか』

 欠伸交じりにぎんはベッドから這い出てきた。将は目を瞬かせた。もうベッドは普通に見えている。

 床に手をついて、将は彼女と目の高さを合わせた。


「そうじゃない! 俺、どうかしちゃったみたいなんだ」

『落ち着け、そちはどうもなっとらん。正常じゃから安心せい』

「でも……!」

 将はむにゃむにゃと適当に返事をするぎんの肩を揺さぶった。


『まあ待て』

 ぎんは平静そのものという顔で、ひらりとベッドの上に乗る。そして彼女に合わせて顔を上げた将の額に、ぴたと手を当てた。ひんやりした感触が広がる。


『うむ。人の心の声を聴く、物を透視する』

 勿体ぶるぎんに、将は焦りと苛々がじりじり増していくのを感じたが、黙って待っていた。

 やがて、手を放して彼女は言った。


『これは妾も予測していなかったことなのじゃが。どうやらそちは、霊能力も扱えるようになってきておるようじゃな』

「なんだって?」

『なに、副作用……みたいなもんじゃろ。いや、ここはた、と言うておこうか。

 そちは霊猫と化すたび、壁を通ったり浮遊したりしておった。ほれ、この間も、服を移動することもできておったし』

 将は思い出していた。最近では普通に壁を通り抜けるし、駅前で変身してしまった時は、ぎんのレクチャーを受けながら、服を家まで瞬間移動させたこともあった。抵抗はしていたつもりだったのだが、彼は猫化やその能力を使うことに慣れつつあったのだ。

 それで、人間のままでもそれらが使えるようになったというのだろうか? それも、こんなに唐突に。将はにわかには信じがたかった。

 だが、ぎんはそれを否定した。


『いやいや、前々からその片鱗は見せておったではないか』

 先日、護が家を飛び出した時。難なく発見できたのも、無意識に霊能力を用いていたから――ぎんに言わせれば、そういうことらしい。直感などという人間が定義する曖昧なものは、殆ど霊能力に当てはまる。そして、彼の開花しかけていた能力は、昨夜の襲撃で爆発的に成長した。


「じゃあ、俺は……これからどうなるんだ」

『常時、霊能力が扱えるようになるな。身体能力の上昇、霊聴テレパシーや透視はその初期段階に見られる能力ゆえ、なんも心配はいらん。今は制御ができん状態で、ところ構わず発動しておるようにも見えるが、じき慣れる』

 将は頭を抱えた。ただでさえ大きな秘密を抱えているというのに、さらに増えてしまった。

 俺は、これらの異常を隠し通していくことができるのか? どれだけ特殊能力を得ようとも、根っこはただの人間だ。

 いつかぼろが出たり、おかしくなったりする可能性を彼は恐れた。


 だがぎんは、そんな将の不安などどこ吹く風と言った様子だった。

 思い出したように足踏みをして愚痴を言う。


『それより、そちの妹のほうがどうかしとるぞ! 朝、そちが出てった途端部屋に入ってきてな、寝具の上でごろごろしておった。見つからんように隠れるしかなかったわい』

 将はそんな愚痴につき合う余裕も、妹のことを考えている暇もなかった。



○●○●○●



 それから将はしばらく護と過ごすこととなった。ネットサーフィンをすると言うぎんを後にして、一階でだらだらと映画を観たり課題をしたりした。やがて時計の針が数字の五を指したころ、将はようやく部屋に戻った。さすがに護も外出しないだろうし、そろそろゲームを心行くまで楽しみたいと思ったのである。

 ぎんは、将が部屋を出ていった時と全く同じ姿勢で、パソコンの画面を眺めていた。


「お前、ずっとネットしてたのか!?」

 爪を伸ばして抵抗するぎんをベッドに放り投げ、将は椅子に座る。画面には検索ページが開きっぱなしになっていた。


「妖怪……?」

 妖怪について調べる妖怪だなんて。それもネットで。

 思わず失笑し、将がページを閉じてゲームを読み込んでいると、足元にぎんがやって来た。


『正体不明の獣が気になったのでな。ぐぐっておった』

「いったい何ちゃんねるを見たらそんな単語覚えるんだよ……」

『ふふん、なうかろう』

「……」

 ナウいかはさておいて、果たして妖怪がそれでいいのかと少し心配になる将であった。画面から目を離さずに彼は訊ねる。


「それで? 正体は分かったのかよ」

『んにゃ。そちの記憶から、見た目や特徴を知ることはできたが、妾の見たことのない妖怪じゃった』

 そんなことができるなんて。今更驚くほどのことではないと思いつつも、将はぎんとの繋がりの強さを実感した。


『ネットとやらも案外頼りにならんようじゃし……むしろ、そちの鞄の噛み跡や臭いのほうが参考になったわい。そこまで恐れる敵ではなさそうじゃ。ゆえに、直接確かめに行こうかと思う』

「えっ」

 将の指からマウスが滑る。そんな彼にはどこ吹く風で、ぎんは続けた。


『刺激しなければおっけーじゃろ。妾もある程度の霊力は溜まったし、万一のことがあろうとも自分の身は守れる。あわよくば、そやつの霊力をいただこうと思うてな』

「いや……」

 ぼんやりとクリック連打しながら、将は考えていた。

 あれとぎんが戦う姿など想像もできなかった。獣同様ぎんの実力も未知数だが、危険なことには変わりない。


「俺としては、行ってほしくないんだけど」

『何故じゃ? 人間を襲うほどの妖怪を喰えば、霊力も大量に得られるはず。そちとの契約も早く解けるちゃんすじゃぞ。うぃんうぃんではないか』

「お前、覚えたての単語使うのやめろよ」

 溜め息をついて将はぎんを見下ろした――彼女には、俺の考えていることがわかるはずだ。犠牲者を、それも自分の知り合いが傷つくのを見たくないということくらい。それがたとえ自分の苦手な猫であってもだ。もう、将にはぎんが自分とは無関係だとか、どうなろうが勝手だと思うことはできなかった。

 しばらくふたりは黙って互いを見つめていた。


「だったら俺も行くよ」

 観念して彼は言った。ぎんはふんと鼻を鳴らした。


『心配せずとも、初めから連れていくつもりじゃったよ。そもそもそちは拒否権などないんじゃからのう』

「そうかよ……でも俺じゃ足手まといになるかもしれない。危ないと思ったらすぐ逃げてほしい」

『おうおう、頼もしいしもべじゃ。感激で涙が出そうじゃぞ』

「泣く気なんてさらさらないくせによく言うよ」

 パソコンに向き直りながら将は呟く。ぎんはひらりとジャンプして、将の目の前、キーボードの上に着地した。凛とした声で、高らかに宣言する。


『では、そちは早う夕げを済ませよ。それから出発するぞ。夜はあやかしの時間。その獣もきっと現れるじゃろう!』

「キーボードの上に乗るな」

 小さな主は下僕の手によってあっけなく掃われた。




 夜の八時。将とぎんは、例の公園へと向かっていた。護は入浴中だ。その間に、あの獣を見つけて帰宅しなければならなかった。妹のことだ、たとえ部屋に鍵を掛けても、いないことにすぐに気づかれてしまうだろう――将は確信していた。


「ぎん、お前、本気であれとやり合う気なのか」

『そちは妾の実力を知らんな? 最近は霊力もそこそこ戻って来ておるし、妾もそこそこ強いぞ』

「そこそこがどの位か分からないから心配なんじゃねえか……」

『失礼しちゃうのう』

 ぎんはいつぞやのように、将の頭の上に座っていた。自分で移動をするのは面倒なのか、あるいは主人を運ぶのが僕の務めだと考えているのか。いずれにしても、辺りに人がいないのにほっとした。人気がないとただただ不気味な夜の街だが、猫に話しかけているのを見られるよりはずっと良かった。


「ここだよ」

『うむ』

 将は足を止め、ぎんに言った。思い出の深い、タコ滑り台の公園。昨日の衝撃で、若干凹みが生まれているが、遠目に見ればそう目立つ損傷でもなさそうだ。

 将はゆっくりと公園の敷地へ入って行った。


「何か、気配とか感じたりするのか?」

『いや……今夜はここらにはおらんようじゃな』

 頭の上できょろきょろしながらぎんは答える。やがて前足で将の目元を叩き始めた。


『あの台の上に昇れ』

「いていて! 自分で行けよ……つーかお前飛べんだろ!」

『あまり力の無駄づかいはしとうないのでな』

 やれやれと将は反対側に回って滑り台の手すりに手をかけた。不本意には変わりなかったが、頂上に立ったときには、久しぶりに滑ってみようかな、と少しわくわくしていた。

 ぎんが見やすいように、その場でゆっくり回転する。 


「どうだ?」

『しまった』

 彼女は答えた。顏は見えなかったが、ぎんの焦りが将にははっきり伝わってきた。


『囲まれた』

 そして将は、見た。ぎんの言う通り、滑り台の周りを、ぐるりと円形に獣が並んでいるのを。

 尾を立て、低い姿勢で牙を剥きだして、彼らは声を出さずに唸っていた。

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