第三章

しろくろファンタズム

020 満月の夜に

 ゴールデンウィークが始まった。将はデザイン科の生徒と一緒にパネルの仕上げに追われていた。

「空いている日に来てくれればいい」、鶴岡先輩はそう言っていたのだが、最後までやり遂げたかった将は毎日登校し続けた。この連休が終われば、体育祭もいよいよ目と鼻の先である。



 駅に着いたころには、空は暗くなりかけていた。

 将はスマートフォンを取り出して、一直線にコンビニへ向かった。ここ最近忙しくて、通販の商品を受け取るのを忘れていたのだ。どうして店頭受け取りにしたかといえば、答えはただひとつ。エロ本とゲームを購入したためだった。

 特にゲームは、将お気に入りのシリーズものの新作で、発表日に予約したほど楽しみにしていたものだ。そしてそのついでに、いかがわしい本も注文したというわけである。

 無論、家族にばれるわけにはいかない。将はそのために、予め段ボールを入れる紙袋を用意していた。


 数分後、ほくほく顔で店を後にして、将は帰路についた。

 片手に通学鞄、もう片方の手に紙袋を持って、人気のない住宅街に入る。


「……急がないと」

 帰ってすぐにゲームをしたいというのもあったが、あまり遅いと妹の護が心配する。最近は彼女と頻繁に連絡をとるようになり、ぎこちなくではあるが会話も増えるようになってきた。


 強い風が将の髪を逆撫でた。電線が揺れ、街灯はちかちか点滅している。

 今日の天気は、曇り。星や月が一切見えないこともあって、足元が暗く、頼りない。


 ガサガサと木が大きく揺れ、将は飛び上がった。音のした方を見ると、そこは馴染みのある公園だった。

 なんという名前なのかは、将は知らない。小さいころはここで、護や幼馴染みとよく遊んだものだった。そしてつい先日、護と会話した場所でもあった。

 いくつか遊具が撤去された所為で、公園にはぽっかり広い空間ができている――それでも彼の好きだったタコ滑り台や、木登りをした大木は残っていた。

 その木の幹が唸っている。風の仕業には思えず、将はじりじりと注意深く近づいた。


 何かが、いる。

 将が直感した瞬間、それはブンと風を切って、大木から滑り台の頂上に着地した。

 大きくて、毛むくじゃらな生き物だ。犬にしては大きいし、熊にしては小さすぎる――では何だ? 猿か? この辺りで山を下りた動物の話は聞いたことがない。将には見当もつかなかった。


 ぶ厚い雲がふいに途切れた。姿を現した満月が、彼に答えを示すようにを照らす。獣は、ゆらりと後足で立ち上がるところだった。月に近づこうとするかのように。

 大きな犬のように見えた。盛り上がった肩の毛が、その体をさらに大きく見せている。だが、――こんなに毛色の犬が、世の中にいるか? 将は目を背けることも後ずさることもできず、獣を見つめ続けることしかできない。恐怖で足が強張っている。

 月を見上げていた獣は、ぐるりと首をこちらに向けた。目が合った。

 獣は素早く身を翻すと、跳躍する。


「ひっ……!」

 将はその場に凍り付いた。

 赤い塊はこちらに向かって跳んでくる。それは、濁った血の色を連想させた。

 俺は死ぬのか。そう覚悟して、将は目を閉じる。


〔阿呆が!〕

 罵声が頭で響いた気がした。その時、不思議なことが起こった。

 将の身体が無意識に動いて、さっと地面に腹ばいになった。間一髪、彼の頭上で鍵爪が髪をひと房掠め取っていった。

 将が目を開けたとき、獣は勢い余って反対側の道路に落下するところだった。そのままコンクリート塀に垂直に着地すると、再び襲い掛かってくる。将は急いで振り返った。


 まるでスローモーションの映像を見ているかのように、将の目には相手の動きがはっきり映った。大きく開けた口、鋭い歯。噛みつかれたらどうなるかくらい、考えなくとも分かる。


「おおおおっ!」

 大声は自分を奮いたたせるだけでなく、相手を怯ませることもあるという。将は紙袋に手を伸ばそうとして――すぐ通学鞄を掴みなおした。彼が鞄を前に突き出したと同時、獣の鼻口部マズルが衝突した。自分でも驚くほどの瞬発力と判断力に関心しつつ、将はわざと力を抜いて。力を逃がさなければ、こちらが押しつぶされてしまいそうだったのだ。

 どうやらうまくいったようだ。ゴウンという鈍い音が響く――獣が頭から滑り台に落ちた音だ――そして、赤銅色の塊はのびて動かなくなった。


「はっ……は、」

 心臓が酸素を欲して暴れている。だが、深呼吸をしている場合ではない。将は荷物をかき集め、震える足に鞭打って、なんとかその場を離れた。



○●○●○●



『我がしもべよ、聞くがよい』



 帰宅した将は自分の部屋によっこらせと荷物を下ろした。そうして中身を引っ繰り返して無事かを確かめる。鞄ほど重症を負ったものはないようだ。エロ本もゲームも傷一つない。

 将は、わずか一年足らずで使い物にならなくなった通学鞄を眺めた。半分に千切れかかっており、涎と歯型でとても修理できそうな状態ではない。

 紙袋を犠牲にしなくて良かった、と将は自分に言い聞かせた。鞄は近いうちに新調すればいいだけの話である。

 無視されたぎんは、唐突に彼の背に大の字に貼りついた。将は全身の鳥肌が立つのを感じた。


「なんだよ!」

 首根っこを摘まんで目の前のベッドに置く。手はすぐに引っ込めた。

 ぎんは乱暴じゃのうと愚痴をこぼしてから、背筋を伸ばした。そうして目を細めて鞄の残骸を眺める。ぼろぼろになった理由を、いちいち訊こうとはしなかった。心が繋がり、記憶が共有されている彼女には、その必要がなかったのである。


『これまで沢山の書物を読んだおかげで、妾も知識がついた。我々の関係をうまくいまの言葉で表現できそうじゃ』

「また唐突だな……教えてくれよ」

『妾はそちのヒモじゃ』

 将は黙ってゲームの開封を始めた。


『冗談じゃよ! そちの緊張を解こうと思っただけなのじゃ』

「はあ……」

 まさか、そんな気遣いをしてくれたとは。将は素直に驚いてしまった。必死に冷静に振る舞っていたつもりだったが、ぎんにはばればれだったようだ。


『ええとな、妾は点滴を受けとるようなものじゃと思う』

「点滴?」

『うむ。そちから管を繋いで、霊力という点滴を打っておる』

「なるほど、確かにそんな感じだな。俺のおかげで、お前は回復してってるわけだし」

『じゃろう? 分かりやすかろう? 誉めて良いのじゃぞ』

 ふふんと威張るぎん。将は、


「はいはい、それで?」

 と続きを促した。いいたとえであるだけで、目新しい情報ではなかった。それよりは、ゲームが無事かが心配だった。


『管で繋がっておる間はどちらも離れられん。途中でぶち切ってしまっては互いに支障が出るかもわからんわけじゃ。じゃが、繋がり続けておることで生じる副作用もあるようじゃな』

「それって……」

 ようやく興味をかきたてられた将は、手を止めてぎんを見下ろした。彼女はしばらく手の甲を舐めたあと、言った。


『そちが行き遭うたけだものが何なのかは、妾にも分からん。妖怪の一種であるのは確かじゃが……さておき、そやつの襲撃を難なくかわすことができたのは、妾との繋がりゆえじゃと思う。つまり』

「つ、つまり?」

『点滴が逆流してしまい、妾の体液がそちに流れ込んでしまったということじゃ!』

「…………」

 言いたいことが分からなくもないが、伝わりづらい。ぎんはいつも、説明が下手だった。

 将の微妙な反応を見て、ぎんから誇らしげな表情が消えた。背を向けて、ショックを受けたようにうなだれた。耳が若干垂れている……お前可愛いな。将は思わずそんな感想を抱いてしまった。


 将も真面目に考えてみることにした。あぐらをかいて頬杖をつき、回想する。

 あの時の自分は、頭の回転も、視力も、瞬発力も、何もかもが人間離れしていた。咄嗟にとった行動にしては速すぎだ。最初なんて、無意識のうちに相手を避けていたし……。

 なぜだ? 俺は運動神経も並だし、獣とたった一人で組手できる度胸も力もないはずなのに。

 ゆっくりと頭の中を整理して、将はあるたとえが浮かんだ。

 それは、初めてぎんに会った日にも思ったことだった。


 将がパソコンでぎんがスマートフォンといったところだろうか。互いに契約というコードで繋がって、ぎんを充電している。その影響で将は内部データを読みとられたりしている。

 将は元々霊力……スペックがあるのだが、霊能力のデータはない状態だ。それが、ぎんと同期したことでコピーされてしまった。それで先ほどは人間離れした行動ができた――で、説明がつくのではないか? 我ながらいいたとえだ、と将は頷いた。

 口で説明しなくともぎんには伝わったらしい。彼女は肩とひげを震わせて叫んだ。


『そんなのまだ知らんもん! なんじゃよ、すまほとか同期とか!』

 それからというもの、ぎんの趣味にネットサーフィンが追加された。

 代わりに将のゲームをする時間が減ってしまった。


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