番外編

~九十九灯 編~

 週に四日、灯は電車に乗って塾へ通う。

 彼女の家は高校の近くだが、大抵はまっすぐ家に帰らずに、塾で自習をしたり講義を受けたりしている。

 

 香柴こうしば駅で電車を降りた灯は、駅前の広場に出た。塾はそこから歩いてすぐのところにある。背の高いビルに、色とりどりの制服姿が入っていく様子は、毎日見ることができた。

 灯は広場をぐるりと見回した。皆ただ一心に目的地に向かっていて、彼女を気に留めることはない。


「今日もいないなあ」

 灯は肩を落とした。やがて姿勢を正すと、周りに倣って歩き出す。


 二週間ほど前、駅と学校で見かけた猫。叶うものなら、もう一度でいい、彼らに会いたかった。なぜなら――



 にゃあおという声が、諦めかけていた灯の足を止めた。

 はたと振り返り、通行人の間を縫って早足で歩く。そして、見つけた。


 人の群れが壁になって、出入り口の近くを見落としていた。

 駅を囲む背の高い垣根。その前に設置された石造りのベンチに、一人の少女が腰かけている。その膝の上には黒い子猫の姿。首輪はしていない――けれども、野良猫とは思えないくらい毛づやが良い。太陽の光で、銀色に輝いている。見間違えようはずもない。あの時の猫だ。

 猫は灯を認めると、金色の目をまん丸にして再び鳴いた。少女は構わず彼を撫でまわしている。

 セーラー服に、おさげの黒髪。見た目からして、中学生だろうか――好奇心をそそられて、灯はそっと隣に腰かけた。


「こんにちわ」

「うぉあ! こ、こんにちは?」

 声をかけられて相手は飛び上がった。猫に夢中で、灯が座ったことも気づかなかったようだ。


「あなたのうちの猫さん?」

「えっ――いえ、違いますよ。たぶん、野良猫。すっごい可愛いですよね」

「うん」

 本当は、野良猫をむやみやたらに触ったりしてはいけないと灯は注意したかった。だが本音が先に口をついて出てしまった。


「私も、触っていい?」

「にゃっ!?」

 先に返事をしたのは猫のほうだった。その声に、今度は灯がびくりとしてしまう。


「いいですよー」

 だが、黒猫は抵抗するようにばたばたともがいた。毛はつんと逆立って、何かを警戒しているように見えた。何か猫が嫌いなものでも身につけていただろうか……灯は不安になって、少女を止めた。


「私、嫌われてるのかな……」

「そんなことはないと思います! けど」

 相手は戸惑いがちに言葉を切ってしまう。気を遣わせてしまったな、と灯は申し訳ない気持ちになった。


「あ、あのー」

 しばらくして、少女が再び口を開いた。


「猫、好きなんですか?」

「うん。あなたも?」

 相手はぱっと顔を赤らめた。それを見て、灯は声を出して笑った。


「えへへ、やっぱり。おんなじだなあって思ったもん――よかったら、私のことは灯って呼んでね」

「灯さん! ですね。自分は護っていいます」

「護ちゃんね。わかったわ。

 ……実はね、最近まで私、猫アレルギーだって言われてたの」

「アレルギー……!?」

 護は猫をさっと掴むと、隔離するように灯から離れて座った。灯は苦笑いを浮かべて首を横に振る。


「ごめんごめん。違うの。最近病院で診てもらったら、間違いだったことが分かって」

 これまで、野良猫に近づくと皮膚が赤く腫れたり、湿疹ができたりしていた。灯の両親はそれを猫アレルギーだと言って疑わなかったし、本人もそれを信じた。しかし実はそれは、ダニやハウスダストのアレルギー症状だったのだ。

 だが、話を聞いたあとも、護は疑うように灯を見つめ続けていた。じっと観察していたら、いずれボロが出るのではないかと考えているようだった。彼女の膝の上で、黒猫もふたりを見上げていた。


「それでも野良猫は触ったら危ないんじゃ……」

「やっぱりそうかなー」

「ですよう。何かあったらどうするんですか」

「でもこの子、すっごい毛がつやつやで綺麗じゃない」

「そうなんですよね!」

「だから、……ちょっとだけなら、いいかなって。私、そんなに症状重くなるわけじゃないし、猫アレルギーで猫飼ってるひとだっていっぱいいるくらいだし」

「うーん……」

「この子なら、大丈夫な気がするの」

 畳みかけるように懇願すると、護も折れたようだった。猫好きだからこそ、彼女も灯の気持ちが痛いほど分かるのだ。こんな可愛らしい黒猫を触らず我慢できるわけがない。ただ眺めるくらいなら、死んだほうがましだ。

 当の黒猫は困ったように耳を垂れていたが、抱き上げられても今度は観念したように大人しくしていた。


 護に抱っこされた黒猫は、ぬいぐるみのように愛くるしかった。灯はそろそろと指を伸ばす。ついに、生まれて初めて、この猫に触れられるのだ。そう思っただけで、唇が緩んでしまう。


「……ふわあ」

 感動して、灯はため息をついた。

 頭のてっぺんを撫でてみると、予想していたよりもずっと柔らかくて暖かかい毛並みが灯の指先を包んだ。次は手のひらで、頭と耳の後ろをさわさわと触ってみる。それに合わせて黒猫の耳とひげが面白いほど動いた。

 そっと自分の膝の上に移動させて、ブラシをかけるように頭から背中を撫でていると、護が笑って言った。


「灯さん、本当に猫が好きなんですね」

 灯は我に返る。いけない、つい夢中になってしまった。だが護は気にも留めない様子で、楽しそうに灯と猫を見ていた。猫も気持ちよさそうに、目をうっとりと細めている。

 猫に触れる。幸せを噛み締めながら、灯は膝の上で丸くなる猫を撫で続けた。


 その時、足元で猫の鳴き声が聞こえた。

 白い猫が、彼女たちの前で尾をゆらゆらと揺らしていた。黒猫がぴくんと跳ねたのを灯は膝の上で感じた。


「迎えにきたのかな……?」

「かもです」

 囁いていると、白猫がちらりと二人を見た。灯は口をつぐんで見蕩れてしまう。黄金の瞳は満月のようにまん丸で、吸い込まれそうなほど美しかった。

 そうしている間に、黒猫は軽く膝を曲げてジャンプする。はっと灯が気づいた時には、白猫は既に背を向けて歩き出していた。二匹は双子のように瓜二つの体格だ。だが、白猫は黒猫に比べて気品がある。お姉さんなのかな、と灯は思った。

 そのあとを転がるように黒猫がついていく。一瞬、こちらを向いてにゃあんと鳴いた後、彼らは人混みに紛れて見えなくなった。



 残された二人は顔を見合わせる。まるで魔法が解けた気分だった。

 猫は目的も、時間も忘れて夢中にさせてくれる。


「行っちゃったね」

「はい……でも、また会えますよ! この辺に住んでるみたいで、うちにもたまに来るんです」

「へええ、いいなあ!」

 そういえば、自分が彼らに会ったのはこの広場と学校だった。子猫にしては行動範囲が広すぎる気もするが……そういうものなのだろう、と灯は決め込んだ。


「その時は護ちゃんにも会えたらいいなあ」

「……!」

 灯が笑うと、相手は言葉に詰まったような音を出した。

 それから護は何度も口を開けては閉じるを繰り返していたが、灯はその気質ゆえに、ただ彼女に微笑みを向けるだけだった。

 やがて落ち着いた護は、灯に訊ねる。


「ずっと気になってたんですけど……」

「ん、なにかな」

「その制服……って、御津山高校のですよね」

「そうだよ。護ちゃんよく知ってるね」

「ええ、うちのお兄ちゃんもそこなので――えっと」

 護はもじもじとして、上半身を捻って後ろを向いた。


「そこにあるのも、――ですよね……?」

 はっきりとは言わず、彼女は背の高い垣根を指さした。灯は目を凝らしてその指先を追って、そして、見た。

 深緑のブレザーは保護色になって一見しただけではそれと分からない。だが、確かに護の言う通り、そこにはなぜか垣根に絡まるようにして制服が落ちていた。よくよく見ると、ズボンやベルトもある。男子の制服だった。

 

「み、見なかったことにしよっか」

「そ、そうですねっ」

 これが女子の制服だったら、灯もクリーニングに出して学校に届けていたかもしれない。だが男子のものとなると話は別だった。名札や鞄があれば、誰のものか分かるだろうが、調べるのは悪いことをしている気になるし、何より恥ずかしい。それに……なんとなく、スルーしたほうがいいような気がしたのだ。


 それから数分、二人は雑談をして盛り上がった。もう後ろを向くことはしなかった。だから、その間に制服が忽然と消えたことには気づくはずもなかった。

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