019 護


(ぎん! 急いで戻してくれ!)

『それはこちらの台詞じゃ、阿呆が! 待ちくたびれたわい』

 壁を通り抜けて自分の部屋に戻ってきた将は、同じく白猫がこちらに向かって飛んでくるのを見た。

 怖い。

 思わず将はぎゅっと目を瞑る――そうして半ば強引に唇を奪われた。空中でキスを交わしたふたりは、そのままベッドの上に落下した。


「そうか、服を置いてきたんだった」

 尻もちをついた将は、人間の手で身体をさすりながら気づく。急いで着替えを済ませると、ぎんには見向きもせずに足早に階下へ向かう。服やら食器やらの片づけをしながら、頭を整理する。それが済むと、将は自分の部屋ではなく、その隣の扉へ手を伸ばした。

 鍵はかかっていない。

 小さく深呼吸して、将は思い切ってノブを捻った。


 その部屋の広さは将のと同じだが、壁紙や床に敷かれたマットなどなど……レイアウトが大違いだ。そして少しいい匂いがする。

 将の家具は青が多いのに対して、ここはオレンジだらけだった。それに、あちこちにぬいぐるみやクッションが置いてある。特に、巨大なしましま猫のぬいぐるみが目を引いた。

 護はベッドですやすや寝息をたてていた。彼女が眠っていることを、将は知っていた。護が髪を乾かして眠りに落ちるまで、ずっと傍にいたのだから。部屋へ入る勇気が出たのも、猫の時に一度経験したからだ。


「……畜生」

 将は自分の髪を爪を立てて梳きながら、吐き捨てた。

 思惑通り、彼は風呂で妹の悩みを知ることができた。だが、どうすればいいのだろう? 今度は将が眠れなくなってしまった。すぐにでも揺り起こして話をしたい。

 聞いてしまっては。 


「変わるのが、怖い」

 あの時、シャワーを浴びながら、護は涙を流していた。

 将は小さな猫の身体で、ずぶ濡れになるのも構わずに、彼女に寄り添った。

 それから打ち明けてくれた護の悩みは、――ふたりだけの秘密にしようと、将は決心したのだった。


 時刻は深夜2時。話をするのにふさわしい時間とは言い難い。霊力を吸いとられた将もくたくただったが、朝まで我慢することはできそうになかった。

 やがて意を決した将は口を開けた。


「護、護」

 軽く肩を揺さぶると、相手は薄く目を開けた。

 兄が起こしたことに気づいた護は、跳び上がるように上半身を起こして距離をとった。


「な、な、なに入ってきてんの!」

「大事な話があるんだ」

「キモい、どっか行ってよ、ありえないんだけど」

「落ち着け。俺、お前が悩んでること――」

「やめてよ!」

 戸惑いがちに伸ばされた将の腕を跳ねのけると、護は転がるように部屋を飛び出していった。すかさず将も追いかける。

 まさか、逃げだすとは思っていなかった。

 階段を降りると、丁度玄関の扉が閉まるのが見えた。


「あいつ――」

 夜中に外へ出るなんて! 

 後を追って将も外へ出た途端、頭上から降ってきた何かが顔にしがみついてきた。


「のわっ!」

『落ち着かんか、動揺が妾にも伝染する。気持ちが悪い』

 ぎんは将の頭の上にバランスをとって座る。姿が見えないと、嫌いな猫が乗っていてもあまり気にならない。それに、彼女は羽のように軽かった。

 将はひとまず深呼吸した。


「ぎん、降りてくるなんて珍しいな……」

『そうじゃなあ。妾も不本意じゃが』

 ぎんは言葉を濁した。だが将にはそれに気づく余裕はない。開けっ放しの門扉をくぐり、足音や息遣いが聞こえはしないかと耳を澄ませた。

 住宅街はどこまでもしんとしていた。閑静な街並みは不安を掻き立てる。 

 

『追いかけんのか? ほれ、あの――自転車とやらで行けば、もしかしたら』

「いや、俺自転車乗れないんだよ」

『はあ?』

 小脇たちも知らない世紀の大告白を、猫にすることになるとは。将は頭の上で笑い転げるぎんを振り落とすのをすんでのところでこらえた。

 これまで通学はバスや電車だった。乗る機会がなかったせいで、将は自転車を持ってすらいない。対して護は、近所の私立に行くのに合わせて覚えたのだが……。

 車庫をちらりと見ながら将はちょっぴり後悔を覚えた。護の愛車が消えている。

 とにかく、自分の足で妹を見つけなければならない。そう遠いところへは行っていないはずだ。


『正気か? アタリがあるならともかく、そちは今から徒歩で、どこへ消えたかも分らん女童わらべを見つけなくてはならんのじゃぞ』

「……正気だよ。こんな時間に、仮にも女の子が、出歩いていいわけがないだろ」

『それには同意じゃな。うむ』

 歩き出した将の上で器用にバランスをとりながらぎんは頷いた。


『しかし――先日、学校中を探し回ったこともあったじゃろう。あれじゃて、かなり時間がかかっておったではないか』

「何が言いたいんだよ」

 ぎんが遠回りな言い方をするのが気になった。


『手を貸そう。猫は猫でも、霊猫の手じゃ。ありがたく思え』

「手?」

 彼女がここまで積極的なのも珍しい。将は違和感を覚えたが、足を止めずに歩き続けた。月明りと街灯で、道はそれほど暗くはない。彼らの動きに合わせて、奇妙な形の影も揺らめいた。


『妾には猫の聴力に嗅覚、そして霊能力がある。そちの妹を見つける手助けとなるのではないかや?』

「……ぎん、今日は別人みたいだな。そんなことを言ってくれるなんて、珍しい」

『ま、まあ妾もおなごなのでな。思うところがあるのじゃよ』

「ん……?」

 またも意味深なことを言うぎんに、将は首を傾げた。

 相手は黙りこくっている。どうやら返事を待っているらしい。


「ありがたく受け取りたいところだけど。俺、アタリはついてるんだよ」

 十五分はかかるであろう目的地まで、もう間もなく到着しようとしていた。

 将はぎんに感謝していた。認めなくはなかったが、彼女と一緒にいることで安心しているのに気づいていた。ぎんが一緒だと、心強い。


 だが、あいつは今もひとりだ。

 将は足を速めた。一刻も早く、連れ戻さなければならない。



○●○●○●



 確かに、校内と町内とでは後者のほうが遥かに見つけられる確率が下がる。当てずっぽうに捜すなど、無謀としか言いようがない。あの時もしも、穂希が校外へ出てしまっていたら、将と今のような仲にはなっていなかっただろう。

 だが、彼は護をすぐに見つけることができた。

 ずばり兄の直感というやつである。



 にゃあ、という鳴き声に護は顔を上げた。

 近所の公園。小さいころ彼女がよく遊んでいたもの場所だった。今ではいくつか遊具が撤去された所為で、不自然に空いたスペースが目立つ。残っているのはベンチに砂場、そしてタコ型の大きな滑り台。くねくね曲がる滑り台だけでなく、その下にある小部屋は昔から人気だった。

 もちろん護も、この遊具がお気に入りだった。特に小部屋は、彼女にとって秘密基地のように思えたのである。

 だから白い猫が、出入り口の小穴からやって来たのには驚いた。今日はよく猫に会う日だなあ、と抱き寄せる。先ほどの黒猫と同じように、白猫は大人しく護の腕に包まれた。


「やっぱりか」

 続いて誰かが窮屈そうに体を捻じ込んできた。護は頭が真っ白になる。


「昔はよくここで遊んだもんな、俺たち」

「あ、あ――!」

 ようやく逃げ道がないことに気づいて、護は小さく悲鳴を上げた。

 一つしかない出入り口を塞ぐように、護の兄、将は穴の淵に腰かけていた。


 昔から、二人はまるでお互いの心が繋がっているかのように意思疎通ができた。かくれんぼはお互いの場所をすぐ探し当てたし、迷子になった時も片方がすぐに片方を見つけた。機嫌が悪いときは、わけを聞かなくても分かった。喧嘩もそれで仲直りしたものだった。それを、成長するにつれて将は忘れてしまっていた。


「帰る前に、話がしたい。いいよな」

 小部屋は真っ暗で、互いの顔は全く見えない。それでも彼には護が諦めたように力なく頷いたのが分かった。そして、静かに涙を流していることも。

 だから将は、いつかのように彼女の頭を撫でた。


「や、やめ――」

「やめない」

 どんなに拒絶されようと、止める気はなかった。将はそのまま力強く護を引き寄せると、強く抱きしめた。察したように白猫が、素早く腕をすり抜けて肩に移動する。


「今まで気づいてやれなくて、ごめん」

 石鹸の香りを胸いっぱいに吸い込んで、将は耳元で囁いた。

 それこそ兄の直感で、察することができたらよかったのに。




――変わるのが、怖い。

 彼女はすべてを風呂場で打ち明けた。話相手の黒猫が、その兄本人であることなど露知らず。


 護は変化を恐れていた。

 幼いころ、護は将にべったりだった。仕事で忙しい両親に代わって、兄が彼女の世話をしていた。

 それは、将が中学生になり、一人部屋が与えられてからも変わらず続いていた。護は将が好きだった。よく部屋に入ったし、一緒に昼寝したりすることだってあった。将も、当時はなんとも思っていなかった。だが、彼のクラスメイトに指摘されてから、しだいに煙に巻くようになった。いい歳をして妹と一緒にいるのが、恥ずかしいと感じるようになったのである。

 護も薄々、兄の態度が変わっていることに気づいていた。


 そしてある日、護が猫を家に連れて来たことから事態が悪化した。

 将は飼うな、護は飼うの一点張り。当時、将は猫嫌いを隠していた。

 虚勢を張って、猫をむんずと掴んだ将は、公園に逃がそうとした。だが途中、抵抗した猫に引っかれて怪我をしてしまった――あの時近くにいた遊び友達に助けてもらわなければ、もっと大怪我を負っていた。それほど深刻な事件であった。

 護はショックを受けた。彼女はただ、離れかけていた兄妹の絆を取り戻そうとしただけだったのに。猫が、そうしてくれると信じていた。

 だがそれを兄が拒絶した。


「ばか兄」


 それからだ。彼女が将をそう呼ぶようになり、猫に執着するようになったのは。

 このままでは、兄が振り向くことはないと分かっているのに。わざと距離を置いて、突き放そうとした。そのたびに、胸が締め付けられるように苦しくなる。

 素直になれなくなった自分に嫌気がさしつつも、護はたびたび空っぽの兄の部屋に足を運んだ。彼の匂いに包まれると、安心して眠れるのだ。

 護にとって、将はいつでも「大好きなお兄ちゃん」だった――




「部屋に入ってきてること、知ってるから。……いつでも、ってわけにはいかないけど、好きなようにしてくれ」

 まだまだ小さな妹の背を撫でながら、嘘をつく。本当はついさっき、ぎんから聞いたことだった。

 どうやら護の心は体の成長に追いついていない。中学二年生、まだまだ不安定な時期だ。自分で自分のコントロールが上手くできないし、感情の上下も激しい。だからこそ変化を恐れる。

 そして――ぎんは最後まで伏せていたが――彼女は兄の部屋で自分を慰めているようだった。

 それが正しいことか将には分からない。ただ、それで彼女が安心できるのなら、しばらくは好きにさせようと思った。



 やがて将と護は家に向かって夜道を歩いた。ぎんの姿はない。いつの間にか、立ち去っていた。


「猫……お兄ちゃんが連れてきたの?」

「ああ」

「……嫌いじゃないの」

「生憎、まだ好きじゃないな。だけどお前が好きかなと思ってさ」

 二人の手はしっかりと繋がれている。

 こんな時間に散歩をする酔狂な人間は他にいなかったし、だからこそ周囲の目を気にする必要もなかった。


「最近白黒の猫二匹が部屋に来るんだ。結構ひと懐こいだろ」

「うん」

「もしまた会ったら、優しくしてやってくれ」



 兄妹の絆が再び生まれ、強まった証だった。それは、将とぎんの関係とはまた別の、深い繋がりであった。




[第二章 しろくろスケッチ 完]

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