018 仲たがい

 その日の作業を終えた将は、ひとり徒歩で帰路についていた。

 学校から最寄駅まで歩き、それから電車に揺られ、そして家まで再びしばらく歩いて帰る。そうしているうちに、辺りは暗くなりはじめていた。


 角を曲がり、直進すれば家に着く。というところで、将は猛スピードで突っ込んでくる自転車にぶつかりそうになった。


「ぅおい! 護か!」

 そう叫んだ時には自転車はとうに通り過ぎていたが、将の声と同時にブレーキをかけて、止まった。二つに分けられたおさげ髪とセーラー服の襟が、動きに合わせて宙を舞う。

 ゆっくりと振り返った護の顔は、群青に染まっていて将からはよく見えない。


「……」

「ま、護――?」

 深夜の彼女の泣き声を思い出した将は、おずおずと名前を呼ぶ。

 護は再び前を向くと、そのまま腹から絞り出すような声を出した。


「遅い。今日の買い物当番、あんたでしょ」

「あ……悪ぃ、ちょっと俺、学校忙しくて」

「嘘つき」

 そっぽを向いたまま、吐き捨てる。彼女はてこでも将を見たくないようだった。その態度に、将は反省も、心配も忘れて苛立ちを覚えてしまう。


「嘘じゃねえって。体育祭の係でさ、放課後に」

「そんなの、知らない。ばか兄が真面目に係やってるとか信じない」

「なんなんだよお前。さすがに馬鹿にしすぎだろ」

「だってばかじゃん。あんたなんか、」

 ペダルに足をかけ、力強く踏みながら護は怒鳴った。


「馬鹿! ばーーーか!」

 ざしゅん、と風を切りながら自転車は鋭くUターンした。将は反射でそれを避けるしかなかった。


「……インコ相手のほうがまだ建設的な会話ができる気がする」

 会話がちっとも成り立たない。猛スピードで家に戻っていく自転車を唖然と眺めながら、将はぼやいた。


 それから家までは、わざと時間をかけて歩いた。

 帰り着くと、門扉をのろのろと閉め、庭の小道を歩いて玄関へ向かう。やがて将はスライド扉に手をかけた。いつも帰宅時間には開けっ放しにしているのだ。

 ガチリと大きな音を立てただけで、びくともしない。しばらくガタガタ言わせた後、将はドアから手を離した。


「ああそうですか!」

 大声を上げながら、将は乱暴に鞄を開いて鍵を探した。引っ張りだして力任せに穴に突っこんで、回す。


「嫌がらせも大概にしろよ!」

 靴を脱ぎ捨て、台所にいるであろう護に向かって吠える。返事はなかった。聞こえてくるのは、ただ流しから水が流れる音だけだった。将は余計に苛々して、わざと大きな足音を立てながら二階に上がる。

 それから将は部屋に閉じこもって、ふて寝した。護もそんな彼に一切口出ししなかった。二人はだんまりで夜を過ごした。

 やがて将が後悔しだしたのは、日付が変わったころ。空腹が我慢できなくなって目を覚ましてからだった。



○●○●○●



 妹と話すときは何も考えずに反射で言い返してしまう。そう将は気づいたが、だからと言って自分だけが悪いとはとても思えなかった。

 確かに、買い物当番を忘れていたのは自分が悪い。親の帰りが遅い日は、ふたりで買い物と料理、それぞれ担当を決めているんだから。だが、あの態度はあんまりじゃないか?

 護は将の言い分を聞く気すらない。意志疎通そのものを拒絶してしまっている。これでは彼女の悩みを知るどころか、仲が険悪になるだけである。


「意味分かんねえ。なんで俺がコソコソしなきゃいけないんだよ」

 午前零時。空腹に耐えかねた将は、一階に降り台所を物色していた。家は静まり返っていた。少し前に帰ってきた両親も、既に寝室だ。しまった、親に相談する予定だったのに。しかし、時すでに遅しだ。今はそれよりも、腹を満たしたかった。

 もしかしたら護がご飯を残してくれているかもしれない。淡い期待を抱いていた将だったが、流しに並ぶ洗われた鍋や食器を見て肩を落とした。両親も、兄妹ふたりで食事をしたと思っているのだろう。料理の類はひとつもなかった。


「……カップ麺でも食うか」

 その方がコンビニへ弁当を買いに行くより早く済みそうだ。そう判断した将は、さっそく棚からインスタントラーメンを取って、お湯を沸かし始めた。ヤカンの前で待ちぼうけている間、護に対する怒りや疑問が次々と浮かんでは、消えた。

 心配して損した。もうあいつのことなんか、知らないんだからな――


「…………」

 将は台所を後にして、風呂場へ移動した。入浴もしていなかったことを思い出したのだ。

 シャワーだけでもいいが、今日は湯船にゆっくり浸かりたい気分だった。

 都合のいいことに、お湯は張られたままであった。追い焚きのボタンを押して、将は再び台所へと戻る――常に動いていないと、妹のことで頭がいっぱいになっておかしくなりそうだった。


 ヤカンからは既に湯気が上っていた。将は時間を計るのも面倒で、加薬を放り込み、どばどばと容器にお湯を注いでそのまま食卓へ運んだ。

 はじめ、ぼんやり数を数えていた将だったが、三分も待たずに蓋を開けると、持ってきていた一味唐辛子を中にぶちまけた。将は辛い味が格別好きなわけではなかったが、そうしたくなったのだ。

 麺を啜っている間は無心でいることができた。

 やがて食べ終わった時には、苛々は治まっていた。そうしてだんだんと彼は自責の念に襲われていくのだった。


 どうしてこうなってしまうんだろう。俺は妹の悩みを解決したいんじゃなかったのか。あいつは一人で思い詰めていて、それで俺に強く当たったのかもしれないっていうのに、一緒になってキレてどうすんだ。

 つう、と汗が首筋を伝った。

 はじめは体温が上がったからだと思った。だがそれが冷や汗だと気づいたときには、将は変身し始めていた。


「そんな――!」

 前回から二十四時間も経っていない。変身の頻度は、二日に一回に減っていたはずだった。急いで二階に駆け上がろうか考えたが、今ここで物音を立てて誰かを起こしたらまずい。

 いつも以上に声を殺して、将は黒い毛に覆われていく両手を呆然と見つめていた。彼の動揺などお構いなしで、身体はゆっくりと縮んでゆく。


〔まだ不安定なのじゃよ、そちの体は〕

 将の頭で、ぎんの声が響いた。

 ぎん、と彼がその名前を呼ぶが、既にそれは猫の鳴き声であった。将は慌てて口を閉じる。家族に聞かていないことを祈るばかりだ。


はよう来んか。妾が元に戻してやるでのう――〕

(……わかったよ)

 姿は見えずとも、彼女が身体を逸らして高飛車に言い放つ様子が想像できた。将は口には出さずに返答すると、注意深く部屋をあとにした。気配を消して階段を昇ることに専念する。


 どうも、考え事をしていると変身の予兆に気づくのが遅れる。

 ここ最近彼が気づいたことだった。もともと将は何かに没頭してしまうと、ほかが疎かになってしまう癖があった。その所為で、誰かに猫化の秘密を知られるかもしれない――


(気を付けないと)

 そう頷いたときだった。将は柔らかい壁に正面衝突してしまった。

 思わず声を上げそうになった口を噛み締めて、顔を上げる。将はちょうど階段を昇り終えたところだった。障害となるものなどあるはずがない。誰かが、廊下にいない限りは。


「ちょ、ちょっと、なに!?」

 脚をさすりながら、相手は言う。

 しばらくは考え事すら控えたほうがよさそうだ、と将は思った。

 護が、こちらを見下ろしていた。その目元は涙できらきら光っている。


 護は、今まで部屋でずっと泣いていたようだった。顔を洗おうと思ったのか、喉が渇いたのか。さておき彼女は部屋を出たときに、いつぞやの黒猫を見つけたのである。

 将はまた襲い掛かられるのだと覚悟して身を竦めてしまった。


「……」

 だが、彼女はそうはしなかった。黙って彼を抱き上げると、そのまま階段を降りていく。

 将は拍子抜けした。やはり、明らかに様子がおかしい。いつもの護ではない。だから、護が洗面所で彼を下ろしても服を脱ぎ始めても、将は逃げずにその場でじっとしていた。彼女の身体に怪我がありはしないかと観察したが、傷の類はひとつもない。


「お利口ね」

 護はそう言って、風呂場のドアを開ける。


「来る?」

 振り向いた彼女は諦めに似た表情を浮かべている。

 将は迷った。これが最後の逃げ道だった。

 子供のころじゃあるまいし、妹と風呂に入るなど死んでも嫌だ――だが、彼女が猫を外に逃がさず、わざわざここに連れてきたことの意味くらいは分かっているつもりだった。

 普段ならくるりと背を向けて走りだすところだ。しかし将は恐る恐る一歩踏み出すと、護の横についた。少しでもいい、彼女の涙のわけを知りたかった。

 護は目を丸くして、微かに笑ったように見えた。


 ゆっくりとドアが閉まる。

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