017 深夜
目が覚めると、既に変身が始まっていることに気がついた。
ぐぐっと全身が縮む感覚に吐きそうになる。歯を食いしばって、将は胃がねじ切れるような痛みを堪える――どうせ起きるなら、終わってからがよかった――そう思っていると、苦痛の時間は過ぎていた。
「……夜の二時か」
将は寝転がったまま首を逸らして時計を確かめた。安眠を妨害されたことに苛々しつつ、ぎんの姿を捜す。
「霊力ってなんなんだろうな」
ここ数週間、彼がずっと抱いていた疑問だった。
ぎん曰く、将には膨大な霊力があるという。それこそが彼が妖怪、ぎんに狙われた理由であり、猫にされてしまった原因である。
だが霊力と言われても、将はピンとこなかった。壁を通り抜けたり、宙を浮いたりする力がそうなのだろうか。
将はベッドから降りて、辺りを見回した。ぎんの姿はない。近頃ぎんは姿を消すことがあった。今まで将が猫になった途端、襲い掛からんばかりに飛んできていたのに、だ。そうして気づいたときには、彼女は少し毛並みを銀色にして帰ってくる。
そう言えば……、と将は思い出す。ぎんは足を怪我した猫を治したことがあった。もしかして、人助けならぬ猫助けをしているんじゃないか? 霊がどうとか、祓うとか言っていたような気がする。
『除霊じゃよ。憑いた悪霊を取り除いたんじゃ』
変身して、十分は経っただろうか。どこからか返事があった。振り返ると、先ほどまで将が寝ていた位置でぎんが丸くなっている。将は我が物顔でくつろぐ彼女から少し距離をとった。心を読まれることは、未だに慣れない。
「悪霊……? その除霊ってやつで病気を治せるのか?」
『うむ。病というのは総じて気の乱れ、気の乱れは悪霊の仕業じゃ。じゃからそれを祓うことで治る』
将はその場に座りながらゆっくり頷いた。科学と薬で病気を治す現代だが、悪霊がとり憑いて病気になる、という一説を知らないわけではなかった。悪霊がいるとはとうてい思えないが、目の前に妖怪がいるのだから、それらの類もいるのだろうと将は処理した。
「それでお前は、病気を治して回ってるってことだよな」
『ばれていたのでは仕様がない。その通りじゃ』
さして驚きもせず、ぎんはあっさり白状した。
『悪霊はな、しばらく放っておけば大きくなる。病気も悪化するのじゃ。じゃがその頃合いを見計らって喰えば、それだけ力がこちらに溜まるわ、向こうも病気が治るわ……、一挙両得というやつじゃな』
「……」
ぎんは慈悲で母猫を助けたわけではない。それに気づいた将はがっかりした。あくまで自分自身のための行動だったというわけだ。霊猫という名前は、霊を食らうという意味でつけられているに違いない。
「まあいいや……じゃあさ、ついでに訊きたいんだけど。お前がそんなに欲しがってる霊力ってなんだ?」
『――人間には肉体と霊体が存在する』
数秒の沈黙の後、ぎんが切り出した。声に合わせて尻尾がゆらゆらと揺れている。
『肉体には五感が備わり、霊体には霊力が備わる。妾のような妖怪は肉体がないぶん、霊体でできており……存在を維持するために多大な霊力を必要としておるのじゃ。ここまでは良いか?』
「な、なんとか」
『人間にも、能力の違いというのがあろう? 足が速い者や芸術的感覚に富んでおる者がおるように。霊力もしかり。誰しも持っておるが、個体差がある。そちは中でも桁違いじゃったがの』
ぎんは目を細めて将を見つめている。
『妾が誰かしかから霊力を吸わねば蓄えられない妖怪であるのに対し、人間は生きもの……自力で生産ができるでな。ゆえに人間で蓄えの多いそちを、栄養源として選んだ』
それは以前も聞いた話だった。
どうせなら日常で役立つ部分で秀でたかった、と将は心の中でぼやく。霊験師にでもなればいいのだろうか?
「実感がないからなんとも……だって俺、人間のときには壁を抜けたり浮いたりとかできないし」
『少々勘違いしておるようじゃな。そちが持っておるのは霊力であって、霊能力ではない』
「んん?」
ぎんの指摘に混乱してきた。
「霊力と霊能力って、違うのか?」
『正確には異なる』
欠伸を噛み殺しながら彼女は言う。何を分かりきったことを、と呆れた様子だ。
『霊能力は霊を見たり、憑依させたりできる能力全般を指す。霊力があるからと言って、その能力も高いとは限らん』
筋肉があるからといって皆ベンチプレスができるわけではないというものだろうか……なんとか理解しようと頭を捻る将に、相手は満足げに喉を鳴らした。
『そのような認識で良い』
「じゃ、じゃあますます分かんなくなったんだけど。霊力ってなんなんだよ?」
『それは――』
口を開いたぎんだったが、そのまま黙ってしまった。ふいに横を向いて、溜め息をついている。
『またか』
また? わけがわからず将が問いかけようとしたその時、妙な音が耳に飛び込んできた。
小さな、しかし激しい息遣いだ。
「なあ、なんか変な声が聞こえないか?」
『おばけのことかの』
「えっ……いるのか!? うちに!?」
『いや、冗談じゃが』
すっと立ち上がってぎんは言う。
何が面白いのか分からないことを平然という奴だ。将ものろのろと起き上がると、頭を傾けて声の方向を探して歩いた。
『近頃は頻繁に聞こえるぞ……隣の部屋からじゃ。そちの妹ではないのか」
「
壁に向かってダッシュした将は、そこに耳をぴったり押し付けた。確かに、よくよく聞いてみるとそれは将の妹、護の声だった。猫の聴力がなければ聞き取れないほど小さな、啜り泣く音がする。
何かあったのだろうか……?
そういえば先日、妹は自分の部屋にやって来て、その上ベッドで居眠りしていた。あの時も少し様子が変だったのだが、将はすっかり忘れていた――あれから家に帰ってみると、護は平然としていたためだ。
『そのようにせんでも、部屋に這入ってみれば分かろうに』
ぎんが呆れて言うが、将はそうはしなかった。
正直、彼には躊躇われたのである。妹の部屋なんて、何年入っていないか分からない。猫になったからといって、気軽に踏み込む勇気は出なかった。たとえば、女子更衣室に堂々と入れるかと問われれば、将は即座にノーと答える。
「止まった。途中で寝ちゃったみたいだ」
将はようやく壁から離れて、ベッドに戻った。
『夜はいつもそんな感じじゃ。妾も直接見に行ったことはないが、あやつは夜泣きが激しい』
「そうなのか?」
将は驚いた。夜泣きという表現についてはスルーする。
護は兄の前ではいつもツンケンとした態度をとる。泣いたりだとか、弱味を見せたりすることはなかった。そもそも、ここ何年かまともに会話をしたことすらない。ゆえに、将が彼女の悩みを気づくはずなどなかったのである。
「うーん、どうしたもんか……ンっ!?」
座り込んで考えていた将の口元に、突如柔らかいものが押し当てられた。早く霊力を補充したかったらしいぎんが、待ちきれずにキスをしてきたのだ。
「!? ……!?」
動揺する将をよそに、ぎんは丁寧に彼の唇から力を奪っていく。全身がへにゃへにゃになり、心臓はばくばく暴れている。将は、それがあくまで人間に戻るための副作用であると信じたかった。
もう、何もかもがどうでもよくなった将は、その場に仰向けに倒れてしまった。
○●○●○●
「ちょ、ちょっと将くん!」
「んあ……何?」
穂希の鋭い声に将は意識を取り戻した。
放課後、将はパネル係の手伝いで美術室にいた。穂希と一緒に色塗りの作業をしていたはずなのだが、ここ数分の記憶がない。どうやらウトウトしていたらしい。
周りの生徒たちの邪魔にならないように、ひそひそと穂希は注意する。
「何じゃないよ、いま筆持ったまま居眠りしてたじゃない」
「あ、ああ……ごめん」
「どうかしたの? 寝不足っぽいけど」
穂希は将を頭のてっぺんから、ゆっくり目線を下に移動させて観察している。
ぎんからキスをされた後は、心も身体も疲弊してしまう。猫に変身することを隠している将だが、日常生活に支障が出てしまうのは厄介だった。
「なんでもな」
「あるよ! あのね、単調な作業っていっても、ぼーっと色塗りされちゃ困るの」
将の手から筆を取り上げて、穂希は声のトーンを幾分か上げた。彼女は絵のことになるといつもより熱が入るようだった。
「分かった、分かったよ」
何が分かったなのか、自分でも分からないまま将は両手を振ってなだめた。眠気を飛ばすように、頭を掻いて考える。
適当にでっちあげるよりも、いっそ思い切って打ち明けたほうがいいだろうな、と思った。彼の寝不足の原因は、変身以外にももうひとつあった。
「……俺には妹がいるんだけどさ」
「うんうん」
「最近一人で悩んでるみたいで。それが気になって眠れなかったんだよ」
「…………え?」
数秒の空白の後、穂希はぽかんと将を見つめた。
「どういうこと? そんなの、聞いてあげればいいんじゃないの?」
「それができたら苦労はしない」
わざとらしく大仰に言うと、将は穂稀の手から筆を取った。そのまま下を向いて、作業に戻るふりをする。完成図を元に、色を選んで筆をペンキに
彼自身、なんて自分は面倒くさいやつだろうと思っていた。
部屋に入るとか食事の時に直接聞くとかで、相談に乗る機会を作ることはいくらでもできるはずだ。だがそれができないのは、護との距離感が掴めないから、そして気恥ずかしいからに他ならない。
「妹さんとは仲が悪いの?」
そっと訊いてくる穂希に、将は自分が情けなくなってきた。返事をせずに、ただ首を横に振る。
不仲なわけではない。少なくともそう将は信じたかった。いつからか、向こうが避けるようになったのだ。「ばか兄」と呼んだりするようになったのも、その所為だ。
「どうして聞きづらいのか教えてよ。自分は一人っ子だから、よく分かんないんだ」
「……うん」
将はようやく声に出して頷く。色塗りに没頭する振りをしながら、どう説明したら相手に伝わるか考えた。
「俺たちは、必要最低限の会話しかしないんだ。ご飯当番の時とか、買い物の時とか。簡単にあれしろこれしろって言うだけで、普段学校でどうしてるとか、何が好きだとか、そういうのは全然知らない。
だから、こういう時どうしたらいいんだか……妹って女友達とも違うしさ。どこまで近づいていいか掴めない」
「ふうん。
「それは……」
そこで将は、うっかり猫のことを言わないように気を付けなければならなかった。
「最近、夜中に一人で泣いてるんだ。それを俺はうっかり聞いて。普通、兄は妹の部屋に入って話を聞いてやるもんなんだろうかとか考え出すと、ごちゃごちゃして、この有様だ」
「うーん」
穂希は困ったように唸ると、将と同じように筆をとって色を塗りはじめた。その動きはさらさらとして迷いがない。一方将のほうは何度も重ね塗りをしたままペンキが固まった所為で、小さな凹凸がついていた。
「親とはどうなの? うちみたいに放任主義とか?」
「放任じゃないとは思うが……むしろべったりだな。親は妹を猫かわいがりしてるし、妹もそれを知った上で甘えてるわけ。
親は本当は長男じゃなくて長女がほしかったらしいしな。俺の次に妹が生まれたときはそれはそれは喜んだらしい。あんまり覚えてないけど」
「ははあ。一姫二太郎三なすび、とも言うしね」
「言わない」
一富士二鷹と混ざってしまっている。穂希にそれを説明したものか迷っていると、相手は朗らかな調子でこう言った。
「気にする必要はないね」
「え?」
「将くんは妹さんにどう接したらいいか分からない。でも家庭がギスギスしてるわけじゃあ、ない。それなら、親に話すだけで解決じゃん。『最近、妹が泣いてるみたいなんだけど』ってさ」
それを聞いた将は、頭の中で光が弾けた気がした。親を仲介して相談するなど、考えもしなかったのだ。自分だけでなんとかして解決しようとしていた。
「……おお」
「どう?」
穂希は得意げな表情を浮かべて笑っている。将も思わず顔が綻ぶのを感じた。
「そうしてみる。マジ助かった」
「いいっていいってー、困ったときはお生憎様だもんね!」
そう胸を張って言う彼女に、さすがに訂正してやる気になれない将であった。
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