016 才能よりも
放課後、将は恐る恐る美術室の扉を開けた。彼の一歩後ろには、同じように緊張した穂希が立っている。
「よく来たね、待っていたよ」
鶴岡先輩は両手を広げて彼らを歓迎した。
今日はパネル係の集まりだった。将たち普通科にとっては最初の活動日となる……とはいっても、この日は簡単な説明や日程の連絡をするための集まりだった。
教室には既に何人か生徒が集まっている。数人ずつ塊ができており、デザイン科のグループが一番多かった。青の三年、赤の二年、黄の一年。だが赤色は明らかに少ない――集団で食中毒にかかったのは本当だったらしい。デザイン科の生徒たちはよそ者を見るような目で将たちを一瞥したが、すぐに自分たちの作業へと戻った。忙しなく動いていて、その表情からは余裕が感じられない。
「すまないね。今は巻きで下書きをしてもらっているところだ」
せかせかと歩み寄りながら先輩は言った。
「きみたち助っ人の出番はまだ先だが、説明だけしたいと思ってね……他の二人は? 四人と聞いていたが」
「あ、少し遅れて来るそうで、俺たちだけで先に来ちゃいました」
結局、二年C組で集まったのは楠穂希、平野ナツメ、相沢三月、そして獣道将の四人だった。将は穂希に誘われて参加を決意した。部活も入っていなかったし、手伝いをしたいという気持ちが芽生えていたのだ。
鶴岡先輩が黙っているので、不思議に思った将は彼女の視線を追った。その目は、穂希に注がれている。
「楠穂希か?」
「……せんぱい」
穂希は俯いていた。
知り合いだったのか? 将は黙りこくってしまった二人を交互に見た。
先に動いたのは鶴岡先輩のほうだった。唇をきゅっと結んで、勢いよく頭を下げる。
「申し訳ないことをした」
「……」
「許してもらおうとは思っていない。ただ、言い訳をさせてもらえるならば、あの時の私は馬鹿だったんだ」
先輩のよく通る声は作業をしている生徒たちにも届いたらしく、皆手を止めて二人を注視していた。口をぽかんと開けている生徒もいる。リーダーが下級生に謝罪をしているのは、只事ではないと思ったのだろう。
「先輩の言葉がなかったら、ずっと勘違いしたままでした。だから、謝らないでください――い、いつまで頭を下げてるんですか、もう、大袈裟なんだから」
周りの視線を気にしながら穂希は早口で言う。鶴岡先輩は「そうか」とゆっくり顔を上げ、表情を和らげた。
「御津山に入学してたなんて今の今まで知らなかったぞ。本当に驚いた」
「だって先輩を避けてたから。出品とかも、全然しませんでしたし」
「……来てくれたことを心から嬉しく思うよ。また一緒に活動ができるからな……しかし雰囲気が変わった。短い髪も似合う」
そこで先輩は、後ろで他の生徒がつっかえていることに気づいた。
「君たち、説明は全員揃ってからするから、ちょっと待っていてくれないか」
「あ、はい」
将は穂希に目くばせして、早足で教室の隅っこに移動した。
窓の向こうをなんとなく眺めていた将だが、やがて穂希のほうを向いた彼は問うた。
「なあ、もしかして――?」
「そう。中学の自分に、才能がないって言ったのは鶴岡先輩」
「嘘だろ……!?」
彼女がそのようなことを言うなんて……。鶴岡先輩とは知り合って数日しか経っていない将だが、彼女がそのようなことを言うとは信じがたかった。
「ほんと。先輩は鋭い感性持ってるし、なんでもズバズバ言うひとだしねー」
「じゃ、じゃあお前……」
パネル係を引き受けることの意味が、変わってくるじゃないか。
上手く言葉にできずに口をつぐんでしまった将に、穂希は肩をすくめて笑った。
「それとこれとは別だし。自分は助っ人として絵を描くだけ。あとは、なんだっけ、野山となれ、だよ」
「野となれ山となれでは……」
意味としてはあまり変わらないのかもしれないが、気になるとつい指摘してしまう将であった。
「さっすが。将くんは頭いいね」
穂希はくすりと笑う。
「い、今、お前」
「え? ……うん。いいでしょ、別に」
驚いて口をぱくつかせる将に、彼女は小さく吹き出した。
将が彼女のことを『穂希』と呼び捨てたように、『将くん』と名前で呼んでくれた。なんだかむず痒いが、距離が縮まったように感じて将は嬉しかった。
「なんかにやにやしてる? キモチ悪いなあ」
「お前も結構ズバズバ言うよな……」
顔に出ていたことにショックを受けつつ、将はうなだれた。
鶴岡先輩を知らないのと同じで、将は中学時代、穂希に直接会ったことはなかった。ゆえに、当時の穂希の髪型が違うことなど想像してもいなかった。少し考えれば、校則の厳しい中学でオレンジ色のメッシュなどできるはずがないと分かることであったのに。
今自分が知っている穂希とは見た目も性格も違う穂希が、当時はいたのだ。将は不思議な心地がした。……もしかしたら、黒髪ロングだったのかもしれない。
その時、複数の足音がして二人は扉の方を向いた。平野や相沢、他のクラスの生徒たちが次々と到着したようだった。その中のひとりが、こちらに駆け寄ってくる。
「おうい、獣道くん!」
小声でそう声を掛けてきたのは九十九灯だった。将はどきりとして返事もできずに固まってしまう。
九十九が二人の前で止まると、遅れて長い黒髪が舞った。
「私も部活がない日は参加しようと思って、来ちゃった」
「そうなんだ……ありがとうな」
びっくりしながらなんとか言葉を返す。クラスごとに助っ人の名前の書かれた紙を回収した将だったが、中身を一々確認したりはしなかったのである。
「ていうか九十九さん、部活入ってるの?」
「うん。放送部とアカペラ部。体育祭のときは放送してるから、よろしくね」
「おっけ」
一方で穂希は、二人を観察しながら意味ありげに頷いていた。
九十九が彼女の視線に気づいて笑顔を向ける。
「獣道くんの友達?」
「えっ、あ、……うん?」
知らない人から声をかけられることに慣れていないのか、穂希はかくかくと頷いた。その動揺ぶりは将に引けを取らない。
「九十九灯っていいます。灯って呼んでほしいな」
「く、楠穂希、です。自分も、名前で呼んでほしいかな」
助けて、と将に目でサインを送る穂希。将は慌てて口を開いた。
「えーと、そっちのクラスは、どのくらい人数集まった?」
「十人くらいかなー、獣道くんが呼びかけしたあと……いつだったかな、しずくちゃんと私とでもう一度呼びかけしたんだ。そしたら結構集まったよ! あ、しずくちゃんも空いてる日は来るって」
「そっか……あいつには頭が上がらないな」
最近はよく九十九と遭遇する。将は、それが決して偶然でも自分の運がいいわけでもなく、ひとえに彼女の行動力があるからだと薄々気づいていた。
たとえば、教室を間違えた将に一番に声をかけるとか。
たとえば、一度でも知り合いになった生徒を見かけたら声をかけるとか。
たとえば、パネル係の助っ人を買って出るとか。
当たり前のように、自然とやってのけている――将ならぼんやり眺めているだけで終わってしまうことをだ。ゆえに彼には九十九が眩しい存在として映るのである。
「でも私、絵ってあんまり得意じゃないの。それにマイペースってよく言われるから足でまといにならないかちょっと不安で」
「俺も絵とか全然描けねえよ。……でも上手い下手とか関係ないって先輩も言ってたし、気にせずに作業できるんじゃないかなって思う」
「そっか。そうだよね、できることをすればいいんだよね」
九十九は微笑んだ。
ふと、将は鶴岡先輩に初めて会ったときのことを思い出していた。
――絵の才能なんて、どうでもいいんだ。
彼女はそう言っていた。穂希が親の模倣をしていたことを看破した鶴岡先輩は、それを本人に指摘し才能を否定したのだろう。将には想像することしかできないが、恐らく彼女も中学時代から変わったに違いない。大事なのは、才能などではないと声を大にしていえるほどに。
穂希は、知っているだろうか?
「なあ、穂希」
意を決して将は名前を呼ぶ。
こうして今の彼女に出会えたことに喜びを覚えながら。
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