015 セルフオブジェクト

「どういうことだ……?」

「獣道くんは同じ中学だから、たぶん知ってるよね。絵の賞をとってたこととか、親が、芸術家だってこととか?」

 将が頷くのを横目で見て、穂希は続ける。一度話しだしてしまうと止まらないようだった。穴の空いた容器から、水がとめどなく零れていくように。


「自分も、中学の頃までは思ってたよ。自分には才能があるって。でもさ、……自分が一、二年のころかな。美術部の先輩に『お前には才能がない』って、スパーンって言い切られちゃったんだよね。その時は嫌味と思って気にしなかった。僻んでるひとがいることも知ってるから。

 だけどそれから、デザイン科の入試に落ちてさ。わけわかんなかったよね。自分は頭は良くないから根性で普通科に受かったけど、転科してやるーって意気込んでたんだ。でも。自分の作品を見返してみたら――どれも、親の模倣だったことに気がついた」

「模倣……っていうのは」

「そのまんま。パクりみたいなものだよ。構図とか、描き方とか、何から何まで親のを盗んだだけだったの。自覚がなかったのにびっくりした……親は親で放任主義だから、指摘してくることもなかったし。

 落ちるのも当然だと思った。ま、そもそも基礎から理解できてなかったんだけどね。これまで自分勝手に創作してたから。自惚れてたんだよ。才能があるって思い込んでた」

 恥ずかしい、と穂希はため息と共に俯いた。だが将は共感できなかった。たとえ模倣だとしても、絵が描けない将にとってそれは秀でた才能にしか思えなかったのである。


「絵がうまいうまいって、周りから言われてきたけれど。それが親から受け継いだものなのか、だとしてもそれは自分の個性じゃないんじゃないかって、考えたらきりがなくなっちゃって――何も信じられなくなって。だからは、でいるのをやめたかった」

 穂希は吐露する。

 自分らしさが欲しかった。

 苗字で呼ばれると、親を意識して嫌だった。

 芸術家の娘などではなく、ただの「自分」になりたかった。


「やめろよ」

 何と声をかけるべきか分からず、将はそう止めることしかできなかった。

 ぎんが驚いたように首を上げ、じっと将を見つめた。穂希は顔を伏せたままだったが、黙っている。


「お前が自分の絵に納得いかないんだとしても、俺はお前が描いているのを見たいんだよ」

 将自身、かなり乱暴な意見を言ってしまったと感じたが、それが彼の本音だった。

 個性がどうとか、模倣だとか、そういったことは気にせずに、ただ純粋に絵を描いてほしかった。猫を描いていた穂希の姿は、とても楽しそうだったのだから。


「お前が上手いわけが、パクリだからか才能があるからかなんて俺には分かんねえよ。でも一番大事なのはそこじゃないだろ」

 言ってしまったあとで、恥ずかしくなった将は穂希と同じようにそっぽを向いて顔を伏せる。靴先で地面を蹴ると、ざりざりという音がした。


「穂希は、絵を描くの、嫌いなのかよ」

「……嫌いなんかじゃないよ」

「……うん」

「好きだよ」

「うん」

 ちらりと横目で穂希を見る。彼女は唇を微かに震わせているが、先ほどのように涙を流すことはなかった。人前では泣かない子なのだろうと将は直観した。

 こいつは、人一倍自分に厳しいんだ。だから『自分』という定義までも狭めていってしまっている。そうして気づかないうちに雁字搦めになってしまった。


「だったら……絵を描いても許されるんじゃないのか。お前はお前を、許せるんじゃないのか」

 将がそう言うと、ふっ、と可笑しそうに小さく息を吐く音がした。首を捻って隣を見ると、穂希は微笑を浮かべていた。


「ふふふ、今日の獣道くんはなんだか別人みたいだね」

「お前ほどじゃないと思うけど」

「そうかな。制服乱したり、腕掴んできたり、呼び捨てで名前を呼んでくれたり、さすがにどぎまぎしたよ」

「あっ……」

 将は赤面する。猫の時に連呼した所為で、さん付けするのを忘れてしまっていた。


「まあ、獣道くんならいいよ。呼び捨てでも」

「やっぱお前は呼んでくれないんだな……」

 期待はしていなかったが、やっぱりがっかりしてしまう将だった。穂希はそれに気づいていない。


「でも、嬉しい。絵を描いてる自分が好きって言われたこと、なかったから」

「べ、べべ別に俺は好きとか言ってないけどな」

「あはは」

「笑うな! いや、お前が笑うならもうなんだっていいや……」

 降参したようにがっくり肩を落とす将と、声を上げて笑う穂希。その膝の上の白猫は、退屈そうに欠伸をした。


『帰る。説教はまた後程してやろう』

 つんと言い放って、ぎんは飛び降りた。今までずっと頃合いを伺っていたのだろうなと将は苦笑した。


「私、パネル係やってみるよ」

 すたすたと歩きだす猫を見つめながら、穂希は言う。


「わかった」

 将も、同じようにぎんの背を見ながら返した。



○●○●○●



 罪悪感というものは、後から波のように押し寄せてくる。将は一人公園の水飲み場で顔を濡らしていた。


「……うっ」

 四月とはいえ、水は刺すように冷たい。だが将は、髪や制服に跳ねるのもお構いなしで水をかぶり続けた。

 あれから、将と穂希は教室に鞄を取りに教室に向かった。その途中で彼らは小脇たちと合流できた。将がチャット板に書き込みを残したからだ。皆口々に謝って、それから穂希はパネル係を引き受けることを話した。先ほどの会話は、二人だけの秘密になった。

 そうして解散する頃には、とうに部活終了時刻を過ぎていた。だが将はまっすぐ帰宅せずに、公園に戻ってきていた――彼は一年生の頃からよく公園に立ち寄る。人気のいない時間帯は、考えごとをするのに適しているので好きだった。

 だが今日は違った。


 将はいつものようにベンチに座った。その途端、泣き声が、濡れた顔が、脳裏に蘇る。

 穂希はそれほどまでに苦しんでいたのだ。自分の作品が、本当に自分のものなのかどうかと。その思いは日に日に募り、将がパネル係を提案したとき――彼の軽はずみな発言が引き金となって――穂希は溢れてしまったのである。


 しかし、将にとって彼女の悩みは、それほど重大なこととは思えなかった。芸術家たちが穂希の作品を見てどう思うかなど知ったことではない。彼女が楽しそうに絵を描いているのならそれでよかった。笑ってくれるのなら、それが何よりだった。

 一方で、それはただのエゴの押し付けではないのかとも思った。何の解決にもなっていない。問題を引き延ばしにしただけ。

 もっと、彼女のためになることを言えれば良かったのに。なんて浅はかな励まし方だったのだろう。

 そう思うと将は、どろどろとした罪悪感に襲われるのだった。もう嫌だ。自分の性格が、本当に嫌になる。俺は彼女に直接、謝ってもいないじゃないか――!

 将は突然弾かれたように立ち上がった。慌ててごしごしと目をこすりながら、彼は水飲み場へ向かった。


「……畜生」

 穂希を傷付けた事実は変わらない。たとえ彼女自身が、将は悪くないと主張してもだ。忘れようとしても、たやすくできることではなかった。

 たとえば小脇はこんなことで立ち止まったりはしないだろう。すぐに前を向いて、進み出すはずだ。そう考えると、ますます自分が情けなくなって、視界が歪んでしまうのだった。

 そんな彼の前を、天野しずくが偶然通りがかった。


 天野は部活を終え、自主トレをしていたという。将はすぐに水浴びを止めて平常通りを装ったが、わざとらしい声の調子といい仕種といい、明らかに不自然だった。天野もそれに気づいたようだった。


「話、聞くことくらいはできるから」

 そう彼女が言わなかったならば、将はずっと悩んだままだったかもしれない。


 将は穂希の名前を伏せて、大まかに話をした。クラスメイトを傷付けたこと。彼女は壁を作って孤立していたこと。才能のこと。

 よそのクラスで、それも普段会話をしない女子に打ち明けることになるとは。将はなんだか不思議な気分だった。

 人の縁というのは不思議なものである。以前、九十九の悩みを聞いた将が、今度は天野に相談を聞いてもらう立場になった。


「俺は『それでもお前の絵が見たい』って我が儘言って。結局、あいつを無理やりパネル係にしたみたいな気分になったんだ」

「……そうだったのね」

 二人は、水飲み場に近いベンチに腰をおろしていた。はじめ、座った将に対し天野は突っ立ったままだったので、隣に座るよう将は強く言わなければならなかった。天野はそういったコミュニケーションが下手なのである。


「私もよく、失敗とかして。その度に後悔するから、獣道くんには共感できる」

「お、おお……そうなんだ」

 無理もないだろうなと思いつつ、将は意外そうな反応を装った。


「私って顔、怖い?」

 唐突に質問を投げかけられた。

 やば、ちょっとビビってたのがバレたのか。一瞬ひやりとして将は相手の顔を見る。

 天野は眉間に少し皺を寄せて将を見つめ返しているが、将には彼女も緊張していることが分かった。


「……うん」

 正直に答えると、天野は大きく息を吐いた。怒りを露わに鼻を鳴らしたようにしか見えないが、落ち込んでいるのだと将は察した。慌てて両手をぶんぶんと振る。


「いや、いや! 練習してけば大丈夫だって!」

「そ、そうよね……」

 背を丸めて頬杖をつく天野。やがてぐにぐにと頬を揉み始めた。


「私のことは、今はいい。頑張るとして……獣道くんはその子を励ませたと思う。気にする必要はない」

「そうかなあ?」

「ええ」

 元から語気が強い天野だが、より強い口調で頷いた。


「私も分かる。悩みを聞いてもらうだけでも楽になれるし、誰かに必要とされてるとか、そういうのを実感できると、なんか、どうでもよくなる」

「そういうもんなのか」

 なんだか都合のいい解釈のような気がして将は首を傾げた。天野は目を見開いて彼を見つめている。


「あなたの絵が見たい――って台詞ほど、嬉しいものはないと思うけど」

 はっとした。将はたいてい独りで悩んでいることが多かった。相談などろくにしたこともなかったのだ。ゆえに、今の今まで知らなかった。誰かに話をするだけで、こんなに気が楽になるなんて。


「……そうか」

 天野はそれを分かって、こうして話を聞いてくれたのだろう。

 自分もぎこちないなりに、穂希の悩みを拭えただろうか。そう思うと少しだけ、心がさっぱりしたような気がした。


「そういえば、明日の放課後までよね。パネル……もしも人手が足りないみたいだったら、呼んで。部活がない日だけでも行けるように調整するから」

「ありがとな。でも、その気持ちだけで、嬉しい」

 思えば、穂希も、天野も、そして自分だって。少なからず壁を作って、人と接するのを避けていた。

 それじゃあよくないよな。将は薄々感じていた。似たようなことが起きたとき、俺はまた躓いてしまうだろうから。


 将と天野のギクシャクしたやりとりは、日がどっぷり沈むまで交わされた。

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