014 穂希


 その教室は物置と化していた。

 後ろに寄せ集められた机の山。その上には段ボールが積み上げられている。前にぽっかり空いた空間には、大量の紙が散らばっていた。その中心で、一人の少女が蹲っている。

 異様な光景だった。将は静かに唾を呑む。足元にあった一枚を覗き込んでみると、そこには紙いっぱいに絵が描かれていた。


「……」

 上手い、の一言だった。

 画材は教室に置いてあった鉛筆を使ったのだろう。どの紙にも黒でびっしりと綿密に描き込まれている。花、空、鳥、抽象画と思われるものなどなど……まさかこれら全てを穂希が描いたのだろうか……短時間で一人の人間が描いたとはとても思えない量であった。

 将は別世界に迷い込んだ気分だった。穂希を囲む沢山の紙が、花弁のようにも、繭のようにも、鳥の巣のようにも見えた。


「穂希」

 意を決して、将は名を呼んだ。もちろん相手には、にゃあおという猫の声にしか聞こえない。

 穂希の肩が小さく跳ねる。ばっと顔を上げた彼女は、目の前に黒猫がいることに気がついた。その頬は涙に濡れ、目は赤く充血している。


「ごめん……ごめんな」

 将は謝りながら近づく。通じないからこそ、その言葉はするりと口から出てきた。


「俺は本当に嫌なやつだよな。面と向かって、謝ることもできないなんて」

「ど、どうして――」

 穂希は息を呑んだ。何時間も閉じこもっていた、鍵をかけたはずの教室に、猫がいるなんて思ってもみなかったのだろう。

 将は構わず穂希に擦り寄る。彼の意思に合わせるかのように、尻尾が穂希の腕に巻きついた。


「俺が、お前を傷つけたんだ」

 謝罪を繰り返しながら穂希の膝に頭をこすりつけていると、将の身体が突然ふわりと浮いた。次の瞬間には、将は穂希に抱きしめてられていた。苦しい。だが彼は抵抗せずにされるがままでいた。自分にできることなら、なんだってしたかった。


「ごめん、俺が、悪かった」

「うっ……んうう、」

 やがて穂希は大きくしゃくりあげると、将を抱いたまま声を上げて泣き出した。将は、誰かが聞きつけて自分たちを見つけてくれないかとも、誰にも知られてほしくないとも思った。



○●○●○●



「あ――ご、ごめんね」

 やがて落ち着いた穂希はあわあわと黒猫を床におろした。彼はその場にちょこんと座って、丸い瞳で彼女を見つめている。


「そうだ」

 ふいに、穂希は笑みを零した。

 床に転がっていた鉛筆を拾って、さらさらと紙の上で滑らせはじめる。将は首を伸ばして、這いつくばる穂希の手元を見た。そのシルエットから、自分を描くのだ、と気がついた。

 どうして彼女はパネル係を断ったのだろう? こんなに絵が上手いのに。真偽は定かではないが、平野が言っていた、デザイン科の推薦に落ちたことが原因なのだろうか……。


「できた! じゃじゃーん」

 将がもやもやしている間に、それは完成したようだった。穂希は彼にも見やすいように、紙を持ち上げて見せてきた。

 迷う線など一切ない、黒い子猫の絵がそこにはあった。ビー玉のような目は爛々と輝き、今にもぱちくりと瞬きしそうだ。

 

「すげーじゃん」

 将が率直に感想を言うと、その声は猫の鳴き声として表に出る。だが穂希は顔をほころばせるのだった。


「それにしても、なんで猫がいるんだろ……野良猫だよね?」

 猫の正体がクラスメイトで、廊下から壁を通り抜けて来たなど知るはずもない彼女は、案の定疑問に思ったようだった。

 その問いかけを聞くや否や、将は駆け出した。教室の扉の前で後足で立ち上がり、穂希のほうを振り返る。


「ずっとここに閉じこもってたってしょうがないだろ――外に出なきゃ!」

「ど……どうしたの?」

 猫が突然にゃあにゃあと大声を上げ始めたことに、穂希はびっくりしたようだった。慌てて立ち上がって、彼の元へ向かう。将は引っ掻くようにドアを叩き続けた。


「そっか……出たいよね」

 扉に手をかけて、穂希は唇を噛んでいる。将はガタガタ言わせるのをやめて、首を逸らして彼女を見上げた。

 目が合う。すると穂希は赤く腫れた頬を緩ませて、再び彼を抱き上げた。そして一瞬、背後の紙の山を見やると、そのまま鍵を外してドアを開けた。

 将は、穂希が自分を廊下に放した後すぐにまた引っ込んでしまう可能性を恐れていた――が、そうはならなかった。彼をぎゅっと胸に抱いたまま、穂希は暗い校舎を歩いている。互いの心臓の音がよく聞こえた。


 靴を履きかえて外に出た穂希は、まっすぐ校門へ向かうようだった。猫を抱えて歩く彼女を、部活帰りの生徒たちは興味津々で振り返ったりしている。穂希はうつむいて歩き続けた。

 カラスの声はもう聞こえない。辺りはしんとしていた。彼らは校門を抜け、学校隣の公園にそのまま入って行った。


 御津山みとやま自然公園は、御津山高校の生徒や近辺の住民には馴染みの深い公園である。生徒たちは授業で、親子は遊具で遊びに、若者はジョギングやサイクリングに、老人はゲートボールをしに……などなど、多く利用されている。それでもこの夕暮れ時は、人気が一気になくなることを将は知っていた。恐らく、穂希も知っているのだろう。

 穂希は猫を地面に降ろすためにそっと屈んで、すぐに立ち上がる。その表情からは、どんな感情も読み取れなかった。


「……」

 彼女は黙って猫を見つめているだけだった。彼が脇目も振らずに走り出しても、どんどん小さくなっていっても、その場に突っ立っていた。

 強い風が穂希の顔を張り手するように叩いた。


「……どうしよっかな」

 このまま呆けているわけにはいかないし、かといってまた教室に戻るのも馬鹿馬鹿しい。穂希は無気力に呟いて、のろのろと元来た道を歩きはじめる。重い足取りで、両手をぶらぶら揺らしながら。

 その手首を、ふいに誰かが強く掴んだ。

 振り返るとそこには、肩を上下させた将が立っていた。



○●○●○●



「穂希」

 はあはあと息を切らしながら将は言う。

 制服はぐしゃぐしゃ、ブレザーのボタンは留まっておらず、ネクタイはつけてもいなかった。


「じゅ、獣道くん……」

 彼女は酷く狼狽していた。少し頬を赤らめて、俯く。


「ちょっと力、強いよ。べ、別に逃げやしないから」

「あ、悪ぃ」

 将も慌ててぱっと手を放した。ふたりは、しばらく居心地が悪そうに黙りこくっていた。


『そちは女の扱いが下手じゃな』

「げ……!」

 いつの間にか、ぎんが二人の間に尾を揺らしながら立っていた。霊力を補充したことで、その毛並みは銀色に輝いている。

 穂希は微かに頬を緩ませた。


「白猫だー、可愛い!」

「お、おい。そいつはやめたほうが……」

「なんで?」

 将の制止も聞かず、ぎんを抱き上げる穂希。今現在、ぎんは子猫の見た目に戻っているが、彼女にも見えるくらいには、霊力が回復しているらしい。大人の姿はまだ保てないのだが。

 ぎんは目を細めてごろごろと喉を鳴らしている。

 将は呆れてしまう――こいつ、媚びていやがるな。


(ぎん。なんでこっちに来たんだよ)

 声に出さずに問いかけてみると、ぎんは穂希の腕の中でふんと笑った。


『よう言うわ。説教の途中で逃げおってからに……主に服を取ってこさせるなんぞ、論外じゃからな』

(それはさっきから謝ってるじゃないか……外で変身しちゃったんだから、それくらいは手伝ってくれよ)

『次からは自分でなんとかせよ。そちも霊猫と同じ力を扱えるのじゃから、服を運ぶことは容易にできるはずじゃぞ』

 ぐちぐちと文句を垂れ始めたぎんを、将は無視することにした。愚痴を言うためだけに現れたとは。恐ろしい妖怪である。


 穂希に運ばれている最中、公園に向かうのだと察した将は、すぐにぎんに合流場所を伝えた。それから茂みで待ち伏せてくれた彼女に人間に戻してもらい、副作用の脱力感を無視して、急いで着替えて戻ってきたのであった――ぎんが不機嫌なのは、将の制服一式を運ばされたからである――霊力って何でもできるんだな、と将は半ば呆れながら感心したものだ。


「ちょっと話さないか」

 気を取り直した将は公園の奥、ベンチを示して提案する。穂希はぎんを抱いたまま、こくりと頷いた。


「猫、好きなんだな」

「獣道くんは嫌い?」

「そうだな。俺は猫が嫌いだし、猫は俺が嫌いなんだよ。……気をつけろよ。そいつ、マジで噛みついてくるから」

 将が言うと、ぎんはシャーッと毛を逆立てた。


「あはは。そんなわけないじゃん、ねえ?」

『霊力のない人間を噛んだりはせんよ。安心するがよい』

「……とっととこいつを逃がそうぜ」

 気が気でなかった。

 やがて彼らは幾つも並ぶベンチのひとつに腰かけた。ふたりの間には人間ひとり分の距離があり、お互い正面を向いている。ぎんがおかしそうにくつくつと笑った。


「ずっと捜してたんだ。教室とか、色々。そしたら空き教室にお前の絵があって。

 猫を連れて外に出たのを見たって奴がいたから、追いかけたんだよ」

 嘘を交えつつ、将は言う。穂希の返事はしばらくなかった。将は手持無沙汰になって、身だしなみを整えはじめた。ネクタイをつけ、ボタンを留める。途中でひとつずつズレていることに気づいて下からつけなおす。

 ぎんの笑い声が大きくなった。穂希が気づかなかったことを祈るしかない。


「……よく、自分の絵だってわかったね」

「あ、それは」

「うん。覚えててくれたのは嬉しいかな」

 穂希は膝の上に座るぎんの背を撫でている。


「でもどうして、自分なんか捜してくれたの」

「そりゃあ」

 将は一瞬言い淀んだ。


「俺が、お前を嫌な気持ちにさせたから――」

 彼の言葉を、穂希が首を横に振って遮った。


「獣道くんが気にすることは何もないから。ていうか、そんな価値、自分にはないから」

「何言ってんだよお前……」

「獣道くん、さっき末永さんに対して怒ったよね。でも、本当は自分が怒鳴られるべきだったんだよ。だって、保健係を代わってもらったの、……パネルやりたくなかったからだもん」

「え――?」

 予想もしなかった言葉に穂希の方を向く。彼女は顔を伏せていて、将と目を合わせようとしない。


「いやいや……それだと順序がおかしいだろ」

 頭をフル回転させながら将は反論しようとした。


「だって係を代わってくれたのは朝だ。俺がパネルの話したのはその後だぞ」

「だから、事前に交代してもらったの。朝、係決めの話が出たから早めに手を打とうと思って。保健はラクだし、クラスで話すの獣道くんくらいだったし、小脇くんとつるんでるから何かあったとき味方になると思ったの」

「……」

 将は口を閉じるのを忘れて相手を凝視してしまう。強い口調で吐き捨てる穂希が、いつもの彼女とは別人に見えた。


「説明するとやんなっちゃうなあー自分の汚さに。だから、あのあと逃げたわけ」

「……それを、俺としては訊きたいんだけど」

「何を?」

「なんでパネルを断ったか」

 将が言うと、一瞬、互いの目が合った。

 穂希はすぐに上を向いて顔を逸らした。足をぶらぶら交互に揺らし始める。


「じゃ、先に質問に答えてよ」

「質問?」

「おほん」

 穂希はそこで、わざとらしく咳をした。


「正直に答えてください。獣道くんは、楠穂希の絵をどう思いますか」

「……すげー上手いと思う」

 意図が分からないまま将が注意深く答えると、穂希は首を横に傾けて笑った。


「だよねー。でもね、自分が絵がうまいのって、」

 将は、彼女の浮かべている笑顔に違和感を覚えた。よく見ると、目が笑っていない。まるで仮面を被っているようだ。将はそれが嘲笑であることに気がついた。


「才能とかじゃなくて、親の真似事なんだよ」

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