013 孤独

 楠穂希は、両親共に芸術家であることで知られていた。

 版画、彫刻、絵画。幼い頃から彼らの仕事を見ていた穂希は、自分も同じ道を歩むことを夢みていた。彼女にとって両親は、それほど憧れの存在であった。

 見事に親の才能を受け継いだ穂希は、幼少の頃からコンクールに出品しては賞を取った。ゆえに同級生たちは「彼女は画家だ」と羨望のまなざしを向けていた。穂希は、中学生になっても有名だった。周囲は美術部で活躍する彼女を誉めそやしたし、皆が皆、彼女が芸術家になると信じて疑わなかった。




○●○●○●




 どうすればよかったのか。答えを見出せぬまま時間が飛ぶように過ぎた。


 五限終了のチャイム。それと同時に、勢いよく立ち上がった穂希は教室を飛び出して行った。誰とも目を合わせず、始終顔を伏せたまま。

 即座に走って止めるべきだった――将は後悔したが、既に手遅れだった。

 なぜ、穂希はパネル係を嫌がったのか。何に傷ついたのか。……だって彼女は絵の才能があるじゃないか。考えても考えても分からない今、将にはどうしようもなかった。


「あの、獣道くん」

 六限の後の清掃時間に、平野ナツメが将の机までやってきた。

 平野はクラスのまとめ役のひとりで、委員長だった。小脇の女版みたいなやつだ、という風に将は認識していた。栗色のロングヘア、二重でハスキーボイスなのが特徴だ。真面目な性格ではあるが親しみやすい。

 将は返事をするのも億劫で、のろのろと彼女のほうを向くことしかできなかった。平野はそれでも構わなかったらしく、すぐに続けた。


「ちょっといいかな」

「……何」

「穂希ちゃんが帰ってこないんだけど。保健室に行ったのかしら」

「……」

「何があったのか、話してほしいの」

 委員長として穂希の失踪は見逃せなかったのだろう。将は正直言いたくなかったが、仕方なく説明した。パネル係を穂希が拒絶したこと、それで教室を出ていってしまったこと。改めて話してみると、やはりよく分からない。そこまで追い詰めるようなことを言ったつもりは、将にはなかった。

 将の話を聞いた平野は、やはりそうか、という風に俯くのだった。


「私、あの子とは一年のころ同じクラスで、その時ちょっと気になる噂を聞いたことがあるの」

 気になる噂? 興味をそそられて、将は少し身を乗り出す。


「美術の授業のとき、穂希ちゃんの絵を見たんだ。冗談抜きで、すごく絵が上手いと思ったよ。だからその時私、言ったんだ。デザイン科も腰を抜かすくらい凄い絵を描くんだねって」

「……」

「でも彼女、ちょっと機嫌が悪くなったみたいだった。それから……噂で、あの子はデザイン科を推薦で受けて落ちたって聞いたわ。本当かは分からないけれど、だとしたら、私は悪い事を言っちゃったんだと思う」

 将は目を見開いて平野を見た。相手も彼を複雑な表情で見つめている。その顔は微笑を浮かべているようにも、悲しんでいるようにも、泣き出しそうにも見えた。


「もちろん獣道くんに悪気がなかったことは分かってるし、私もすぐに気づくべきだった。でも――」

 それから平野は弁解を始めたが、将には聞こえなかった。彼女のそんな言葉など聞きたくなかった。

 平野は責任を感じているのだ、と思った。鶴岡先輩といい、平野といい……人の上に立つ人間は、これだから――将は彼女たちが少し妬ましかった。なれるものなら、同じような人間になりたかった。自分以外の誰かに、あるいは何かに、一生懸命になれる人間に。そしたら、こんな風にぼんやり掃除などしていなかったはずだ。


「私、穂希ちゃんを捜そうと思う。さっき靴箱を見たけど、まだ学校の外には出てないみたいだし」

「俺も捜すよ」

 将は声を絞りだした。その声は酷く小さかった。



 放課後、将と小脇、平野とその友達の相沢あいさわ三月みつきの四人で穂希を捜した。男子はグラウンドや体育館などの校舎から離れた場所を、女子は更衣室やトイレなど校舎内を中心に走り回った。

 だが、どこにも穂希の姿はない。将は靴や鞄を置いたまま帰ってしまったのではないかとも思ったが、しらみつぶしにあちこちを捜した。


 スマートフォンを引っ張りだし、アプリを開く。急きょ連絡先を交換して作ったチャット板だ。校内での携帯の使用は原則禁止されているが、気にしていられなかった。画面にはズラリと箇条書きで、捜した場所の単語が並んでいる。

 将も手早く入力して、すぐにスマホを仕舞った。

 穂希に直接メッセージを送ることも考えたのだが、誰も彼女の連絡先を知らなかった。平野ですら分からないと言ったときには将は驚いた――平野は一年生のころ交換はしたらしいが、アドレスを変更したのか音信不通になったとのことだった。


 辺りが橙色に染まり、カラスの鳴き声が目立ち始めた。将は駐輪場をゆっくり歩きながら、自転車と自転車の間に穂希がいるわけでもあるまいに、一台一台を見ていった。

 将には気づいたことがあった。穂希は、友達が少ないということ――平野と相沢の様子から察するに、彼女は女子からあまり好かれていない印象を受けた。メルアドの類を誰も知らなかったことからもそれは伺えるし、もしかしたら穂希自身、皆を遠ざけていたのかもしれない――恐らくそのどちらもだろうと将は推測する。

 じゃあ、俺とのおしゃべりも、あいつにとっては事務的な会話だったっていうのかよ。

 将が気持ちに任せてずんずんと歩いていると、ふいに身体がバランスを崩して傾いた。おかしいぞ、と思ったのとほぼ同時、彼は横っ飛びに腰ほどの高さの植え込みに飛び込んだ。その時にはもう猫への変身は始まっていた。


「畜生、こんな時に!」

 将は歯を食いしばって唸った。まったく予兆に気がつかなかった。あと一瞬でも遅れていたら、誰かに変身を目撃されていたかもしれない。

 将は痛みに耐えるように身体をくの字に曲げて、終わるのを待った。全身が小さく縮み、黒い毛で覆われていく……。

 やがて、地面に投げ出された制服の襟からひょこりと子猫が顔を出した。不機嫌そうに金の目を細めている。


「あーあ、マジかよ……」

 将は変貌してしまった身体を見下ろした。彼にとって二日ぶりの、そして初めての屋外での猫化だった。

 

「とにかくぎんを呼ばないと――うわっ!?」

 ぎんに意識を集中しようとした将めがけて、何か黒い塊が飛んできた。咄嗟に転がると、先ほどまで将がいた場所に鋭い刃物のようなものが突き刺さっていた。それは瞬時に方向転換してこちらに追ってくる。ガアガアとけたたましく鳴きながら、翼をはためかせている――


「カラス、か!」

 ぞっとした。人目だけではない、将は猫の天敵にも警戒しなくてはならなかったのだ。カラスにとって今の将は恰好な餌になるだろう。

 一羽、また一羽とカラスの数が増えてきた。将は咄嗟に茂みに飛び込んで、身をよじりながら抜け出すと、遮二無二走り出した。


 四本の脚を滅茶苦茶に動かしていると、突然目の前に壁が現れた。慌てて急ブレーキしようとした――間に合わない――その時、自分がただの猫ではないことを寸前で思い出して、将はそのまま勢いよく壁に飛び込んだ。




○●○●○●




 学校の校舎は、猫の肉球でうろうろするのには適していなかった。気を抜くと、つるりと滑ってしまいそうだ。将は入学して初めて、廊下が木造だったらよかったのにと思った。

 彼は人っ子ひとりいない二年校舎の廊下にいた。なるべく目立たないように影を歩きながら、ぎんに呼びかける。


(ぎん……聞こえるか、ぎん!)

〔今向かっておるよ。そちの学び舎――高校、とやらにな〕

 返答はすぐにあった。既に将の猫化にはとうに気づいていたようだ。


(早めに頼むよ。あと俺、外で変身しちゃって、服が置き去りになってるんだけど)

〔そんなことはしらん〕

(カラスがいるんだよ! だから俺、学校の中に逃げたんだ……しばらくあそこは近づかないほうがいいと思う)

〔烏? その程度、追い払えばよいではないか〕

(そんな無茶な……とにかく、)

 将は思考を中断した。近くで、何か音がしたからだ。耳をせわしなく動かしてどこから聞こえるのかを探す。

 二年C組、D組……と通り過ぎた将は、そこでぴたりと足を止める。小さくすすり泣く声は、デザイン科の隣にある教室から聞こえた。


「……」

 まるでパズルの欠片がはまった気分だった。

 御津山高校は年々入学する生徒の数が減少している。それで、使われることのない空いた部屋――余裕教室が幾つか存在するのだ。鍵はかかっておらず、大掃除の時を除けば普段は誰も這入ろうとしない。だが、平野たちは「鍵がかかっている教室」とチャットに記していた……内側から誰かが鍵をかけていることを考えてもいなかったのである。


(なあ、ぎん。お願いがあるんだ)

 ある妙案を思いついた将は、ゆっくりとぎんに念を送った。うまくいくかは分からなかったが。

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