僕と彼女と不確定な未来

サンキュー@よろしく

【三題噺】「抵抗」「歴史」「物質」

 大学の図書館。鳴り響くのは、僕がレポート用紙の上を滑らせるペンの音と、向かいの席に座る彼女が静かにページをめくる音だけだった。


 「はぁ……。どうして課題っていうのは、こうも僕のやる気に抵抗してくるんだろうな……」


 思わず漏れたため息に、彼女が顔を上げた。


 「あら、課題のテーマは何なの?」


 「決定論と非決定論だよ。特に『ラプラスの悪魔』についてまとめなきゃいけなくてさ」


 彼女は興味深そうに目を輝かせた。


 「ラプラスの悪魔! なんだかカッコいいね。あれでしょ? もし宇宙に存在する全ての原子の、その瞬間の位置と運動量を知ることができる存在がいたら、未来は完全に予測できちゃうって話」


 「ご名答。その悪魔にとって、未来も過去も、全ての歴史はただの計算結果でしかない。僕らが今こうして話していることも、ビッグバンの瞬間に既に決定されていた、っていう思考実験だね」


 僕はペンを置いて、彼女に向き直った。こういう話、彼女は好きなのだ。


 「でもそれって、もう否定されてるんじゃないの? そもそも量子力学の登場で、世界はそんなに単純じゃないって分かったはずよ」


 彼女は、ぱたんと本を閉じた。


 「観測するまで結果が確定しないなんて話もあるじゃない。有名な『シュレーディンガーの猫』みたいに。箱の中の猫は、観測者が蓋を開けるその瞬間まで、生きている状態と死んでいる状態が重なり合ってる。観測という行為そのものが未来を決定づけるなら、悪魔が『知る』前の世界の本当の姿なんて、そもそも存在しないんじゃないかしら? それにカオス理論もあるじゃない。ほんのちょっとの初期値のズレが、未来ではとんでもない差になるってやつ。バタフライエフェクトって言うんだっけ?」


 鋭い。さすが、彼女は本好きなだけあって博識だ。


 「いい指摘だね。でも、そこがこの思考実験の面白いところなんだ。実は、その二つをもってしても、ラプラスの悪魔は完全には否定できない、って考え方がある」


 「え、そうなの?」


 僕は少し得意げに頷いた。


 「まず不確定性原理や重ね合わせの状態っていうのは、『我々人間が観測する』という行為が、観測対象であるミクロな物質に影響を与えてしまう、っていうのが前提なんだ。でも、ラプラスの悪魔は宇宙の外にいる超越的な存在だと仮定する。つまり、観測っていう物理的な干渉なしに、全原子の情報を『ただ知る』ことができるなら、不確定性原理の壁は越えられる」


 「なるほど……。観測者自身がルールの外にいるってことか。じゃあカオス理論は?」


 「カオス理論が示すのは、あくまで『初期値の完璧な把握は不可能だ』という人間側の限界さ。初期値にミリにも満たない誤差があるから、未来予測が困難になる。でも、ラプラスの悪魔の定義は『全ての原子の位置と運動量を完全に知っている』ことなんだ。つまり、そもそも初期値に誤差が存在しない完璧なデータがあるなら、カオス的な挙動すら計算できるはずなんだよ」


 僕の説明に、彼女は「ふぅん……」と腕を組んで唸った。そして、にやりと悪戯っぽく笑った。


 「——じゃあさ」


 その笑みは、何かを企んでいる時の彼女の癖だ。


 「目の前にいる、私のこと、予測できる?」


 「え?」


 「ラプラスの悪魔くん? 私が今、何を考えていて、次に何を言おうとしているか、当ててみてよ」


 突然の挑戦状に、僕は少し戸惑った。彼女の行動原理……。レポートに飽きている状況、僕との会話の流れ……。論理的に考えれば、答えは一つだ。


 「簡単だよ。どうせ『もう疲れたから帰ろう』とか、そんなところだろ?」


 僕は自信満々に答えた。しかし、彼女は首を横に振る。その瞳は、僕の思考の全てを見透かしているかのようだった。


 「ぶっぶー。はずれ」


 彼女は机に身を乗り出すと、僕の耳元で息を感じさせながら囁いた。


 「正解は——『君のそういう理屈っぽいところも、結構好きだなぁ』って、考えてました」


 「……え」


 思考が停止する。顔に熱が集まっていくのが分かった。僕の脳内にあったどんな方程式も、どんな物理法則も、その一言がもたらした衝撃を説明することはできなかった。


 彼女は満足そうに僕の顔を見て、くすくすと笑った。


 「ほらね。女の子の気持ちなんて、ラプラスの悪魔でも予測不能なんだよ」


 そうなのだろうか。なんだか違うような気もしたが、もうどうでもよかった。

 彼女はいつだってそうだ。

 物理法則のように、整然と予測できる世界を愛しているはずなのに、そんな僕の心を揺さぶるのは、いつだって彼女のこういう予測不能な一面なんだ。

 それなのに、彼女というカオスな存在を、僕はもっと観測し続けたいと思っている。

 いつか、彼女という存在に、僕が解を導き出せる日は来るのだろうか。

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