鬼の棲む家

桐生甘太郎

鬼の棲む家

僅かに薄い光が差す部屋の中、〝それ〟は立っていた。まるで屏風から抜け出たようである。私は動けない。それの動き一つ、指先一つで私は死ぬかもしれないからだ。いいや、死ぬ。

赤い顔。逆立てた箒のような真っ黒の髪。金色の角と、何者をも絞め殺せる両腕。しかしその鬼は、青い着流し姿だ。そこだけが奇妙なので、私は逃げ出さずに済んでいた。もしその鬼が藁の腰蓑と金棒を身につけていたなら、叶わずとも逃げただろう。もしくは卒倒し私は無になったかもしれない。

帰宅して玄関に立ち、奥に見える鬼に睨まれ続けた。永遠に感じた。鬼の立つ姿は〝仁王立ち〟と呼ぶのだと思い出す頃になっても、震えさえ出せなかった。

ただ腰が砕けて床に座り込む寸前、恐ろしい事に、鬼はゆっくりと三度手を動かした。今にも死ぬ私は解らない。だがそれは、丁寧な手招きだった。もう一度やられたからだ。

その時私は止めていた息を少し吐いた。すると〝無限〟だった睨み合いが、もしかしたらほんの十秒程だったかと思われた。

鬼は、手招きをする。確かめるが、鬼の周りに武器に出来る物は無い。あるとするなら、私の使うローテーブルだ。それも恐ろしいが、どうも妙だ。

あろうことか、鬼を前にほんの少し警戒を解いてしまった。鬼が、手招きをするだろうか。途端、踵から首筋までも死が撫ぜる。

〝まさか…地獄へ呼んだ…?〟

私がその声を聴きながらもまだ鬼から目を離さないでいると、なんと、鬼はゆっくりゆっくり、一度だけ首を振った。まさか。

〝心を読んでいるの…?〟

しばらく私は鬼を見て、色々と思い浮かべてみた。なるべく、〝鬼〟という者を怒らせないよう。そうすれば、心を読んでいるのなら分かるし、鬼にしか見えないのに社交的な者に、何をすればいいか分かる。

〝もしかして、私は何かいけない事をしたでしょうか〟

鬼は首を振る。読んでいる。見えているのだ。

〝では、何かしなければならない事がございますでしょうか〟

鬼は首を縦に振る。これには驚いた。でも怖いからと謝れもしなかった。

〝…貴方様は、私の命を縮めに来たのですか?〟

鬼は二度首を振り、なんとにこりと笑った。しかし緊張を解いていいものか分からない。

〝私…声で喋ってもいいですか?〟

なぜかその時は首を振られた。私は一人暮らしだが、彼は鬼なのだ。彼と喋るのは、心の中のみなのかもしれない。

〝では、私は何をしなければならないのでしょうか〟


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


私はその後詰まり詰まりのやり取りを経て、有り得ない事だがベッドに入っていた。鬼の見張り付きで。ベッドの横に鬼は立ち、満足そうに前を向いている。彼はただ立っているだけで盛り上がった肩が怒っているように見えた。だが、横になれというのに怒るとは思えない。これより妙な気分も無いだろう。はっきり言って休めやしない。普段と違う気がするのに、目や指で確かめ直すのも出来ない。掛布団カバーが呼吸の度に顎にザラザラと突っかかる。私の好きな青いカバーは、こんなにザラザラしていただろうか。

鬼は、仕事の荷物をほどくのは許してくれたが、私が食事をしようとすると、寝室のドアへ自分の右手のひらを差し向けた。

とにかく鬼は私を寝かせに来た。という訳でもないらしい。それは言葉にして聞いたが、彼はゆっくり首を振り、また三度頷いた。本当に鬼なのかも分からないけど、彼は私を休ませている。

ベッドに入った私は〝仕事の準備をしたいのですが〟と申し出た。彼はその時だけ本気で怒った。

鬼がぐぐわっと目を見開き、赤い歯茎を見せつける。私は目を閉じ今度こそ死の恐怖を拭った。

〝ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!〟

しかし、何も起こらなかった。

恐る恐る片目だけを開くと、元の位置に立っていた鬼は、私ににこりと笑っていたのだ。その後彼は後ろを向いて思い切り肩をいからせた。そしてその晩は、そのまま消えてしまった。

〝なんだったの?今の…〟

独り言も言えない緊張を残し、鬼は姿を消した。彼のさっきの顔は、腹を空かせた獅子が兎を見つけたようだった。でも私の口からは、しばらくして「お腹空いた…」と出た。

まだまだ怯えていて話にならない私は、しかし疲れていたのでカップラーメンに湯を入れ、棚の奥から熱気の時だけ飲む野菜ジュースを出した。既に私は、鬼の心配かもしれない物に気遣って生活を始めていた。


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仕事が辛いな。そう思いながら暮らしていた。いいや、全てが辛い。こんな事を、たった一人の人間が続けていたら。いかに人間社会様が偉くたって、自分は遅かれ早かれ早死をすると思っていた。何もかも真っ黒になっていく。いいや、元々白かったのなんて、そう信じていただけだったのだ。そう感じて死んだように過ごしていた。そんな折だったのだ、鬼が現れたのは。

翌日も家に帰ると鬼が居た。寝室から音もなく出てきては、今度は私をキッチンへ招く。寝室よりは手前にあるけど、私は疲れていて料理なんかしたくなかった。

〝申し訳ございません。貴方の時代のようにはいきません。カップラーメンでも許して下さい〟

すると鬼は首を振り、手のひらをシンクの中へ差し入れて見せた。

〝あ、お皿洗い…〟

私は洗い物を二日も放っていた。慌てて駆けつけると、無い。シンクは真っさらだ。確かに皿が二枚に、果物の缶やらがあったのに。

「え、お皿…コップとか、え、缶は…」

言いながら私があちこちへ首を向けると、案の定だった。昨晩怖がりながら食べたパイナップルの缶詰は、キッチン床にある。きちんと袋に詰めて口を縛り置いてあった。二枚の皿と紅茶を飲んだコップは、棚に戻っている。私は急いで鬼を振り向き手を合わせた。

「いいんです!そこまでしないで!あの、なんか怖いから!あ!違うんです、ごめんなさい!ごめんなさい!」

〝怖い〟と言ってしまったのが怖くて怖くて、お辞儀をして私は謝り続けた。鬼に仕事をさせたと。何故か私を心配してくれたと。やっと鬼を見上げた時、機嫌を直してくれたかと思ったのに。

鬼は頼りなげに眉を下げ、唇の端もそうだった。私から顔を背け、悲しみに目を見開き唇と肩が震えている。瞬きをしていないのに、鬼の両目からほろっと涙が一つ落ちた。

私が急いで彼の身体を見渡すと、彼の両腕はだらりと力が抜けていた。足だけがじっと耐えている。私はその時にやっと解ったのだ。

〝私、泣いていいんだ〟

その途端結界したダムのように涙が零れた。見えていないのにもう解る。涙で滲んだ私の景色に、私を見守り立ち続け、私と一緒に泣いている鬼が見える。私は床に崩れ落ち、腕で身体を支えて泣いた。

私は泣いた。泣きに泣いた。それを見ながら鬼が笑い泣きをしているのが瞼の裏に映る。

鬼はどうして鬼なのか。彼は何故何も私に語らないのか。それはもう解ったのだ。凍えの筈の涙は、あっという間に私を溶かしていった。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


次の日、職場は辛かったけど〝家に帰って泣こう〟と念じていた。

〝今はそれしか出来ないけど、私、泣いていいんだ〟

そう思いながらノートパソコンに向き直ると、両目にチカッと自宅リビングが見えた。そこには、私に向かいお辞儀をする鬼が居た。そして彼はゆらりと消えてしまった。

ここまでの話を読んだ方々には想像もつかないだろうが、これは実話なのである。私の心には鬼が棲んでいるのだ。



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鬼の棲む家 桐生甘太郎 @lesucre

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