第16話 雨漏り

 春の豊漁祭の熱気が、心地よい思い出として街に溶け込む頃。リバーフェルの季節は、ゆっくりと、しかし確実に、次へとその歩みを進めていた。風は日に日に暖かさを増し、森の緑はその深さを一層濃くしていく。


 そして、長い雨の季節が、街を訪れた。しとしとと、あるいは、ざあざあと。灰色の雲に覆われた空から降り注ぐ雨は、けれど、決して陰鬱なものではなかった。それは、乾いた大地を潤し、木々の生命を育む、恵みの雨。濡れた土の匂い、雨に洗われた葉の匂いが、工房の窓を開けるたびに、リアムの鼻孔を優しくくすぐった。


 この数週間、リアムの日常は、驚くほど平穏だった。ナギの大会優勝をきっかけに、工房を訪れる客は少しずつ増えた。だが、持ち込まれる依頼は、どれも街の人々の暮らしに根差したものばかり。刃こぼれしたナイフの修理、魔導ランプの芯の交換、子供が壊してしまったゼンマイ仕掛けの玩具。


 リアムは、その一つ一つに、黙々と、しかし誠実に向き合った。彼の隣では、決まってナギが、自分の漁網を繕ったり、昼寝をしたりしている。穏やかで、満ち足りた時間。リアムは、この静かな雨の季節が、案外嫌いではなかった。


その日も、雨は朝から降り続いていた。工房の屋根を叩く、途切れることのない雨音。それは、集中して作業をするには、むしろ心地よいBGMだ。リアムは、ドワーフの頑鉄から譲り受けた鉱石の分析に、没頭していた。


 ――ぽつり。


 不意に、冷たい感触が、彼の手の甲に落ちた。

 リアムは、怪訝に顔を上げる。

 気のせいか、と思った、その時。


 ――ぽたん。


 今度は、彼の目の前の羊皮紙の上に、小さな染みが、確かに広がった。リアムは、ゆっくりと、天井を見上げた。古びた木材が組まれた、薄暗い天井。その梁の一か所から、雨水が、まるで涙のように、ゆっくりとしずくとなって、生まれようとしていた。


 雨漏り。この工房に来てから、初めてのことだった。


 リアムは、まず、冷静に対処しようと試みた。彼は、魔道具の技師だ。不具合の原因を特定し、構造を理解し、合理的な解決策を導き出す。それが、彼の仕事の基本。


 彼はまず、脚立を持ち出し、天井裏を覗き込んだ。湿った木材の匂い。雨漏りの原因は、屋根板のわずかな亀裂のようだ。


 原因は、分かった。問題は、どう直すか、だ。リアムの最初の試みは、彼らしい、あまりにも専門的すぎるものだった。


 彼は、防水効果のある魔法薬液を調合し、細長い管を使って、天井裏の亀裂に正確に流し込もうとした。しかし、相手は精密な魔道具ではない。大雑把な木材の亀裂は、薬液を吸い込む前に、別の場所へと流してしまう。結果は、失敗。


 次の試みは、物理的な解決だった。彼は、余っていた金属板を亀裂の下に当てがい、水滴を受け止め、樋のように外へ流す仕組みを設計した。緻密な計算。完璧な角度。だが、ぽつ、ぽつ、と不規則に落ちてくるしずくは、彼の設計をあざ笑うかのように、金属板の縁から飛び散り、被害を拡大させただけだった。


「くそ……!」


 リアムは、悪態をついた。床には、水滴を受け止めるためのビーカーや鍋が、いくつも並べられている。ぽつん、ぽたん、と間抜けな音を立てるそれらは、まるで、彼の敗北を告げるカウントダウンのよう。


 天才魔道具技師は、ただの雨漏り一つに、完全に手も足も出なくなっていた。


「おーい、リアム! すげえ大雨だな! 魚は獲れねえけど、代わりにエルナさんのとこでパイ、もらってきたぜ!」


 その声と共に、工房の扉が勢いよく開いた。びしょ濡れのナギが、大きな葉っぱを傘代わりに、陽気に笑いながら入ってくる。その手には、湯気の立つ、温かなパイの包み。


 だが、彼が見たのは、工房の床に展開された、奇妙な鍋とビーカーの陣形と、その中央で、脚立の上に乗ったまま途方に暮れている、親友の姿だった。ナギは、一瞬、きょとんとした。彼の丸い耳が、状況を理解しようと、ぴくぴくと動く。


 そして、天井から滴る水と、リアムの悔しそうな顔を見比べて、全てを察した。次の瞬間。


「ぶははははっ! なんだそりゃあ、リアム! なんかの儀式か!?」


 ナギは、腹を抱えて大笑いした。彼の尻尾が、楽しそうに床をぱしぱしと叩いている。


「……うるさい。笑うな」


 リアムは、脚立の上から、恨めしそうにナギを睨んだ。ナギは、ひとしきり笑った後、涙を拭いながら、ポン、とリアムの脚立を叩いた。


「ま、まあまあ。いいから、ちょっと降りてこいよ。こういうのはな、俺みたいな漁師の方が、専門なんだぜ」


 ナギは、そう言うと、プロの顔つきになった。彼は、リアムがやったような小難しい分析はしない。ただ、天井の染み、しずくの落ち方、そして外の雨音と風の向きを、じっと観察している。やがて、彼は、ぽん、と手を打った。


「ああ、なるほどな。屋根の北側だ。あそこの古い瓦が、一枚ずれてやがるんだ。きっと、この前の春の嵐で、少し浮いちまったんだな」


 いとも簡単に、原因を突き止めてみせる。リアムは、その鮮やかさに、ただ黙って見ていることしかできなかった。


「よし、やるか!」


 ナギの号令で、二人の共同作業が始まった。


「いいか、リアム。俺が屋根に上るから、お前は下で、この板を支えててくれ。あと、この釘と、金槌もだ!」


 ナギの指示は、的確で、無駄がない。いつもの彼とは、まるで別人。リアムは、少しだけむっとしながらも、彼の言う通りに、予備の屋根板を支えた。悔しいが、今の自分は、ただの助手に過ぎない。


 ナギは、身軽な動きで、雨の降りしきる屋根へとひらりと上っていった。滑りやすい屋根の上を、獣人ならではのバランス感覚で、すいすいと移動していく。


「そっちじゃねえ、もうちょい右だ!」


「分かってる!」


 屋根の下と上で、二人の声が飛び交う。リアムは、ナギが指示する場所に、内側から新しい板を押し当てた。外から、ナギが金槌で釘を打ち込む音が、雨音に混じって響いてくる。


 トン、トン、トン……。


 その音は、不思議と、リアムの心を落ち着かせた。全ての作業が、終わる頃。工房の中を、不規則に鳴り響いていた「ぽつん、ぽたん」という音が、ぴたりと、止んだ。


 代わりに聞こえるのは、屋根を優しく叩く、心地よい雨音だけ。ずぶ濡れになったナギが、満足げな顔で屋根から降りてきた。


「どうだ、完璧だろ?」


「……ああ」


 リアムは、短く応えた。その声には、素直な感心がこもっている。魔道具の知識なら、誰にも負けない。だが、こうして、自然と共に生きるための知恵は、ナギの方が、何枚も上手だ。彼は、自分の知らないことを、たくさん知っている。


 リアムは、乾いた布をナギに渡すと、黙ってお湯を沸かし始めた。そして、彼が一番気に入っている、少しだけ花の香りがするハーブティーを、二つのカップに淹れる。


「……礼だ」


「へへっ、どういたしまして!」


 ナギは、温かいカップを両手で包み込み、幸せそうに息を吹きかけた。雨音だけが響く、静かな工房。二人は、並んで椅子に座り、温かいお茶をすする。


 濡れた服が少し肌寒い。だが、体の芯から、じんわりと温かさが広がっていく。それは、ハーブティーの温かさだけではない。お互いに足りないものを、当たり前のように補い合える。そんな友人が隣にいるという、確かな温かさだった。


 特別なことは、何もない。ただ、雨が降り、家のどこかが壊れて、それを、友人と一緒に直す。そんな一日が、リアムは、どうしようもなく、愛おしいと感じていた。

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王宮を追放された天才魔道具技師、辺境の街でスローライフ始めます ~作るものは兵器じゃなくて、人々の思い出に寄り添う温かい道具です~ @hiroki555777

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