第4話 今日という日を振り返る

 家の外はすっかり日が傾き、秋の夕陽が二人をしゅに染めていた。


 桜と由美子は、それぞれの考えにふけっていた。


「今日もなかなか濃い一日だったね」


 桜がぽつりと呟く。


「ほんとにね……」


 由美子は小さく息を吐く。遠くの空を見つめる横顔には、乱れた髪を伝う汗が光っていた。


 車がやっと到着し、道具を積み終わると和真が最後に乗り込んだ。


 桜が何気なく笑顔を浮かべながら問いかける。


「遅かったじゃないの」


 その瞬間、和真の表情が微妙に歪んだ。


 何かを思い出したような顔になり、しばしの沈黙。


 そして、次に見せたのは、なぜか自信に満ちた大きな笑顔。


「いや、実はさ……」


 その言葉のトーンが妙だ。


 なんか……言いたくて仕方がない、でも言ったら終わりそうな気もする——そんな微妙な空気をまとっている。


 次の瞬間、彼は言った。


「玄関に出る途中でポン太のウ〇コ踏んじゃってさ」


 ——沈黙。


 桜と由美子の思考は完全に停止した。


「……え?」


 数秒間の静寂。どこか遠くで車の音が聞こえるが、それよりもこの状況の衝撃が強すぎる。


 そして次の瞬間、桜は笑いながら声を上げた。


「ちょっと、嘘でしょ!」


 由美子も肩を震わせて笑い始める。


 和真は何食わぬ顔で言う。


「いやいや、俺も信じたくなかったんだけどさ。なんか妙な感触が足元から伝わってきて、嫌な予感がしたわけよ。それを確認した瞬間の絶望感ときたら……いや、本気で泣きそうになったよ」


 そう言われると、余計に想像して笑ってしまう。


「それで、どうしたの!?」


 桜が興味津々きょうみしんしんで聞くと、和真は少し誇らしげに答えた。


「まぁ、人生には危機管理能力ってものが必要だからな。すぐにティッシュを駆使して拭いたよ。何度も吹きそうにもなったけど……玄関を出て俺は己と向き合いながら、ひたすら靴下を拭くことに徹したんだ……!」


 もう、完全におかしすぎる。


 桜は「きゃはは!」と笑いすぎて涙を浮かべ、由美子も「クスクス」と腹筋が痛くなるほど笑っている。


「今日一番の大事件じゃん!」


「いや、マジでさ、この話は絶対に外には漏らさないでくれ。頼む!」


 そう言いながら、和真は必死に訴える。


 だが——このエピソードはすでに二人の記憶に深く刻み込まれてしまった。もう逃れることはできない。


《人生とは、予期せぬトラブルの連続である》


《だが、そのトラブルこそが、時に最高の笑いを生むものなのだ——》


 「そっか、じゃあ由美子さんが変な匂いがするって言ったの、あれポン太のだったのね」すると、桜の脳裏に電流のような衝撃が走った。


「あれ……待てっよ……そういえば……」


 ——思い返せば、中野さんの部屋に道具を運んでいたとき、床に妙な丸い物体が三つ転がっていたのを確かに見た。チョコボールのようなものが、ぽつんと存在感を放っていた。そう、桜が思考を巡らしていると……


「まあ、よくあることさ」


 和真は朗らかに笑いを飛ばす。


《いやいやいやいや、ちょっと待て》


《これは“よくあること”ではない》


《こんな事件が頻繁に起こる世界線が存在するだろうか。仮にそうだとして、それは恐怖である》


 しかし、この話はまだ終わらなかった。


 次の瞬間、和真の表情が一変した。


 笑顔が一瞬で消え、真剣な眼差しに変わる。


 そして彼は、ゆっくりと桜のほうを向き、静かに口を開いた。


「でも、あと一つ踏んだ形跡があったんだけど……桜、お前じゃないよな?」


 ——時が止まった。


 桜は、一瞬、思考が停止する。


 まさか。いや、そんなはずはない。


 だけど、でも……確認せねばならぬ。


 彼女は覚悟を決め、靴を脱いで慎重に裏側を確認する。


 ……無事だった。


「セーフ!」


 桜は大きく息を吐き出した。


 ギリギリのところで難を逃れたのだ。


「よかった……!!」


 思わずそう口にした瞬間、和真はニヤリと笑った。


「ふっ、運が良かったな」


「なにが“運が良かったな”よ。いったい何を期待してたの?」


 しかし、一連の事件の終息を前に、桜は決意する。


 ——もう絶対に油断しない。


《人は、時として思いがけないピンチに直面する。だが、そのピンチをどう乗り越えるかが重要なのだ》


 そして、この日。彼らは一つの教訓を得た——


 ——教訓:その一 、“帰り道には気をつけろ”


 桜は、靴下の無事を確認したことで、ようやく心の底から安堵した。これにて一件落着。——そう思った、そのときだった。


 ふと後ろを見ると、由美子が妙に神妙な顔つきで何か考え込んでいる。


 ——あぁ……あたしも踏んどったとよふんでいたのよ……


 ど、どげんしよどうしょう……


 ——さっき「誰にも言わん」って誓ったばってんけど、もうバレるのは時間の問題ばい……


 だったら、聞かれる前に自分から言う方がまだマシばい……


 ここで「わたしも踏んじゃいました~!」なんてふざけたら、真面目キャラの私は、ひょうきんな由美子さんに上書きされちゃうばい……


 今日まで築いた信用が、一気に崩れるばい……


 そがんたいそうだ、これは事件ばい!


 笑い話にせず、重大事件として、冷静を装って報告すっとよかばいするといい……


 でも、さっきの話を思い出すと……


 くすぐったくて、笑いが堪えられんばいこらえられない……


 肩を震わせ、手のひらで口を押さえる。


 でけん、でけんダメ、ダメ……


 堪えんとでけんばいこらえないとダメだ……!


 平静を装わなでけんよそおわないとダメ……


「由美子さん。どこか気分でも悪いんですか?」


 桜は心配そうに声をかけた。


 桜の声に「ハッ!」と我に返る。


 由美子は深呼吸をして、意を決した顔で口を開いた。


「私もよ……あたしも踏んどったとよ……」


 その瞬間、車内の空気が一気に静まり返る。


 和真と桜は、しばし言葉を失い、目をパチクリさせながら由美子を見つめる。いや、さっきまで「踏んだ踏まない論争」を繰り広げていたのに、ここへきてまさかの追加報告。まるでミステリー小説の終盤で衝撃の新事実が明かされたかのような展開である。


「……マジか」


 和真は、ぽつりとつぶやいた。


 由美子は、恥ずかしそうに視線を落としながら続ける。


「三つ落ちてたの、気づいてたのに……気づかないふりしてたの。でも、やっぱり確認するべきだったわ……」


 桜も、その言葉を聞いて、ようやく口を開いた。


「実は私も気づいてたんだ、チョコボールみたいなのが落ちてるの。でも……特に気にも留めなかった」


 ここで衝撃の事実が連鎖している。『気づいてたのにスルーした派』がまさかの二人いたということだ。しかも、気づきながらも『特に気に留めなかった』という謎の判断。


 和真が珍しく言葉を選んでいる。


「……まあ、その……あるよな、こういうことって。いや、なんていうか、その……気づいてたとしても、見て見ぬふりしたくなるときってあるし……な! ……な!」


 しばらくの沈黙のあと、桜と由美子の目が合った瞬間、思わず大声で笑い出した。もう取り返しがつかない以上、笑うしかないのである。


 こうして、車内は爆笑の渦に包まれた。


 今日の疲れ、嗅ぎなれない匂い、数々のトラブル——すべてを吹き飛ばすような笑いが広がる。


「今日一日、なんだったんだろうね」


 桜が笑いながら言うと、和真も苦笑しながらハンドルを握りなおした。


「まぁ、人生ってこんなもんだよな」

 

 そして、車は事務所へと走り出す。


 ——教訓:その二、“気づいたら伝えろ”


 笑いあり、涙あり、ちょっぴり教訓あり——そんな訪問入浴日和が、今日も誰かの暮らしをそっと支えている。



【完】




《あとがき》

訪問入浴の現場には、笑いと涙、そして小さな発見があふれています。そんな一コマを通して、利用者と入浴スタッフの日常を少しでも伝えられたら幸いです。 天音空

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訪問入浴日和——あなたと私とわんこ—— 天音空 @iroha_no_karte

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