『恋はゼロの形をしていた』
別れは、死ぬよりも苦しいと思っていた。
声も、笑い方も、触れた温度も、今日で終わるのだと。
テーブルの上のアイスコーヒー。
氷がゆっくりと回り、カップの底に「0」を描いていた。
空っぽに見えるのに、完全な形。
「ごめん」
彼が言った。三文字で未来はゼロに戻る。
「正解を出せなかったってこと?」
思ったより静かな声で私は尋ねた。
彼は目を伏せ、かすかに笑った。
「……正解なんて、どっちにもなかった」
その言い方が懐かしかった。
夢に見るほど好きだった。勇気を振り絞って告白したあの日――
夏の自習室。
「正解じゃなくてもいい、考え方は合ってる」と、
汗で湿った前髪を払いながら、彼は私のノートに補助線を一本引いた。
青いシャープペンの音。
指に残る黒鉛の匂い。
その全部が好きだった。
「会計、別々でいい?」
沈黙。
時計の秒針がひとつ動く間に、視線がぶつかり、離れる。
壁の色、かすれたBGM、窓の外で蝉の声が響いていた。
世界は進んでいるのに、この席だけ凍っていた。
氷が割れる音で我に返る。
私はグラスの輪をなぞった。
ゼロは終わりじゃない。
途切れそうで途切れない線。
失恋も、嫉妬も、涙も、その内側に閉じ込められている。
視線を上げると、彼もこちらを見ていた。
打ち上げ花火に合わせて絡めた指。
二人がかりで外せなかったラムネのビー玉。
川辺で浴衣を濡らし、寄り添った夜風。
どれも正解には届かない補助線だった。
けれど私にとって、大切な線だった。
「これで終わりなんだね」
思わず口にすると、彼は少しだけためらって言った。
「……終わりじゃなくて、ゼロになるだけ」
その言葉に胸が震えた。
ゼロは起点。数直線の真ん中に置かれる交差点。
マイナスにも、プラスにも伸びていく。
「見送るよ」
「ううん……だいじょうぶ」
かすれた声が震えた。
それが、最後のやりとりだった。
店を出ると、夏の光が肌に集まってくる。
アスファルトの匂い。すれ違う香水の匂い。
胸の奥で何かが砕けた――氷のように。
けれどそれは、静かに世界がほどける音だった。
横断歩道の前で立ち止まる。
0は、ここだ。
終わりであり、始まりであり、未来になる。
スマホを開き、メモに今日の日付を打ち込む。
そこに一本、線を描くように言葉を置いた。
――ゼロから、新しい線を描き足す。
私は振り返らない。
靴底でアスファルトを踏みしめる。
午後の風が、涙の跡を撫でていった。
街路樹の隙間からこぼれる光が、白いページのように未来を照らしていた。
涙も、思い出も、全部抱えたまま。
ゼロから、歩き出す。
1分で読める創作小説2025 by イオ 伊尾幸太郎 @masa33
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