君の夢が幸せならば
碧月彩桜
君の夢が幸せならば
二年前、妻が死んだ。
未明、まどろみの中で電話が鳴った。胸が跳ね、目が冴える。病院からの連絡だった。急いで向かったが、死に目には間に合わなかった。
――享年六十八歳。
そっと……妻、明美が眠る部屋に通された。
静寂に包まれた室内で、白い布団がやけに眩しく映る。
ゆっくりと顔の白布をとって、明美を見た。
少し驚いて息をのむ。
――……こんなに安らかな明美を、初めてみた。
綺麗だった。
持病のせいなのか、眠り続けていたせいなのか。
明美は真っ白な髪で、実年齢より二十歳は老けてみえた。明美と俺は同じ歳だが、ここ数年は俺の母親だと間違えられることも多かった。決して一般的に「美しい」とは言えない容姿だ。
でも、この時の明美は、本当に美しかった。
『眠りにつくように……』と聞くけれど。
本当だな、と思った。
「昨日は、あんなに苦しそうだったのに……」
少しほっとした。
涙は出なかった。
**********
仏壇の水を替える。ロウソクに火を灯すと小さく炎が揺らめいた。線香から清らかな香りが広がり、白い煙が静かに立ちのぼった。
ふと、自分の皺だらけの手が目に入る。
「歳、とったな……」思わず小さな声で零した。
妻の仏壇には花がない。
明美は花が嫌いだった。
「花のかわりに、お団子だな」
団子を見て、ふっと口元が緩む。
水の入った湯飲みの横に三色団子を、そっと置いた。
遺影に目を移すと、元気だったころの明美が微笑んでいる。写真嫌いの明美は、アルバムに殆ど姿を残していない。二十年前、病気になってからは、カメラを向けることすらなかった。
葬儀の時、写真を選ぶのには苦労した。
葬儀は、俺と息子夫婦、孫――四人で執り行った。
誰も涙は流さなかった。
闘病二十年という長い歳月。最後の数年は、死の淵をさまよったこともある。
明美の死は、覚悟していた。もう、死なせてやりたいという気持ちが胸の奥に潜んでいた。
涙の代わりに、思い出話に花が咲く。
若い頃の明美は、しつこい性格だった、とか。かなり頑固だった、とか。
写真を撮ろうとしたら隠れるとか。他愛ない話だ。
息子の翔太が少し考えて、そっと呟いた。
「父さん、離婚しようと思ったこと、ないの?」
そんなこと、考えたこともなかった。
だから、少し驚いた。
「ないよ」
妻と離婚して、新しく誰かと人生を共にする……。
明美の病状を考えると、別に責められる話ではない。
翔太が言葉を繋ぐ。
「父さんは、母さんと……何で一緒にいたの? 俺がいたから?」
「まあ、それもあるけど。やっぱり、情……かな」
「ふうん」
翔太は、俺の答えが腑に落ちない様子だった。
心惹かれる恋慕も情熱もない。
揺るぎない愛……そんな強い想いでもない……。
若い頃の明美は、俺に尽くしてくれた。過剰で、うっとうしくもあって、酷い言葉を吐いたこともある。喧嘩も多かった。
でも……別れるなんて、微塵も考えたことはなかった。
「明美は、何のために生まれてきたんだろう」
俺は、ポツリと洩らした。
幼少期から過酷な環境にいた妻は、出逢った頃から、なんとなく辛そうだった。
俺と出逢うため?
翔太を産むため?
それは、幸せだったのか?
大声で笑い合ったこともあった。
楽しそうにはしゃぐ明美も、たくさん見た。
でも、二十年の闘病は、あまりにも長い。
最後の十二年は殆ど眠ったままだった。
「母さんは、この十二年、夢の中で生きていたのかな……」
そっと翔太が呟く。
はっとして、顔を上げた。翔太は続ける。
「楽しい夢だったらいいな」
翔太の低い声が静かに響いた。
**********
ロクソクの火を消して、消えかけた線香を見た。
君は、天国で楽しく過ごしているだろうか。人間嫌いの君は、誰かに話しかけられて、うっとうしそうにしているかもしれない。
眉間に少しシワを寄せつつも、ほんのりと嬉しそうにしている……。
そんな光景が、すっと湧いてきた。
「君は、気難しいからな」
もう、俺の役目は終わったな……。
そう思った。
翔太は、家を出て家庭を持った。
明美も、もういない。
仕事も定年を迎えた。
線香が消えた。
部屋には僅かな香りだけが残っている。
寂しさに身を包んでいると、玄関の方でコトリと音がした。時計を見る。
おお、もうこんな時間だ。
感傷に浸り過ぎた。今日は、息子夫婦と孫が来る。慌てて立ち上がって、玄関へと駆け出した。
「おじいちゃ~ん、き・た・よ」
元気で、はつらつとした声が家中に響いた。
目を向けると、輝く未来が笑っていた。
君の夢が幸せならば 碧月彩桜 @ayasakura21
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