三つの輪
ふわあい
三つの輪
早苗は青い屋根のパン屋の娘だ。朝いちばんに店のガラスを拭き、木箱を並べるのが習慣だった。店先の丸い焼き印は三つ──いつからか、誰もその意味を問わなくなっていた。客はそれを「うちの印」と呼び、子どもたちは指でこすって笑う。早苗はいつもその三つを見てから店を開ける。
町には毎月一度、朝市が立った。朝市は物を売る場所であると同時に、町の知らせが伝わる場でもあった。壇上に立つ人が短く話すと、数人がメモを持って集まり、通りの端に置かれた赤い垂れ幕が風に揺れた。垂れ幕にはいつも一字が染め抜かれている。その字は季節によって変わるが、どの字も立ち止まらせる力を持っていた。
ある日、早苗は古いパン袋の隅から紙片を見つけた。油で少しよごれたその紙に、鉛筆で地図のような線が描かれている。中心には小さな黒丸。そのそばに小さく「選ぶところ」と書かれていた。文字は子どもの手のようにぎこちない。早苗はそれを懐に入れて、朝市に出た。
朝市では、糸屋の妙子が昔話をしていた。妙子の声はやわらかく、人を惹きつける。話の後に、妙子は紙切れについてこう言った。「昔はね、町の真ん中に時計台が二つあったらしいよ。ひとつが止まると、もうひとつが動き出すんだって」 人々は笑い、誰かが「それは便利だね」と冗談を飛ばした。だが早苗は妙子の指先が、赤い垂れ幕の上をふっと撫でたのを見逃さなかった。
午後、図書館の片隅で早苗は古い絵本を閉じた。貸出カードの欄には、過去の名前が鉛筆で並んでいる。あるページをめくると、白い付箋が挟まっており、「読む人は気をつけて」とだけ書かれていた。付箋の下には小さな穴が三つ、まるで何かを数えた跡のように並んでいる。早苗は街路灯の下でそれを眺め、三つの穴を自分の焼き印の三つと合わせた。
その夜、広場で「感謝祭」が開かれた。町中のランタンが灯り、垂れ幕が高く掲げられる。壇上では町長が笑顔で「我らは互いに支え合う」と言った。言葉はやさしかった。耳触りの良い言葉は、人を安心させる。早苗は焼きたての丸パンを一つ、壇上に差し出された皿に置いた。皿にはすでに三つの丸が整然と並んでいる。
翌朝、広場の隅に小さな苗が出ているのを見つけた。誰かが夜に植えたらしい。二本の葉が交わり、遠目には小さな門のようにも、逆さにすると眼差しのようにも見える。町の子どもたちはそれを「門の芽」と呼び、通り過ぎる人々は軽く会釈をする。中年の男性が寄ってきて、杖の先でそっと芽をなでた。「よく育てよ」とだけ言って、その場を去った。
早苗は気づくと、三つの焼き印の意味を知らない誰かが、それを模したパンを町に配っているのではないかと想像した。焼き印は安心のしるしになり、垂れ幕は境界を示し、時計の針は人を待たせない。だが同時に、それらは「ここがここである」と合図するための道具にも見えた。町は小さな儀式で日々を織り上げていた。
ある晩、妙子が早苗の店に入ってきて、紙片を取り出した。「これ、見つけたのはあなた?」 妙子は紙に指を置き、笑った。「選ぶところってね、いつも見えるところにはないの。だからみんなは安心するのよ。見えないところで決めるからね」 早苗は言葉を返せず、パンの角をむしって口に入れた。塩がよく効いていて、思わず目を閉じる。塩の味は、抗いがたい現実の輪郭をはっきりさせる。
その翌週、町の外れの丘で開催された小さな集まりに、早苗は誘われた。集まりは任意のはずだったが、壇上に出る人には皆、同じ赤いリボンが手渡された。リボンは目立たず、でも付けると不思議と胸が温かくなる。誰もが互いに頷き合い、新しい標語を唱えた。標語は短く、覚えやすく、かつ柔らかい。早苗は自分がどこで笑い、どこで黙るべきかを自然に知っているのに驚いた。
ある朝、パン棚の一番下に、小さな紙が置かれていた。そこにはこう書かれていた──「読む人がいる。読む人がいない。」早苗は二度読みした。笑い声が遠くで聞こえ、子どもがパンをねだる声がガラスに跳ね返る。早苗は紙をポケットに入れ、店の戸を閉めた。外では垂れ幕が少し揺れ、時計台は相変わらず静かに時を刻んでいるように見えた。三つの焼き印が、朝陽に照らされて柔らかく光った。
その日の夜、早苗は苗を見に行った。芽は少し背を伸ばし、葉の間に小さな影が落ちていた。影は形を変えやすく、見る角度で門にも眼にもなる。早苗は自分がどちらを見ているのかを問い直す。芽は単なる植物か、あるいは誰かの合図か。答えは彼女の掌の内にあるらしく、でも渡されたり奪われたりするものでもある。
数日後、町はまたいつも通りに回り始めた。垂れ幕は洗われ、焼き印は新しいパンに押され、時計台の足元に置かれた花は誰かが丁寧に並べ替えていた。早苗は店の戸を拭きながら、通りの向こうで子どもが芽を指差して遊んでいるのを見た。彼らは芽を抜こうとはせず、ただ輪になって踊っていた。
読み方は二つある。町の儀礼と安心を楽しむ人々の側から見れば、焼き印も垂れ幕も時計も、日々を形作る愛着深い記号だ。だが別の視点から見れば、それらは同じ形の穴を持つ紙片のように、誰かが差し込んだ枠組みかもしれない。早苗はそのどちらの読み方も知っていた。そして、どちらを選ぶかは、その日のパンの塩加減のように、ほんの少しのことで変わると感じていた。
朝が来るたび、青い屋根の上を光が流れ、三つの焼き印はまた誰かの指先で確かめられる。早苗は今日もパンを並べる。誰かが安心して皿を差し出す限り、パンは消えていく。けれども彼女は、苗の葉が夜露に濡れるのを見て、いつかその影が門でも眼でもなく、ただの葉であることを願った。願いもまた、小さな儀礼の一つであるのかもしれない。
三つの輪 ふわあい @reagain
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます