月の糸 — 深き静謐の夜に —

sui

月の糸 — 深き静謐の夜に —

湖面が凪ぎ、風ひとつない夜。

月が静かに降りてきて、湖を銀に染めていた。


その水辺に、仕立て屋がひとり座っている。

手に持つ針も糸も、もう何年も前に失われた。

代わりに彼がすくうのは、湖面に映る月の光。


――それは、亡き妻が最期に口にした願いだった。

「悲しみに沈む人々の夜を、ひとときでも照らしてあげて」


仕立て屋は、彼女がいなくなってから、

初めて世界に優しさを向ける術を知った。


ひと針ごとに、月の光が細く震え、

夜がわずかに温もりを帯びる。


布を肩にかけた者は皆、

胸の奥に沈んでいた痛みが、

静かにほどけていくのを感じた。


それは、救いではない。

失ったものが戻るわけではない。

けれど――痛みの形が、

ひと晩だけ、やさしさへと変わる。


仕立て屋は知っている。

それがどれほど儚く、無力であっても、

人の心は、その一晩で、生き直せるのだと。


満ち欠けをくり返す月が、

何度も空を渡っていく。


そのたびに仕立て屋は、湖畔に座り、

そっと月の糸を縫い続ける。


もう、誰にも名を呼ばれなくても。

もう、愛する人の声が聞こえなくても。


――月明かりの下でだけ、

世界は、ほんのわずかに、優しさに満ちているのだった。

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月の糸 — 深き静謐の夜に — sui @uni003

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