虚勢の傀儡

平松たいし

虚勢の傀儡

1.

 校門の桜は、満開を少し過ぎたあたりで、花びらが風に乗って散っていた。どこか華やかだった。この春、私は中学校に入学した。この中学校はいわゆる名門私立などではなく、いたって普通の公立校である。地元の二つの小学校の大抵の生徒がこの学校に入学し、私もその内の一人に過ぎなかった。そのため、友人や顔見知りも少なくなかったが、私はもともと人見知りだったこともあり、誰かに声をかけるということもなく、ただ早く式を済ませて帰りたいという気持ちでいた。

 クラスの発表があり、新入生は自分の指定された教室へと足を運んだ。私も自分の席へ腰を下ろし、控えめに周りを見渡した。やはり、半分程は知った顔であり、残りは今日が初対面の人たちであった。予想外だったことといえば、友人が、思いの外少なかったことである。あまり重大には考えないようにしたかったが、この状況に私は密かに焦りを覚えていた。私は、昔から新しい環境に慣れるのが苦手であった。新しい人の輪に入ること自体が苦痛に感じられた。一人で解決できるものでもなく、そのことについて何度か人に打ち明けることがあった。しかし、相談をしたところで、誰からも

「みんなそうだから。」

の一言で済まされる。そういうことではない。そんな答えを聞きたいがために相談したのではない。しかし、私はそれを否定することができず、まるで、その一言に救われたかのような顔をしてその場を終わらせた。そして、相手もまるで人ひとりを救ったかのように満足げな表情をする。そしていつからか、私は人に相談するということをやめた。人に聞いても何も変わらない。結局自分を理解できるのは、自分しかいないのだから。そう思った。

 入学してからしばらくが経ち、教室ではすでにいくつもの輪が形成されていた。私は、輪の一部になることができず、結局は顔見知りの隣に身を寄せ、なんとなく時間が過ぎるのを待つという毎日を過ごしていた。これが私が学校生活を送る上での最善策だと自身に言い聞かせた。こうしなければ、自分一人だけ取り残されてしまう、毎日そんな恐怖に脅かされていた。その一方で、部活動では、小学生の頃からの仲間が多く、また先輩にも顔見知りがおり、それほど苦には感じなかった。練習は厳しいものであり、嫌になることも多くあった。しかし、不思議と日々の苦悩を忘れられる、そんな時間でもあった。しばらくの間そんな楽しくもない日々を過ごしていた。

 ある夏の日、この日も、いつものようにただ流されるままに一日を過ごしていた。退屈な授業が終わり、放課後の掃除の時間になった。いつもこの時間をやり過ごせば、ようやく息苦しい空間から解放される。そんな思いでごみを集め、机を拭いていた。掃除は男子二人、女子二人の四人組で行われ、同じ班には特に親しい人などはおらず、いつもただ黙々と掃除を行い、そのまま部活動へ向かうだけだった。しかし、その日は違った。いつも通り掃除を終えた時であった。同じ班の男子がふいに私に近づき、囁きかけるように声をかけてきた。

「あの女子二人が、君のことを悪く言ってたよ。」

そんな一言だった。私の中で衝撃、疑念、悲哀、そんな感情が一気に押し寄せてきた。すぐには理解ができなかった。しかし、その場ではその感情を顔に出さずにただ

「ふーん。」

といたって冷静な人であるかのように返した。自分でもそう思いたかった。そのまま掃除が終わり、またいつも通りの日常に戻った。ただ、心の中では全く整理がついていなかった。そのまま、グラウンドへ向かったが、その日の部活動には身が入らず、全く集中できなかった。自分の感情を落ち着けることに精一杯だった。そのまま部活動を終え、家へ帰り、現実を受け止めることにした。その瞬間、自分の中の小さな何かが無くなったような気がした。

 翌日、登校してみると、教室に変わった様子はなかった。いつものようにいくつかの輪が形成されていた。しかし、扉をあけた瞬間、すぐにあの二人の女子が目についた。気にしないようにしたかったが、無意識のうちに意識していたのであろう。もしかしたら、昨日の出来事は冗談だったのかもしれない。話をしたこともない人の悪口を言うなんて、そんなことはないだろう。そんな、微かな期待も抱きながら。もう一度あの男子に確かめてみようかと思った。しかし、もしあれが真実だったら。そんな考えがふと頭をよぎる。確信することが怖かったのだ。それならば、少しでも微かな期待を持っている方が、少しは楽なのかとも思ったのだ。結局、私は何も尋ねることなく、そのままいつものような一日をやり過ごした。そして、気にしないようにしよう。そう心に決めた。そう決めたはずだった。だが実際は、そんな単純にはいかなかった。教室にいる間、その女子がどんな言葉を口にしているのか、気にしないようにしていても、どうしても耳を澄ましてしまうのだ。また何か言われているような気もした。その日を境に、妙に視線を感じるようになった。今までは無かったのか、気づいていなかっただけなのか。わからないが、自分の一つ一つの仕草、発言が誰かに常に見られている気がしてならなかった。ただの自意識過剰にすぎないかもしれない。だが、その「気がする」ということが何よりも息苦しかった。そんな毎日が憂鬱でたまらなかったのだ。 朝の通学路。電線には雀がとまり、少し遠くから電車の音が聞こえる。この世界は、何も変わっていない。自分の抱え込む不安など、この世界と比べると、とても小さなものであり、誰にとっても存在しないに等しいのだ。そう思えば思うほど、ますますその不安だけが大きくなっていく。人に相談してみようとも考えた。けれど返ってくる言葉はだいたい予想ができた。

「気にしなくてもいい」

おそらくそれだけだろう。そう思うと相談する意味がないと思った。むしろ、そのことで自分に向けられる目が変わってしまうのではないか。そう考えるとより一層口を開く気にはなれなかった。さらに、あの女子は、一年生の頃から部活動で活躍し、集会などでも頻繁に表彰されるような、そんな皆から期待されるような存在でもあった。一方で私は、なにか大きな成績を残すこともなく、いわゆる平凡、もしくはそれ以下の存在であった。そんな私が相談をしたところで、相手にされないことなど目に見えていた。結局、私は相談することをやめた。人に聞いても何も変わらないのだから。


2.

 長い一年を終え、二年生になった。今年も校門の桜は、満開を少し過ぎたあたりで、花びらが風に乗って散っていた。だが今年はどこか物悲しい光景だった。クラスが変わり、また輪に馴染むための、あの苦痛の時間が始まってしまうと考えると、教室の扉が途端に重く感じられる。だが、どれだけ躊躇っても結局はこの扉を開けなければならない。そう思い、渋々重い扉を押し開けると、あの女子の一人が瞬時に目に入ってきた。絶望した。今年も同じクラスになってしまったのだ。ひどく絶望した。また、陰口を言われる日々が始まってしまう。また、あの刺さるような視線を受けなければならない。そんなことを思うと、胸がひどく憂鬱で沈んだ。しかし、今年は去年と違い、気づけば私の周りには昔から仲の良かった友人の姿があった。その事実に少しほっとした。そんな些細なことにも、まるで命拾いしたような安堵を感じられた。けれども、やはり少しの間はどうしても不安が消えなかった。また陰口を囁かれているのではないか、考えたくはなかったが、そんな思いがどうしても心の中に居座り続けた。しかし、そんな不安も次第に薄れていった。昨年とは違い、今年は友人との日々がその苦痛の時間を忘れさせてくれたのだ。友人との日々は、あの退屈でしかなかった授業でさえも、どこか楽しげに感じられる程だった。気づけば私もその輪の中で、なくてはならない中心人物の一人になっていた。昨年の孤独で押しつぶされそうな毎日とは、かけ離れた日々だった。次第に私は、あの女子に、この今の充実感をまるで見せびらかすかのような態度でいた。そうして、多少ながら優越感に浸っていたのだ。

 そんな楽しい日々の授業終わり。その日は部活動もなく、足早に帰ろうとしていた時のことであった。

「ちょっといい?」

背後から声をかけられた。振り返るとそこには、クラスの男子が立っていた。その彼は教室では比較的大人しく、あまり目立つような存在ではなかった。私もたまに言葉を交わす程度で、そこまで仲のいいわけでもなかった。

「どうした?」

そう応じると、彼は気まずそうに少し間を置き、口を開いた。

「僕って、どんな人に見える?」

私は少しおどろいた。どうやら彼は、自分自身の姿を他人の目から確かめたかったらしい。自分がどんな人かがわからないのか?変な人だな。そんな疑念があったが、口には出さず、

「大人しくて、優しそう?」

そう当たり障りのない答えを返した。

「そっか。」

彼はすこし不満げな表情を浮かべて返した。

「急にどうしたの?」

やはり気になってしまい、今度はこちらから質問を返した。すると、彼は続けて

「最近、友達に『お前っていつも楽しそうじゃないよな』って言われたんだ。」

彼は、その時はどうやら笑って誤魔化したらしい。その場の空気を悪くしないように、軽く流したのだろう。しかし、本人にはどうにも引っかかっているように見えた。続けて彼は、

「はあ」

こう小さくため息をついた。困惑した。私はどう声をかけるべきなのか。励ますべきなのか、慰めるべきなのか、人に相談されることなど今までなかったのだ。少しの間、無言の間が続き、気まずさを感じた私の口が自然と動いていた。

「あまり気にしなくていいんじゃない?」

その瞬間、彼は、一瞬真顔でこちらを見て、すぐに笑みを浮かべた。

「そうだね。ありがとう。」

彼はまるで肩の荷が下りたかのように、足早に帰っていった。私も満足げな笑みを浮かべて別れた。しかし、それと同時に、私は自分自身にひどく失望した。あの時私が人に求めなかった答え、あまりに無責任で、あまりに無関心な軽い言葉を、私は何の躊躇いもなく口にしてしまったのだ。毎日が充実していると、こんなにも他人に無関心になれるものなのか。ぞっとした。結局彼とのやりとりも、私のせいで、彼にとっては、何の意味も持たないものになってしまったのだ。私がそれを一番理解しているはずだった。なのに彼の救いを求める手を、あっさりと振り払ってしまったのだ。誰も救われていない。彼も、かつての私も。

 この日を境に、彼は、めっきり登校しなくなった。あの時、もし私が本当に救えていたなら、彼も今ごろ、何気ない日々を楽しめていたのだろうか。私がもっと寄り添うことができたなら。そう思うと私は胸が押しつぶされそうになった。だが、幸か不幸か、その痛みも長くは続かなかった。数日も経てば、私はまた友人と笑い合い、いつも通りの日常を送っていた。所詮、他人の悩みなど小さな存在だったのだ。かつて私が必死に救いを求めていた時も、周囲にはこんなふうに見えていたのだろう。私自身が、その証明になったのだ。


3.

 あっという間の楽しかった一年を終え、三年生になった。今年の校門の桜は、春の雨に打たれ、惜しむ間もなく散っていた。さほど心には触れなかった。教室の扉を開ける。そこに、あの女子の姿はなかった。安堵した。もうあの刺すような視線に怯えることはない。これほど嬉しいことはなかった。ようやく解放されたのだ。微笑を浮かべながら周囲を見渡した。しかし、どこにも友人の姿は無かった。私の胸の内にはどこか空虚な静けさが残った。すでに、教室にはいくつもの輪が形成されていた。私は立ち尽くした。私が属せる輪は、どこにも見当たらなかったのだ。しばらくの間、藁にもすがる気持ちで、いくつもの輪を転々とした。もしかしたら、どこかに自分を受け入れてくれる場所があるかもしれない。そんな微かな希望を抱いていた。根拠のない希望を。しかし、やはり自分の居場所は無かった。薄々は気づいていたことだった。けれど、いざ現実を突きつけられると、寂しいものであった。私が輪に入ろうとすると、皆の表情は笑っているようだったが、どこか目の奥で余分なものを遠ざけるような、そんな影が潜んでいるようだった。無情だ。薄情だ。そう思うこともできたかもしれない。だが、私はそう思わなかった。むしろ、必要とされていない自分、いてもいなくともさほど変わらない自分。そんな小さな存在であることが、ただ憎く、悔しかった。

 部活動を引退してからというもの、非常に退屈な毎日だった。人に蔑まされるような苦しみもなければ、友人と笑い合う歓びもない。ただ授業を受け、昼食を食べ、放課後を迎え、家へ帰る。それだけの繰り返しだった。心は波立たず、かといって安らかでもない。毎日のように少しずつ季節が移り変わるのを感じているだけであった。教室の窓枠には大きな蜘蛛の巣が張り付き、教室の花瓶に活けられた花は、花びらを一片落としていた。

 何もしていないとはいえ今年私は、受験生でもあったので、一応勉強だけは少ししていた。だが、これも別に楽しいものではない。ただ、父に

「お前はこのままではろくな高校にすらいけない。」

と日々脅されていたので、高校に行ける程度の学力は身につけようと思い、机に向かってはいた。だが、これもまた退屈なものであった。毎日同じような問題を解き、答え合わせをし、特に反省もせず次の問題に移る。その繰り返しであった。それほど大きな成長も感じられず、淡々とした毎日に変わりはなかった。

 桜の葉が落ち、冷たい風が頬を刺すようになった。昨晩は、うっすらと雪も積もっていた。受験の季節である。毎朝、教室の扉を開けると、面接の練習を繰り返す声、答案用紙にペンを走らせる音など様々な音が鳴り響いていた。しかし、私には理解できなかった。なぜ、そこまで必死になれるのか。なぜ、それを嫌悪せずに続けられるのか。私には、その理由が、やはり理解できなかった。私もそれほどやる気があれば、どれほど楽だったか。そう思いながら席につき、また窓の外を眺めていた。

 いよいよ受験当日になった。私の志望校は友人と同じではなく、そのため、一人で受験会場に向かうことになった。受験会場までは、父が車で送ってくれることになり、無言のまま乗り込んだ。窓の外の枯れ木などを眺めながら、三十分程車に揺られた。会場に着き、車のドアを開けると、父が口を開いた。

「頑張ってこいよ。」

そう優しく語りかけてきたのだ。しかし、私には実に無責任な言葉に感じられた。これまで父に勉強を教わったことも、見守ってくれたこともなかった。むしろ、

「このままでは高校にいけない」

などと、脅しのような言葉を浴びせられてきたばかりだった。私はそのような言葉を気にしないようにしていたが、それでもやはり、少しは意識してしまうものだ。もし落ちた時にどんな顔で叱られるか。どんな言葉を浴びせられるか。そんな恐怖も少しばかりあった。それなのに、当日になると、まるで人が変わったかのように優しい声をかける。本人はきっと応援しているつもりなのだろう。だからこそ、より無責任に感じられたのだ。

 とはいえ、それなりに勉強はしていたので、私はそこまで心配はしていなかった。むしろ、さっさと済ませて早く帰りたいとすら思っていた。案内係に導かれ、受験会場の教室へと向かった。教室の前の廊下にはすでに他の受験生が多く集まっており、張り詰めた空気が漂っていた。そこには多くの孤立が存在しており、皆が声を潜め、足音や衣服の擦れる音が耳についた。学校にもかかわらずここには輪というものが一つも存在していなかった。その光景をどこか不思議に感じるとともに、居心地良くも感じられた。

 試験が始まり、合図とともに全員が一斉にペンを走らせた。紙の上を擦る音が鳴り響いていたが、不思議と耳には入らなかった。多少わからない問題もあったが、そこまで気にするほどでもない。おそらく合格しているだろう、といったぼちぼちの手応えだった。この張り詰めた空気の中、五十分の試験を五つ受けるのは思った以上に疲れるものだった。帰りの車内では気付かぬうちに眠りに落ちていた。それは受験が終わったことに対する安堵や解放からではなく、ただ疲労によるものだった。

 少し経ってから、受験の結果の発表があった。合格だった。おおよそ予想できていたことだったので、そこにはそれほどの緊張も歓喜もなかった。教室に戻ると、皆が口々に結果を報告し合い、一喜一憂していた。私は誰にも結果を告げることはなかった。だが家族にだけ報告すると、皆が喜んでくれた。あの退屈な日々も無駄ではなかったのかと思うと、報われたかもしれないと思い、少し嬉しかった。あの父も笑みを浮かべていた。私は目を合わさないようにした。

 そうしているうちに、ようやく卒業の日を迎えた。いざ中学生活を振り返ると、意外と多くの思い出があった。三年の退屈があまりに濃かったので、全て空虚だったかのように錯覚していたようだった。教室では、担任の最後の言葉に、涙する者、冗談を言い合いながら笑って別れる者もいた。私はいつもと変わらず、窓の外を眺めていた。外の風景が、いつもより少しだけ綺麗に見えた。なぜだかそんな気がした。

 話も終わり、私は足早に教室を後にして校庭へ出た。すでに多くの生徒が集まり、その中に友人の姿もあった。私は小走りで駆け寄り、すぐに会話に溶け込んだ。友人といる時間はやはり楽しく、懐かしさを感じられた。しばらくは、たわいもない会話に笑い、寄せ書きを書き合い、写真を撮り合い、時間を忘れて楽しんだ。三年でもこんな毎日を過ごしたかった。

 日が傾きかけていた頃、私は口を開いた。

「そろそろ帰るか。せっかくだしご飯でも食べて帰る?」

すると友人の内の一人が口を開いた。

「この後、クラスの友達と予定があるんだ。すまんな。」

他の友人も首を縦に振った。

「そっか、そうだよな。」

なんだか、すごく恥ずかしかった。恥ずかしさに押しつぶされそうだった。皆はそれぞれ、新しい教室で新しい輪にも所属しているのだ。つい、自分だけの感覚で先走ってしまった。私だけが過ぎ去った過去の中で生きていたのだ。その現実を思い知らされた時、これまでにないほどの無気力な寂しさが私を覆い尽くした。目の前の景色から色が抜け落ち、全てが灰色に見えた。別れを告げ、友人の背中が小さくなっていく。勘違いしていたようだ。私とはとても遠い存在のように思えた。こんな日にも、電線には雀がとまり、少し遠くから電車の音が聞こえる。


4.

 気づけば卒業式も終え、春休みに入った。毎日、特にすることもなく、ただ家でぼんやりとした日々が過ぎていく。外に目を向ければ、周りの人は旅行へ出かけたり、友人と遊んだりと、休みを謳歌しているようだった。悔しいが羨ましかった。

「はぁ」

無意識にため息が溢れる。このままではいけない。不思議と焦りが芽生えた。なぜだろうか。気のせいかもしれないが、高校で再びあの苦痛の時間を過ごす未来が、ぼんやりと見えたような。そんな気がした。

「作戦を考えよう。」

私は頭の中で拙いシミュレーションを始めた。初対面でどんな言葉を選べばいいか。誰に、どんな風に話しかけようか。稚拙な頭で必死に想像し、考えた。そんなことをしているうちに、不安だった高校生活にも、微かな光が見え始めた。どこからか、自信が湧いてきたのだ。


5.

 桜は満開の時期を迎え、入学式当日になった。私は、大きな不安と、希望と呼ぶにはあまりに頼りない微かな光を胸に、校門を潜った。

「華々しい高校生活の始まりだ」

そう自分に言い聞かせるように、少し硬い足取りで教室へと向かった。自分の新たな第一歩となる扉を、勢いよく開けた。教室の中にはすでに数人が席についており、私も視線を合わさぬようにひっそりと自分の席についた。

「大丈夫」

小さく息を吐きながら、心の中で何度も繰り返した。この教室にまだ輪は形成されていなかった。それもそのはずだ。ここにいる人は皆初対面。私のことを知っている人は、誰一人としていないのだ。

 やがて全員が席につき、担任が教室に入ってきて話を始めた。私は控えめに周りを見渡した。皆、どこか表情が硬いように見えたが、目の奥では希望に満ちているような、そんな表情だった。やがて、担任の話が終わり、休憩時間になった。あらゆる場所で、少しずつ会話が生まれ始める。まさに今、確かに輪が形成されようとしている。

「早く私も始めなければ。大丈夫だ。シミュレーションしたではないか。」

すかさず後ろの席へ振り向いた。そして口を開こうとした瞬間、喉が硬くなり言葉が詰まった。なぜだか、頭の中でシミュレーションした完璧な会話が煙のように消えていく。教室のあちこちでは、すでに笑いが生まれ始めていた。私は気まずそうにまた前を向き、机に目線を落とした。自分だけが壁の向こうに置き去りにされたようだった。

「まただ。」

もはや悔しいといった感情さえなかった。ただ憎かった。こんな自分が醜くてたまらなかったのだ。

 そこから数日間、気づけば私は教室の中で孤立していた。授業を受け、昼食を食べ、放課後を迎え、家へ帰る。ただそれだけの繰り返しだった。だが、今回は退屈などではなかった。何もできない己の無力さに失望し、自己嫌悪に陥ったのだ。また人に打ち明けることも考えた。しかし、これもまた返ってくる答えは予想できた。

「何とかなる。」

おそらくこうであろう。また、高校は中学と違い自分で選んだ進路である。こうなった責任は自分にあるのだ。そう思うと、また、他人に打ち明けることができなかった。一人で抱え込むしかなかったのだ。

 それからまた数日。私は部活動の見学のため、一人でグラウンドに足を運んだ。少しでも早く、あの孤独な時間を忘れたかった。グラウンドには同じように見学している生徒が何人もがいたが、一人で見学している人など、誰一人としていなかった。何だか恥ずかしかった。

「もし入部したら、この人たちとも仲良くなる日がくるのだろうか。」

そんなことを思いながら、上級生たちの練習風景をぼんやりと眺めていた。

 すると、背後から声が聞こえた。

「君もこの部活に入るんですか?よかったら一緒に見学しませんか?」

どうやら、私に向けられた言葉だった。すっと後ろを振り返ると、二人組の男子が立っていた。そして、自分たちの輪に私を入れてくれるようであった。私は表情を変えずに頷いた。だが、内心は舞い上がっていた。今までにない経験だった。なぜ声をかけてくれたのかはわからない。だが、そんなことどうでもよかった。救世主だ。ヒーローだ。私の目にはそう映っていた。それから軽く言葉を交わした。気がつけば、この学校に入学して以来、私は初めて他人に自己紹介をした。そしてどうやら、二人と私は同じ組であった。その瞬間、胸の奥からさらなる歓喜が湧き上がってきた。これでもう教室で孤独と闘うことはないのだ。そう思えた。

 それから、私は部活動に入部し、二人とも次第に友人と呼べるほど打ち解けていった。教室では、毎時間のように駆け寄り、言葉を交わした。ほんの少し前の自分とは、比べものにならぬほどの、充実感に満ちた日々であった。

 しかし、いつの日からか、私の中に一つの恐怖が芽生え始めた。

「もし、この人たちに嫌われてしまったら。」

それは、かつて味わったことのない感情であった。そうなれば、今まで以上に苦しい日々を過ごさなければいけなくなる。これまでにない孤独を。これまでにない痛みを。私は、その予感に怯えた。考えて、考えて、また考えた。登校中も、授業中も、部活動中も、食事をしながらも、布団のなかでも。休んでいる暇などなかった。

 ある時、リビングに座ると、ふとテレビの音が耳に入ってきた。画面には一人の看護師が映し出されていた。看護の現場を追った密着番組らしい。

「普段、患者と接する時には、どのようなことに心がけていますか?」

そう質問されている様子が映っていた。

「患者様に、安心感をもっていただくために、自分の感情を表に出すのではなく、患者様にとって安心できる態度や表情を心がけています。」

そう看護師が口にしているのが耳に入った。

「これだ。」

聞いた瞬間に、私は答えを見つけた気がした。人の機嫌をうかがい、当たり障りのない言葉を選ぶ。自分を押し殺し、常に冷静に立ち回り、相手の望む自分を演じる。それこそが、自分の生きる道だ。そう思った。

 この日を境に私は自分を演じ続けた。友人との関係はますます深まり、そればかりか、周囲の人々からも好意を向けられるのを実感した。常に人の顔色をうかがい、相手によって態度を変える。私は、理想の私を作り上げていったのだ。それからというもの、人間関係は常に良い方向に進んでいった。皆から羨ましがられ、憧れられる。

「そんなことないよ。」

私は、照れ笑いを浮かべながら答えていた。だが、本心では少しも嬉しくなかった。むしろ、やはりどこか皆の自然体の姿を。自然体でも平気でいられる精神を羨ましく思っていた。しかし、だからといって演じることをやめようとは思わなかった。いや、そう思えなかったのかもしれない。自然体の自分など、誰からも受け入れられない。それは、過去の経験が証明しているのだ。それならば、多少の疲労や嫌悪があろうとも、今のこの生活を続けていこうと思ったのだ。すべての人に受け入れられるなど不可能である。そんな簡単なことが自分にはわからなかったのだ。たとえ百人から好かれようが、一人から嫌われることを恐れていたのだ。だから、私は、徹底的に自分を演じ続けた。これは、とても疲れるものであった。常に気を抜くことができない。そこに人がいなくとも、表情一つ、仕草一つに気を配らないといけない。誤った選択は許されない。たとえ、それが友人であろうとも。家族であろうとも。一日のうちで一息つけるのは、布団に入った瞬間だけだった。このひとときこそが私にとって至高の安らぎだった。

「今日もよく頑張った。」

この瞬間だけ自分に優しく、自分を慰めることができた。もちろん他人から慰められることはない。あってたまるか。この姿は、私以外知ってはならないものなのだ。

 そんな日々を続けながら、入学してから一年ほど経った。ある日、いつものように友人に連れられてトイレへ行き、手を洗った。ふと鏡に写った自分の顔を眺めたときのことである。そこには知らない顔が映っていた。意味がわからなかった。気味が悪かった。しかし、見覚えはないはずなのに、どこか親しみを覚えるような、そんな顔であった。その日を境に、鏡に映る顔は見るたびに変わっていった。すごく気味が悪かった。それだけでなく、私の顔が映し出されることはなかった。ますます寒気がした。何かの幻覚か。私はそれを友人や家族に相談することはなかった。

 久々に中学時代の友人と遊ぶことになった。普段の疲労を忘れられるだろうと、私はこの日を心待ちにしていた。集合場所へ向かうと、そこには懐かしい顔がいくつもあった。私は何だか温かな安心感に包まれたような感覚だった。あの頃と何も変わらない。そんな景色がなんだか嬉しかった。昔と同じようにたわいもない会話をしよう。そう思い、何気ない言葉を口にしようとした。その瞬間、私は愕然とした。出てこないのだ。無意識に溢れるはずの言葉が。あの頃のような言葉が。何一つとして出てこなかった。そして私はその瞬間、全てを悟った。自然体の自分。生まれ持った自分。本当の自分。そう、私は私を見失ったのだ。本来あるべき姿の私は消え、本来あるべき姿ではない私に馴染み、この世界に残ってしまったのだ。頭の中が真っ暗になり、次第に視界も暗闇に包まれた。もう戻れないのか。嫌だった。受け止めきれなかった。笑っても、話しても、誰といても、その姿は、所詮私が作り出した偽りの仮面にすぎない。私の中の絶望は、それ以外の感情を次々と飲み込んで行った。その時、私は友人と共に、満面の笑みを浮かべていた。

 その夜、私は布団の中で泣いた。これまでにないほどに泣きに泣いた。また夜が明ければ、いつものように笑顔を作り生きなければならない。そう思うと死にたくなった。しかし、死ぬことすら許されなかった。少なからず悲しむ人がいるのだ。いるはずだ。いてほしい。結局、私は生きるしかなかったのだ。一人で闇を抱えながらも、その重圧に耐えながらいつものように生活しなければならないのだ。その夜は、一睡もできなかった。

 それから数日。私の中の絶望は、まだ完全には消え去っていなかった。ある日の部活動の練習中、顧問に練習を止められ、全員が集められた。説教だった。どうやら、練習に気持ちがこもっていなかったらしい。

「もっと声を出せ。」

「もっと集中しろ。」

一人ひとり全員の前で叱責が飛ぶ。部活動での私は少し控えめで、練習をそつなくこなす人だった。私も皆と同じように叱責されるだろう。そう予想していた。そして、ついに私の番が回ってきた。しかし、その言葉は予想を外れた。

「キャラとかいいから。」

ただその一言だけだった。大声で罵倒された訳でもない。だが、今の私を深い絶望に堕とすとしては十分過ぎた。私は、この私を否定されたのだ。いままで作り上げてきた、私を。本当の自分の姿を捨ててまで被り続けてきた、この仮面の姿を。なんの躊躇もなく踏みにじられたのだ。それは、私の存在自体をを否定しているのと同意義であった。確かに、この姿を選んだのは私だ。だが、望んでこうなったのではない。本当の自分を失い、なおかつ、偽りの自分の姿さえも否定された。心の中の柱が折れる音がした。もはや生きる気力さえも失った。頭の中には虚無だけが広がり、視界は歪んだようにただぼやけて揺らめいて見えた。

 しばらくの間、私は何も手につかなかった。偽りの自分を演じることさえ、もはや雑になっていた。まわりで笑う友人たちの姿を横目に、私は死んだかのように時を過ごした。もし私が死んだら、誰か悲しんでくれるだろうか。もっと一緒に居たかったと、そう言ってくれるだろうか。そんな考えばかりが頭を占めていた。私は捨てられた人形のように、ただ呆然としていた。もはや、今の私の姿はそんな人形よりも、醜く不憫で憐れだったであろう。世界は私がいなくてもよく回る。世界の全てが私を置き去りにして、遠ざかっていく気がした。

 それから長い月日が経った。桜の木の枝先には蕾が芽吹いていた。多少心の闇は時間の経過により晴れてきたが、やはりまだ、深い傷を負ったままであった。自分を守るために作り上げた、偽りの自分。だが、今となってはその自分が私自身を破滅へと追いやる最悪の結果となったのだ。こうなることがわかっていたならば、あの頃、たとえ、人に嫌われようとも、ありのままに生きることを選んだかもしれない。だが、いざ戻れたとしてもやはり偽りの自分を作り出すかもしれない。やはり、人に嫌われるというのは、それほど私の中で恐ろしいことだ。

 やがて、卒業式を終え、皆やはりたわいもない話に笑い、寄せ書きを書き合い、写真を撮り合い、別れを惜しんでいる様子だった。そんな景色を横目に、私は誰にも気づかれないように、足早に帰った。帰り道、せっかくなら、最後に一言ぐらい挨拶を交わすべきだっただろうか。記念写真の一枚ぐらいは撮るべきだっただろうか。まあいい。今はそんなことよりも、これから先の人生、どう生きていくのか。高校時代に作り上げてきた偽りの姿は、今日その役目を終えたのだ。これから、また嫌われぬように新しい自分を作るべきなのか。また、この苦しい思いをするのかと思うと血の気が引いた。しかし、本当の自分をとうに見失った今、それ以外の選択肢など思い浮かびもしなかった。


6.

 またしばらく経ったある日。ひとりの友人から連絡があった。その友人は、私の一番の幼馴染であり、幼稚園からの付き合いであった。高校からはお互い違う進路で別々の道を歩んでいたが、それでもたまに連絡を取り合うようなそんな仲だった。

「久しぶりのご飯でも食べに行かないか。」

そんな用件だった。私は卒業してから無為に日々を過ごしていた。ただ時間の流れるのを眺めているだけであった。そのため、特にやることもなかったので、気分転換がてら行くことにした。しばらく仮面を被らずに過ごしていたため、少々不安もあったが、長い年月、演じてきた自分の感覚など、そう簡単に忘れることもなく、いとも簡単に体に馴染んできた。やがて再開し、すこし歩きながら話をした。

 話しているうちに、私はなぜだか、「今日この日が、私の人生の大きな転換点になる。」そう思った。理由はない。おそらく勘だ。だが、確かに胸の奥でそう囁くような声がしたのだ。こいつなら、何かを変えてくれるかもしれない。小さくても、何かきっかけを与えてくれるかもしれない。なぜだかそう思った。もちろん恐怖もあった。私の過去を打ち明けることで、もう二度とこいつとは会えなくなるかもしれない。唯一無二の親友を、自らの手で失うかもしれない。だが、何かを成し遂げるためには、何らかの犠牲が伴うものだ。私はそう覚悟を決めた。

「実は、相談があるんだ。」

「何?」

「僕って、どんな人だと思う?」

「急にどうした。まあ、愛想が良くて、優しとか、そんな感じ?」

「そっか。」

「てか、何で急にそんなことを聞くんだ。」

「こんなこと、急に言っても理解されないかもしれないけど、実は、自分が誰だかわからないんだ。意味わかるかな?人の機嫌ばかり気にして、嫌われることを怖がって、そうして自分を演じているうちに、本当の自分がわからなくなったんだ。ごめんね、急にこんなこと。」

私は、人生で初めて悩みを他人に包み隠さず言った。

「ふーん。それだけ?」

返答は、意外なものだった。もっと心配されるかと思った。もっと慰められるかと思った。

「それだけだけど。」

「なんだ、深刻そうな顔してるから。もっと大病を患ったとか、犯罪を犯してしまってどうしようもなくなったとかかと思ったわ。お前が、そんなことで悩んでいるかもしれないけど、俺はそんなこと、一回も気にしたことない。お前が優しかろうが、意地悪だろうが俺には知ったこっちゃない。俺はお前だからこうして仲良くできる。友人関係に、相手の機嫌とかそんなに気を使うものなのか?今のお前が本当の自分か、仮面をかぶった状態なのか知らんが、俺はこれからも変わらずに接するぞ。変に気を使いたくないし。それに、本当の自分の姿を見失ったんなら、また今から始めればいい。今から生きたいように生きればいいだけのことだろう。」

そういうことじゃないんだよ。もっと慰めてくれ。もっと共感してくれ。普通の人なら、そう思うかもしれない。しかし、今の私にとって今の彼の言葉は、これまでの悩み、苦しみを一気に取っ払ってくれたのだ。

「そうか。」

自然に笑みが溢れた。作り物の笑顔ではない。相手の機嫌を伺って浮かべる笑顔でもない。こんなに自然に笑えたのはいつぶりだろうか。彼の存在は、私にとって、最も身近であり、何よりの恩人。そんな存在になったのだ。

 それから数ヶ月が経った。純粋な愛に満ちた。何もなくても輝いていた。あの少年はもうどこにもいない。今ではあのありふれた友達すらも去っていく。だが、それでよかったのだ。私はまだ幼くて、大人になるにはまだ早い。

 こんな日にも、電線には雀がとまり、少し遠くから電車の音が聞こえてきた。

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虚勢の傀儡 平松たいし @Takeshiel_dreemurr

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