蛇口くん

the memory2045

ケンと、蛇口くん

夕食後の洗い物を終えたシンクに、ぼくは佇んでいた。そ。ぼくはキッチンに備え付けの水道の蛇口。今日も一日、たくさんのものを流した。どろどろした油のついた皿、コップに残った泡だけのビール、そして、たくさんの会話。


この家の住人は、ぼくの親友だ。

ケン、と呼ばれている。ケンは物書きで、だいたいいつもぐるぐる考え事をしているみたい。

何より、ぼくはケンの話を聞くのが好き。水を出したり止めたりするたびに、ケンは色々なことを話しかけてくれる。最近書いている短編小説のこと、昔飼っていた猫のこと、子どもの頃の夏休みのこと。ぼくは、その一つ一つを水の流れに乗せ、とても遠い場所に運んでいく。


ケンがまだ幼い頃、彼はよくぼくの口元に耳を当てていた。ぼくはまだ何も話せなかったけれど、ケンは


「蛇口の中に、誰かいるんでしょ?」


と笑っていた。その頃から、ぼくたちのささやかな友情は始まっていたのかもしれない。


ある日のこと、ケンはひどく落ち込んでいた。小説が全然書けないんだ、と彼は言う。ぼくは、できるだけやさしく水を流した。彼の紡ぐストーリーには、彼の心臓のドキドキ、って音がする。ぼくは、その音を聞き逃さないように、そっと耳を澄ませた。


「なあ、蛇口くん」


とケンが言った。


「もし、俺の今まで書いた小説が、ぜーんぶ失敗作だとしたら、いったいどうすればいい?」


ぼくは、ただじっとそこにいた。しかし、その夜、不思議なことが起こった。ぼくの口から、いつもとは違う、ぬるい水が流れ出したのだ。それは、しょっぱい涙の味がした。ケンのストーリーに登場する、泣き虫な男の子の流した涙だった。

ケンは驚いた顔でその水を掬い、一口飲んだ。そして、ぼくのハンドルを優しく撫でた。


「······ありがとう、蛇口くん。君は、俺のストーリーをちゃんと覚えていてくれたんだね···」


その夜。ケンは東の空に朝日が昇るまで、書き続けた。彼が書いたのは、ぼくたちが初めて会った日のこと、そして、ぼくが彼のストーリーを聞き続けたこと。それは、ぼくが彼に語った、ぼくたちのストーリーだった。


ぼくは、なんてことない、ふつうの蛇口。出来ることと言えば、水を出すこと。

だけど。ケンのストーリーを流し、彼の心に寄り添うことができる。それがぼくの役目。

どうやら外の鳥が


「おはよう」


と鳴き始めた。そろそろケンが、眠る時間だ。


「···おやすみ」


ゆっくり眠って休みなよ、親愛なるぼくの友ケン。



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