第九話 失踪
その朝、空は鉛色に曇っていた。
白とも灰ともつかない雲が、村の上空を低く流れていく。だが、風はまったく吹いていなかった。空も、大地も、ただじっと、何かを待っているかのように沈黙している。
俺は、きしむ体を引きずりながら、水場へと足を運んでいた。あの日以来、傷の痛みは少しずつ引いてきていたけど、それでも動くたびに、鈍く重たい痺れが体の奥を這う。
マイルズから受けた暴力は、どうやら皮膚の表面だけじゃ済まなかったようだ。痛みの奥底に、じわりと残るもの――それが、体のものなのか、それとも心のものなのか、まだうまく区別がつかない。
そんなことをぼんやり考えていた時だった。
背後から、土を蹴る音が聞こえてきた。
ドタドタと、切迫した気配を含んだ足音。やがて、土埃を巻き上げて、トッドが駆けてきた。
頬を紅潮させ、息を切らせながら、いつもの調子よりも少し高い声で叫んだ。
「アレスー! おい、起きてるか!?」
「とっくに起きてるっつうの……そんなに慌てて、どうしたんだ?」
「村が、騒ぎになってる! マイルズさんが……行方不明なんだ」
一瞬、時が止まったように思えた。
マイルズ。鶏小屋の番人。俺にとっては、理不尽な言いがかりばかりつけてくる偏屈な年寄りだった。
けれど、そんな男が――突然いなくなるなんて。考えたこともなかった。
「……行方不明って、どういうことだよ」
「昨日の昼から、誰も姿を見てないって。餌の入ったバケツが小屋の前に置きっぱなしでさ……本人が、どこにもいないんだって。家族も、村中探したけど手がかりはなし」
トッドの声には、焦りと――それ以上に、どこか怯えた色が混じっていた。
無理もない。最近の村は、どこかおかしかった。
風が吹かない。動物の気配が薄い。
まるで森の奥で感じた、あの“気配”が、じわじわと村にまで迫ってきているかのように――。
「……まさか、森に……?」
「分かんない。でもさ、アレスがボコボコにされたあの日から、村で変な噂が広がってて……。『禁断の森の呪い』だとかさ」
ああ、村の人間は、そういう噂を好む。
あることないこと、面白半分に騒ぎ立てる。
「でも、あのマイルズさんがさ……あんなニワトリ大好きな人が、餌もやらずにどっか行くなんて、考えられないじゃん」
「……それは、そうかもな」
確かに、誰に何を言われようと、あいつは毎日欠かさずニワトリの世話をしていた。それに関してだけは、筋の通らないことだけはしない男だった。
「今、広場に人が集まりはじめてる。狩猟会の人たちもいると思う。……アレスにも、話しておいた方がいいと思って」
トッドは、どこか申し訳なさそうに目を伏せた。俺の体を気遣ってのことだろう。けれど――
「……行く」
返事は、自然とこぼれていた。そうする他なかった。
胸の奥が、静かに冷たくなっていく。
あの森の中で見た、血まみれの地面と家畜の亡骸、朽ちかけた道具の数々。
そして、確かにあった“何か”の気配。
あれが、また誰かを――。
「待ってろ。すぐ支度する」
あの日、森の中で風が止んだ時の記憶が、また背中に貼りついて離れなかった。
* * *
広場に着いた頃には、もう多くの人が集まっていた。
ざわめき、怒声、すすり泣き――それらが入り混じって、村に不穏な空気を染み込ませていた。
狩猟会の男たちは中央で話し合いをしていた。リーダー次席のパウロさんの姿も見える。けれど、あのくそったれリーダーの姿は――ない。
代わりに、村の年長者たちが何人か集まっていた。
「……まだ見つからんのか」
誰かが漏らした言葉に、重苦しい沈黙が広がる。
「マイルズは家族を置いてどこにも行くような人間じゃないんだぞ!」
「もしかして、あれも禁断の森の……」
誰かが小声で言いかけて、すぐに黙り込んだ。
その言葉を聞いた途端、ざわめきは恐れと不信に変わっていく。
「なあ、アレス」
隣で立っていたトッドがぽつりと呟くように言った。
「あの森で……一体何があったんだよ」
その一言に、突き刺すような視線を感じて周囲を見渡す。俺に気づいた人たちの目が、一斉にこちらに向けられた。驚き、警戒、そして――疑い。
「アレス、お前……」
年長の一人、ヒューゴが口を開いた。
厳しい目つきで、俺を見据えている。
「数日前、森の中がどうのこうのと騒いでいたそうじゃが……あれは、どういう意味なんだ」
その場の空気が、凍りついた。
誰もが息を呑み、まるで時間そのものが止まってしまったかのようだった。
「……俺、見たんです。盗まれた農具、腐ったヤギやニワトリの死骸……全部、あの森の中にあった」
言葉に込めたつもりの冷静さは、自分でもわかるほどに心許なかった。それでも、黙ってはいられなかった。
「それを証明するものはあるのか?」
無遠慮な声が割って入る。男の顔は見えなかったが、疑いと恐れがにじむその声音には、確かな圧があった。
ヒューゴはため息交じりに俺の肩に手を置く。
「アレス、考えろ。今ここで“森に何かいる”なんて言えば、村中が混乱するだけだ」
「だったら……!」
思わず叫んでいた。
ヒューゴの手を振り払い、張りつめた声が喉から飛び出す。
「誰かが、あんな目に遭うのを見過ごせって言うのかよ!」
声が、広場を突き抜けた。
直後、ざわめきがぴたりと止む。
俺の中には、怒りと、それ以上にどうしようもない恐怖が渦巻いていた。
「……俺は、誰にも"あんなもの"を見せたくないだけだ……ただ、村の為を思って……」
そう言いながら、握りしめた拳が小刻みに震えているのを、自分でも感じていた。
「……よそ者のお前が、何を騒いでる!」
「そ、そうだそうだ! そもそも、お前がやったんじゃないのか!証拠もないんだろう!?」
「そう言えば、マイルズさんと揉めてたって聞いたぞ!」
群衆の中から、次々と罵声が飛び出した。
誰かが口を開けば、また誰かが続く。
理屈なんて関係ない。ただ、向けどころのない不安が、俺に向けて牙を剥いてくる。
村人たちの怒声が広場に渦を巻く。
言葉が、唾が、疑いが、容赦なく俺に降りかかる。
――その時だった。
「……静まれ!!」
低く、地を這うような声が広場に響いた。
瞬間、全員の喉が塞がれたように沈黙する。
声の主は、狩猟会の次席、パウロさんだった。
その鋭い眼差しが、人々を見渡す。
「感情で騒ぐな。まずは、事実を整理するんだ」
重く、しかし揺るぎない声で、彼は語りはじめる。
「マイルズは行方不明。鶏小屋の前には餌のバケツだけが残されていた。アレスの話は不安を煽るかもしれん。だが、無視するのはあまりに筋違いってもんだ」
「でも、リーダーは……」
誰かが小さく言いかける。
「……あの人は今、酒に溺れて寝ている。呼びに行ったが、立てる状態じゃなかった」
ワナワナと拳を震わせ、パウロさんの声に滲む苛立ちは、誰の目にも明らかだった。
「本来なら俺が仕切ることじゃない。けど、こうして黙っているうちに何か起きたら、誰が責任を取る?」
一拍置いて、彼は静かに宣言した。
「明日、夜明けとともに探索隊を出す。行き先は――禁断の森だ。俺が、責任を持つ」
広場が水を打ったように静まり返る。
誰もが、口を閉ざした。けれどその沈黙の中、俺は確かに見た。何人かの目が――恐れと覚悟の狭間で、静かに火を灯すのを。
パウロさんが俺の方へと視線を向ける。
「アレス、お前も……来られるか?」
「……はい」
あの森へ。
あの、正体の見えない気配の中へ――
あの森の惨状を見た時から、俺はとっくに戻れない所まで足を踏み入れてしまっていたんだ。
* * *
夜明け前。まだ冬は先だというのに、空気はやけに冷たく、重かった。
そんな朝――俺は、パウロさんたちとともに、禁断の森へと足を踏み入れた。
集まったのは六人。パウロさんを含め、どれも村で名の知れた狩人たちだった。皆、無駄口ひとつ叩かず、ただ黙々と準備を進めていた。
「忘れ物はないな、アレス」
「もちろんです! 以前いただいた閃光玉に、黒鉄の矢も、準備万端です」
「よし。特に閃光玉は、万が一の時目潰しになる。光は強いが、一瞬だ。焦るなよ」
森を進む間、パウロさんがぽつりとそう言った。
昨日の広場での彼とは打って変わって、目の奥に獣じみた鋭さが戻っていた。
そして――
日が傾き始めた頃、俺たちはようやく“あの場所”に辿り着いた。見覚えのある木々。だが、よく見ると幹には細かい爪痕のような傷が増えていた。
農具や壊れた家財道具は、不自然なほど跡形もなく消えている。
けれど、泥にまみれた家畜の死骸だけは、腐臭をまとってそこに残っていた。
誰かが息を飲む音が聞こえた。動物の死骸には慣れているはずの猟師たちでさえ、思わず目を背けている。これが明らかに異常なものだと、誰の目にも明らかだ。鼻をつく獣臭が「どうだ、これは現実だぞ」と脳裏に焼き付けるかのように辺りに漂っていた。
野獣の王国 スギセン @sugicentury
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