夫とサラダボウル
優夢
私にとってはそれなりに日常。
「ただい……ま?」
帰宅した私を、珍しく夫が玄関まで出迎えてくれたと思ったら。
夫が奇行に走っていた。
夫は人類学の研究者だ。研究者というものは周囲にわからないことを急にし始めるので、慣れたつもりだったが、さすがに驚いた。
夫は、頭にガラスのサラダボウルをかぶっていたのだ。
二人暮らしには大きいので、来客用に戸棚にしまっていた強化ガラスのサラダボウル。
ちょっといいやつで、彫られた模様が美しいはずが、人間の頭に装着されると中身がぐにゃぐにゃ歪んで透けて見える。妖怪っぽい。
それ、かなり重いのでは?
「……ヘルメット?」
よく考えてから口にしたつもりだったが、夫は不満そうな声を返した。
夫の目はサラダボウルのふちと重なって、表情がよくわからない。
「サラダボウルだ」
「いや、それはわかるんだけど。用途として」
「ヘルメットの用途ではない」
「頭を守護するのでないなら、どうしてそんなものかぶってるの?」
「サラダになるべきだからだ」
あちゃー。
研究に煮詰まったかな。
私は夫の機嫌をとるにはどうすべきか考えた。奇行が言葉にまで及んだ時は、夫のメンタルがぐらぐらな時。
ハーゲンダッツじゃ無理かな?
とりあえず、質問はしてみた。
「あなた、サラダになるの?」
「そうだ」
「夕飯の?」
「そうじゃない。
我々は皆、サラダボウルに入るべきなんだ」
「私、サラダボウルよりお風呂に入りたい」
「君がそろそろ帰ると思って、沸かしておいた」
「ありがとう」
私はゆったり湯船に浸かりながら、夫が半透明ヘルメットならぬサラダボウルをかぶった理由を考えてみた。
夫の奇行には意味がある。ものすごく高等ななぞなぞみたいだ。
シャンプーしながら延々考えたがわからない。
私は人間サラダを食べたくないし、彼だってそうなる気はないと思う。
「お風呂上がったよー。夕飯にしようか。
って、まだかぶってる」
パジャマ姿でリビングに行くと、ソファのいつもの場所に夫は座っていた。
首、痛くないかしら。
「サラダにならなければいけないんだ」
また言っている。
私は、うつむき加減の夫の頭から、サラダボウルを取り上げた。
実際にかぶってみた。やっぱり重い。深いから安定感があるかと思ったけど、内側が滑るので重心のバランスが要る。
これは思ったより、かぶるだけで高等技術では?
私はサラダボウルをかぶったまま、落ちないよう手で支えながら夫に聞いてみた。
「これで、私もサラダ?」
「君は元々サラダなんだよ。
心が広くて、柔軟性があって、僕の理論をいつも聞いてくれて。
君は多様性の世界を歩いている」
「あ、やっとわかった」
なぞなぞが解けた。
今回は難易度が高かった。
私は夫にサラダボウルを返した。夫はすかさず、またかぶった。
私の仕事は通訳だ。
夫はこう見えて、世界的な研究者だ。
彼の英語発音は下手くそなので、私が通訳しているうちに専属になり、そんなこんなで結婚した。
「また、海外の研究者さんにいじめられたのね?」
「みんなサラダボウルに入るべきなんだ!!」
『サラダボウル』。
この言葉にはスラングの意味がある。
野菜を人種にたとえた言葉。多くの人種が混ざりあっても、それぞれの個性を大切にする。肯定的な多様性の意味だ。
さすがに、この奇行からスラングまではすぐに思い付かなかった。
日本人の夫は、身長が小さくて地味で、性格も強く出られない。
同じテーマで研究している相手から、そこそこ直球で悪口を言われることがある。
夫はとても優れている。だから、嫉妬ややっかみがあるのだろう。
日本人が差別されやすいのもあるだろう。
「圭さん。
サラダボウルをかぶらなくても大丈夫よ。あなたの個性は、サラダの中でとびきり輝いているわ」
「……サラダの野菜なら、僕は何?」
酷いことを言われたのだろう。しょげしょげの夫のサラダボウルを顔へずらして、私はガラス越しに夫にキスをした。
夫は赤くなって、サラダボウルごと顔を押さえた。
「野菜の中で、サラダのメインに乗っかったローストビーフかな」
「君の好きな食べ物だね」
「そうよ。世界で一番好きなローストビーフ」
夫は顔を覆ったままなので、今度は手の甲にキスをしてみた。
夫は驚いたようで、手を離してしまった。
落っこちたサラダボウル(強化ガラス万歳、割れてない)が足の甲に直撃したらしく、声もなくぴょんぴょん跳ねている研究者の変わり者。
そんな彼が、私は大好きだ。
彼がサラダボウルをかぶるなら、私も試しに、一緒にかぶってみるくらいにはね。
夫とサラダボウル 優夢 @yurayurahituji
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