のらいぬ

秋犬

「きっと帰るよ」

 雨がぽつぽつと降り始めた。おれは枝の間から空を見上げ、途方に暮れる。


 街のはずれの林の中にある、木が連なった天然の隠れ家がおれの住処だった。ここにいれば雨に濡れないが、飯を取りに行くことができない。


 生まれたときは共に生まれた兄弟たちと過ごしていた気がする。しばらくおれたち兄弟は、力を合わせて生き延びた。ところが気がつけば、おれと一緒にいる奴はいなくなっていた。いなくなった奴のことを構っているほど暇ではない。おれはおれで生き延びなくてはならない。


「お、先客か。邪魔するぜ」


 不意に声をかけられて、おれは驚いた。おれの目の前に、知らない奴が現れた。追い払おうかと思ったが、おれより大きい奴におれはビビってしまった。その隙に、そいつはおれの住処に潜り込んできた。


「ちょっとだけ雨宿りさせてくれよ」


 おれはそいつをよく見た。先ほどは驚いてしまったが、貧相な体つきでちょっと吠えれば簡単に倒せそうだ。


「おっと、ただで雨宿りしようなんて思ってないさ。一宿の恩義、って奴だ」


 そう言うと、そいつは何か美味そうなものを取り出した。そして半分にしておれの前に置いた。どうやらおれにくれるらしい。


「弁当の半分くれてやるんだ、有り難く思えよ」


 ほう、これは「ベントウ」というものなのか。おれはついぞこんな美味いものを食ったことがなかった。おれはそいつがもっと美味いものをくれるのかと期待したが、そいつは半分にした「ベントウ」を食ってしまったようだった。


「悪いな、もうないよ」


 おれはがっかりした。雨の音が強くなった気がした。


「でもそんなに気に入ったなら、また持ってきてやるさ。ここ、お前が見つけたのか?」


 そいつはおれにずっと何か語りかけてきた。おれは返事をする義理などないから、雨が止むまでそいつを放っておくことにした。


「なんだよ、つれないな。どうせ俺は犬にもそっぽを向かれるんだ」


 それでも、そいつはおれに話しかけてきた。親はなく親戚の家を転々としてきたこと。最近は戦争が続いていて不景気で食事が減らされていること。せめて木の実やキノコでも採ってこようと林をうろついていること。さっき食べたものは、そいつの一日分の食事だったこと。


 自分も腹が減っているのに、おれのようなものに食べ物を恵むなんておれは馬鹿げていると思った。こいつは馬鹿なのだろう。


「何でだろうなあ、俺って不器用なのかな。死んじまったほうがいいのかな」


 やはりこいつは馬鹿だ。美味いものをくれる奴が死んでいいはずないだろう。おれはそいつが死なないように、少しだけ側に寄った。


「……雨、早く止むといいな」


 雨は夕方になるまで止まなかった。少し冷たい風が吹いてきたが、おれは誰かといるってことがとても温かいのだと初めて知った。


***


 それから折に触れて、そいつは住処に現れた。ベントウをおれにくれて、何かを喋って帰って行く。俺はただ黙ってベントウを食って、そいつの話を聞いた。いろんなことを喋る奴だった。誰も見たことがない動物の話や行ったことのない場所の話。そいつは「どうせデタラメなんだけど」とよく言っていたが、デタラメでも喋ることがあるのはすごいことだとおれは思う。


 おれはそいつに比べて何も考えていなかった。生きるのに考えることなんかいらないと思っていたのに、どうしてこいつはそんなに嬉しそうに語るのだろう。おれと同じくいつも腹を空かせているはずなのに、楽しそうなそいつがおれは羨ましかった。


 ある日、そいつが顔を腫らして来たことがあった。そのときはベントウはもらえず、ただ黙ってそいつは座り込んでいた。おれはそいつに触って、住処の中へ入れてやった。きっと敵に襲われたのだろう。それでおれに助けを求めに来たんだ。俺の縄張りの中なら、おれは守ってやるから、安心しろ。おれはそう言ってやった。


 そうして、おれはそいつを仲間だと思うようになった。


***


 もうじき冬になるという頃、そいつは息を切らして現れた。


「聞いてくれよワン公!」


 そして、おれの前に何かを紙を広げて見せた。


「召集令状だ! 俺に兵隊になれってさ! これで国の役に立てるんだ! どうだ、すごいだろう!」


 おれはそいつが喜んでいるので「ワン」と答えてやった。


「兵隊になったら、たくさん手柄を立てて出世してお前を迎えに来てやる。そして将校様の愛犬としてたらふくいいもん食わせてやる。俺を馬鹿にした奴らもぎゃふんと言わせてやるんだ!」


 おれにはそいつが何を言っているのかよくわからなかったが、それほどその紙は素晴らしいものなのだろう。


「そういうことだから、じゃあなワン公。俺はお前のことを忘れないぞ。きっと帰るからな」


 そいつはとびきり美味いベントウをくれた。そしておれの頭を何べんも撫でて、おれの前からいなくなった。


 おれはまたすぐそいつが来るだろうと思った。冬が来て春が来て、夏が来てもそいつは来なかった。雨が降る日も風が吹く日も待っていたが、帰ってこなかった。


 それから何回か季節が巡る間、火事や騒ぎが増えた。ようやく元の賑わいが戻ったある寒い風が吹く頃、おれはそいつがもう二度と来ないのではないだろうかということに思い当たった。あんなに嬉しそうだったのに、もう会えないのか。そう思うと、おれの心まで寒くなるような気分だった。


 おれは住処の中で丸くなった。そいつのいない場所がやけに広く感じられた。


〈了〉

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のらいぬ 秋犬 @Anoni

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