空色アンチテーゼ

御村いす

アカネ

 教室って、水槽に似てると思う。

 狭い箱庭に机や椅子をぎゅうぎゅうに押し込んで、鞄や体操服もあふれるまで詰め込んで。隅で静かに本を読みたい子もいれば、休み時間ごとに外に飛び出してボールを投げる子だっているのに、全部ひとまとめに蓋を閉じられて、まるで金魚鉢に無理やり詰め込まれたみたい。息苦しくて仕方がない。

 この感覚、お祭りで金魚を捕りすぎて、おばあちゃんから貰った金魚鉢に入らなくなるときに似てるかも。おじちゃんは「オマケだよ」ってたくさんくれるけど、金魚って何匹もいると気持ち悪いし、お母さんにも叱られるし。はじめはきちんとお世話するのに、途中で面倒になって弟に押し付ける、あの気持ち。

 三十人の子供がいる教室が七つもあれば、先生に手が回らないのはわかっている。教師はブラックだって有名だし、先生の目の下の隈も痛々しいくらいだ。でも、それでも──少しくらい、話を聞いてくれてもいいんじゃないの、って思ってしまう。

 だって、普通の中学生みたいに過ごせていたら、毎日泣きながら学校に通うことなんて、きっとなかったのだから。


□□□


 あたしだって、どうしてこうなったのかわからない。

 緊張して話せないわけじゃないし、不潔なわけでもない。アニメも観るし、K-POPだって聴く。二年に上がるまでは、ずっとクラスの真ん中にいた。体育祭の実行委員も、学級委員長もやった。勉強は得意じゃなかったけど、赤点は取らなかったし、きちんと平均くらいは取れていた。もちろん友達だって居た。

 なのに学年が上がった途端、すべてが変わってしまった。

 親友だと言ってくれた子は別の親友を作って、あたしを笑った。「ひとりぼっちでかわいそー」って。クラスが分かれただけなのに、どうしてそんなふうに言うの?

 中学生は箸が転がるだけでも笑うって言うけど、本当かもしれない。だって、あたしが廊下を歩くだけでも、給食を食べるだけでも、掃除をしているだけでも──笑い声が飛んでくるんだから。


 きっとこれは、ただのハズレくじ。

 去年みたいに学級委員長も体育祭の実行委員もやりたかったけど、今のあたしには無理だった。シロクマみたいに堂々としていたあの頃に比べて、今のあたしはプランクトン。目にもとまらない、ちっぽけな存在。

 生き物係だって、そうだ。中学生にもなってそんな役割を任されるなんて聞いたことがない。金魚の世話は代わりがいないから、テスト期間だって休めない。水替えも餌やりも全部ひとり。やらなきゃいけないことが多すぎて煩わしいのに、放り出せない自分が嫌だった。

「お前はいいね。口をパクパクしてるだけで、全部世話してもらえるんだから」

 かつん、と水槽を軽く叩くと、アカネはくるりと向きを変え、まるであたしを笑うみたいに口を動かす。真っ赤だから「アカネ」と名づけた。安直すぎるけど、それでよかった。この憂鬱な日々を耐えるには、それくらいの小さな楽しみが必要だったから。

「ぷっ。あたし優しいから、許してあげる」

 前に、なんかのテレビ番組で見たことがあるけれど、動物って、世話を焼いてくれる相手に懐くんだって。そのときは「うっそだー」って、液晶と睨めっこをしたけれど、あながち間違いじゃないのかもしれない。

 ふと顔を上げると、雲の隙間から顔を出した夕陽が瞼の奥を照らしつけた。下校の時にカーテンを開いてそのままだったなぁって、今になって思い出す。ずっと暗い場所にいたから、目が慣れていないのかな。燦々と揺れるオレンジ色の光が、なんだかやけに眩しく感じた。


□□□


いつもどおり。そう、いつもどおりだ。

 授業が終わると同時に、あたしは教室を出る。みんなが帰った後でも良かったけれど、机に腰掛けて長々おしゃべりする女子たちに目をつけられたくなくて、鞄も上着もそのままに、ちいさな金魚鉢だけを胸に抱いて、教室からそう遠くない女子トイレに向かった。「一匹しか居ないならこれでいいよね」と、半ば強引に明け渡された金魚鉢の掃除をすることも、いつしか私の日課となっていた。

「うわ。サイアクー」

「生臭いしきもーい」

 すぐ後ろで、そう笑う森下さんたちの声が聞こえる。

「ごめん。もう終わるから」

 胃のあたりがずうんと重たくなって、足がすくむ。耳を塞ぎたくても塞ぐことなんてできなくて、キンキンと喚く彼女たちの声は、すぐ側にまで近づいていた。

 どうせ、来るってわかってたのに。「ぶつかるよ」とか「濡れちゃうよ」って言えたら違ったのかな。

 破裂音にも似た大きな音が響くまで、あたしは彼女の顔を見ることができなかった。

「あ、ごめーん!ぶつかっちゃったー」

「ちょっと酷いよー!西原さん濡れちゃってるじゃーん」

 ひどいって言うなら、ハンカチの一つくらい貸してくれたっていいじゃん。あたし、ポッケに入ってるハンカチもティッシュも、ダメになっちゃったのに。

 唖然として辺りを見回すけれど、廊下を歩く同級生たちは見て見ぬふりをして、まるであたしがいなくなっちゃったみたいに、いつも通り笑ってみせた。

 森下さんはタイミングよく響いたチャイムに向かって、わざとらしく「私今から塾だしー」とか、「ママが迎えに来てるから、ごめんねー」って、クスクス惨めったく笑って、あたしをその場に置いてきぼりにした。

 ピチピチと尾を叩いていたアカネが、活気を失って動かなくなっていく姿とか、水を含んだブラウスが肌にまとわりつく感触だとか。どうにかしないといけないのに、どうすることもできなくて。頭の中が空っぽになっちゃったみたいに、あたしはただ呆然とそこに立ち尽くすことしかできなかった。


 それからのことは、もう思い出したくない。

 誰も助けてくれない。声をかけても、見て見ぬふりをされるだけだった。きっと誰かが声をかけてくれる。「大丈夫?」「手伝うよ」って、話しかけてくれると思っていたのに、現実はそう甘くなかった。

 誰もいない三階の女子トイレは、嘘みたいに静かで冷たい空気に満ちていた。頭の中だけが妙に冷静で、掃除用具入れから雑巾をいくつも取り出して、水溜まりを拭いた。硝子の欠片で指先が切れても、不思議と痛みは感じなかった。ビニール袋にアカネをそっと入れて、酸素を奪わないよう慎重に口を結ぶ。濡れたスカートの感触も構わず、あたしはただ、走り出した。


 走っても走っても、足元のアスファルトが擦れる音ばかりが響いて、胸の奥が潰れそうに痛かった。

「待って、アカネ。もうすぐだから」

 そう言い聞かせるように袋を抱きしめても、中で揺れる赤い影は小さく震えるだけだった。どこへ向かっているのかもわからない。ただ、きれいな水を探さなきゃって、それだけで必死に足を動かしていた。

 でも、やがて気づく。袋の中で赤は静かに沈んで、尾も揺れなくなっていることに。

 呼吸が止まったみたいに、景色から音が消えた。

 誰もいない校舎裏で立ち尽くしながら、あたしはただ、袋を見つめるしかできなかった。

──やっぱり、金魚鉢の中で苦しかったのは、アカネだけじゃない。

 ずっと窮屈で、ずっと息苦しくて。

 本当は、あたし自身が、一番助けを必要としていたんだ。

 それでも誰も手を差し伸べてくれなくて。

 残ったのは、しぼんでいく袋の中の赤と、濡れた制服の重たさだけだった。


□□□


 翌日。

 教室では、昨日と変わらず笑い声が響いていた。

 誰も知らない。アカネがいなくなったことも、あたしが泣きながら走ったことも。

「ねえ聞いた?」

「やばくない?」

 甲高い声が飛び交うたび、耳の奥がきんきんして、吐き気が込み上げた。

 もう、あの笑い声に耐えることすらできなくなっていた。

 気がついたら、教室の扉を開けることもできず、足は校門から遠ざかっていた。

 背中にまとわりつく笑い声は、もう二度と届かないはずなのに、いつまでも耳の奥で鳴り響いていた。

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