0のハートが鼓動する
ユフカ
0のハートが鼓動する
「タクミー? どうしたのさ、青ざめちゃって」
スマートフォンを持ったまま凍り付いた俺をいつもと同じ口調で呼び、顔を覗き込もうとするレイちゃん。その綺麗なブロンドの髪が視界に映りこんだとき、俺は今までのように彼女と話すことができない、と思った。
初めてレイちゃんと出会った日のことは、はっきりと覚えている。
俺の親は共働きで、俺がまだ寝ているうちに家を出て、一人で夕飯を食べて寝入った頃に帰ってきた。まだ二人とも働き盛りで、一人でも問題なく過ごせる程度の分別がついてきた俺に構っていられるほど暇じゃない、ということは当時からよくわかっていた。
そのくらいの年の子どもは、家で喋る機会がない分外でたくさん話すわけでもない。むしろ逆だ。自発的にコミュニケーションをとる方法がわからないから、どんどん意識が内向きになる。こんな持論を挟んでいる時点でお察しの通り、俺は入ったばかりの小学校ですでにのけ者になっていた。
――いじめ、と言うほどではない。少しだけ残酷な幼い団結心に徹底的に排除されて、泣きながら帰った日があった。うつむきながら背負うランドセルがいつもより重く、家までの道のりがずっと続くような気がした。
家に帰ってもどうせ誰もいない。親が帰ったころには、きっとこの涙の跡も消えて見えなくなっているだろう。それを思うと無性に寂しくて、収まってきていたはずの涙が再び流れ始めた。鼻水も出てきた。立ち止まって、ぐちゃぐちゃの顔を拭うためのティッシュを探す。ポケットを探ったが見つからない。そういえば、今日の朝は寝坊して慌ててたから、そもそも持ってきてないのかもしれない。諦めて顔を上げる、と――
目の前で、金色の髪のお姉さんがこちらを見下ろしていたのだ。
「タクミ」
俺の名前を呼んで、手を差し伸べてくる。急な出来事に戸惑い後ずさったが、それに合わせてお姉さんも一歩こちらに踏み出し、両手で鼻水まみれの俺の顔を包み込んだ。そしてもう一度タクミだ、と確認するように呟き、指で俺の涙をすっ、と拭ってくれた。これが、レイちゃんとの出会いだった。
俺は相当酷い顔をしていたはずだ。泣いたせいで目が腫れて、きっと顔も真っ赤だった。両親が先に写真を登録していたとはいえ、よく俺を認識できたと思う。
――自立型コミュニケーションアンドロイドCC-19。それがレイちゃんの正式名称だ。十年ほど前に生産停止した古い機体である。親も一応、たった一人の息子に構ってやれていないことを気にかけていたらしい。知らない間に発注し、勤務先かどこかで受けとり、俺が寝ている間に登録まで済ませたのだろう。夜から充電し始めて、昼頃にはバッテリーが満タンになり勝手に起動したレイちゃんは、お世話するべき「タクミ」がどこにもいないことがどうにも気になって外で俺を探していたに違いなかった。
一つ説明しておくと、同じ型のアンドロイド――例えばCC-19でも、性別や外見は異なるし、もちろん性格も全く違う。当たり前だ。彼らは一人一人が感情を持ち、思いやりを持ち、〈心〉を持っているのだから。
二十年ほど前にとある科学者によって〈心〉が開発され、取り付け義務が課されてから、〈心〉のないアンドロイドなんてそもそもどこにも売っていないはずである。
いつまでも顔を上げない俺をレイちゃんが不思議そうに見つめている気配がする。やがてレイちゃんは、右手に握りこんでいたスマートフォンの画面をのぞき込もうとして、頭をこちらに近づけてきた。
咄嗟に電源を切る。レイちゃんが「え」と驚きの声を漏らした。
「ホントにどうしたの」
初めて視線を合わせた。顔の角度は変えないままだ。高いと思っていたレイちゃんの背は中学生のときに越してしまったし、十五歳くらいの見た目のレイちゃんは、こないだハタチになった俺にとってもうお姉さんでもなんでもなくなってしまった。
「まさか、彼女に振られちゃったり。あっ、そもそも彼女いないかぁ。ちっちゃい頃から恥ずかしがり屋さんだったから、とてもねぇ」
「うるさいよ」
ぴょこぴょこはねて軽口を叩く。そのテンションはずっと変わらないけど、わかる。確かに、レイちゃんは俺のことを心配してくれているのだ。
さっきのは、見なかったことにしよう、と思った。
畳の上で横になって買い貯めていた本をめくっているうちに夕方になり、晩飯を作ろうと上体を起こしたとき、レイちゃんが唐突に「散歩に行きたい」と言い出した。この近くを流れている川沿いの土手を歩きたいのだと。飯の後に行こう、と言いかけてやめた。レイちゃんは食事中にテレビを付けるのを嫌がる。しかし、今は安アパートの静寂の中で、二人で食事(うち一人は充電)をすることが何となく億劫だった。それよりは、外で風に当たりながらコンビニのおにぎりでも食べた方がいい気がする。レイちゃんの充電は夜だってできるのだから。
ダイニングの椅子に掛けてあった薄手のコートを羽織り、家を出た。秋のひんやりとした空気が辺りを包む。薄闇の中で後ろから聞こえてくる微かな機械音。これさえあれば、いつも、何も心配はいらなかったのだ。小学校高学年になるにつれ人との付き合い方をある程度覚え、俺は次第にレイちゃんと出会った当初のような「ぼっち」ではなくなっていった。それでも、心の奥で息を潜めている孤独感、渇き、のようなものが時折顔を覗かせる。そんなとき、レイちゃんは胸のハッチを指し示し、低いエンジンの唸りを聴かせてくれる。ハッチの中にある〈心〉と、タクミの心が繋がっているよ、と。
外にレイちゃんを待たせ、近くのコンビニで鮭とツナマヨおにぎり、麦茶のペットボトルを調達した。お待たせ、と言ってから歩道を歩き始める。
見慣れた道は、意識しないうちに俺たちを土手まで導いていた。河原一面に可憐な白い花が群生し、数匹のトンボが上を旋回している。今までに何回も来たことのあるこの場所が、不意に懐かしく感じられた。
「綺麗」
感極まったようにつぶやく声が聞こえる。レイちゃんはこの土手が好きなのだ。特に秋の、トンボが飛び回るこの季節の土手が。俺は、確認するようにつぶやき返す。
「本当に?」
「うん、本当に、綺麗」
見開かれたレイちゃんの青い目は澄んでいて美しい。この美しさを、二人で心を通わせる柔らかな時間のあたたかさを、俺はずっと前から知っている。
――だから、考えたくなかった。
レイちゃんの〈心〉が、「嘘」だったかもしれない、なんて。
テレビを付ける。記者会見の様子が映し出された。表示される「CC-19」の文字を捉え、慌てて電源を消した。レイちゃんの方を振り返る。充電中であることを表すマークが点滅しているのに気をとられ、特にこちらを見てはいないようだった。
午後十一時きっかりに、レイちゃんはバッテリースタンドの中で寝てしまう。その瞼が完全に落ち切るのを見届けて、少し迷ってから、再びリモコンに手を伸ばした。テレビの電源を付けると再び記者会見の様子が映し出される。一日中この場面ばかりを繰り返しているのだろう。
(全体の約半分の機体に〈心〉を取り付けていないことを知っていながら、見過ごしていたんですね? )
(AI倫理に反していることについては、どうお考えだったんですか! )
記者の怒号が飛び交う。会見のダイジェストが終わると画面が切り替わり、「CC-19の半分が欠陥品 内部告発により判明か」のテロップが表示された。逃げるように視線をテレビ画面から滑らせる。目の前のローテーブルに置きっぱなしにしていた今日の夕刊にも、「欠陥品」の文字。それを咄嗟に鷲掴みにした。そのまま振りかぶり、テーブルに叩きつけようとする。しかし、大きな音を立てたら、レイちゃんがびっくりして起きてしまうかもしれない。無意味な思考が頭を滑る。アンドロイドは感覚器官含むほとんどの回路をオフにしてスリープモードに入るのだから、大きい音なんかで起きるわけじゃないのに。
上げた手を静かに下ろし、ため息をついた。
今までに入ってきた情報を自分に当てはめて整理すると、こういうことになる。全てのアンドロイドが持っているはずの〈心〉を、レイちゃんが、持っていないかもしれない。もしかしたら、あたたかい感情や喜びや悲しみなど持ち合わせておらず、ただ前後の情報に合わせて最適な反応を探し、動いているだけなのかもしれない。
もちろん確定事項ではない。〈心〉のある機体は約五割。本当はその五割にしがみついて安心してしまいたかった。そもそもこの事実を知らないふりをしてもよかった。しかし、胸のハッチを空けて、後ろに重なっている一般人には取ることのできない覆いを外し、コードの奥にひんやりとした空白を見つけてしまう――繰り返し脳内に浮かんでくるそのイメージが、もう、見ないふりなどできない、ということを告げていたのだ。
企業はCC-19の所有者のうち、希望者全員の機体に〈心〉があるかどうかの診断を実施し、万が一無い場合には補償措置を取ることを発表したらしい。俺のスマートフォンは正午に大学の食堂でそのニュースを受信した。生産台数もそこまで多くなく、十年も前に生産停止した機体だ。あれ程世間を騒がせていたその話題も下火になり、今ニュースを追っているのはCC-19の所有者か会社の株主ぐらいなものだろう。
食堂は学生でごった返している。やがて人混みの中から、俺と同じ一番安い鯖の定食を注文した堂本がお盆を持ってこちらにやって来るのが見えた。スマートフォンをロックして画面を下向きに置き、ペットボトルに残っていたお茶を一口飲んだ。
レイちゃんに心があるかどうか、確認できる。確認するということは――確定してしまうということなのだ。思考が行き詰まってショートする。
「おい、無視すんなよ」
我に返り、声のした方を見る。お盆を置き、椅子にリュックサックと上着を載せた状態で堂本が俺を見下ろしていた。
「ちょっとトイレ行って来るから、荷物見といてくれって言ったんだよ。最近お前、ずっとそんな感じじゃないか?」
返す言葉が見つからずに黙っていると、堂本がさらに言葉を続けた。
「心ここにあらずっていうか、思い詰めてる感じ? なんか気になってんなら言えよ」
同じゼミの堂本は一年の時から俺のことをよく気にかけてくれている。彼の真剣な目を見て、少し迷いながら口を開いた。
「……〈心〉がないアンドロイドって、どう思うか」
「いや、アンドロイドには〈心〉があるのが当たり前だろ……ってわけにもいかなくなったんだよな、この前のニュースで。虚しいよな。ずっと使ってたアンドロイドに心がなかったら、今まで一緒にいた日々が空っぽだったようなもんじゃないか」
心の中をひゅ、と冷たい風が吹き抜ける気がした。
「空っぽ」
「だってさ、〈心〉がなかったらただの物なわけじゃん。だから、孤独の中でずっとそのアンドロイドを心の支えにしてきたやつにとっちゃ悲劇だよな。そいつは本当は、最初から最後まで一人ぼっちだった、ってことがわかっちまうんだから」
堂本はそこで話すのをやめた。
「……お前、大丈夫か? おい、まさか……」
俺は立ち上がろうとしていた。膝が震えてうまく立てない。横にあった携帯を引っ掴んで乱暴にリュックに放り込む。一刻も早くここから立ち去りたかった。
「俺の分の定食、食べていいよ」
俺と同じぐらい動揺している堂本にそう言い捨て、歩き出した。長細いテーブルの間を歩く時、ふらついて何度も体をぶつけてしまった。
食堂を出て、早足になる。汗が全身を伝っている。どこへ行こうとしているのだろう。検索し尽くしたインターネットには、もう救いがないことがわかっている。それでも今、縋り付く言葉が欲しかった。エレベーターが来るのを待っていられなくて、右手にある階段を駆け降りる。一階の自動ドアを抜けて並木道を過ぎた。
十五分ぐらい走り続けた自分の足が辿り着いたのは、大学から一番近い書店だった。息を切らして駆け込むと、ドアと反対方向を向いているカウンターから店員が怪訝そうに顔を向けてきた。絡みつく視線を振り切り、店内を見渡す。なんでもいい。何か、少しでも助けになりそうなものはないのか。新書コーナーに足を向ける。アンドロイド、の文字に目を止めて、片っ端から本を開いていく。
(二足歩行型アンドロイドの重心の位置)
違う。
(機械を子守に使う、よく考えてみれば狂気の沙汰です)
うるさい、もう遅いのだ。
(写真一 アンドロイドと抱き合う男児〉
小さなアンドロイドが、もっと小さな男の子の肩に優しく腕を回している。こんな光景を覚えている。
(幼い私の涙を拭ってくれた、彼の指の感触を覚えています)
そう、つるっとしたレイちゃんの華奢な指は下瞼に触れて、横にすっ、と滑るのだ。
(その、とてもあたたかな思い出が、私を形作ってきました)
走馬灯のように頭を駆け巡る日々の全てに、レイちゃんがいた。
(大好きです。今も)
そっと頷いた。
(だから――、)
だから。
(怖かったのです)
気付けば、頬を一筋の涙が伝っていた。
わかっていたはずだったのに。堂本の言葉が反響する。一緒にいた日々は空っぽだった。最初から最後まで一人ぼっちだった。 俺が、一番怖いのはそれだったんだ。怖くて怖くて、たまらないんだ。
文章は、だから〈心〉を作ったのだ、というふうに続いていく。アンドロイドと過ごした日々を否定することのないように。原始的な〈心〉を一番最初に考案し、すべての機体に取付義務を課した科学者の自伝を閉じて、棚に戻した。
今までずっと、レイちゃんに心がある、と当然のように思っていた。彼女が笑ってくれるのが嬉しかった。他の誰が俺を嫌っても、レイちゃんだけはそばにいてくれるから、安心して生きていられた。でも。俺は本当は、ずっと一人だったんだろうか。二人で一緒に生きていると思っていたのは俺だけで、本当は周りには誰もいなかったんだろうか。それを考えることが怖くて、確かめるのはもっと怖いのだ。
少し瞬きしただけで、抑えていた涙が溢れ出した。
ぼやけた目で外を見る。書店に入ってから、長い時間が経っていた。空はいつの間にか暗くなっている。他の客に、店員に、顔を見られないように俯いて早足で歩く。磨き上げられたベージュの床に、ぽた、と涙が落ちた。誰も見ないように自動ドアの前まで歩き、ドアが静かに開く音を聞く。足を一歩踏み出して、そこで初めて顔を上げた。
――涙で視界がぼやけていても、一瞬でわかるシルエット。
目の前に立っていたのは、レイちゃんだった。
「タクミ」
この上なくゆっくりと、優しい一歩を俺に向かって踏み出して、手を伸ばす。指先で下瞼に触れて、す、と涙を拭う。
なにをしていたの。
なんで泣いてるの。
何も聞かずに、そっと俺の顔を包み込む。
レイちゃんのエンジン音だけが響く静かな暗闇の中を、俺は幼い頃のように泣きじゃくりながら、彼女に手を引かれて家に帰った。
実家から持ってきた錆びたやかんでお湯を沸かし、帰りがけにスーパーで買ったコーヒーを淹れる。白い湯気がコップから立ちのぼり、息を吹きかけるとふわっと揺らめく。火傷しないように一口飲み、コップをダイニングテーブルに置いた。左腕を確認する。二十三時十五分。約束の時間まで、あと少し。
昨夜、家に帰ったあと、俺が賞味期限切れのインスタントラーメンを食べている間もレイちゃんは俺の顔を見つめていた。どんな小さな表情の揺れも見逃さない、というように。そして時折、とっくに泣き止んだ俺をあやすように昔の思い出を語った。途切れがちに聞こえる言葉が静かな歌のようで心地よかった。本当はその声を聞きながら眠ってしまいたかったし、レイちゃんも俺を寝かせてしまうつもりだったのだろう。けれど、俺は起きていた。眠ったふりで彼女を安心させ、彼女が二十三時に眠りに落ちてしまうのを確かめてから、スマートフォンを手に取った。
レイちゃんの仕草を見て、あたたかさを感じる。今まで過ごしてきた日々には意味がある、と思う。それを無条件に信じるべきだ、とも。それでも彼女に〈心〉があるかどうか気になってしまうのは俺の弱さだ。レイちゃんの顔を見るたびに小さな棘が刺さるようで、彼女と向き合うことができない。
もう、そういうのは終わりにしよう、と思った。
レイちゃんはきっとそんなこと気にしないだろうけど、彼女が完全にスリープモードに入るのを確認してからそっと通話アプリを開いた。企業のホームページに乗っている通りに番号を一つずつ入れていき、発信ボタンを押して――次の日、つまり今日、ついに彼女の胸のハッチを開くことになったのだ。
二十三時三十分になって、インターホンが鳴った。ドアを開くと同時に、冷たい外気が流れ込んでくる。ボアジャケットのジッパーを一番上まで引き上げながら、入ってください、と言った。
失礼します、と会釈をして靴を脱ぐ男の後ろに回り、風で押し流されそうになるドアを引き戻す。
「こんな夜更けに、わざわざ来ていただいてすみません」
「いえいえ、そんな。全ての責任はわたくしどもにありますから。誠に申し訳ありません」
深々と頭を下げられて、どうすればいいかわからなくなってしまう。わざわざ家まで出向いて調査をし、所有者に直接対応しなければならない彼が、今まで何かを知っていたわけでもないだろうに。行くところによっては非難されたり、罵声を浴びせられたりするのかもしれない。
「では、早速拝見してもよろしいでしょうか」
なにも言えずに立ち竦んでいた俺は男に促されて慌てて部屋に入り、レイちゃんが眠るバッテリースタンドを指し示した。
失礼します、と言って男はそっとレイちゃんに近づき、背骨あたりの小さなくぼみに収まっているボタンをカチリと奥まで押し込んだ。待機中であることを表す腕のライトが消える。主電源が落ちたのだ。スタンドからプラグを引き抜き、男の指示で側面を支えながら仰向けに寝かせた。眉間にかかっていたブロンドの前髪がはらりと落ちて、白い額が見える。電源を落として横たわっているレイちゃんはいつもより冷たく、呼びかけてももう一生返事をしてくれないような気がした。
レイちゃんを挟んで向かい側に座っている男が、膝の近くに置いてある金属製の工具箱を開ける。そこから取り出したドライバーを胸のハッチの下の四隅のネジに当てがい、くるくる回して全て外した。その下にもまだ何層もの覆いが重なっており、男は懐中電灯やスパナを動員しつつ、一つずつそれを取り外していく。たくさんの配線や基盤を傷つけないように奥へと分け入っていく男の手はやがて、コツ、という音を立てて止まった。
「この小さいカバーの下に〈心〉があるはずなのです、本来は。今からこれを外します」
ドライバーが指し示す先に目を凝らすと、周りのほとんど全ての配線がその下に集約されている、小さなカバーがあるのが見えた。
カバーを留めている小さなネジを回す男の慎重な手つきを、息を止めて見つめる。一つ、二つ。三つ。ついに最後のネジが外され、男の指がカバーに掛かった。少し持ち上げて横にずらすその一瞬、全ての時間が止まっているような気がした。
レイちゃんの左胸部、何層ものカバーの下の、本来なら真っ赤な心臓が収まっているはずの場所には――、
ぽっかりと空いた、空洞があった。
息を吐いた。
目の前の男が、気遣わしげな眼差しでこちらを見ている。
正しく言えば、カバーの下は完全な空洞ではなかった。ただ、集約された配線が何の役割があるとも思えない薄っぺらい基盤に接続されているだけだった。
それでも。今まで彼女と過ごしてきた日々は本物で、これからもまた同じように続いていくだけだ。これで、いいのだと思う。
「……電話口でも一度説明があったとは思いますが、再度補償説明に入らせていただきます」
しばらくの沈黙の後、男は静かにそう切り出した。
「〈心〉に接続されていないCC-19をお使いになられた年数×電気代、維持費、その他お客様が被られた様々な心的苦痛を鑑みまして――、そうですね、お客様の場合ですと十二年ですから、六百万円程の補償金を支払わせていただくことになります。お客様には多大なご迷惑をお掛けしてしまいましたことを、今一度心よりお詫び申し上げます」
男は、再び深々と頭を下げた。先ほどよりも深い、直角九十度。俺は今度は狼狽えなかった。補償金は断ろうと思っていた。それでいくら大学生活が豊かになろうとも。俺たちの今までを否定させないために。顔を、上げてください。そう言おうとして息を吸った、そのとき。
男がゆっくりと顔を上げて、
「もしくは」
と言った。もしくは?
「_今、この場で〈心〉をCC-19に取り付けてしまうこともできます。この場合も、補償金は変わらず支払われます」
〈心〉を、レイちゃんに取り付ける? 今から?
男は、工具箱とは別に壁に立てかけていた黒い鞄から、小さな箱を取り出した。蓋を開け、スチロールの緩衝材にくるまれた〈心〉を差し出してくる。
「取り付けて仕舞えば、次にCC-19、いえ、『彼女』が目を覚ました瞬間から、あなたと『彼女』は心を通わせることができる。今度こそ、本当の絆で結ばれることができます」
差し出したままの男の手の上の赤い球体を見た。心臓のような形。
こんなものが、と思う。こんな小さな回路が、今まで過ごしてきた日々の意味を、レイちゃんの存在をまるごと変えてしまおうとするなんて、馬鹿らしい、と言いたい。
でも、それは〈心〉だ。そんな簡単な言葉で片付けられるほど小さな存在じゃないことなんてとっくにわかっていたから、自分はここまで診断を受けることをためらった。
「〈心〉を新しく取り付ける、という選択肢は、診断をしてみて実際に接続されていなかった方のみに提示するようにしているのです。〈心〉に関わる問題はセンシティブですから、あまり公にするとどこのポイントで批判を受けるかわからない。ですから、このタイミングで提示させていただいています」
訥々と語る男の声が脳を上滑りして、何を言っているのかよくわからない。
レイちゃんと、心を通わせることができる。
「皆さん不思議と悩まれるんですよ。何故なんでしょうね。だから、焦ることはありませんよ。実際に〈心〉を取り付けた方の声をご紹介しましょうか」
「いや、いいです」
少し大きな声が出てしまった。自分でもなぜかわからない。男が少し驚いたような顔をした。
「いや……、すみません。〈心〉を取り付けてください」
「わかりました。では作業を始めさせていただきます。少々時間が掛かりますので、お部屋でお休みになっていても構いませんよ」
俺は、部屋に戻らなかった。ぼんやりとした目で、男がレイちゃんに〈心〉を取り付けていくのを眺めていた。
レイちゃんと、心を通わせることができるのだ。
――でも、どうやって?
一時間ほどかかって、男はレイちゃんに〈心〉を取り付け終えた。胸のハッチを閉じて、二人がかりでバッテリースタンドに立てかける。先ほどレイちゃんを寝かせたときよりも、機体がずしりと重く感じられた。再び背骨に触れて主電源をオンにする。
「あとは、普段の起床時間に合わせて自動的に起動しますから、それまでお待ちください。補償金の振り込みに関しては後日ご連絡させていただきます。では」
補償金。そういえば。呼び止める間もなく、男は荷物をまとめ、薄暗い闇の中へ消えた。空は白み始めている。夜が明ければレイちゃんは目を覚ますのだ。
バッテリースタンドで眠る彼女の顔を見つめる。いつものエンジン音すら聞こえてこない静寂の中で一人でいるのが無性に居た堪れず、ダイニングテーブルにかけてあった薄手のコートを羽織り、家を出た。
いや、――正直に言おう。俺は、レイちゃんが目を覚ますのが、怖かったのだ。
レイちゃんから逃げ出した俺は、手当たり次第にそこらを歩き回った。行くところは、今度こそどこにもなかった。土手沿いの白い花。深夜のコンビニ。大学の方まで足を伸ばした。近くの書店はもちろんまだ開いていない。
〈心〉を取り付けたレイちゃんは、どんな顔をして、どんな声で俺に語りかけるのだろう。それはこれまでと違うのか。今まで過ごした日々は、何だったのか。一度掴みかけたその答えは、また遠くへ行ってしまった。
そして俺は今、〈心〉をレイちゃんに取り付けるまではなかった新たな問いを抱えている。
心を持ったレイちゃんは、俺たちのこれまでを許してくれるのだろうか。
全ての夜に、朝が訪れる。
俺たちの夜にも、やがて朝が来た。
始発から数本数えた電車に乗って最寄り駅に戻り、重い足を引きずって家へ向かう。何やら、俺のアパートのある方からざわめきが聞こえる気がした。胸騒ぎがして駆け出す。サイレンが唸っている。
俺の部屋、二〇五室が燃えていた。
俺は燃える自分の部屋をただ見上げていた。
レイちゃんはきっとあの火の中だ。先ほど取り付けた回線に不具合があって、そこから出火したのかもしれない。俺は、心のどこかにほっ、息をついている自分がいることを知っていた。
火が絶え間なく瞬く。パチパチ、パチパチ。煙に混じって黒い燃えかすが立ち昇る。近づかないでください、と消防士が声を張り上げていた。全ては終わり、俺が生きていくこれからの孤独に思いを巡らせようとしたそのとき。炎の中に、人影が映った。
ボロボロに溶けた黒いシルエットは俺に向かって手を差し伸べる。その手はいつものように横にすっと滑り、タクミ、と俺を呼ぶ声が確かに聞こえたような気がした。
今さら。そう思いつつ、愚かで卑怯者の俺の体はその瞬間、――どうしようもなく動き出していたのだ。
***
「〇〇日朝、東京都〇〇区のアパートで火災が発生し、二十代男性一名が救助されて病院に搬送されましたが、消防によりますと男性は意識不明の重体だということです。この男性は火災が発生したあとに火の中に駆け込んだということですが、焼け跡から一体のアンドロイドが見つかったことについて警察は関連性を調べるとともに、火事の詳しい原因を調査しています――」
ある科学者が朝一番にテレビの電源を入れると、おとといから何回か放送されている中継映像が流れ出した。朝からまたこれか、とため息をつきつつ、薄暗い部屋の照明を付ける。
男性の家族への取材で、焼け跡に置いてあったアンドロイドはおそらく昨今話題のCC-19であると推測されている。また、男性には知り合いも少ないらしい。おそらくそのアンドロイドを助け出すために部屋に駆け込んだのだ、という一つの説に誰もが妙な説得力を感じ、ただの火事にしては話題性の高いニュースはSNSで盛んに議論の対象となっていた。
きっとCC-19なら〈心〉がなかったのだろうから、心のないアンドロイドに入れ込んで人生を棒に振った青年が哀れ、とか。
CCって「チャイルドケア」の略でしょ? 成人してこれは流石にキツい、とか。
飛び交わされる意見のほとんどはそんなものである。
不意に、くつくつと笑いが込み上げて来た。
〈心〉がなんだ。子供用だったらなんなのだ。
そもそも無機物と心を通わせることができる、なんていう考え自体が子供じみた幻想だと気づかないのか。馬鹿らしい。
いくらそれらしい機構を作ってみたところで、結局は人間の脳の回路を機械で再現しているだけに過ぎない。それは決して人間が思い描くようなものではないし――思い描くようなものでないということが、そもそも何の意味を持つというのだ。
普段滅多な事で感情を動かさない科学者の中に今沸き上がるのは、ずっと抱え込んできた疑問と、怒り、である。
心のない機械に縋り付くことは、それほどおかしいことだったのだろうか?
火の中に飛び込んだ青年には誰も、アンドロイドが与えてきた以上のものを何一つ与えようとしなかったのに。
科学者は、自分が青年のために怒っているのではないことに気づいていた。
それが「物」に向けられているという理由だけで、自分の愛情を嘲笑い踏み躙ろうとした世間を欺くためだけにかつて考案した、赤い球体。
作業机の上に転がる嘘っぱちの〈心〉を撫でながら、科学者は、意識不明の青年に思いを馳せた。
全ての真実は彼しか知らない。しかしおそらく彼は、孤独な人生で彼の命よりも大切だった、たった一つのものを守ろうとしていたのに違いないだろう――と。
〈0のハートが鼓動する End〉
0のハートが鼓動する ユフカ @yuhuka
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