つみびと

継埜

 僕の弟は、神の愛し子なんだそうだ。

両親が嬉しそうに僕に語った。弟は5歳のときに国から愛し子として認定され、皆にちやほやと構われるようになった。この国では神への信仰心が強く、年に数回あるかないかの神の啓示が絶対的な法となっている。その神が弟を愛し子とするというのだ。愛し子は、神のお気に入りであり幸福を招く。僕は凡人で、弟は愛し子。周囲からの態度の差はあからさまだった。

弟には恭しく接する。弟には会うたびに贈り物をする。弟が何をしても誉める。弟が何をしても怒らない。皆が皆、同じ笑顔を張り付けて弟にゴマをする。ひどく馬鹿らしい光景だった。弟は純粋で単純だからそれを素直に受け取っていたが、それは僕から見れば全部歪んだ下心だった。だけど、僕には一滴の愛情さえ、なかったのだ。歪んでいてもいいから、僕も弟になりたいと何度も思った。弟と僕の関係は兄弟というより、月とすっぽんという言葉がよく似合う。愛されない僕の心はいつでも渇ききっていた。



 そんな僕に、ある日母が言った。

「あの子は選ばれた子なの。だから傷付けては駄目よ。神様がお怒りになるから。」

僕の心にぴきん、とヒビが入った。何が愛し子だ。神の啓示一つで贔屓されてるだけじゃないか。何が選ばれた子だ。僕は選ばれなかった子なのか。あいつには特別な才能や力もないし、容姿が秀でているわけでもない。あいつの何がそんなに良いんだ。僕は認められるために努力をした。それを見もせずに弟ばかりをちやほやする。僕の存在がどうでもよくなるほどあいつは輝いているのか。僕を見てよ、一度でいいから。憎い。弟が疎ましい。負の感情が溜まっていく。窓の外に月が見える。あいつの瞳と同じ色だった。やけに神々しく堂々と輝いていた。そしてまた、ぴきんという音が鳴った。


「あいつなんて、死んでしまえばいいのに。」


 それは口にしてはいけない言葉だった。ふつふつと沸き立つ感情が僕の手を黒く染めた。窓に僕の姿が反射する。そこに僕はいなかった。ソコにいたのは紛れもなく、化物だった。どす黒く全身に生えた獣のような体毛、赤く血走った瞳、鋭く光る牙と爪。僕は化物に成り下がったのだと、どこか他人事のように自覚した。愛し子に悪心を抱く罪深き存在だと、たった今認定された。


 神よ、あなたは無慈悲だ。初めて認識されたと思ったら、なんだ。そんなに弟が大事か?もう赦してはくれないのだろう?僕が気に食わないんだろう?だって、こんなに醜いのだもの。産まれたときから、そうだった。弟ばかりが優先されてきた。僕は所詮、血の繋がったおまけでしかなくて、後回しにしてもいいどうでもいい存在で。それが、なんだ。今じゃあ愛し子どころか、神に認められた罪人だ。僕は一体どこから間違えてしまったのだろう。抜いても、燃しても、この厚い毛は消えない。目に見える罪が僕を苦しめる。


 嗤ってくれ。苦しいんだ。赦されないなら、赦す気もないなら、いっそ僕を自我のない獣にすればよかったものを。なんて酷なことを強いるんだ。神様、あなたはいい趣味をしている。弟には愛情と祝福を。兄の僕には、孤独と呪いを。僕が何をしたと言うんだ。すっぽんの立場で、愛されることを望むことが罪だったのか。たった一滴でも愛を与えることはできないのか。こんなに心が乾いて苦しいのに望むことすら許されないのか。あぁ、そうか。ただでさえ罪深い存在であるのに愛し子を呪った僕は、まぎれもなく大罪人だ。


 誰か、誰か解放してくれ。僕のような化物を野放しにしてはいけない。はやく、はやく。殺してくれ。声が聞こえる。やたらと鬱陶しい声だった。声を振り払おうと必死に走り回る木々の生い茂る森へ入り、枝が突き刺さる。痛くて止まりたいのに、何かに導かれるように僕の足は動いていく。枝が心臓を貫けば良かった。そんな願いは叶わない。やがて僕は、開けた場所に出る。


 そこには、ぞっとするほど美しく神々しい泉があった。家の近くのはずなのに、一度も見たことも、聞いたこともない不気味な泉。足が泉へと動く。美しいはずなのに、本能がその場所を拒否していた。黒々とした毛が逆立ち、血管が浮き出る。一歩、また一歩。泉へと近付いていく。変な汗と震えが止まらない。そして泉の淵。やっと立ち止まったかと思いきや、誰かに背中をとん、と押された。


 それは死刑宣告のようだった。僕はこの瞬間、神の手によってついに罪人へと堕ちた。白くあたたかな、神々しい手によって。その手は僕に差し伸べられることはなく、ただ静かに僕を突き落とした。泉の底へ体が引き寄せられていく。不思議と息は苦しくなかった。ただ心だけはずっとざわめいていた。泉の中で光が揺れる。その揺らめきにそっと触れると強引に泉の外へ引き上げられた。体が軽い。自分の手を見るともとの姿に戻っている。全て夢だったのだと思った。思いたかった。……目の前に、僕がいなければ。


 泉の底に獣が見える。さっきまでの僕の姿だ。身体中に枝が突き刺さり、血が出ている僕であったはずの死体。


 心臓が嫌な音をたてる。これはいったいなんなんだ。こたえは単純ですぐに分かった。僕の体がまた闇に包まれたからだ。再び獣の姿へと成り下がる。正気を失い、発狂しながら身体中に傷をつくりながら走り回る。今度は心臓近くに枝が刺さった。しかし僕の足は止まらない。泉へと誘導され、再び突き落とされる。抵抗すらできなかった。痛い、苦しい、怖い。悲鳴があがる。泉の中へ落ちれば再び人に戻り、殺される。何人もの僕と目があった。逃げたくてたまらないのに、からだはもう僕のものではなくなっていた。まるで決まっていることのように、ただただ何かの業務のように何度も何度も僕は殺された。漠然とした恐怖と、終わりなき地獄。それだけが続く。


 この世の全てを憎んだ。

両親を、周囲の大人を、弟を、そして神を。

心の底から恨み、ないた。


◇◇◇


 今日も永遠のようにながい夜が訪れた。

どこからか獣の慟哭が聴こえる。

それは夜明けを望む僕の声だった。

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