吹き抜け窓の下で、再び
@k-shirakawa
吹き抜け窓の下で、再び ―夕陽の残照に、赦しと再生を重ねて― 完結版(4000文字)
吹き抜け窓から差し込む光は、かつて栄光を照らしていた。東証一部上場大手証券会社の東京本社営業部課長として名刺一枚で人を黙らせ、ビッグサイズのBMWのハンドルを握りながら、他人の成功を嘲笑していた男――それが上野だった。
そして、業績のためなら犯罪ギリギリのことも厭わなかった。いや、相手に知られなければ犯罪に手を染めても構わないとすら思っていたバブル時代を生き抜いた。
それを上野自身は「時代が悪かった」と片づけ、自分の責任とは考えていなかった。だが今、その窓が照らすのは、修繕を待つ木造の家と、過去の亡霊だけだった。
一九五三年生まれの上野は、六十五歳になり、ようやく年金が満額支給されるようになった。預金を切り崩し、家のローンを完済した。だがその支払いは、彼の人生における最後の「敗北」の証でもあった。
あの時、建築費の三分の一の残金を「ありがとうございました」の言葉と共に
高校卒業後、日本を代表する証券会社に入社し、バブルの絶頂期を駆け抜けた。三十八歳で退職し、地元に戻り地場証券会社に転職した上野は、肩書きだけで周囲を黙らせる快感に酔い知れていた。
預金は三千万円。新車のBMW。名刺には「元野崎証券東京本社営業部第一課課長」の肩書き。上野は、自分を成功者だと信じて疑わなかった。
そんな彼の前に、ある夫婦が現れた。妻の高校時代の同級生と、その夫。東京の有名ホテルやレストランで修業を積み、地元で店を開いたばかりだった。貯金はゼロ。車は中古の軽ワゴン。上野は彼らを見下した。
三千万円を言ったらイヤミになる、だから「俺は一千万円持ってる」と言っただけで、彼らは目を丸くした。その反応が、上野の優越感をさらに膨らませた。
だが、時は流れた。レストラン経営者の彼らは誠実に商売を続け、三年半後には二店舗目を開業。会員制レストランも併設した百坪の敷地面積のレストランを経営した。
さらに五年半後には、自社ビルを建てた。銀行の信用を得て、土地を買い、建物を建て、八年後にはローンを完済した。上野が嘲笑していた彼らは、彼の遥か先を悠然と歩いていた。
その事実を知ったのは、証券会社の客である不動産会社の社長からだった。その社長から上野の妻の親友夫婦名義の土地建物の登記事項証明書を見せた。そこには、銀行の抵当権が抹消された印があった。
上野は震えた。体全体が、理由もなく震えた。それは、敗北の震えだった。
上野はレストラン経営の夫婦に紹介してもらった工務店で家を建てた。妻の母が住んでいた土地に、新築の注文住宅だ。田舎では珍しい吹き抜け窓のあるモダンな家だった。
工務店の社長は、紹介ということで多くのサービスをした。だが、上野は守銭奴だった。残金三分の一の支払いを拒み、イチャモンをつけた。紹介者の顔を潰したかった。彼らの成功が、上野には許せなかった。
妻の親友であるレストラン経営者の妻は、何度も頼んできた。「お願い、支払ってあげて」上野は聞かなかった。「何であいつらだけが成功するんだ」と、心の中で叫んでいた。
その頃の上野は、地場証券会社の中で、上司からは鼻持ちならない奴として疎まれ、後輩からも飲み会に誘っても金一封すら出さずに欠席するため、評判は最悪だった。
その結果、県内の支店を一か月おきに転勤させられるという冷遇を受け、「早く辞めろ」と肩を叩かれる始末だった。
ついにレストラン経営者の社長は堪忍袋の緒を切った。自社の顧問弁護士に依頼し、工務店の社長の名を冠した内容証明を上野に送るよう手配した。その頃には、彼のレストランはすでに法人化され、顧問弁護士・税理士・社労士を揃えていた。
届いた封書には、法的な威圧感を伴う文言が並んでいた。慰謝料の請求。延滞金の加算。支払い期日の明記。そして、期日を過ぎれば民事訴訟に移行する旨が、冷徹な文体で告げられていた。
上野はその文面を読みながら、手の震えを抑えきれなかった。法の言葉は、彼の傲慢を容赦なく切り裂いた。慌てて支払いに応じた。
だが、すでに遅かった。家族の信頼は崩れ、妻は泣き叫び、息子は「僕はこの家に生まれたくなかった」と叫んだ。上野は怒鳴り返すしかなかった。「そんなにこの家が嫌なら、出て行け!」
そして、彼らは出て行った。残されたのは、吹き抜け窓のある家と、上野の孤独だけだった。
それからの十年、上野は会社を辞めていてパチスロ屋の掃除係として夜中まで働いた。帰宅するのは深夜。街灯のない田舎道を歩き、雑草が伸び放題の畑を抜け、鍵の壊れた玄関を横にずらして入る。吹き抜け窓から差し込むのは、夕陽ではなく月明かりだった。
そんなある日、新聞の片隅に「鈴木修氏、九十四歳で逝去」の文字を見つけた。スズキの元会長。軽自動車の革命児。記事にはこうあった。
「夢は三千万円だけ残して
上野はその言葉に釘付けになった。PPK――元気に生きて、病まずにコロリと死ぬ。それは、彼が失った理想の人生の幕引きだった。
鈴木氏はこうも語っていた。「失敗を重ねたから、成功があった」「人生は思うようにいかない。それが人生だ」
その言葉に、上野は初めて救われた気がした。失敗の連続だった彼の人生も、まだ終わってはいない。PPKは無理かもしれないが、せめて「ピンピン」だけでも取り戻したい。
彼は家の掃除を始めた。壊れた玄関を修理し、雑草を刈り、吹き抜け窓を磨いた。夕日が再び差し込むようになった。
しかしまたしても不運が重なった。この家は、離婚した妻の母親の名義の土地に建てたものだった。またしても内容証明が届いた。今度は、土地の返還請求と、過去十年間の使用料の請求だった。
それでも、上野は逃げなかった。レストラン経営者の妻――かつての妻の親友に、上野は手紙を書いた。「十年前のこと、心から謝罪したい。もし可能なら、工務店の社長と、お宅のご主人にも謝りたい。あの時の自分は、間違っていました。今、ようやくそれが分かるようになりました。」
その手紙には、上野の悔いと祈りが滲んでいた。赦されることを望んでいたわけではない。ただ、赦すことを覚えたかったのだ。自分自身を、そして過去を。
やがて、工務店の社長が会ってくれることが分かり、上野は社長の事務所を訪ねた。「その節は、大変に申し訳のないことをしました」と深々と頭を下げた。社長は黙っていたが、やがて静かに口を開いた。「あの家には、まだ住んでるんですか?」
「はい。あれが私の唯一の財産です。もっとも、土地は妻の母の名義です。いずれは返さなければならないと思っています。」
社長はしばらく視線を落とし、言葉を選ぶようにして語った。「レストランの社長と私は、小・中・高と親友でした。彼があなたの家の新築を頼んできたので、私も親友の顔を潰さないように頑張りました。……でも、あのようなことになってしまいました。」
「その節は本当にすみませんでした」と、上野は再び頭を下げるしかなかった。
しばらく沈黙が流れたあと、社長は言った。「うちが持ってる古いアパートがあります。空き部屋もあるし、保証人なしでいいです。よかったら、そこに移ってはどうですか。」
上野は驚いた。それは、過去の非礼をした相手からの、思いがけない救いの手だった。「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます。」
「それから、家の解体もこちらで引き受けます。土地は更地にして、奥さんのお母さんに返しましょう。あの家に、あなたが縛られ続ける必要はないですから。」
上野は深く頭を下げた。「今度こそ、誠実に向き合います。」
その足で、上野はレストランにも向かい、社長とその妻にも謝罪した。
社長は穏やかに口を開いた。「妻の親友は、私の親友も同然です。過ちが分かって謝罪したなら、もうそれでおしまいです。」
上野は意味が分からず、「失礼ですが、それはどういう意味ですか?」と尋ねた。
社長は微笑みながら言った。「ここにいる私の妻の佳代子は、あなたの元奥さんの親友ですよね。ということは、私もあなたの元奥さんの親友で、あなたも私の親友ということです。」
その言葉を聞いた瞬間、上野は泣き崩れた。「そういうことだったのですか……。最初から社長は私を親友だと思って、親友の工務店の社長を紹介してくれていたということだったんですね。それを私は踏みにじっていた。何てバカだったのか……」
工務店の社長も、レストランの社長も、上野より五歳年下だった。それでも、彼らは上野に対して、誠実に、静かに、赦しの手を差し伸べた。
その夜、上野は一人、家の吹き抜け窓の下で最後の夕陽を見つめた。この家は、かつての栄光と傲慢の象徴だった。そして今、悔いと祈りの記憶を刻んだ場所となった。
人生は失敗の連続だ。だが、再生はいつ始まるのか。それは、過去を赦したその瞬間かもしれない。あるいは、誰かに頭を下げたその一歩かもしれない。もしかすると、吹き抜け窓から差し込む光に、もう一度目を細めたその時なのかもしれない。
上野はまだ、完全には赦されていない。家族は戻らない。過去は消えない。だが、彼はもう逃げない。この家に刻まれた記憶を胸に、次の場所へと歩き出す。
吹き抜け窓の下で、上野は静かに立ち尽くす。夕陽が壁を染め、すきま風が畳を撫でる。そのすべてが、彼に語りかけてくる。「まだ終わってはいない」と。
そして上野は、今日も玄関の扉をそっと閉める。再生は、きっとこの静けさの中にある。誰にも見えない場所で、誰にも知られずに、確かに始まっている。
上野はどうなるのか――それは誰にもわからない。だが、吹き抜け窓の下で、彼は確かに生きている。過去を抱え、未来を見つめながら。静かに、確かに、歩き始めている。
― 了 ―
吹き抜け窓の下で、再び @k-shirakawa
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