第3話
「ほんまに、どうなることかと思ったわ」
翌週、福峰がまた尾上家へやって来た時、友子は折しも台所へ出張って行って、安藤に聞いてきた料理を女子衆に作るよう指示しているところだった。
女子衆は聞いたこともない料理に戸惑い「ともさんが作りはるんやないんですか」と言ったが、言っておきながら内心では「できへんやろうなあ」と思い、観念して友子が清書したメモ書きを読み返していた。
「それで、先様はどない言うてました」
母親が心配そうに尋ねると、福峰は携えてきた風呂敷包みを解いて、中から一冊の本を取り出した。
「料理の本やそうで。ともさんにお貸しするって」
「ええ? ともさん、こんなん借りてもよう作らへんと思うねんけど……」
「せやから、清子さん、鈍いなあ。貸すということは、返さんとあかんいうことやんか。で、どうせよう作らへんの分かってるねんし、分からんことは聞きにきたらええっていうことやんか」
「まあ」
母親はぱっと顔を輝かせると、すぐに福峰とにんまり笑い合った。
「ちょっとともさん呼んできますわ」
「安藤くんの自由恋愛っていうのも案外簡単なことやってんなあ」
「ほんまに。ようはきっかけがあったらよかったんやねえ。いや、やっぱりうちのともさんがかわいくてかしこいから惚れはったんやろか。ともさーん、ちょっとこっち来て」
少女のようにはしゃぎながら、母親は台所の友子を大きな声で呼んだ。
呼ばれて友子はすぐにやって来ると、見合いであって見合いでない食事会の首尾について福峰から話しを聞くと、安藤が寄越したという本を早速開いてみた。
友子にしてみれば不思議な気持ちだった。安藤は好感の持てる男性だったが、安藤が友子の何を気に入ったのかが分からなかった。あの時、結局話題は料理のことばかりだったというのに。
「ともさんの食い意地がよかったんかもしれんな」
福峰は笑いながら、女将も友子が気に入ったようだったと報告を続けた。
料理の本は当然のように西洋料理の作り方についてであったが、それだけではなくその料理の成り立ちや歴史についても書かれていて、とても興味深いものだった。
アイスクリームがイタリアからフランス宮廷へ渡ったのも政略結婚の結果であること、今では当たり前に食べられているじゃがいもは元々アンデスからもたらされたもので、寒冷地でも栽培可能であることからフランス全土に広がり飢饉を救う重要な作物になったこと、フランスでも北の方は葡萄より林檎の栽培が盛んで、故に林檎酒を作り料理に使うのだということ、ドイツとの国境の地方ではフランスでありながら料理はほとんどドイツと同じであること……。友子は福峰と母親の会話など一切耳に入ってこなくなるほど、食い入るようにそれらの文字列を追っていた。
そしてページをめくっていくと、一枚に紙片が挟まっていることに気づき、そこには安藤から「休みの日に厨房を見に来ないか」という誘いが書かれていた。
見たい。友子は咄嗟に飛び上がりそうになるのをこらえて、ぱたっと本を閉じた。本式の西洋料理店の厨房なんて、見る機会はそうそうあるものではない。あんなに美味しい料理を作る場所はどんな風になっているのだろう。友子は厨房というものがまるで神殿であるかのように思えて、想像だけでも恐れ多く、同時に胸が躍るような心地だった。
「ともさん、聞いてる?」
母親に腿を叩かれて友子ははっと我に返った。
「え、なに」
「もう、聞いてへんかったん? 安藤さん、自由恋愛したいて言う話しやったやろ? 安藤さんさえその気やったら、お母さんは交際には反対せえへんよ」
「そんなこと勝手に決めたら安藤さん迷惑しはるんちゃうの。その気やなんて、そんな。この前会うただけやのに」
「ともさん、分かってへんわあ。恋愛っていうのは、そのたったの一回会うだけでもう十分なんよ。恋の始まりっていうのは、決め手さえあればあっという間で理屈やないし、会うた回数でもないんよ」
「そんなこと分かるわけないやろ……」
「もう、ともさん疎いわあ。そういうとこが心配なんよ。ともさんは安藤さんのことどない思うたん」
「……料理の腕はすごいんやなって……」
「ともさん、何しに行ったか分かってる?」
母親がじれったそうに体をもだえさせるのを、福峰はいつもの鷹揚な笑いを浮かべて、
「まあまあ、そない言うてもしゃあない。ともさんは奥手やねんし。心配せんでも安藤くんはパリ仕込みや。うまいことリードしてくれるやろ」
と言うと、友子に向かっても「な?」と水を向けた。
母親は不満と不安の入り交じった顔で、
「そうかて……」
と、口の中でまだぶつぶつ言っていたが、
「ここから先は若い二人に任せたらええねん」
と福峰が尚も諭すのに、無理矢理納得させられる体で黙らされてしまった。
何を任せるんやろ。友子は内心では首を傾げていたが、安藤のくれた手紙だけは恋愛の萌芽のようで、甘いときめきを感じていた。
その日、友子は鈴蘭を模した街灯の下がる元町商店街を神戸から歩いて、小間物屋を覗いてみたりしながら文字通り「もとぶら」を楽しんでいた。
ユーハイムでピラミッドケーキを買うと、旧居留地の方へ足を伸ばすことにした。
安藤から借りた本は本当に面白く、友子はそのことについて直接安藤に話したいと思っていた。
いつになく友子は大胆になっていた。女の方から出向いていこうなんて、母親が知ったらなんと言うだろう。いや、でも、手紙を寄越したのは向こうなのだからして、何も臆することはない。友子は自分を鼓舞しながら、西洋料理店ボンアミを目指した。
途中、当然のように西洋人とすれ違う。友子には外国人は珍しくはなかった。チョコレートのモロゾフも、ドイツパンのフロインドリーブも外国人が神戸で開いた店で、神戸の人なら皆親しんでいるものだった。
友子は安藤から本を貸し出された時、すぐに礼状を送っていた。料理が美味しかったこと、色々教えてもらって勉強になったこと、こうして本を貸してくれることの感謝。なまめいたことは書けなかった。
この好奇心は西洋料理への関心によるものだろうか。それとも、安藤に対するものだろうか。友子は自問自答を繰り返していた。
ボンアミまで来ると、店は開店前で準備中の札がかかっていたが、そっと扉を押すとすんなりと開いて、若い給仕とコック服の少年がテーブルクロスを広げているところだった。
「あのう、お忙しいところ失礼します」
友子が声をかけると、若い給仕の方が「あっ」と声をあげた。
「こないだの、お嬢さん……」
「安藤さん、いてはりますでしょうか」
尋ねると、給仕は少年に「シェフ呼んできて」と命じた。どうやら少年の方は厨房の見習いらしい。
客の入っていない料理店はしんとした佇まいで、空気までひんやりとして感じられた。やはりここには客が入って、料理があってこそなのだなと友子は改めて店中を見回してみた。
壁にかけられた絵や花瓶に挿した花も、色を失って見える。美味しい匂いがして人々の笑い声が聞こえてこそ、これらも意味を成すのだ。
「友子さん?」
背後から声をかけられ、振り向くと安藤が驚いた顔で立っていた。
「突然お邪魔してすみません。ちょっと今日はお買い物に来てたんで、本のお礼かたがた寄らせて頂きました。これ、よかったら皆さんで召し上がってください」
友子はそう言うとユーハイムの包みを差し出した。
「ああ、これは気使うてもうて。おい、友子さんにお茶や」
安藤は給仕に命じると、新しいクロスをかけた卓に友子を座らせた。
「本、読ませて頂きました。ほんまに面白くて、勉強になって」
「友子さんは勉強が好きやて聞いてたんで、興味あるかと思ったんです。喜んでもらえてよかった」
「お料理、得意やないんですけど、ああして読んでみるとやってみたい気持ちになりますね」
「へえ?」
「今まで考えたこともなかった。自分の食べてるもんを誰が考えて、いつから、どうやって食べるようになって、今目の前に出てきて美味しくなってるかなんて」
「ははあ、なるほど……。確かに、あんまり考えへんかもしれませんね。でも、なんでも物事には本質というものがある思うんです。野菜ひとつとってみても、どこで誰が作って、どうやって美味しく料理するか。その心構えひとつで出来上がりはずいぶん違うもんになると思います。食べることにも歴史があるんや」
「ほんまに。あの本読んで、初めてなるほどと思いました。フランス革命の時にパンがなければケーキを食べればいいなんてアントワネットが言うたとかいう話し聞きますけど、あれはケーキやなくてブリオッシュっていう甘いパンのことやなんて知りませんでした」
「あれはバケットと菓子パンを指してるんやろうね。食事中に食べるのはバケットやから。王侯貴族は庶民の食生活まで想像できんかったということの表われやろうな」
給仕が紅茶を運んでくると、安藤の様子を見ながらどうも笑いをかみ殺しているような顔で「ごゆっくり」と言ってまた自分の仕事に戻っていった。
「余計なこと言わんでええねん」
安藤は苦笑いしながら追い払うような手振りをすると、自らポットから紅茶を注いでくれた。
「友子さんは一番好きな料理はなんですか」
「え、なんやろう……」
好きなものはたくさんある。一番を決めるのは難しい。が、少し考えてから友子は、
「一銭洋食、よく食べます。好きですね」
と答えて言った。
「へえ?」
「あれ、東京ではどんどん焼きって言うそうですね。小麦粉を溶いてキャベツとかのせて鉄板で焼く……。けど、私は神戸のソース味のが好きで。豚とか海老とか入れるのんが特に。あの香ばしく焼ける匂いとソースが、食欲を刺激するなていつも思うんです」
「はあはあ、なるほど。あの生地が焼ける匂いは確かに美味しそうや」
「安藤さんはあんまりそういう下町っぽいのは食べはらへんかと思いますけど」
「そんなこともないです。そうや、ええこと思いついた。友子さん、ちょっと来てください。ええもん、作り方教えたげますわ」
安藤は楽しそうに何か閃いた様子で立ち上がると、友子を連れて店の奥へずんずん入って行った。
飲み物などを出すカウンターの向こうに両開きの扉で、そこを入ると広々とした厨房になっていた。
「わあ……」
思わず友子は声をあげた。
広いが整頓されていて、ガスコンロが三つ、大きな銅鍋が火にかけられて良い匂いをさせている。調理台は綺麗に拭き上げられ、布巾は真っ白。壁にぶら下がったフライパンなどもつやつやと清潔だった。
流しで先ほどの少年が洗い物をしていて、安藤を見るとさっと居住まいを正した。
「お土産もうたで。ユーハイムや。みんなの分も切ったって」
安藤が包みを少年に手渡した。ユーハイムと聞いた途端、少年の顔がぱっと明るくなるのを友子は見逃さなかった。
「広いですね、やっぱり」
「どうしてもある程度の広さはいりますね。西洋料理はブイヨンをとるところから、野菜や肉の下ごしらえや、とにかく手数がかかる」
「手間暇かかってるから、あんなに美味しいんですね」
「友子さん、クレープて知ってますか?」
「クレープ?」
「フランスの、一銭洋食や」
一銭洋食は主に小麦粉を溶いた生地にキャベツやネギの刻んだものを混ぜ込んで焼くもので、ソースをかけるから洋食と言われているのだろうが、友子にしてみれば子供の頃から慣れ親しんだ「神戸の料理」と思っていた。
文字通り、一銭から食べられる子供の駄菓子であり、手軽な下町の惣菜の感覚で、肉類や海老、イカをいれて豪勢にするものはそれだけで十分な一食分になり得た。特にソースは神戸にいくつもソース工場があり、どこでもそれぞれの工夫を凝らして微妙な味の違いを出しているのが楽しかった。
ソースがこのように庶民の暮らしにすんなり入り込んで馴染んだのも、港町神戸であるからこそと言えた。
安藤は小麦粉と牛乳、卵などを用意すると、
「フランスにも小麦粉を溶いたもんを薄く焼く料理があるんです。だいたい小麦粉やねんけど、そば粉で作るとブルターニュ地方いうとこの郷土料理になるねん」
「フランスにもお蕎麦あるんですか」
「日本の蕎麦みたいにして食べるんと違うけど、蕎麦粉は料理に使うで」
「へえ……」
友子が感心しながら見ているそばから、安藤は小麦粉を篩いにかけ、ボールに卵と牛乳を混ぜ合わせた。
泡立て器のかしゃかしゃ鳴る音の手慣れたリズムはまるで楽器のようだった。
「こないして、卵と牛乳、砂糖をちょっと、あと小麦粉を混ぜ合わせて、それから溶かしバターを加えてちょっとなじませとくねん」
「これにキャベツとか入れるんですか」
「これはなあ、中に具を混ぜるんと違うねん。まあ、見とき」
安藤は生地を脇に置くと、今度はチョコレートの塊を刻み始めた。友子はこんな大きな塊のチョコレートがあるなんてと驚いたが、さらに驚いたのはそれを包丁で実に手早く端から刻んでいく安藤の手先だった。
厨房に甘い匂いが際立つ。
「りんごがあったな……」
安藤は独り呟くと、洗い場の少年に「おーい、肇。りんご取ってんか」と呼びかけた。
少年は「はい!」と元気良く返事すると、野菜かごの横に積んであるりんごを取って走って来た。
「これをバターと砂糖で炒めるんです。あ、友子さん、皮剥いて貰えますか」
友子は頷いた。皮ぐらいなら、剥ける。たぶん。そんなに何回もやったことはないんやけど。友子は言われるままに小さな包丁を手に、いざ……と慎重に、真剣な顔でりんごを剥き始めた。
気がつくと少年だけではなく、給仕の若者も厨房に立っていて友子のあぶなっかしい手つきを見守っていた。
友子の剥いたりんごを刻むと、安藤は熱したフライパンにたっぷりのバターを放り込み、次いでりんごを入れて炒め始めた。バターの芳醇な香りとりんごの甘い匂いに友子は思わず唾を飲んだ。果物独特の匂いが熱い蒸気になって立ち上っていく。
「ええ匂いやわあ」
友子はうっとりして言った。
「この匂い、香水にでもなったらええのに。うちの母も時々香水使うんですけど、こっちの方が絶対ええ匂いで素敵やわ。これを瓶に詰めてずうっと嗅いどきたいですわあ」
「ははは。おもしろいこと言うなあ。ここからまだ匂いが変わっていくで」
「え?」
安藤はしんなりと炒まってきたりんごに砂糖を加えてさらに火を強くした。すると、次第に砂糖は溶けてバターを吸い込んだりんごと絡まってどんどん茶色く焦げていく。
友子ははっとして「キャラメル!」と声をあげた。
「そうや。こうやって軽く砂糖を焦がしていくのをカラメリゼいうて、香ばしい風味が出るんや。で、さらに、ここにシナモンを入れると……」
安藤は小瓶の蓋をとってぱらぱらとフライパンの上で振った。
「肉桂ですね!」
またしても友子が感嘆の声を上げる。
バターと砂糖と林檎、肉桂。複雑な匂いでありながらもきちんと一つに纏まったような匂いだった。
「さあ、ここからが本番や」
安藤の声が弾んでいた。まるで子供のかくれんぼの始まりのように、目を瞑って十数える時のわくわくする高揚。洗い場の少年も給仕の青年も、安藤の手元を目を輝かせて見つめている。
ああ、ここは、そういう場所なんやなあ。友子は思った。客席では客たちが楽しげに目を輝かせ料理を味わうが、厨房では作り手もまた目を輝かせ楽しく、心躍らせて作っているのだ。ここはなんて素敵なところなんやろう。
安藤は薄くて平たいフライパンを取り出すと、一度加熱してから、濡れ布巾に底を押しつけた。じゅうっという音、熱せられて蒸気が立ち上る。
それからまた火にかけて、先ほどの小麦粉の溶いたものをお玉で掬って流し込むと、フライパンをくるくる動かしながら全体に薄く広げた。
「薄いから、あっという間に焼ける」
確かに言っているうちにもう周囲が茶色く焼けている。安藤は長いヘラのようなもので器用に生地をひっくり返した。
卵の薄黄色に焼けた生地はバターが入っているせいかしなやかで、一銭洋食のあの生地の焼けるのとはまた違ったいい匂いがしていた。
「こうして両面焼いて……。で、ここにチョコレートの刻んだのをぱらぱらっと……。それから、くるくるっと巻いてやる」
巻くというより、折りたたんでいくようにしてチョコレートをたたみ込むと、白い皿に取った。
「ほら」
「これが……クレープ?」
「さあ、次々焼けるで」
気がつくと給仕の青年が友子にフォークを差し出していた。
友子はこんがり焼けたクレープをフォークで切り取るようにして口に運んだ。
刹那、熱い生地からチョコレートがとろりと溶けて口中を満たした。
生地の縁はぱりっとしていて、全体はしんなり柔らかくなめらかで、チョコレートが蕩けだしてきて、口いっぱいに広がる。生まれて初めての感覚だった。口の粘膜すべてをチョコレートで覆われて、チョコレートで溺れそうな幸福!
安藤はどんどんクレープを焼き、給仕と洗い場の少年にも皿を渡してやった。
「次は、さっきのりんごや」
同じ要領で、クレープに炒めたあの夢のように良い匂いのりんごを巻き込んでいく。
「チョコレートのより、ちょっと気持ち厚めにしっかり焼く方がりんごの食感と合うねん」
そういってまた差し出される皿を、友子は夢中で食べた。
「そうそう、これな、甘いお菓子だけやないねん。ハムやチーズを入れても美味しいねん」
「そしたら、これ、ほんまにフランスの一銭洋食やないですか!」
「せやから、そう言うたやろ」
「すごい……! すごいです、これは! 私、こんな美味しいもん食べたことない!」
「友子さん、嬉しそうに食べるから作りがいあるわ」
安藤は笑いながら言った。
「作り方、覚えたな? ほな、おうちの人にも作ってあげたらええ。みんな喜ぶやろ」
「すごい……」
友子は尚も呟いた。
「こんなにすごいことって」
「大げさやなあ」
「いえ! これはほんまにすごいことです! こんなに楽しくて幸せになるなんて! 料理って、すごいです。私、今まで知らんかった……」
友子は感動しきった目で安藤を見上げた。
安藤はその友子の素直に潤んだ目をまともに見ると、胸の奥がぎゅっと掴まれたような苦しさを覚え、慌てて視線をフライパンに戻した。
そして、ともすれば荒くなりそうな呼吸を整えるようにクレープの焼ける匂いを深呼吸した。
「……前、お会いした時思ったんですけど」
「はい」
「友子さんは、ともさんって呼ばれてるんですね」
「ええ。父はともって呼びますけど。母も近所の人も、友達も、女子衆もみんな昔から私のことはともさんて呼びますね。なんで友子さんやないんか分からへんのですけど。呼びやすいんかな」
安藤はふふと柔らかく微笑んだ。それは、呼びやすいんやない。その性格が呼ばせてるんや。親しみやすく、素直に呼ばせてくれるんや。気づいてへんのやなあ。
「この店、ボンアミって変な名前や思いませんか?」
「ああ、フランス語でしょう」
「そう。フランス語で良き友っていう意味です。これは祖父が領事館で働いてた時にフランス人のコックから言われたことやそうです」
「へえ……」
「祖父は真面目でよう働く、気持ちの優しい人で、仕事教えて貰ってたフランス人や領事館の人たちみんなに可愛がってもうてたそうです。それで、彼らが帰国する時に祖父のことを使用人や小僧ではなく、自分たちにとってお前は良き友だって言うてくれたそうです。その時もらった言葉が、店の名前になったんです。僕らは、外国人だけやない、お客さんにとっても良き友になろう、て」
「素敵ですねえ」
安藤はガスの栓を閉めると、友子に向き直った。
友子はまだクレープの最後の一切れを名残惜しそうにもぐもぐ口に入れていて、やっぱりうんうんと頷いていた。
「友子さん、僕もともさんって呼んでええでしょうか」
「はあ、ええ、それはかまいませんけど……」
「それで、このボンアミの、いや、僕の良き友になってもらえませんやろか」
「えっ」
友子はびっくりしてフォークを取り落としそうになった。慌てて皿を調理台に置くと、よく考えたらこんな立ち食いなんかしてお行儀が悪かったなと気がついた。
唇が砂糖でべたべたと甘くなっているのを拭くナプキンもなく、ハンカチは鞄の中だった。
「ともさん?」
安藤が首を傾げた。
洗い場の少年と給仕の青年が二人揃って慌てて厨房を駆け出していく。
友子は口を拭くのを諦めて、言った。
「良き友ですか」
「……」
「……あの、良き友っていうだけで、ええんでしょうか……」
「あっ。いや、それは……」
良き友は生涯の友であり、それは生涯の伴侶というか何というか。安藤はこんなことを懇切丁寧に説明する必要があるだろうかと、困惑し、何か言いかけて意気消沈するかのように黙った。
急に気恥ずかしくなって、
「ご迷惑やなかったら、なんですけど……」
と付け加えた。
すると友子は、
「ほんなら、私も安藤さんのこと、のぶさんて呼んでええでしょうか」
と尋ねた。
「あ。私ら、どっちの名前も友の字が入ってますね。それにお店の名前が良き友やなんて、すごい運命的やわ。そう思いません?」
「……ほんまに……」
天真爛漫。安藤はそんな言葉が頭に浮かんだ。
「ともさん、今度はいつ来てくれはりますか。ともさんの好きなもの、ようけ作りますわ」
「ええ? そしたら毎日来ようかなあ!」
友子は嬉しそうに笑って言った。
……私、ここが大好きになったわ。それから、のぶさんも。帰ったら、母親にそう言うつもりだった。そして、福峰にすぐに連絡して来て貰うよう頼もう。友子は安藤の良き友になりたいと、心から思っていた。
了
ともさん~神戸居留地三十五番~ 三村小稲 @maki-novel
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