第2話

 居留地とは外国人居留地を指す言葉だが、外国人の住まいが政府によって限定されていた時代はとうに去ったが、今でも変わらず外国人が多いのが神戸という町の特徴でもあった。


 浜手が大きな会社の並ぶ「仕事場」であるのに対し、山手の北野町あたりは「居住地」で、洋館長屋や西洋建築の家が普通の日本家屋の間に並んでいかにも和洋折衷のような不思議な風景を生み出していた。


 海岸通りから元町、三宮に至るまで居留地のきちんと区画整理された一帯は領事館やチャータード銀行、日本郵船の他にも商船三井の壮麗なビルヂング、町並みだけ見れば完全に外国のようだった。


 福峰御用達の西洋料理店ボンアミは江戸町筋から少し西へ入ったところにあり、こぢんまりとした白壁の西洋館で窓枠に薄水色を配していて入り口の階段の両脇に白いゼラニウムの鉢を並べるといった上品でかわいらしい店構えだった。


 あらかじめ福峰が尾上家の意向も含めて席を申し込んでおいたので、友子たちは見合いではなくあくまでも客としてボンアミの扉をくぐった。


 とはいえ、見合いではないと言いつつ友子は着慣れた着物に袴姿ではなく、梅の花をわんさと咲かせた中振りに鶯の描かれた帯を締め、髪もひっつめではなくコテでうねりをつけた流行の形にして、ほとんど見合い同様に装っていた。


 こんな大仰な盛装は恥ずかしかったが、母親がどうしてもと言ってきかないので朝から美容院に行き、友子はすでにくたびれていた。


 母親にしてみれば娘をちょっとでもよく見せたいと思っての母心……と言いたいところだが、「よく見せたい」理由が自由恋愛を望むボンアミ三代目若当主に「惚れさせたい」というのがそもそも事の発端なので、友子にしてみれば図々しい魂胆で恥ずかしくてたまらなかった。


 だいたいきれいとか、かわいいとか言われたことないんやわ。友子は内心で、子供の頃から「かしこい」娘さんとしか評されたことがなく、自分の容姿は鏡を見る限り十分承知していた。


 そして、母親の画策をしらけた気持ちで見ていたが「やっぱり、顔なんやなあ」とも思っていた。自由恋愛って、顔なんやな、と。


 父親は大学へ行く時と同じ紺背広、母親は普段からお洒落な人なのでお気に入りのお召し、福峰はこれもいつもの遊び人風着流しで、友子だけが浮いていた。


 しかし、そんなことは誰も気にも留めず、若い給仕に案内してもらい席につくと皆一斉にうきうきと献立表を開いて、今日のおすすめだのシェフの得意料理だの夢中で喋り出した。


 友子も献立を開いてはみたものの、新開地あたりのお手軽な洋食と違って本式の西洋料理とあっていささか気後れがして、そこに書かれている「季節野菜のテリーヌ、コンソメのジュレ添え」「田舎風じゃがいものスープ」が果たしてどんなものか想像もつかず圧倒されるようだった。


 それぞれが献立を見ていると、奥から白いエプロンをつけた丸髷の婦人が出てきて、

「今日はようこそお出でくださいました。外はまだ冷えますねえ」

 と、福峰に挨拶をした。


 友子をはじめ、両親も福峰もさっと立ち上がると、

「やあ、奥さん。なんや最近ご無沙汰してしもてて。今日は、ほら、あの話しの。こちらが尾上さん。神戸大学の先生してはる」

 と、父親の方から順に紹介すると、友子に意味ありげな視線を送ってきた。


 なるほど、こちらがお母さん。友子もさりげなく頷いてみせた。


「で、こちらがお嬢さんの友子さん」


 友子はしずしずと頭を下げ「尾上友子です」と静かに名乗った。


「あなたが友子さん。女子師範を一番で卒業されたって聞きましたけど、優秀なんですねえ」


「いえ、そんな……」


「福峰さんがいつも言うてはるんです。えらいことかしこいお嬢さんがいてるて」


 やっぱりそれか。友子はふふと口の端で微笑しながらもやもやしたものを紛らせた。


「シェフは後ほどご挨拶に出ますよって、今日はゆっくりしていってくださいね」


 そう言うとボンアミの女将は給仕を呼び、注文を聞くように言って忙しく他のテーブルへと去って行った。


 福峰が褒めるだけあって、テーブルはすべて埋まっていてナイフやフォークを使う音と抑えきれない高揚した人々の感嘆の声などが溢れ、店の片隅に置かれたレコードのピアノ曲も微かにしか聞こえてはこなかった。


 果たして友子たち一行は、福峰の勧めに従って「ブランダッド、鱈とじゃがいものカナッペ添え」と「牡蠣のブルゴーニュバター焼き」「茸と猪肉のパイ包み焼き」といった料理を頼み、ワインを注文した。


 どれも聞いたことのない料理で、友子は皿が運ばれてくる度にハンドバッグから小さな手帳を取り出すと熱心にメモを取った。


 料理はどれも美味しくて珍しくて、こんな素晴らしい機会があったとは思いもよらずただただ嬉しくて給仕にあれこれ質問をし、また、それを手帳に書き付けた。


 干し鱈のほぐし身と潰したじゃがいもを練り合わせて、薄く焼いたパンに塗って食べるなんて、もう、その成り立ちからして衝撃的だった。つけあわせのりんごと赤いキャベツをワイン酢で煮てから冷やすのも甘酸っぱく、ピクルスには香草の実が時々歯にあたってぱちっと弾けて良い匂いがするのを感動し、一人でうんうんと頷きながら口を動かしていた。


 友子は勉強も好きだが、幼い頃から食べることも大好きだった。好き嫌いがなく、食欲旺盛。母親からは「あんまりようけ食べる女の子は恥ずかしいんとちがうやろか」と心配されるぐらいだったが、友子にとって美味しい物を食べる喜びは勉学によって知識を得る喜びと同じぐらい大事なことだった。


 そう考えると友子のところへ持ち込まれた縁談が西洋料理店の若主人というのは、適材適所かもしれない。ふとそう思いついた友子は上機嫌で舌鼓を打っている福峰をちらと見た。


「よう繁盛してるやろ」


 視線に気づいた福峰がワインを呑みながら言った。


「ほんまに」


 友子は改めて周囲を見回した。外国人客の他にも裕福な客が目立つのは、髪形や衣装持ち物のせいだけではなかった。皆、一様に「慣れて」いるのだ。こんな本格的な西洋料理でも気負わず、テーブルマナーもよく出来ていて、何より食べることを楽しんでいるのが見て分かる。誰もが料理を味わい、笑顔なのだ。


「ええお店やと思います」


「ほんまにね、ともさん。こんな美味しいとこ大阪にも東京にもそうはないと思うわあ」


 母親まで幾分興奮した口調で口を挟んだ。


「ともさんがこちらにお嫁に来たら、毎週寄せて貰うわ」


「ちょっとやめて。お母さん、声大きいわ。ご迷惑やで」


「あら……。せやけど、これ、ほんまに美味しいわあ。ともさん、このパイの中のお肉、猪やってなあ。猪言うたら、うちの蔵に来てた丹波杜氏さんが田舎から持ってきてぼたん鍋してくれはってなあ。あれも美味しかったわあ」


「清子さんは案外薬食い平気なんやな」


「ともさんも子供の頃食べたやろ。あれ、美味しかったなあ」


「ふん、あの脂のところなあ。あと、お味噌で煮るのもよかったわ。薬味に山椒をようけ使うてなあ」


 母子して言い合っていると、背後から「どうも、いらっしゃいませ」と声をかける者があり、友子はぱっと振り返った。


 そこにはあの背の高い見合い写真の人物が、コック服姿で立っていて友子達へ会釈をした。


「ああ、これは安藤くん。今日も、どれも美味しかったわ」

 福峰がナプキンを卓に置いて立ち上がると、父親も同じく立ち上がった。


「紹介します。こちらが安藤信友くん。この店の三代目若主人や。安藤君、こちらは尾上さん。神戸大学の先生してはる。で、奥さんとお嬢さんのともさん」


 福峰がすらすらと紹介するので友子は慌てて椅子から腰を上げ、

「はじめまして、尾上友子です」

 と挨拶をした。


 頭を下げた瞬間、ワインのせいか目の前が一瞬歪んだ。お酒が飲めないわけではないが、今日は料理のせいもあってかいつもよりだいぶ進んだなと思った。


 若主人も会釈を返すと「どうぞ、おかけになってください」と言い、

「料理はお口に合いましたでしょうか」

 と、思い詰めたような生真面目な調子で尋ねた。


 一瞬、奇妙な沈黙が流れた。それは誰に向けられた質問か分かりかねたせいだった。というのも、安藤は長身でテーブル脇に立つと座っている目が合いにくく、また、見上げるにしても大きすぎて戸惑うぐらいで、友子は、

「どれも本当に素晴らしく美味しかったです。あの、鱈とじゃがいもの……あれは家でも作れるでしょうか。やっぱり難しいんでしょうね」

 と答えて言った。


 安藤はほっとしたように、

「作れますよ。ちょっと面倒かもしれないけど、誰でもできます」

 と言うと、給仕の方へ振り向きながらさっと右手をあげた。


「こちらのテーブル、皆さんにコーヒー差し上げて」


「安藤君、もう手が空くようやったらちょっと一緒にやな……、一服していかんか」


 福峰は安藤にそう言うとひとつ空いていた椅子を勧めた。恐らくは母親である女将に言われていたのだろう。安藤も素直に「では」と椅子に腰かけた。そうしてみて初めてその場の全員と目が合って、各自がそれぞれ改めて挨拶をした。


「料理が好きなんですか」


 安藤は先ほどの友子の質問に答えようとしてか、首を横向けた。


「……どちらかと言うと食べる専門です」


 友子は正直に答えた。家には女子衆がいて、友子は女学校で習った以上のことはできないし、それもそもそも今ひとつ適性がなくて先生や同級生から呆れられていたし、得意でないという自覚はあった。


 それではなぜ「家で作れるか」などと質問したのかというと、作り方を聞いておいて女子衆に「作ってもらおう」という魂胆からだった。


「まず干し鱈を戻します」


「じゃがいもを茹でるのが先じゃないんですか」


「はあ、それより先にする下ごしらえがあるんです。干し鱈を戻すのに時間がかかるから。じゃがいもはその後でいいんです」


「……なるほど」


 友子はメモを取り出して鉛筆を走らせた。


 その様子に母親がテーブルの下で友子の腿を叩いた。驚いて友子が母親の顔を見ると、ものすごい形相で睨んでいるところだった。


 なにを見咎められているのか分からない友子はちょっと首を傾げつつ、父親に助け船を出すよう視線を投げた。


「とも、料理教室に来たんと違うんやから……」


 父親は、近頃の学生にもこのぐらいな向学心があればよいのにと思いながら、友子を諫めた。友子がは生まれてくる時代を間違えたな、とも。


 すると安藤は「いや、興味を持ってもらえて嬉しいです。食べて美味しかったで終わってしまうのも寂しいもんです」と微笑んだ。


「寂しい?」


 友子が反射的に尋ねた。母親がまた友子の腿をぴしゃっと叩いた。


 母子の攻防には気づいていないらしく安藤は、

「どんな手の込んだ料理も食べればなくなってしまう。美味しかったという思い出も時間がたてば薄れていく。けど、もっとその料理に興味を持っていたら、少しでも長く美味しかったことや感動したことを記憶に留めることできると思うんです。実際作れるかどうかなんて問題やない。どうやって作るんか知りたいと思うこと、やってみようという気持ちが僕らには嬉しいことなんです」

 と、友子の顔をまともに見つめながら言った。


 友子はその真摯な言葉に人知れず深い感銘を覚えていた。なんて真面目な人なんやろう。食べた後の、その人のこれから先のことまで思い至って作ってはるんやわ。ほんまに料理が好きなんやわ。そして、自分の料理が人を幸せにできると信じてるんやわ。


 安藤の姿勢から、友子は自分が教師として生徒に教えたいと思うことも同じだと思った。


 まだまだ女に学問など必要ないという風潮は避けられない。学問をどのように役立てるか、社会に出る道筋もそう多くはない。が、何に依らず学ぶ楽しさを知っていれば、どんな生き方をするにせよ人生を豊かにするし、想像力があれば困難を回避することもできるし、知恵があれば苦難を乗り切ることだってできる。友子にとって学ぶことは「可能性」を持つことで、それを生徒達にも知ってもらいたいと考えていた。ようするに「学ぶ」ことの先の未来。


「素晴らしいです。ほんまに、なんて素晴らしいんやろう。感動しました」


 友子は拍手したいぐらいの感激した口調で言うと、一度は置きかけたペンを握り直し、

「それから、干し鱈を戻した後はどうするんですか。じゃがいもを茹でて潰して、混ぜ合わせるんですよね。味付けは何をいれるんでしょう。何か特別な材料があるんでしょうか」

 と、矢継ぎ早に質問した。


 仲介者としてやってきた福峰も、友子の様子に唖然としていた。が、安藤が気を悪くするでもなく、むしろ嬉しそうに「じゃがいもが熱いうちに白ワインをちょっとだけかけておくと風味が良くなります」「マヨネーズを作る必要があるので、卵の黄身と白身を分けて……」と丁寧に教え始めたので、もしやこれは纏まるだろうかと二人のやりとりを見守ることにして、給仕が運んできたコーヒーに砂糖をいれて飲みながら、父親の方に視線をやった。


 父親の方も同じ気持ちであったとみえて、ひとつ深く頷いてみせた。


 母親だけがおろおろしながら「もう、ともさん、そのぐらいにして」「そういうことはコックさんの秘伝やねんから、聞いたらあかんの違うやろか」と、止めに入ろうとしていた。


 結局、その夜の福峰がお膳立てした会食は最終的には友子が料理の作り方を習いに行ったかのような様相で幕を閉じたのだった。

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