八 死者は、超えろよ

「往生際の悪さで有名なチャンディ・クンワル、現在十三人目です。次も勝利なるか!」

 司会者の声が響くリング。次に現れたのは毛の少ないゴリラのような大男だった。

 チャンディは辛うじてリングに立ち、何人か前の奴隷が手にしていた、長さが上半身ほどある木の棒を持っている。先端を地面に置き、息を切らしている。

 大男はエレベータから出るやいなや、猛然と距離を詰める。

 チャンディは後方に大きく一歩下がり、棒の先端をさり気なく前方に置いている。相手の歩幅を見ながら静かに左へ寄り、走り寄るそのコースをやや曲げた。

 大男の右腕は既に振り上げられている。足元に横たわる棒の先端を飛び越え、その腕を振り下ろさんとする。

 彼の足が着地する前に、チャンディは左側へひらりとかわす。空振りに終わった拳の向こうから、今度は巨大な左手が伸びる。チャンディは棒を振り回すように一回転して左手をかわし、その勢いのまま棒で相手の尻を打ち据えた。

 前方へふらつく大男。そこはもうリングの端だった。踏みとどまった男の腰骨に、間髪入れずチャンディの蹴りが入り、そのままバランスを崩し、片足がリングの角を撫でた。

 大男は間の抜けた表情を残したまま重力に引き寄せられ、燃え盛る炎の中に真っ直ぐ落下した。野太い悲鳴がリングまで届いた。

 会場全体から歓声が上がった。

 司会者の声。

「十三人目もチャンディが勝利! 安定した戦いです。どこまで耐えるのでしょうか」

 チャンディは息を切らしながら座り込んだ。

「いつまでやるんだ」

 彼女は呟いたが、わかっている、自分が死ぬまで続くのだ。

 騒々しい観客席を見下ろすと、バラバが腕を組んでリングを見上げていた。棒でも投げつけてやろうかと思ったが、武器を失うのは痛い。

「さあ、ここからは団体戦です」

 また司会者の声がして、会場が一層騒がしくなった。

「団体戦……?」

 チャンディはすぐ理解できなかった。味方が付くのだろうか。

「十四人目、十五人目、カモン!」

 司会者は待ってくれない。

 エレベータが開き、二人の女奴隷が姿を現した。一人は銃を手にし、もう一人は剣を構えている。何のことはない、相手が団体様になるということだった。

 このとろそうな奴隷たちを飛び越えてエレベータに乗り込めないものか。チャンディはイメージしてみたが、中で刀を構えているあの兵士に阻まれるだろう。エレベータの扉が閉まり、イメージは願望のまま終わった。

 剣を持った方の女が、品のない雄叫びを上げてチャンディに飛びかかる。刃物を持つ方が圧倒的に有利と見たか、大上段に構えて振り下ろすが、無論チャンディの敵ではない。難なくかわし、木の棒で剣を叩き落とした。

 その後ろから、もう一人の奴隷が銃でチャンディの背中を狙っている。前装式で、ここでは一発撃てばほぼ終わりだ。

 もちろんチャンディは気づいていた。銃を所持する者が仁王立ちしているなら、次に何をするかは決まっている。

 女は引き金を引く。撃鉄が上がっておらず、火は噴かない。

 チャンディは棒で丸腰の奴隷を押さえ、リング外へ押し出そうとしている。戦い慣れない女だが、体格が一回り大きく、チャンディには押し切れない。

 銃の女は慌てて撃鉄を上げた。金属の噛み合う小さな音。

 チャンディはその音を聞き逃さなかった。一秒待った後、相手と押し合う力を突然緩めて踵を返し、後ろの女に目掛けて突進した。

 女は驚き、後ずさりながら咄嗟に銃を持ち上げ、闇雲に一発撃った。

 同時にチャンディは前方へスライディングし、その背後でもう一人の奴隷が仰け反った。胸から真っ赤な飛沫が上がる。

 被弾した女は弾丸の勢いをそのまま引き受けて後ろへ転がり、己の所持していた剣を巻き込んで、場外へ零れ落ちた。炎の中で鈍い落下音がした。

 ほぼ同時に、もう一人の女は仲間を撃った反動で後ろへ数歩よろけた。その勢いが止まりきらぬところへ、足元にいたチャンディが棒で腹を突き上げ、更に数歩ふらついて、最後の一歩がリング外へ出た。

 二人組は消え、挑戦者だけが残った。

 客席から盛大な拍手と歓声が上がった。来賓たちは目を丸くしながら投票券を見せあっている。先の十五人に賭けた奴が高笑いしている。

 チャンディはそれらを死んだ目で見ていた。このリングを囲む炎がコントロールを離れ、あの客席に手を伸ばし始めたらどうなるだろう。全く見ず知らずの、しかし自分と同じ境遇だったはずの、今日焼かれた十五人は、報われるだろうか。いや、それだけの命を生贄に捧げて生き残った自分を、一緒に引きずり込みたがるだろうか。

 そっと自分の左手を見た。衡の書いた目の絵が、やはり死んだようにこちらを見ていた。

 アーグム・アッバースが、もとい掛水衡が、もしこの目からこちらを見ているとしたら、何を思うだろうか。

 チャンディは大きく息を吐いた。

「生きろ」

 自分に呟いた。

「チャンディ、二人でも難なく生き残りました」

 司会者の声。

「どんどん参りましょう。十六、十七、十八人目、カモン!」

 相手が増えるらしい。心臓が重くなる。既に息は切れ、肩が悲鳴を上げている。

 エレベータがゆっくり開いた。

 そこに立っていたのは、男女の奴隷だった。そしてその足元に、五歳くらいの男児の奴隷が立っていた。

 三人とも細い手足で棒のように立っていた。大人の二人は恐らく年齢以上に老け込んでいて、女の方は傷み切った髪を腰まで伸ばし、男の方は白髪が目立っていた。

 女はチャンディを見るなり、顔を手で覆い、嗚咽を漏らした。男は目を伏せ、男児だけが大きな黒目を爛々とさせ、こちらを睨んでいた。

 チャンディは不意に飛び出す相手を警戒して棒を構えていたが、その構えを思わず解いた。棒の先端が床に落ちる。

「お母さん……お父さん……!」

 付き添いの兵士が三人を乱暴に押し出し、非力な奴隷たちはリングに押し出された。

 夫婦はチャンディに飛び掛かることはなく、ただ棒立ちで泣いている。

 女は嗚咽を堪えながらようやく整えた声で

「チャンディ、大きくなって」

 とだけ言って、また声を上げ始めた。

 観客は静かになり、その中に微かなざわめきが聞こえる。興味深く目を輝かせている者、動きのないリングに飽きを隠さない者。

 男の奴隷が突然膝をついた。

「チャンディ頼む、この子の為に勝たせてくれないか」

 そう言って深く頭を下げ、地に擦りつけた。

 隣で女が真っ赤に腫らした目を見開いている。

「お父さん! あなた、娘でしょ」

 父は頭を上げない。

「すまない、本当にすまない! でも、この子を殺すわけには……」

 その隣で、見覚えのない幼児が拳を握っている。一段と鋭い目つきは、確かにチャンディとよく似ていた。

「こっちを見るな!」

 男児は姉に似た汚い言葉を叫び、小さな歩幅でチャンディの方へ駆け寄って来た。手には小さなハンマーを握っている。

「こいつめ、お母さんは僕が守るぞ!」

 後ろを母が追った。

 チャンディは避ける気にもなれず、男児のハンマーが腹直筋を打った。打撃は弱々しくとも、重量のあるハンマーは相応に痛い。

「死ね、死ね!」

 ハンマーは何発もチャンディの体を打ち、チャンディは耐えかねて棒で男児を払いのけた。簡単に尻餅をつく幼児。

 母はそれを見てすぐさま駆け出し、男児を庇うように抱いた。その前に父も立ち塞がる。そして両親はチャンディを、まるで盗癖のある他人の子に対する目で見るのだった。

 違う。チャンディは言いたかった。そうじゃない、見たかったのは両親のこんな顔じゃない。しかし、それは言葉にしても空しいことだった。

 男は手にした長い棒を、チャンディに向けて構えた。彼は飼い主の強制するとおりに、娘と息子を天秤にかけようとしていた。

「恨むなら父さんを恨んでくれ」

 独り言のように言って、それから棒の先端と共にチャンディへ襲い掛かった。母も動揺しながら、父と共にチャンディに摑みかかった。子も同時に駆け出した。

 無数の観客たちはその日最高の歓声上げた。

 狂喜する観客が囲む中、どこか力なく飛び掛かる父を押し退け、母を振り払う。

 チャンディの視界はみるみる潤い、水滴が地に満ちた。

 手にした棒で男児を叩く。

 父の腹を殴る。

 母を足蹴にする。

 男児は何かを訴えながら泣き声を上げている。

 母がそれを抱きかかえる。自分も嗚咽を堪えている。

 父は口の端から血を滲ませ、腹を庇いながら立ち上がろうとしている。

 チャンディは親子三人を視線で捉えながら、溢れる涙で眼前は一杯になり、彼らはその海に沈められるように景色に溶け込んで、真っ白になってゆく。

 気が付くと、肩の力が入らなくなっていた。

「もう無理……」

 ひとりでに呟く。しばらく拠り所にしてきた木の棒が、手をすり抜けて足元に転がった。

 家族に背を向け、場外へとゆっくり歩いて行く。

 観客の歓声はもはや止み、小さなどよめきがあちこちで上がっている。

「会えて嬉しかった」

 チャンディは背後に向けて語りかけた。家族三人の視線を感じる。

「元気でね……」

 チャンディはリングの端、あと一歩で炎の中に転落するところで立ち止まって、深く息を吐いた。

 この会場に集まった人々も、すすり泣いている家族も、自分さえいなければこの場に来る必要すらなかったはずだった。本当は自分が涙を流すだけでよかったのだ。そして、ここから飛び降りれば、最後の涙も止まる。

 それでいい。自分の命が一つ、家族の命が三つ。どちらが救われるべきか、誰にでも分かるはずだ。

 そう、これが正しいんだ――。

 踏み出そうとするチャンディの右足を、突然の喧騒が止めた。

 喧噪どころではない、悲鳴に近い何人もの声。会場の外から入り込んで、チャンディの耳まで微かに聞こえる。同じ方向から、観客たちの先ほどと異なる低いどよめきが聞こえ、それが客席に伝染してゆく。

 地獄の土産というわけではないが、チャンディは反射的に声のする方を向いた。

 赤い空の向こうから、翼を広げた巨大な影。大きな頭に曲がった角、鋭く光る赤い眼。背には人が乗っている。

 あんなものに乗る者は、この世に一人しかいない。


 ズルフィカールは調子に乗って、観客の頭上すれすれを飛び回った。悪魔の巨大な影が横切る度、観客たちは悲鳴を上げ、荷物を次々落としながら逃げ惑う。

「あっはっは、愉快愉快! おい、こいつらどうしちまおうか」

 悪魔の薄汚れた歯がむき出しになった。

 衡はほとんど失われた筋力を総動員して、悪魔の首元にしがみついている。

「関係ない人はやめろ、チャンディを助けるんだ。俺はもうほとんど見えない、頼む」

「なんだよ、つまんねえな」

 ズルフィカールは客席を冷やかすのをやめ、リングに頭を向けた。

 観客の逃げた観客席に近衛兵たちが続々と展開し、ラニと揃いの大砲を各自構え、バラバラに弾を放った。

 打ち上がる白い光弾は、巨体に似合わぬ悪魔の速さに一発も追いつかない。振り落とされそうな人間一名を乗せたまま、リングへ近づいていく。

「チャンディ!」

 衡は精一杯叫んだ。

「飛び乗れ!」

 チャンディは数歩後ろに下がり、真っ直ぐ飛んでくるズルフィカールに合わせて、助走をつけて飛び込んだ。ズルフィカールは翼をリングの柱へ当てないよう体を傾けてすり抜け、その背中にチャンディがしがみついた。

 リングが高速で遠ざかってゆく。振り返る余裕はなかったが、チャンディは背後に向けて叫んだ。

「きっと迎えに来る! きっと!」

 ズルフィカールの背中が水平に戻り、チャンディは衡の背後に腰を落ち着けた。

 衡は前を見たまま

「無事か?」

「衡! このハゲ、何で来たんだよ!」

 チャンディは衡の背中に強くしがみついた。

「生きるんだろ、チャンディ。生きてくれよ」

 ズルフィカールが会場の端で旋回する。

「おい、しっかり捕まれよ」

 振り落とされそうになる衡に文句を言っている。

「お前、そうか、もう……」

 衡の体力は明らかに衰え、悪魔の背中にしがみつく腕は何度も頼りなく滑っていた。悪魔を挟み込む脚力もおぼつかず、両方が滑ったらそれが最後になりそうだった。

 衡はもう光度しか分からなくなった目でズルフィカールの背中を睨んで、叫んだ。

「ズルフィカール、俺はどうなってもいい。狙いはバラバだ!」

「良くねえよハゲ!」

 チャンディは滑る衡の手を掴み、ズルフィカールの背を握らせた。

「お前も最後まで生きろ。最後の一瞬まで、私の戦いを見届けるんだ!」

 チャンディの掴む手に力が入った。

 衡は返答の代わりに、悪魔の背中をより強く掴んだ。

 ズルフィカールが持ち前の大口を開ける。

 その先には、バラバが奴隷に車を引かせ、客席下の通路へ逃げ込もうとしている姿が見えていた。

 ズルフィカールの吐く赤い光線が出入口を貫いた。赤い光と轟音が放射状にまき散らされ、主人の後ろを追う奴隷や侍者たちが吹き飛んだ。

 悪魔と爆発の様子はリングを映すためのカメラが捉え、街中のディスプレイに中継された。避難した観客たちが大通りを走る中、行き場を知らない乞食がその映像を他人事のように眺めている。

 ズルフィカールは雛壇に沿って急上昇し、再び大きく旋回を始めた。

「しまった、逃がしたかな」

 飛びながら悪魔は頭を掻いた。

 爆発で荒れた客席から、尚も近衛兵の光弾が狙うが、やはり悠然とかわしてゆく。

 ズルフィカールは蛇行しながら競技場を一周して、先の出入口の手前で低空飛行し、再び光線を放った。出入口の向こうの客席が爆破されて陥没し、破壊された立見席と通路が一瞬で瓦礫と化して落下した。

 その直後、衡の身体が悪魔の背中を離れ、宙を舞った。

 転落したのではない。衡はその衰えた身体で、破壊された最前列の席に辛うじて着地し、転倒しそうな勢いで駆け続け、破壊されて単なる穴になった出入口の中へ消えていった。

 飛行を続けるズルフィカールの背で、チャンディが思わず振り返る。

「おいおいおい、降りたぞ!」

「降りたな。愉快な奴だ」

 そう言いながらズルフィカールは三度光線を吐き、立見席を焼き尽くし、瓦礫の山に変えてゆく。

「そうじゃなくて、追いかけろよ」

「は、何でだ。自分はどうなってもいいって言ったのはアイツじゃねえか」

「都合いいことしか聞こえねえのかハゲ!」

 チャンディは小さな踵がズルフィカールの脇腹を蹴った。

「あんたの主人だろ、追えよ!」

「しかし、もう少しで召喚が切れるぞ」

 いつの間にか、彼の足先が消えていた。既に脛の中ほどまで存続が危うい。

「じゃあ急がなきゃな。あの通路は裏口に繋がるはずだ。回り込め」

「はいはい。まったく、魔法使いですらない奴に何で……」

 ズルフィカールはぶつくさ言いながら高度を上げて雛壇を乗り越え、競技場の外周へ飛び出した。


 競技場の通路は、立見席の客はほとんど逃げ終えた後だったものの、車に乗るために機動力に欠ける富裕層がまだ右往左往していた。その上に雛壇の瓦礫が降ったもので、いくつかの車はその下敷きになり、他のいくつかの車は道を塞がれて立ち往生していた。奴隷たちが動員され、瓦礫を押しのけている。どこか舞台装置でない場所から出火もしていて、通路全体に薄く靄がかかり、焦げた臭いが目を焼いた。

 バラバは一向に逃げ道の見つからない自分の車に座っていられなくなり、衰えた脚で立ち上がって、数人の侍者を連れて裏口へ向かっていた。解放された裏口から外の灯りが差している。

「ジハーディ・バラバ!」

 突然呼ぶ声がしてバラバは振り返った。その前で侍者が構える。

 衡は薄れゆく視界の中で、派手な男を派手な侍者が守ったのを僅かに捉えた。

 バラバと衡、目を合わせる。

「ほう、我が息子、だった者か」

「貴方の息子だ」

 衡にとって最後の賭けだった。この男と相対しなければチャンディを助けたことにならない。そうせずに獄門を潜ったとしたら、自分に最後まで残るのはきっと後悔になるはずだった。

 幸い、衡は魔法使いだった。体に宿る魔力は操れないが、黒瀬いずみの魔術を受け継いだ、魔法使いの弟子だ。

「そうだ、お前は私の息子だった男だ。だが君は、今の君は違うだろう」

「それが違わなくてな。私はアーグム・アッバース、元の自分さ」

「下手なハッタリだな」

「なるほど、そう信じたければそれで良い。自分がかけられたこともない癖に、かかったつもりとはな」

 そう言って衡は、右手をバラバに向け、手を広げた。

 掌に目。

「殺すな。息子を殺すな。人の子を殺すな」

 掌の目の模様が赤い光を放った。赤い瞳孔が開き、無機質な視線が生まれた。

 バラバは目を見開いた。

「アーグム……、我が息子が、そんなまさか……!」

 侍者たちの構えた姿勢が震えている。

 実は衡も震えていた。目の模様が光るのは自分でも想定外だった。

 何とか震えを堪え、衡は畳みかけた。

「殺すな。人を殺すな。俺の、仲間を殺すな!」

 爛々と光る赤い目の先で、バラバの顔から生気が飛び、その場にへたり込んだ。

 その時、裏口から大きな音と振動が立ち、悪魔の角が室内へ食い込んできた。

 そのまま周囲の壁を粉砕してズルフィカールが飛び込み、衡の体を小脇に抱えて、リング側の出入口の方へ突っ切っていった。

 その一瞬で通路の壁も柱も大量に破砕され、上から大小の瓦礫が零れ落ちる。

 その中を、ただの老人がへたり込んでいた。


 ズルフィカールはリング側の、自身で既に破壊した出入口から飛び出し、未だ火柱を上げ続けている会場を横断し、反対側の雛壇を貫通して外へ出た。そして混乱する会場前にて、一人だけぼんやりと立っているラニの前で、遂に魔力が尽きて消滅したのだった。その場には衡とチャンディだけが残され、直前までの飛行の勢いで地面を転がった。

 ラニは飛んできた二人を数秒のうちじっと見ていたが、ふと我に返り

「待ってました!」

 と叫んだ。波動砲をいそいそと構えて始める。

 衡は起き上がりながら、息が切れるに任せて

「どうする?」

 と聞くと、同じくチャンディも息を切らし

「決まってるさ」

 と応じた。そしてチャンディはズボンの小さなポケットから、片手で収まる小さな魔本を取り出した。長方形で、下に小さな緑の魔石が嵌められるようになっている。

 チャンディがそれを遠くに向け、魔石を押し込んだ。魔石が小さく輝く。

 するとすぐにどこからかギコギコとお馴染みの音が聞こえ、三本脚の荷台が元気良く走ってきたのだった。

「逃げんだよ!」

 チャンディは叫んで、荷台に飛び乗った。

 荷台はチャンディだけを乗せ、衡を置いて去ろうとする。衡も追いかけるが、脚がもつれて間に合わない。それをチャンディが腕を伸ばし、引っ張り上げた。

 ラニは慌てては光弾で狙うが、飛び跳ねるように遠ざかってゆく荷台にはなかなか当てられなかった。

 彼女の脇に巨大なマシンが停まった。例の、シェールの愛車が変形した鉄のカマキリだ。頭部の運転席からシェールが頭を出し、ラニに乗るようジェスチャーした。

 衡は荷台に何とか這い上がると、そのまま横になった。消耗したのは勿論だが、もう身体を起き上げる感覚を保つのが難しくなっていた。

「死なないだろうな衡、死ぬんじゃねえぞ」

 チャンディは運転席でペダルを漕ぎながら声をかけた。衡は返事ができないままだった。

 カマキリ車輌の後部座席にラニが乗るのを待ちながら、シェールが紫の扇子を広げた。前方に振って合図を送ると、荷台の更に向こうの土中から機械兵が現れた。

 荷台が脚の一本を前に伸ばして急ブレーキを掛けた。前方に見える機械兵は銃を構えている。

 チャンディは舌打ちした。斜め、左右、かなり広範囲を囲まれている。そして背後はカマキリが迫っていた。

 シェールは微笑みを浮かべ、そして叫んだ。

「撃て!」

 チャンディは伏せた。

 数秒、静かな時間が流れた。

 発砲音がまったく聞こえない。

 更に数秒後、銃声の代わりにあちらこちらで足音が聞こえ始めた。

 チャンディが顔を上げると、機械兵団が歩を進めていた。しかも荷台にではなく、全員が反対方面に向かって歩いていた。

「……え、何?」

 チャンディは困惑して、背後のカマキリの様子を見た。

 ラニも当惑しているらしい。

 シェールはひとしきり状況を見たあと、独り言のように呟いた。

「こりゃ、おっさんに何かあったな」

 そして扇子を閉じて、運転席の脇に立てかけた。

 一分も立たぬうち、機械兵は一体残らず姿を消し、後には人間だけが残った。

「撃ちますか?」

 ラニはやや戸惑いながら波動砲を構えて見せた。

 シェールは首を横に振った。

「いや、いい。もし雇い主が死んどったら、首も必要ない」

 なんだ、とラニは波動砲を降ろした。

 シェールはハンドルをいっぱいに切る。カマキリのような車体がその場を回転し始めた。

「自分ら、よく生き残りおったな。さようなら」

 あっという間に車輌は背面を向き、そのまま炎の上がる競技場へ走り出した。

 広大な砂漠の海に、一台の荷台が立ち尽くしている。

「助かった……」

 チャンディが一気に脱力し、小さな背もたれに背を勢いよく預けた。

 そのまま反り返って、後ろの衡を見る。

 衡はまだ寝転がっていた。目は空いているが、身体はぐったりとしている。

「おい大丈夫か」

 チャンディは慌てて立ち上がり、アーグムの身体を揺さぶった。

 衡はようやく口を開く。

「俺、もう死ぬのか」

 声はか細い。

 手を動かそうとしても、指先が辛うじて動くだけだった。力の入れ方が分からなくなってゆく。

 その手をチャンディが取った。

「このハゲ、何言ってんだ」

 遠くなった手の感覚に、微かな温もりが届く。

「お前は地上の身体と魔石で繋がってる。アーグムの奴が石を捨ててなければ、元の体に帰れるはずだ」

「ほんとか」

「……保証はしないけどな」

 チャンディははにかんだ。

「ありがとう」

「違うって。こっちがありがとうなの」

 もう何も言えなかった。

 ほとんどの感覚が失われ、手の温もりだけが余韻のように残っている。チャンディがそこにいて、自分がそれを知っている。

 今が最期の一瞬だとしても、これが最期の一瞬であることはきっと幸福だろうと、衡は思った。


 アーグムの手の、僅かな握力が抜け、チャンディの手から滑り落ちた。

 チャンディは噛み殺していた涙を、遂に一滴零してしまった。もう拭うこともせず、乾燥した世界を潤すに任せていた。

 もうあの男は知らないのだから、それで良かった。


 衡は浅い眠りから覚めた。

 見渡す限りの光の世界。体の感覚はまったく失われ、無のように軽い。ただ、視覚なのか夢なのか、真っ白な光だけが見えている。

 視界の上の方から、黒い何かが降りてきた。先ほどまでのように見えづらい感覚はなく、輪郭ははっきりしている。

 ゆっくり降りてきたそれは、ここしばらく鏡に見ていた、アーグム・アッバースだった。

 ――お前が掛水衡か。

 話しかけてきた。想像より少しだけ優しい話し方。

 ――あなたが本物のアーグム?

 彼は答えなかったが、そうに違いなかった。

 ――あの男は、ジハーディ・バラバはどうだ?

 率直に言って、いきなりあの男のことを聞かれるとは思っていなかった。

 ――あなたのお父さんは……、わかりません。どうかしたかもしれません。

 ――そうか。

 ――ごめんなさい。

 ――どうなっても仕方のない男だった。チャンディに手出しをしたのだろう。

 ――まあ、はい。

 ――それで、チャンディは?

 ――チャンディは無事です。一旦何とかなったみたいです。

 ――そうか、何よりだ。

 ――……あの。

 ――何だ。

 ――あなたは、どうしてチャンディと共に戦おうと思ったんですか?

 ――誰かを守ることに理由はいるまい。

 ――はい、普通はそうです。でも、あなたの世界では必要だったはずです。実際、そのためにお父さんまで敵に回したわけで。

 ――……面白い女だったからだ。

 ――面白い……。

 ――それだけだ。面白い奴は生きるべきだ、というだけだ。

 ――……そうですね。俺が野暮でした。

 ――お前はお前で、面白い女を亡くしたそうじゃないか。

 ――はい。お蔭様で、最後に会うことができました。生き返るわけではないけど……。

 ――そうか。お前は随分つまらなくなっていたようだが、俺は何も知らないから、好き勝手させてもらった。もしこのまま戻れるなら、お互い様と思って許せ。

 ――はい、こちらこそです。

 ――死者は、超えろよ。

 ――超える?

 ――死んだ者を超えられるのは生きている者だけだ。立ち止まらず、超えるんだ。それが供養になる。

 ――ありがとうございます。なんか、今は分かる気がします。

 ――ま、もし戻れたらな。

 ――アーグム、あなたも。死んだ人もそうですが、生きている人のことも大切に。チャンディは多分、あなたが知るよりもっと面白いですよ。

 ――……そうかね。幸運を、衡。

 ――こちらこそ、幸運を、アーグム。

 アーグムはそのまま下の方へ遠ざかり、やがて見えなくなった。

 視界が更に強い光に覆われる。そして、柔らかく温かい感触に全身が包まれ――。


 目が覚めた。生きている。

 すぐに目の焦点が合った。灰色の、見覚えのない天井。

 起き上がると、上体を流れ落ちるタオルケットの感覚がはっきりと知覚できた。先ほどまでと違う、少し小さな身体の感覚。

 タオルケットから両手を出して眺める。頼りない手のひら。懐かしい自分の身体で間違いない。

 これほどまでに明瞭な意識、明瞭な感覚。夢ではない。

「戻った……。本当だ、戻った!」

 衡は独り言で叫んだ。

 いずみにもらったあのペンダントが首元に掛かっていた。ぶら下がっている緑の魔石を手に取る。

「まだ生きてる」

 アーグム・アッバースもきっとそうに違いない。チャンディの荷台の上で蘇り、彼女を驚かせていることだろう。

 だが、わからないのはこの場所だ。キングサイズのベッドに、その五倍はある広々とした灰色の部屋。自分の部屋でもなければ、記憶にある他のどの部屋でもなかった。

 ノックの音が聞こえる。両足の差す方にドアがある。返事をするとドアが押され、ローブを着た一人の女性が入ってきた。すこぶる美人だが、記憶にない。

「おはようございます。衡様、こちらへ」

「え、あの、どちら様?」

「本日より使いとしてお世話になります。よろしくお願いします」

「は、はい?」

「どうぞこちらへ」

「わかりました……?」

 衡はベッドから立ち上がり、女性に連れられて部屋を出た。


 長い廊下の向こうへ出ると、そこは外だった。何と、巨大な宮殿の二階だ。バルコニーがせり出している。

 遠くへ目をやると、見える景色の奥の方まで荒廃した世界が広がっていた。そして下を見ると、老若男女多数の人々が取り囲んでいる。

 女性は衡の脇に立ち、先ほどまでとは一転した凛とした声で叫んだ。

「我らが神、アーグム・アッバース様のお成りであるぞ!」

 人々は一斉に深々と頭を下げた。

「ははーっ!」

 衡は立ち尽くしていた。

「俺、何したんだ……?」


   終

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地獄無頼、川を渡る 友野 大智 @AccidentsHappen

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