ジジイと謎の供え石

モノクル・あまぢい

第1話

 S教授の事を、オレは親愛の情を込めて〝ジジイ〟と呼んでいる。実にいい加減なジジイなのだが、なぜか憎めない、不思議な魅力にあふれた好々爺なのだ。

そもそも、人が他人の性格や言動についてあれこれ批評する時、たいていは自分の事は埒外に置いて、好き勝手の言いたい放題というのが常だろう。

 たしかに、己の欠点や弱みを念頭に他人のことをあれこれと言い募るのは気が退けるものだが、そんなことを気にしていたら、世の中は遠慮の塊だらけになってしまう。

 言うべき時には歯に衣着せぬ論調の方が潔いし、すっきりとして後腐れもない。複雑に深謀遠慮するのは時と場合によれば、ぼやけたピント外れになると、オレは思う。S教授は、オレが通う大学の教授であり、彼が研究専攻する農業経済学の分野においては、超一流の肩書を有しており、その経歴たるやまことに華々しいものがあった。

 デンマークやオランダへも留学経験があり、海外の学識者からも一目置かれているというのだから驚いてしまう。学内における名声も高く、他教授からの信頼も篤い。

 そんな人物がどうしてこんな片田舎の名もなき私立大学に流れて来たのか。しかも、あろうことかキリスト系の品行方正を重んずる学風の中で、その異質さが看過され続けているのも不思議でならない。

 なぜなら、ジジイはその立派な経歴とは裏腹に、日常的な言動や立ち居振る舞いが、すこぶるキテレツかつアナーキーであったのだ。落差の大きいギャップは鮮烈ですらある。


 オレがS教授を初めて見たのは、いま暮らしているこの学生寮でのことであった。1年次、新入生たちを集めてのオリエンテーションがあり、彼はそこに現れたのだった。

 寮は基本的には大学管轄の施設であり、建物の維持管理や設備の補修更新など、基本的な管理運用と資金投入に関しては学園側が責任義務を負っている。

しかし、入寮生たちの日常生活における統括と諸規範の規定履行、さらには寮費の徴収と運用に至るまでの実務に関しては、すべて学生たちの自治に委任されていた。

 半自治寮とも言える寮運営は、全寮生投票の選挙によって選ばれた委員会以下の役員を中心に展開され、大学本部からは治外法権の扱いとなり、自主性を保障されてもいた。

 総数二百名超の二十歳前後の男ばかりが一つ屋根の下で送る共同生活は、穏やかで和気あいあいとした雰囲気とは程遠く、常に波乱と混沌の様相を内包していた。

精神と肉体の不均衡は、思春期のそれとはまったく異質なもので、社会人予備軍としての良識を求められつつも、恋愛や情欲に対する激しい葛藤は、情緒の破綻を伴うものだ。

 そんな現実世界と目指すべき将来の展開図構築という、矛盾だらけの難題を突き付けられた寮生たちは、何事につけ極端で破天荒な振る舞いに及ぶことが多かった。

さて、先のオリエンテーションには大学側から二名の担当者が来席していたのだが、そのうちの見るからに偉そうな人物が、S教授なのであった。

 もう片方のいかにも小役人然とした腰の低い特徴のない顔つきの男に比べて、S教授のなんとも存在感のある、異様とも言っていいような佇まいに、集まっていたオレたちは誰もが呆けたような表情を向けていた。

明らかに老人ではあるのだが、背はやけに高く細身でスマートな体躯をしていて、皺の多さとは不釣り合いなほどに彫りの深い顔立ちを見せ、一見すると北欧辺りに先祖の血筋を持つハーフのようであった。

 ロマンスグレーの頭髪はきれいなオールバックで整えられ、細く緩いカーブを描いた眉毛はチャコールグレーで、二重瞼の眼はきれいな瑠璃色をしていた。

 鼻筋はすっと通って高く、薄い唇を口髭とあご鬚、さらにはたっぷりとした頬髯が囲むという念の入れようだった。

 それだけでも十分に風変わりな雰囲気を醸しだしているのだが、何より型破りだったのはその服装であった。

 ジャケットはキリギリスのような緑色で、中のワイシャツはモンキチョウのような黄色、加えて蝶ネクタイが赤トンボの如き鮮やかな赤色だった。

 派手という表現では収まりきらない突拍子もないそのカラーコーディネートは、場違いどころか、狂っているとしか思えなかった。

 そのせいかどうか、寮長という通り名で呼ばれている委員長からの寮則に関する説明は、全く耳に入ってはこなかった。

 いつの間にかオリエンテーションが終了し、S教授は小役人と一緒に食堂を出て行ったが、オレたちは一様に、阿呆のような顔でただそれを見送っていた。


 学生寮は一部屋四人住まいが基本構成で、学年違いの先輩後輩がバランスよく組み合わされていた。

 寮生のほとんどは地方出身者だが、様々な地域から来ているため、寮内のあちこちでは異種雑多な方言が飛び交う。

 そうした話し言葉の違いはもちろん、異なる学部、入学の経緯、あるいは個々人の性格に至るまで、その人間を構成する諸要素が複雑に絡み合っての男二百人ともなれば、一筋縄ではいかない状況が随所に垣間見られることは必然とも言えた。

 ところで、オレの同室メンバーはというと、三年生の安兵衛とネルソンの両先輩、そして新年度で二年生になったドヤとオレ(〝ロッキー〟)という顔ぶれである。

 ほとんどの寮生には各人にこうしたニックネームが付与されていて、本名で呼び合うことはまずなかった。

 というのも、大学内における学生寮の立ち位置には一種独特なものがあり、寮生自身も、実家住まいやアパート暮らしの学生たちと自分たちを差別化し、自分達を特別視するという、なんだか良く分からないプライドがあるからだった。

 それゆえ、寮生同士は苗字や下の名前でさえなく、独特のセンスによるあだ名で呼び合い、常に同胞としての意識共有を念頭に置いているのだった。

 それは取りも直さず、同じ空間で寝食を共にし、運命共同体とでもいうべき一大勢力の一メンバーであるという、強い帰属意識の表れでもあった。 

 とは言え、現実問題としては、メジャーすぎる同姓同士の混同を回避し、どうにも難解な表記の下の名を、苦労して呼ばずに済むからというのも理由であるらしい。

 驚くほど広大な敷地面積を有するこの学園キャンパスの一角に立地する、鉄筋コンクリート造三階建て二棟の白亜の建造物である学生寮は、見るからに威風堂々としていた。

 隣り町にある有名国立大学のそれにも見劣りしないほどの、見事な白樺並木を抜けて構内に入って来る者たちが真っ先に目にするのは、天空に突き抜ける尖塔を持つ大学本部棟の建物よりも、この学生寮の威圧感たっぷりの外観だった。

 寮生達の持つプライドの根底にあるのは、半自治の独立性から来る自尊心と、寮外学生にはない強い愛校心だろう。その表れの一つとも言えるのが、学園の愛唱歌だった。

 寮独自の様々な行事の際に必ず歌われるのがこの歌で、寮生なら誰でも一番から三番までをフルコーラス歌えた。

 また、そうした行事の開催に当たっては、地元の商店街を回り、協力を依頼するとともに、広告の協賛金援助も仰いだ。

 仮装パレードが街中を練り歩けば、顔見知りの居酒屋店主たちが声を掛けてくるし、子供たちははしゃいで後を付いてきて、さながらブレーメンの音楽隊のごとくであった。

 こうした学園愛や地域密着の姿勢が学生寮に対する高い評価となり、自ずとその存在価値を大きくさせていた。


 寮部屋はドアを入って右手の壁際に、木製のがっちりした造り付けの四人用の二段ベッドがあり、フロアを挟んで向かい側が各自のロッカーとなる。

 ぐるりと裏手に回れば、同様に木製の造り付けの四人分のデスクがあり、その上にある本棚も充実していた。デスク背後にはちょっとした家事的スペースがあり、電気ボットや電熱器の使用も可能だった。

 同室の安兵衛は首都圏出身で面長の長髪男。細身でスマートな体型をしており、標準語の穏やかな口調で沈思黙考タイプだった。

 ブラジルから初めて来日したサッカー選手がニックネームの由来と聞くネルソンは、コテコテの関西弁で賑やかにしゃべる中肉中背。これまた肩までの長髪で、度のキツイ黒縁メガネをかけて少し出っ歯のひょうきん者だ。

 同期のドヤは東北地方のリンゴ農家の長男とのこと。長髪で丸顔のぽっちゃり体型。陽気な面もあるが基本的にはシャイで人見知り。故郷なまりを意識的にカモフラージュしつつも、無意識に出てしまう独特のイントネーションがそこはかとなく可愛い。

 遅ればせながら自己紹介を。中部地方の田舎町生まれで、高校を卒業して初めて実家を離れ、いきなり八百キロ北上してこの大学にやって来た。

 男三人兄弟の真ん中ゆえの気ままな性格なのか、それとも山あいに育った窮屈さを嫌ってなのか、地平線の見える土地に行きたくて、北国のこの街を選んだ。

 細身の高身長でヘアスタイルは常に丸坊主。きれいな二重瞼に大きな瞳。高く鼻筋が通り、鼻髭・あご鬚・ほお髯をびっしり生やしているあたりはどこかの誰かと似ているが、全くの偶然である。

 社交的で八方美人だから、初対面でもすぐに馴れ馴れしく相手の懐に入りたがる。脳内に浮かんだことを速射で言葉に変換するためか、異常な早口で呂律が良く回る。

 読書好きの活字中毒で、音楽とギターに加えて、酒をこよなく愛する好青年である。田舎育ちのカントリーボーイでギターを弾くということで、かの有名なカントリーシンガーにあやかって〝ロッキー〟と呼ばれている。

 そんなオレは、ある事をキッカケにS教授との知己を得て、大学教授と学生という表向きの関係を越えて、個人的に親しく交流することになった。

オールバックと丸坊主というヘアスタイルの違いはあるものの、似たような背格好と髭面の風貌が共通点でもあり、いつの間にか〝ジジイ〟〝ボウズ〟と呼び合う仲だ。

 前述の如く、S教授の初見は一年次の入寮オリエンテーションの場であったが、その時は異彩を放つ身なりと特異な風貌に、ただ呆気に取られ、遠目に眺めていただけだった。

その次に彼と再会したことが奇妙な交流の始まりとなり、予想もしなかったエポックメイキングな出来事と関わる端緒にもなったのだった。


 その日も、朝早くからギターを背負って森に出かけた。学生寮の裏手に広がる二千ヘクタールにも及ぶ広大無辺な森林は、通称〝N原始林〟と呼ばれていた。

自分が生まれる十年ほど前に、地元の自治体指定の自然公園となり、その大部分は国有林など公的に保護管理される森林保全地区だった。

 便宜上、〝森林公園〟と呼ぶことにするこの公園の森林は、試験林、水源涵養林などとして昔から保護されてきたので、いまなお原始性の強い天然林も残されている。

公園内には林間散策や自然探勝のために複数の遊歩道が整備され、木造りの東屋やベンチなどを設置した休憩園地も数カ所あった。

 当然ことながら、車輛の進入は禁止され、徒歩または自転車での立ち入りに限定してあったので、四季を通じて自然を求める多くの人々が訪れていた。

 この大学に入り、学生寮暮らしが始まってすぐにこの原始林の存在を知った時には、故郷の山村景色とあまりに違いすぎるそのスケールに圧倒されたものだ。

 生まれ育った田舎の村は、周囲をぐるりと千メートル程度の山々に囲まれ、日の出は遅く日の入りは早い。見上げる空はせせこましく、窮屈に思うことが多かった。

 三階建ての寮の屋上に上がり、周囲を見晴るかすと、まさしく三百六十度の絶景が拡がり、はるか先の地平線から立ち上がる空は、それまでに体感したことのない圧巻の広がりで迫ってきた。

北の北の大地の荒々しくも壮大な自然環境は二十歳前のカントリーボーイを放ってはおかず、毎週のように森林公園に足を運ぶこととなったのだ。

 軽量乍ら軽量ながら堅固なセミハードケースに愛用のアコースティックギタ―を収めて背負い、片手の布袋には缶入りオレンジジュースとお握り二個が入っている。

この日の目的地は、寮の裏手から森へ入って少し先にある水芭蕉群生地脇の東屋だった。粗目の砂利道を抜け、森林内の未舗装の遊歩道に入る。

 路肩の低い位置にはびっしりとクマザサやフキが生え、両脇には針葉樹と広葉樹が混在した林が続いている。

 高い樹々の上で野鳥の声が響き、樹枝が風に煽られ、ざっわざっわとスローなテンポで左右に揺れているのが見える。

 ザスザスと聞こえるのは自分の足音で、あとは鳥と風が発する音だけの世界だ。音数の少ない空間に居ると、なぜだか聴覚が鋭く研ぎ澄まされるような気がする。

東屋のある場所に着いた。方形屋根の下に木製のテーブルとベンチがある。まずは一息入れようと、布袋からジュースとお握りを取り出した。

 子供の頃から、お握りにはお茶でなくオレンジジュースの組み合わせだった。遠足の時など、同級生からからかわれたりもしたが、自分好みに妥協はなかった。

 早朝、出がけに寮で握って来た塩むすびは、意外と美味しかった。目の前には水芭蕉の群生地が広がり、今はまだチラホラと白い花が見える程度だ。

 ケースからギターを取り出し、音叉を使ってチューニングして、やおらコードを弾き始める。高校時代に手に入れたそのギターは、純国産の有名メーカーのハンドクラフトだ。

 丈夫な造りとバランスの良い出音が魅力的なシリーズの一本で、とても人気があった。バイトで貯めた小遣いを手に、部活の先輩から無理を言って譲ってもらったのだ。

 野外で弾くと、まるで天然のコンサートホールとでもいうように音抜けが良く、歌声はスチール弦のハーモニーを伴って、原始の森中に響き渡って行った。

―――ひゃ! 

ふと背後に何かの気配を感じてゾクッとした。おそるおそるゆっくりと振り向くと、そこに背高の男がヌ~ッと突っ立っていた。

「うわーーーー!」

驚いて、ギターを持ったまま反射的に飛びのき、身構えながらその相手に対峙した。

「な、何なんですか、ア、アナタは!」

度肝を抜かれて焦って、ついどもってしまった。恥ずかしさで顔が赤らむのが分かった。

「悪い悪い、驚かせちまったな」

 そう言いながら頭を下げて詫びを入れる男は、良く見ると老人だった。がしかし、身長は自分と同じくらいあり、その身なりもキチンとしていた。

 頭にはグレーのハンチングで、グリーンのパーカーを羽織り、開けたその胸元から見える白いTシャツには、黄色いまん丸い笑い顔のイラストが描かれていた。

 下は茶色のショートパンツでその下に黒のタイツを穿いている。足もとは堅牢な革製トレッキングシューズで、背中のデイパックも米国ブランドの高そうなものだった。

 非の打ち所がないコーディネートと真摯な態度には怪しさのかけらもない。

「いえいえ、こちらこそ取り乱してしまって申し訳ありませんでした」

下げた頭を戻してあらためて目の前の顔を見る。―――あれ、どこかで見覚えが……。

 すると、深い皺の濃い顔をした相手も、一瞬首を傾げ、すぐさまハッシと両手を叩き合わせた。

「ボウズ、お前さん、あそこの寮の住人ではないのか!」

 いきなり人をボウズ呼ばわりもないだろ。たしかにこのヘアスタイルだ。ボウズには違いないか。

「そういえば、アナタも、去年の春のオリエンテーションで、大学から来てた方ですよね」

 あの時の素っ頓狂な出で立ちと、異様な風貌がたちまち蘇って来た。

「ワシは、R大農業経済学教授のSだ。改めてよろしくな」

 ざっくばらんな口調は少しも嫌味が無く、間合いの詰め方は拙速だが、悪い感じはしない。不思議な印象の人だなと思った。

よっこらしょと言いながら、Sと名のった老人は東屋のベンチに腰かけてから、

「随分と、〝イイ歌い方〟だったな」

と、絶妙な表現で会話を始めた。

 そうなのだ。オレは自分の弾き語りについて評価される時、ただ単純に〝歌が上手い〟とか、〝ギターテクニックが抜群だ〟などと言われるよりも、歌い方の良さを賛美される方が、最高に嬉しいのだ。

―――この人は分かっている。

と思った。そして、何となくだが、目の前の老人は単なる年寄りでも大学教授でもなく、人間そのものについて、深く思索できる人なのではないかとも感じた。

 それからしばらくの時間、二人で色んな話をした。音楽や農業、地球環境や森林浴のこと、食べ物の好みや好きなタイプの女性についてなど、話題は多岐にわたった。

 彼は知識豊富で、関心のある分野もバラエティーに富み、どのジャンルについても一家言を持っていた。その上、話術も巧みで聞き手を引き込むテクニックも抜群だった。

 そしてまた自分自身に対しても厳しいようで、教授という体面などどこ吹く風とばかりに、自己評価は辛辣で手厳しく、こちらが呆れるほどに容赦が無かった。

 優柔不断でいい加減、よく嘘もつくし、約束事は面倒だと言った。自分がいちばん可愛いのだと語りながらも、他人のミスを責めるのも快楽だとカラカラ笑う。

 人は大人になればなるほど、素直になることは相手に弱みを見せることと同義になり、欠点を晒すなんてもっての外となる。ずうっと、そんな風に考えてここまで生きてきた。

 それなのにこの人は、社会的に高く評価される大学教授という地位にありながら、頑迷に陥りやすい老境にいてすら、どうすればここまでオープンマインドになり得るのか。

 知らず知らずS教授の人柄に関心を抱き、同時に何だか好きになって行く自分がいた。この時からオレは彼を親愛の情を込めて〝ジジイ〟と呼ぶことにしたのだった。

 〝ジジイ〟は話の最後に何気なく、この森には探し物目的でよく来ていているのだと漏らした。自分もこの森へは入学以来何度も来ていて、公園内の遊歩道はすべて把握していると答えた。

 実際に訪問回数は数知れず、通行可能な遊歩道以外にも、無許可ではあるが、時にはわき道に逸れて林内の獣道にも踏み込むこともあるので、知らない場所は無いのだと告げた。

すると、ジジイは何故か、ほんの少しだけ思案顔になり、

―――また、必ず会おう。

とだけ言葉を残して去って行った。その時はさして気にも留めなかったが、それがのちに自分と大切な人を巻き込む椿事になるとは。


 それ以来、S教授とは親密さが増し、頻繁に会うようになった。学内のキャンパスで出会えば挨拶もするが、森の遊歩道で見かけることも多かった。

 森での彼はどういうわけか自然観察や散策目的というよりも、やはり何かを探しているようで、時には歩道を外れ、クマザサの中にまで足を踏み入れていることがあった。

 一心不乱なその様子に声を掛けるのは躊躇われ、見ないふりをしてそっとその場を離れることにしていた。いったい森で何を探しているのだろうか。

 大学ではS教授の講義も単位に入っていたので履修科目として受講し、教室の最後方で真面目にノートを取った。時折、目線は会うものの、互いに素知らぬ顔を決め込んだ。

 講義終わりにはそのまま彼の研究室に遊びに行き、冷蔵庫から勝手に冷えた緑茶を取り出して飲み、甘味菓子をこっそり頂き、見つかってはエライ剣幕で詰られたりした。

 半世紀ほどの年齢差がありながら、お互いに〝ジジイ〟〝ボウズ〟と呼び合い、遠慮会釈なくズバズバと物を言い合う。傍目には奇異に映る関係だったが、構いはしなかった。

 互いの欠点を指摘し合うのも平気なら、下らぬ下ネタで盛り上がるのも毎度の事。教授という肩書も学生の立場も脱ぎ捨てて語り合えるから、本音の付き合いができるのだ。

 S教授は、大学関係者や教授連中との飲み会は堅苦しくて好かぬと言って、折に触れて、自分たち寮生と、隣町のN町で飲み歩くことが度々あった。

 自分達のような親からの仕送りとアルバイトの二本立てで暮らしを維持している寮生が、好んで通うのがその街の一角にある「W」という居酒屋だった。

 Wは港街生まれの女将が一人で切り盛りする店で、一階にカウンター八席、二階に四畳半二間の座敷がある小ぢんまりした規模で、いつも学生客であふれていた。

 自分達の母親くらいの年回りであることと、その鉄火肌で義侠心溢れる女将の人柄を慕って学生が集い、彼女のことを親しみを込めて〝かあさん〟と呼び慣わしていた。

 かあさんは網元の家に生まれ、何不自由ない子供時代を過ごしていたが、不運にも実家の没落とともに家を出ることとなり結婚するも、若くして旦那と死に別れてしまう。

 しかし気丈にも女手一つで居酒屋を経営しながら、一人娘を立派に育て上げた。娘は既に結婚して別の街で暮らし、かあさんは店近くのアパートを借りて猫二匹と暮らしている。

 「ほらよ。こんなものでも食べてみな」

 そう言ってかあさんがコトリとカウンターに置いたのは、ほんのりと白い湯気の立つ、熱々の唐揚げだった。しかも素材は鶏肉ではなく鮭。この地域では定番の鮭のザンギだ。

 盛られた器は常盤色した多角形の陶器で、かあさんの故郷の窯元で焼かれたものだ。長い歴史があり、この店のほとんどの食器はそこから仕入れていると聞いた。

 「おほっ、これは美味い」

 隣で感嘆の声を上げたのは、ジジイこと、かのS教授だった。その夜は一緒に飲みに来ていた。年齢にそぐわず、実に健啖でかつ酒も強い。すでに八十近いというのに。

 二人が飲んでいるのは名物のレモン酎ハイだ。かあさんが教えてくれたレシピによると、甲類焼酎にシロップ(炭酸一に砂糖一の割合)、と氷、レモン汁を入れ、レモンスライスを浮かべるだという。

 この安くて美味いレモン酎ハイさえあれば他の酒はいらない。そしてまた、目利きのかあさんが仕入れた新鮮な魚介で仕込む酒のつまみは、とにかく抜群に美味しいのである。

 カウンターには他の客はおらず、静かな夜であった。彼女は調理場の中で丸椅子に腰かけ、脚を組んで煙草をくゆらせていた。緩いパーマの下の顔は穏やかに見えた。

 寮生をはじめ、学生たちの取るに足らない悩み事にも親身になって相談に乗ってくれる彼女だが、問われなければ余計な口は挟まず、ただ静かに見守っていてくれる。

「ボウズ、相変わらずやってるのか?」

 腹の辺りでギターを弾く真似をしながら聞いてくる。この日の出で立ちは、牛革のダブルライダースジャケットの下に、四人組ロックバンドの派手なイラスト入りTシャツだ。

 オールバックのヘアスタイルに見事にマッチしたその着こなしからは、この人が大学教授などとは想像もつかないだろう。

なぜか音楽に関心のあるジジイは、オレの音楽活動についてちょくちょく聞いてくる。

「今度ライブをやるよ」

「どこで?」

「野外礼拝堂」

キリスト教系のこの学園には、建物内の礼拝堂の他に、キャンパス敷地エリアの林の中に、野趣あふれる野外礼拝堂があった。

「A教授の奴がよく許可したな」

A教授はキリスト教学の権威で、学園内の礼拝堂を管理統括している人だ。

「あの人、意外と音楽好きなんだよ」

「まさか!人は見かけによらないな」

「どの口が言ってるの?」

お世辞にも、品行方正で謹厳実直とは言い難いS教授の言葉に、すかさずツッコミを入れてやった。

「なんだよ」

「あんたの方こそ、その見かけと破天荒な性格は、どう見たって大学教授でないでしょや」

 トンと音を立て、目の前に白磁の丸皿が置かれた。いつの間に拵えたのか、赤く熟れた乱切りトマトだった。もちろん、ひと手間掛けてあるのは見れば分かる。

 「知り合いの農家からいいのが手に入ったのさ。良く冷やして切って、塩昆布とゴマ油で和えて見たんだわ」

 リーズナブルでありながら手を抜かず、必ず何かしらの感動をもたらす手料理。さり気ない素振りの中に巧みに仕込まれた手わざ。そんなプロの仕事ぶりに頭が下がる。

 「うほほほーっ。こりゃまたシャレてる」

酎ハイをグイグイ空けながらパクつくジジイの皺顔が幸せそうに輝いている。お互いに、いくら飲んでもまったく顔に出ない質なのだ。

「ところでだ、実はボウズに頼みがある」

箸を持つ手を止めて、ちょっと改まった雰囲気を出しつつ教授が切り出した。

 「何?」

 「詳しいことは、ワシの研究室に来た時に話す」

 「やけにもったいぶるな」

 「ボウズにしかできないことだ」

 「分かった」

 それからしばらくは、S教授の下卑たエロ話で盛り上がりつつ飲み続けた。

 寮の門限があるので帰ることになり、いつもと同じく教授のおごりでお愛想を済ませた。かあさんに挨拶して暖簾をくぐり外へ出ると、天空に上弦の月が白く光っていた。

 呼んでおいたタクシーに乗り込んだ教授に、お礼とともに別れを告げて、酔い覚ましがてら寮までの途を歩いて帰ることにした。通いなれたいつものルートだった。

 自分の脚ならおよそ三十分、鼻歌交じりで行くにはちょうどいい距離だ。お金のない寮生は誰もがこうしてN町まで徒歩で飲みに出かける。

 実家暮らしで懐に余裕のある連中は、列車やタクシーで少し遠くの大きな街へ飲みに行くが、オレたちは夏にはサンダル履きで、雪の季節には長靴を履いてN町に通っている。

 ―――ジジイの頼み事とはいったい何なんだろう。

破天荒でいつも突拍子もない事を考えている彼の事だから、きっとロクなことではないだろう。とは言え、店での表情には何かしら真剣なものがあり、それも不可解だった。

 そんなことをつらつら考えながら学園内の牧草地帯を抜けて、キャンパスのメインストリートから寮に向かい、門限ギリギリで玄関に滑り込んだ。


 それからしばらくして、キリスト教学のA教授の研究室を訪ねることにした。野外礼拝堂で開くライブの打ち合わせが目的だ。

研究室は学園本部の端の方に位置する、赤い屋根色がシンボルの建物の中にあった。重厚なマホガニー材のドアを開けて中に入ると、A教授がにこやかに迎えてくれた。

 艶のある豊かな黒髪を七三に分け、ふっくらした顔に丸縁の眼鏡が良く似合う。黒のマオカラースーツの出で立ちは、いかにも牧師である聖職者に相応しかった。

同年代のS教授との違いに改めて驚いてしまう。同じ教授という肩書ながらこんなにも両極端だとは。

「お忙しいところ恐縮ですが、今度のライブの打ちわせに参りました」

S教授相手ならとうてい使わぬような丁寧な言い回しで挨拶した。

「なになに、いつでも大歓迎だよ」

「野外礼拝堂の使用許可が出たこと、S教

授が驚いていました」

先日のWでの会話をかいつまんで話すと、

 「Sの奴、また私の悪口でも言っていたんじゃないかい?」

 ―――はて、呼び捨てにするほどの仲なのだろうか。

試しに聞いてみた。

 「S教授とは昔からのお知合いですか?」

「おや、聞いてなかったかい?」

何のことだろうと訝しがりつつ、いいえと答えると、

 「彼とは同じ大学の同期だよ。二人とも軽音楽部のメンバーで、バンドも組んでいたことがある」 

思いがけない真実に心底驚いてしまった。二人が同期であることはもちろん、何とバンドメンバー同士で、音楽活動までしていたなんて信じられなかった。

―――やはり嘘つきジジイだ。しらばくれやがったな。

 「お二人の組み合わせが意外過ぎて二の句が継げませんが……」

 「何々、大したことはないさ。ただし、エキセントリックなコスチュームで、ウエストコースト系のアコースティックナンバーをやるという、いささかユニークなバンドだったけどね」

 牧師らしからぬカタカナばかりのセリフに少しまごついてしまった。

 「でも、S教授はともかく、今の貴方からは想像すらできませんね」

 「今でも、プライベートでアイツとつるむ時は、私も似たような格好だよ」

 なるほどなぁ、世の中には見た目だけで判断してはいけない事がまだまだあるようだ。世間知らずの若造なんかには太刀打ちできないような老練相手は一筋縄ではいかない。

 A教授がアンティークな風情のカップに淹れてくれた、香りの高いコーヒーと、知り合いの外国人からの頂き物だというビスケットを味わいながら、打ち合わせを済ませた。

 何と、ライブ当日は教授自らがメインMCを担当してくれるという。聞けば、バンド時代にはドラム担当の彼がいつもしゃべりを任されていたのだという。

片や、ギター&ボーカルのS教授はというと、GUILD-F50という、アメリカ製のアコースティックギターをかき鳴らして、一心不乱に歌い狂っていたらしい。

 寮に戻ると同部屋の安兵衛たち三人が、六月開催の寮祭についてちょうど相談をしているところだった。寮祭というのは、数ある寮行事の中でも、最大かつ最重要なメインイベントだった。

九日間にもわたって延々と繰り広げられるそのお祭りは、中身の濃い盛りだくさんのプログラムが組まれ、全寮生が一致団結して取り組む感動的なものでもあった。

 初日の開会式とダンスパーティーに始まり、球技大会、フォークフェスティバル、演芸・講演会、映画上映と続き、ジンギスカンパーパーティーと肝だめし。

さらには地元商店街に繰り出す仮装行列を経て、寮開放とバザーへとなだれ込み、感動的フィナーレのファイヤーストームで幕を閉じるという、めくるめくような展開。

 疲れ知らずで恥も外聞もお構いなしの男たち二百名あまりのち切れんばかりのエネルギーが、その九日間で一気に爆発する、驚愕のフェスティバルなのであった。

 半自治の矜持の発露として毎年開催されるこの寮祭は、実行委員会を中心にイベントごとに担当が振り分けられ、全寮生が一丸となって準備を進めて行く。

 祭りの面白さは、寮生たち自身が楽しむものと、地元住民をも巻き込んで盛り上がる内容とが、上手い具合にミックスされている点であった。

 たとえば、寮祭運営資金確保のために地元の商店街へ出向き寄付を募るが、その見返りとして、仮装行列のパレードでは援助頂いたお店の宣伝を面白おかしくPRして回る。

 あるいは、ダンスパーティーや映画会、バザーなどでは寮を全面開放して、子供からお年寄りまでの多くの一般市民を招き入れるなど、学園の顔として一役買うことも忘れない。

 伝統という名の下に長く継承されてきた行事でありつつ、その時代ごとに、そこに生活している青年たちによる創意工夫が随所に体現されることが、何によりも重要なのである。

 今年は安兵衛がバザー、ネルソンはポスターデザイン、ドヤは室内デコ、そしてオレは仮装行列の担当になっていた。

 「お帰り、ロッキー」

 ぽっちゃりドヤがにこやかに迎えてくれた。

 「ライブの打ち合わせはどないやった?」

 コテコテの関西弁が聞いてくる。

 「A教授がMCをやってくれるそうです」

 「さすが説話の魔術師!」

 すかさず切り返す安兵衛に尋ねてみる。

 「あの人、学生時代にA教授とバンド組んでたって本当ですか?」

「ああ、有名な話だよ」

「二人がコンビだなんて驚きましたよ」

「実はさ、彼らには他にも色んな噂があってさ、実に興味深いんだぜ」

安兵衛の言葉通り、あの二人には何やら秘密が多そうだ。破天荒な農業経済学者と謹厳実直なキリスト教牧師。何だか謎めいて面白く、ゾクゾクして堪らなくなってくる。


ライブと寮祭の準備でバタバタしていたある日の事、S教授から連絡が入った。寮内放送で名前が呼ばれたので事務室に向かうと、当直の先輩が寮専用の黒電話を顎で示した。

「ジジイか。何の用だい!」

周囲に構わずぶっきら棒に電話に出た。

「いきなりご挨拶だな」

「これでもけっこう忙しいんだよ」

嘘つきな元バンドマンに、いささかムカっ腹も立っていたのだ。

「例の頼みごとについてだ」

一瞬間、脳内の記憶を辿って、すぐにあの夜のWでの話だと合点がいった。

「いつ行けばいい?」

「今度の日曜日はどうだ?」

「休みの日だけどいいの?」

「だからいいんだよ!」

何がどういいのか分からなかったが、とりあえず朝十時に研究室まで出向くことにした。秘密めいた訪問に期待感と不安がないまぜになった妙な心地になった。


 休日の学内キャンパスはやけにひっそりとしていた。本部棟に向かう道の左手に広がるデントコーン畑には、日曜でも管理作業する圃場整備の人影がいくつもあった。

 アスファルト道を我が物顔でうろつく獣医学部飼いの茶色い犬も、北国の初夏の日差しに、ハアハア荒い息を吐き、野外礼拝堂の林の樹々はゆったりと風に揺れていた。

と突然、後方からけたたましい爆音とともに野太い怒号が襲ってきた。

「くぉらーーー!どかんかい!」

びっくりして振り返ると、この暑いのに黒い長ランを着込んだバイク乗りの学生が、猛スピードでこちらに向かって来るところだった。

 反射的に身を引き、道路わきに避けると、目の前をそのバイクがぴゃーっと横切って行った。呆けた顔でそれを見送ったのだが、数秒後にとんでもない光景を目の当たりにした。

 少し下り坂になった道路の向こう側から、なんと白いスポーツカーがスピードも緩めず突進してきているではないか。いったい何を考えているんだか。

一方のバイクはというと、信じられない事にそのままスポーツカーに向かって直進していき、――――ガしゃーーん!

という派手な衝突音とともに車の前面に激しくぶつかり、その反動で長ランの身体はボンネットに乗り上げ、ズドンと道路に振り落とされてしまった。

 ところが驚くや、道路に転がされた学生はクルクルと勢いよく二、三回回転して、まるで床運動の体操選手のような身のこなしで道路わきにスクッと立ち上がったではないか。

 時間にすればわずか数十秒間の事なのだが、何だかコマ送りのスローモーション映像でも見ているような刺激的な出来事だった。

 直立した学生は見覚えのある大学応援団の人間で、ケガをした様子もなく、何事もなかったようにズカズカとスポーツカーに詰め寄ると、車の相手にガハハッと笑いかけている。

 よく見れば、運転していたのも、弾き飛ばされた学生と似たようなパンチパーマ頭の応援団員だった。後部座席からは金髪少女たちの嬌声が響いていた。

 度外れた離れ業というか、派手なショートムービーを見せられたような気がして、恐怖で収まらぬ動悸を鎮め、呼吸を整えるのに少し時間が必要だった。

 少し気を取り直し、改めて研究室に向かおうとしたが、何だか不穏な予感が胸をかすめ、S教授の頼み事も碌なことではないなと、改めて確信するのだった。

 S教授の研究室の扉はA教授とはまったく異なり、あろうことかドアそのものを取り外して、居酒屋の入り口で見るような縄のれんが掛けてあった。

 セキュリティーなど無視して、常識を取っ払ったスタイルを貫くあたりは、流石だと思う。そしてそれには彼なりの持論があり、単に奇をてらっているのではなかった。

 理由を尋ねると、大学の研究室というものはオープンで見通しが良くなくてはならない。いかにも偉そうな研究を密室でコソコソやるなんて、教条主義の権化であると。

「ジジイ、来てやったよ」

S教授はデスクから立ち上がり歩いてきて、

「おお、済まんな、忙しいのに」

と、なんだか殊勝な感じで応えた。

「下らない用事だったら承知しないよ」

「大丈夫だ。ボウズにしかできんことだ」

 酒と甘味の両刀使いであるS教授は、研究室に極上の各種和洋菓子と、それに合う飲み物を常備していた。そのために特注の茶箪笥と冷蔵庫まで設えているのだ。

 この日の茶菓子はおはぎとほうじ茶だった。おはぎは地元産の小豆ともち米を使った手作りもので、ほうじ茶は千年の古都から取り寄せた一級品であるという。

 年の差婚の女房が資産家の娘ということもあって、日常の小遣いなど気にしなくて済むらしいが、あればあるだけ使ってしまう彼の性格ゆえ、極上品にはやはり目が無いらしい。

「さっそくだが、ボウズに頼みがある」

「ギャラは安くはないよ」

さり気なく不信な依頼への予防線を張っておこう。

「言うまでもない。が、手付金と成功報酬の二本立てが条件だ」

「ジジイにしては意外にも慎重だなぁ」

たしかに、豪放磊落な彼にしては、用心深く段階を踏もうとしている。

「その方が請け負う側も楽しみがあるだろ」

「なるほど、委細承知いたしました」

 お道化て返事したものの、その後、彼からの依頼内容を詳しく聞くにつれて、これは一筋縄ではいかないなと思い始めていた。何しろ疑問点が多すぎるのだ。

 しかしその反面、たかが学生相手に支払うという破格の報酬額といい、大いにそそられる謎解きのような依頼には、単なる興味を超えるやりがいがあるとも感じていた。


 寮に帰ると、部屋にはまだ誰も帰っていなかった。好都合なので二段ベッド上段に寝そべりながら、ついさっきのS教授からの依頼について反芻してみた。

 寮の裏手に広がるあの二千ヘクタールにもおよぶ原生林。大面積の平地林には天然林や草地・小川・池など多様な環境が揃っており、様々な野鳥・動物・昆虫・草花の宝庫だ。

 自治体の自然公園として指定されてからは、遊歩道の整備が進められ、交流館や博物館などの施設も建設されて、四季折々の変化に富んだ自然を楽しもうと多くの来訪者があった。

 田舎育ちゆえなのか、海よりは山が好きで、この寮に来てからというもの、毎週末にはこの森林公園に出かけて行き、林内のくまなく探索して回った。

 時には休憩所の東屋でギターをつま弾き、池畔でビール片手に双眼鏡でバードウォッチングを楽しむなど、ごくノーマルな過ごし方もするが、どちらかといえば探求派だった。

 森中の全ての遊歩道は何度も走破し、見所や注意点などは克明にメモを取り、一般人とは比較にならないほど精通している。さらには、脇道の獣道も攻めることもある。

 どうやらS教授は、そんなオレの〝実績〟に目を付けたようだった。あの日、初めて対面した時以来、幾度となく会話の中に森林公園に関する話題が上るようになった。

 思い返せば、居酒屋Wでの何気ないやり取りでも、ちょいちょい探りを入れてきたような気がするし、研究室にいても、こちらの公園に対する精通度を吟味するような素振りがあった。

 S教授からの依頼を端的に言えば、オレが森林公園内を散策するついでに、ある物を探し出して欲しいというのだ。

『宝探しの類いなのかい?』

疑問点が多いので一つ一つ確認してみることにした。

『それはまだ言えない』

にべもない返答に、あの時は一瞬ムカっとしたが、

『苦学生は金に執着する』

思い直して、からめ手で攻めてみた。

すると、彼はきっぱりした口調で叫んだ。

『着手金として十万円。発見出来たら即金で百万円支払うが、どうだ!』

『御意!』

まどろっこしいのはやめにして、即決した。

 内心は歓喜に打ち震えていたが、表向きお道化を装って、即座に依頼を受諾した。考えるよりはまずやってみることだ。

 報酬の多寡はともかく、聞いた限りではさして難解な案件とは思えないのに、しがない一学生にまとまったファイトマネーを用意するとは、いったいどういうことなのだろう。

 いくら背後に有力なパトロンが控えているとはいっても、まとまった金額を即金で支払うということは、ジジイにとってもよほど重要でかつのっぴきならない案件に違いない。

 ひとまずは契約成立ということで、改めて事の詳細を問いただすことにした。全ては明かせないという前提条件も飲んだ上で、必要最低限の情報は得ておかねばならない。

 教授がいうのには、探索の対象物はある〝石〟だという。それも天然石の類ではなく、人工的なもので、形状は正月のお供え餅にそっくりなのだとか。

 故郷の生家では、毎年暮れには親戚総出で餅つきをやっていた。庭に筵(ござ)を敷き、蔵から持ち運んだ重量感たっぷりのケヤキの臼(うす)をドカリと据える。

その横には同じくケヤキの杵(きね)がぬるま湯を張った大鍋に浸けてあった。周囲には母たち女性陣が、搗きあがった餅を伸ばすための大きなテーブルを段取りしてある。

 もち米は昔ながらの羽釜を使って土かまどに載せて薪で焚いていた。炊きあがったもち米を臼に入れて、まずは杵で丁寧に捏ねるが、少しづつ場所を変えて均一に潰すので、これを〝八方搗き〟と称していた。

 そしていよいよ本番の餅つきとなる。搗き手と、餅を返す合いの手は呼吸が肝要なので、たいていは夫婦が担当する。我が家の場合も父母がコンビを組んでいたっけ。

 搗きあがった餅はテーブルの上に載せられ、のし棒で延ばして角餅に成形されたり、お供え用の鏡餅を拵えたりする。S教授の説明を聞きながら、そんな昔の記憶が蘇ってきたのだった。

 S教授がお目当てのその石は、まるでそんな正月のお供え餅のように、丸く平板な大小二枚重ねのツルツルしたものなのだという。言うなれば、〝供え石〟とでも呼べばいいのか。

 そしてその石は、恐らくは公園内の遊歩道からはずれて森林内に百メートルくらい踏み込んだ場所に、敷設あるいは埋設されているのだと教授は語った。

 原始林ゆえ雑草や苔、またはクマザサなどでびっしり覆われているに違いなく、一般の散策者には容易に見つけられないだろうとも付け加えた。

 当然の事、散策者が国有林などに無断で侵入するのは違法だから、隠密裏に実行しなければならない。ある程度のリスクを承知で請け負う覚悟が必要なのだ。

『何か目印になるものはないのかい?』

ただ闇雲にあちこち探すわけにもいかないので尋ねてみた。

『あるよ。実はな三つのヒントがカギになるんだ』

鼻高の皺顔がフフンと得意げに解説する。

 一つは、石のあるその場所が、小さな池の近くであること。さらには高みよりその池を望めば、何かの図形を表わしている。

 二つ目はその石の近くには、スズランの群生地があり、その中に何かを記した石碑が建っているという事。

 そして三つ目が、その石の周囲には円形状に山桜が植えられていて、その花は七月まで散らずに咲いているという不可思議がある。

つまりは、その三つの条件にすべて当てはまる場所を特定し探し当てられれば、お供え餅のような丸石、名付けて〝供え石〟が発見できるということになる。

 見つけさえすれば、着手金はもとより、成功報酬の百万円という大金が手に入る。願ってもない僥倖だ。挑戦しない手は無いだろう。なによりその適任者に抜擢されたのだから。

 これを断る理由など勿論ないが、大学の講義と寮の行事、さらにはライブなどの音楽活動を同時並行でこなしながらの探索は、そうそう容易ではないかもしれない。

ジジイも、その点は考慮してくれていて、発見に要する締め切り期限は特に設定せず、空いた時間で気長に取り組んでくれと付け加えた。せっかちなジジイにしては異例の優遇策である。


 野外礼拝堂でのライブ当日は、見事なピーカン、気持ちのいい青空になった。大学キャンパスの一角にある疎林の中にひっそりと佇む礼拝堂には、清明な霊気が漂っていた。

 南側の一段高くなった石造りの舞台には、煉瓦で組まれた講壇もあり、通常はそこで牧師でもあるA教授が礼拝を執り行うが、ライブでは彼の許可を得てステージとした。

 その向かい側には半円形の階段状になった石組みの着座スペースがあり、早くもチラホラと観客が集まって来ていた。その中には見覚えのある寮生たちの顔もあった。

 ステージに立ち、そこから空を見上げると、サワサワと風に揺れる樹々の音がして、木立の隙間からまるで天使でも降りてくるような日差しが降り注いでいた。

アンプ・スピーカー・マイクなど最低限のPA機材は、寮にいる音楽研究会のK先輩から一式借りることができた。彼はすでにセミプロとして活動もしている人だった。

 地元でも名の知られたアマチュアミュージシャンで、卒業後はプロデビューも決まっているらしい。そんな先輩は素人に毛の生えたレベルの自分とも気さくに接してくれていた。

 寮内の娯楽室では、時々一緒にセッションすることもあるし、ギターとボーカルに関して、いつも適切なアドバイスを惜しまない人だった。

 セッティングが完了したステージには、今回MCを引き受けてくれたA教授がスタンバイしていたが、いつもは聖職者として礼拝の説教をする彼とは全く雰囲気が違っていた。

 そもそも、彼がA教授だと分かる人間がはたして観客の中にいるのだろうか。ステージに立っているのは、間違いなくあのA教授なのだが、この日は全くの別人格だった。

 何しろその出で立ち、コスチュームからしてすでにぶっ飛んでいた。立ち襟で膝まであるロングコートは鮮やかなパープルで、両肩には金ピカのワッペンが縫い付けられている。

 開いた胸元からは真っ白でフリルの付いた絹のようなシャツが見えているし、腰回りにはジャラジャラしたベルトが垂れ下がり、革のきっちりしたパンツの下の黒いブーツの先端は、凶器のように鋭く尖っていた。

 極め付きが頭部の趣向で、どこで手に入れてきたのか、モサモサのパーマヘアーカツラを被り、太く描いた眉毛の下の両目は黒く縁どられ、ご丁寧に付け髭まで装着している。

 しかし、いいのだろうか。大学教授であり、キリスト教牧師たる人間がこんな破天荒な振る舞いに及んでも。内心ハラハラしていたものの、本人の志向に委ねるしかない。

 とはいえ、さすがあのS教授の御学友にして、エキセントリックバンドのメンバーの面目躍如。恐らくは、大学当局にもしかるべき根回しが行われているに違いない。

 A教授は活舌の良い滑らかなMCで、あっという間に観客を魅了し、所々に牧師らしい箴言などを巧みに挟み込みながら、会場を適度に温めてくれた。

 彼に招き入れられてステージに立ったオレは深呼吸をすると、目を閉じて林内の霊気を深く吸い込んだ。樹々からは鳥のさえずりが聞こえ、緑色のそよ風が頬を撫ぜていった。

 静かに目を開けると、石段の客席には、知己の寮生やゼミ仲間の他にも、初めて顔を見る男女の学生たちがポツポツと座っているのが見えた。心地よい緊張感が、実に楽しい。

 同好会にも所属していない無名のアマチュアシンガーのライブを観に来るなんて、なんて酔狂なのだろうと、自虐混じりの苦笑いを浮かべつつ、おもむろに、愛用のギターで一曲目のイントロをGコードで弾き始めた。

 セットリストは、カナダの吟遊詩人や北米のカントリーシンガーのナンバーから、国内フォークソングの草分け的存在のシンガーソングライターの名曲などで構成した。

 貴公子ともてはやされた男の歌にはヒット曲が多く観客の反応も上々。神様と呼ばれ、そのプレッシャーに耐えきれず失踪・遁走した男のナンバーには寮生たちが食いついた。

 若さにまかせて、一時間余りのライブを完奏し終えた時、会場からは大きな拍手の波が起こり、オレもアドレナリン全開の興奮状態のまま歓喜の雄叫びを上げ続けていた。


 ソロライブがまずまずの成功裡に終わると、いよいよ寮祭に向けての準備に本腰を入れることになった。寮内ではそれより以前から、着々と段取りが進められていた。

 各部屋の開け放たれたドアの中からは、トンカントンカンと大道具を製作する音が響き、実行委員会のメンバーは、誰もかれも忙し気に廊下を走り回っていた。

同部屋のネルソンはポスターの他にパンフレット制作も担当しているので、毎日のように商店街に広告取りに出かけては、その成果を自慢気に吹聴していた。

 さすが商人の街から来ただけの事はあるのか、コテコテの関西弁で一人漫才のような話術を駆使して、次々と出稿をモノにしているのだとか。

 バザー担当の安兵衛は、寮仲間からの信頼が厚く、各部屋を巡り出品物をかき集め、こまめに分類リスト化して、こちらも手堅く成果を上げている。

 一方で、シャイな性格のドヤは、その骨太な指に似合わぬ手先の器用さを活かして、イベント会場内の装飾デコレーションをコツコツと作り続けているようだった。

 仮装行列担当である自分の仕事はというと、アイデア出しと事前の段取り、そして何より重要なのが、パレード当日の演出をどのように構成するかだった。

 今年の仮装テーマは「飛翔」に決まった。シンプル過ぎるのではと思いきや、こういう抽象的なテーマの方が逆に発想を飛ばしやすく、奇想天外で突拍子もない仮装になるのだ。 

 テーマを寮内に告知した後は、参加者を募り各チームから仮装様式を提出してもらう。その一方で、仮装パレードルートを設定し、商店街の代表者と打ち合わせを行う。

 さらには大学当局にも必要事項を通達し、所轄の警察署に対しては、道路通行許可を申請しておくなど、多岐にわたる業務をこなさなくてはならない。

 パレード当日の盛り上げも重要で、宣伝ポスター作成し、商店街各店に掲出依頼がてら出向いて、見物人増員のための売り込みも行い万全を期す。

 今年もまた、寮生達二百人超の、熱く感動的な夏が、もうすぐやって来るのだった。


 その日は思いがけず全講義が休講となり、森へ行く時間が取れた。S教授から依頼された、例の〝供え石〟の探索である。

 当初予想していた通り、ライブや寮祭、学生の本分である講義などが輻輳してなかなか時間が取れなかった。

 教授からは期日を限られている訳ではないが、なにしろ“懸賞金”がからんでいる。場所の特定にもそれなりの時間が必要なので、足繫く通うに越したことはない。

 入寮以来、数え切れないほど訪れている場所ではあり、およそ一般人が足を踏み入れることのないエリアについても心得はある。このアドバンテージは、かなり大きい。

 教授が示唆してくれた、発見のための三つのヒントを、改めて脳内でツラツラ攪拌咀嚼してみると、何とはなしに思い当たる箇所がいくつか浮かんできている。

 後は実際にそこに行き、三つのピースの重なりを確かめて、一つずつつぶしていけば〝供え石〟は必ず見つかるだろう。根気は要るがやってできない事ではない。

 この日は、寮の裏手から森に入り、水芭蕉の群生地の辺りから攻めてみることにした。S教授と二回目に出会ったあの場所だ。未舗装の遊歩道の粗い砂利を踏んで進んでゆく。

 公園内の遊歩道はほとんどが平坦な道のりだが、時折り緩やかなアップタウンの箇所もあり、散策好きには程よい有酸素運動が楽しめる。

 周囲の天然林と人工林との混在も変化に富んでいて見た目にも愉しく、高い所でザワザワと揺れる枝々が、空に風のあることを教えてくれる。

 歩道の両脇には膝上くらいまでのクマザサがびっしり繁茂していて、〝供え石〟の場所特定には、それをかき分けていく必要がありそうだ。

 しかし、そこに踏み入ってガサガサ物色しているのを他の散策者に見とがめられるのも拙いので、次回はカモフラージュ用にゴミ拾いのビニール袋を持参して来ようと思った。

 もっとも、ボランティアとして実際にゴミを拾えば良いだけのこと。ならば偽装工作でも何でもない。要らぬ心配をしないで探索に専念できるじゃないか。

 今回、目指すポイントはこの先にある小さな池の近くで、以前、野生化した野良犬の群れが散策中の人を襲うという事件が発生したばかりで、少しばかり緊張してしまう。

 野良犬たちは事件後、市の担当課による一斉駆除により撲滅させられたと聞くが、あまり気持ちの良いものではない。広大な森林内ならば不測の事態も十分に起こりうる。

 この公園内にはヒグマのような大型動物は棲息しておらず、リス・野ウサギ・モモンガ・キツネなどがごく普通に目撃される。鳥類に至っては百種以上がいると言われ、昆虫や植物についてはそれこそ数限りない。

 遙か昔、この地にも人間は住み暮らしていたのだろうか。小川や池には魚介資源があり、原野には豊富な山菜や木の実がたわわであるのだから、その可能性はある。

天敵や風雪から身を守る深い樹林があり、燦燦と降り注ぐ陽の光の下でゆったりと寛げる草地や、崖面に自然に穿たれた洞窟などは、居住地としては〝好物件〟だろう。

 それにしても、S教授が言う〝供え石〟とは、そもそもどんな意味を持つものなのだろう。石そのものに付帯する事柄なのか、それともそれが何かを暗示しているのだろうか。

 ひと癖もふた癖もあるあのジジイの事ゆえ、問い詰めたところで、まともな回答は得られない。彼には正攻法は通じない。ならば隙をついてからめ手から風穴を開けてやるか。

 第一に、すでに発見のための三つのヒントが得られているのに、なぜ教授自身では発見することができないのだろう。たしかに、あの森林公園はあまりにも広大すぎる。

 ヒントを基に探して歩くにしても、門外漢が闇雲にアタックするのは非効率だし、老齢の身には身体的負担がかなり大きい。口が堅く信頼に足る人物に外注するのは得策だ。

 今はとにかく、可及的速やかに〝供え石〟の発見と特定に専念するしかあるまい。限られた時間の中で最大効率を発揮させるのだ。優先順位はシンプルに、〝報奨金獲得〟だ。

 あの日、教授に遭遇した東屋を過ぎて、木漏れ日の差し込む道をズンズン進んでいくと、やがて左手に小さな池が見えてきた。これが第一ポイントになるのだろうか。

池畔は傾斜のある斜面で、不用意に近づくと水面に落ち込んでしまいそうだ。水面に漂っているのは鴨のようで、風に吹かれながら緩いスピードで移動している。

 少し高台になった場所に移動し、池の全体を俯瞰してみることにした。まぁ、瓢箪の形に見えなくもないが、とにかく何らかの形は有しているのでOKとしよう。

さて記憶によれば、このままの道をさらに進んで行った先に、今回の〝供え石〟発見の第二ヒントになる、白い花の群生地があったはずなのだが……。

 樹林帯を過ぎて、直射日光を浴びながら土道を歩き続けていくと、視線の少し先に白い塊がぼんやり見えてきた。二つ目のポイントの発見に心が急いて、思わず足が速まる。

 たどり着いた目の前に広がっていたのは、確かに白い花の群れではあった。がしかし……、それはスズランではなく、あの東屋で見た〝ミズバショウ〟であった。

 ーーーオレって、案外見ているようで、結局何も見ていないんだな……。

 ミズバショウとスズランを間違えるなんて。ただ白いという記憶だけで早合点していたのか。白花の群生地であることは同じでも、二つは似ても似つかないじゃないか。

 湿地帯に咲くミズバショウは、スズランと同じく白と緑の取り合わせながら、姿かたちが全く異なる。何を勘違いしていたのか。がっかりだった。

 ひっそりと可憐な印象のスズランに比べて、目の前に広がるミズバショウのそれは、大きめの白い仏炎苞(ほう)の中から緑色の花軸がズィと伸びていて自己主張が強い。

一カ所目の候補地は、第二チェックポイントで、早くも除外することになった。そう易々と見つかるはずはないのだ。そんなに簡単なら、S教授がとっくに見つけている。

 結局この日は、思ったよりも長い距離を歩くことになったので、無理せず寮に戻ることにした。帰り着くとすでに夕飯の時間が始まっていた。

 一日三食賄い付きの有難いシステムゆえ、毎日の食事の心配がない寮生は、アパート暮らしの学生からは羨ましがられた。しかも、ご飯とみそ汁は食べ放題なのだ。

 朝食は七時からで基本的にはパン食。食パンかコッペパンに何がしかの副菜。そして学園直営の牧場から、寮生自らが毎朝運んでくる搾りたての牛乳がこれまた飲み放題。

 牛乳運搬は当番制で、二人一組が銀色の大きなミルクタンク二個を積んだリヤカーを引いて、寮と牛舎間を一往復する。

日の出が早く暖かな夏場はともかく、積雪のシーズンに、夜も明けきらぬ早朝の当番に当たってしまうと、氷点下十度以下のアイスバーンを苦心惨憺で運ぶことになる。

 これはかなりきつい作業で、厚い手袋越しにも凍える両手でリヤカー前部のグリップハンドを操り、慎重に前進するのだ。荷台には寮生二百人分の生乳が入ったタンクを搭載。

 押手と息を合わせて、寮に続く坂道を息を切らしながら上っていく。大変ではあるが、抜群の鮮度の生乳が毎朝飲める幸せは、他所では味わえない。

お昼は人数分のアルミ缶弁当が用意されているので、食堂あるいは部屋で食べても良く、時には大学に持参して、キャンパス内の広い芝生の上でランチするのもOKなのだった。

 夕飯終了までには時間があるので、まずはひと風呂浴びることにした。未舗装の遊歩道で風に巻き上げられた土埃をもろにかぶり、強い日差しで汗みどろだったのだ。地階の大浴場にはモウモウもとした湯気の中、疎らな人影があり、見知った顔も何人かいた。ボイラーマンの勤務時間中なら、いつでも入浴でき、これまた快適なのである。

 ボイラーマンはKという初老の気の良い人物で、酒癖の悪いのが玉に瑕だった。勤務中のボイラー室でウイスキーの小瓶をチビチビ飲むのは日常茶飯事。

寮生たちと談話室で夜遅くまで酒盛りすることもあり、そのまま車を運転して、五キロ先の自宅まで帰るなんて平気の平左だった。

 風呂から上がるとそのまま大食堂に直行した。お盆を手に厨房前の配膳台から主菜と副菜を取り、ご飯と味噌汁コーナーへ。食べ放題は、食欲旺盛な自分たちには有り難かった。

 母親くらいの年回りである厨房スタッフの気づかいにより、晩御飯で余ったご飯とみそ汁は、毎晩、食堂前のテーブルに大鍋ごとドカンと置かれていた。

これを目当てに腹を空かせ寮生たちが夜な夜なそこに群がり、翌朝になれば見事に空になった鍋を厨房のオバちゃん達が片付けてくれるのである。

 夕飯を済ませて自室に戻ると、同室のドヤが自分のデスク前にゆったりと腰かけ、好きなレコードを聴いているところだった。音楽愛好家なのはオレと同様なのだ。

 彼の目の前にある重厚な木製プレーヤーのターンテーブルの上で、デビューしたばかりの女性歌手のレコードが回っていた。立てかけてあるジャケットは女顔の浮世絵だった。

 その上の棚には、小型ながら抜群に性能の良い一対の木製スピーカーがあり、そこから遠慮気味の音が漏れていた。ピアノ曲のようだが、ちよっと風変わりなテイストだ。

 歌詞とメロディは和風なのに、ジャズのようであり、ロックっぽくもあり、時に民謡のごときアレンジなど、独特の歌い方と相まって、何だかゾクゾクするような楽曲だった。

 ドヤの傍らからは淹れたてのコーヒーの香しい匂いが漂っていて、彼のくゆらす紫煙と絶妙なブレンドを仕上げていた。ゆったりとした雰囲気は彼らしいと思った。

安兵衛とネルソンの二人の先輩たちはどこかに出かけているようで、おおかた、また商店街のパチンコ屋にでも行っているのだろう。二人していつもつるんで行動している。

 東北地方の裕福なリンゴ農家生まれのドヤは、跡継ぎを条件に、十分な仕送りを受けて、四年間の遊学を許されこの大学に来た。音楽と酒と煙草を愛する羨ましいスローライフだ。

 一方の安兵衛とネルソンはというと、いがみ合度の高い出身地同士ながら、やけに気が合い、標準語と関西弁の漫才師のごとき息の合ったコンビだった。

彼らもまた裕福な実家からの支援を受けているので、いつもはダラダラと呑気に暮らしつつ、気の向いた時にだけ、遊興費確保のバイトを入れる程度でよかった。

その点、親からの援助だけでは心細い人間は、学費の不足分補填と小遣い銭稼ぎのために、常に何らかの単発副業を確保しておかなければならなかった。

そんな折に舞い込んだS教授からの今回の依頼は、胡散臭げな内容はともかくとして、この上なく有難いアルバイトだった。

「また森に行ってきたのかい?」

丸眼鏡の奥の小さい瞳が笑っていた。

「S教授がらみでね」

「変態オヤジからの変態注文だな」

あながち見当違いでもない指摘に思わず笑ってしまった。

「何か面白そうな話なんだね」

「そのうちに折りを見て、お前にも話すよ」

必要以上に深入りして来ない遠慮深さと配慮が有難かった。繊細な心根の深い場所から発する、他者への気遣いができるのがドヤの素晴らしいところだ。


 翌朝、大学での講義を二つ受けて、学生課のアルバイト募集掲示板を見に行った。寮の事務所窓口横にも、寮生向けのバイト募集の張り紙があるにはあった。

ただし、それは学生課職員の正規の検分を経た募集案件とは、求人内容や時給待遇において、少しばかり中身が異なっていた。ようするに〝アヤシイ〟のだ。

 募集元が直接持ち込んでくるケースが多い寮内掲示の場合、男子寮ならではの、公序良俗違反スレスレの仕事や、肉体労働一辺倒のハードワークなど特殊なのである。

 これまで自分なりに実労働と実入りのバランスを考慮してこなしてきた仕事には、墓地でのお墓施工や、水力発電所の取水口の点検・清掃業務などがあった。

 一方で、図書館司書の手伝いや研究室の蔵書整理。あるいは郷土資料館の巡回警備や公共施設駐車場のパトロールなど、退屈な割に時給の良いアルバイトなども請け負った。

 遠い故郷で共働きしながら、必死になって仕送り金を工面してくれている両親の事を思うと、勉学と労働の二刀流は必須。働けるときにはどん欲に、なのだ。

 単位を落とさずきっちり学んで行くことと、空き時間を無駄にせず副収入を得ることは、この場所で生き抜くための“必修科目”だ。

 この日見つけた募集は、学園直営の牧場からの案件で、牧草地で刈り取りした乾草のトラック荷台への積み込み作業だった。時給は悪くないので、さっそく申し込むことにした。

 直営牧場では、百頭以上の搾乳用ホルスタイン乳牛を飼育するために、赤色屋根の牛舎の周辺に、幾つもの広大な畑地を有し、管理運営にあたっていた。

夏の期間に放牧牛が自由に歩き回り採食するチモシーやケンタッキーブルーグラスなどの放牧草地はもちろんのこと、放牧冬季間に備蓄する乾草採取のための採草地があった。

 さらにはとんがり屋根ブロック壁のサイロと呼ばれる内に施設内に貯蔵するサイレージ用のデントコーンを収穫する目的の畑など実に様々である。

 夏のシーズンは、栄養価が高く良質な飼料となる一番草の刈り採りが多忙を極めるため、若くて体力のある人手が必要になり、たびたび募集告知が掲出される。

 指定の日に寮近くの牧草地に出向くと、すでに専用重機が待機していて、自分と同じような年格好の数名のスタッフたちも集まっていた。

 お互いに簡単な自己紹介を済ませ、農場職員から作業の段取り説明を受けた。酪農関連の講義も受け、圃場実習も経験があり、皆納得顔でさっそく作業実務に入った。

 職員が操縦する酪農重機は、低速前進しながら、畑に広げて天日干ししてあった乾草を、前側から掻き込み圧縮・梱包して、後方に送り出していく。

 長方立方体に成形されたその乾草キューブを、別の職員が微速前進させているトラックの荷台に、バイト学生数人が人力で積み込むという流れだ。

 乾いているとはいえ、固く圧し潰された乾草は十五キロほどもあり、意外と重たい。始めの頃はスムーズに投げ込めるが、トラック荷台の高さが増していくと勝手が変わる。

 両手のスローイングで投げ込めていたのが難しくなると、今度は、フォークという、鋭い金属先端を持つ、長い柄の農具を用いる。これにはちょっとしたコツがあった。

 フォーク二本の先端をキューブにぶっ刺した後に、中腰の姿勢で、テコの原理を使って、一気に中空まで抱え上げ、その勢いのまま荷台に着地させるのである。

 休憩を挟みながら、広大な牧草地を回り、首に巻いたタオルで流れる汗をぬぐいつつ、黙々と作業を続けること約二時間、ようやくその日の作業が終了した。

 いつもニコニコ現金払いの日当を受け取ると、寮に帰りすぐさま大浴場へ。ボイラーマンの親父がまた赤い顔をして、酒気帯びの臭い息を吐きながら近寄って来た。

「バイト帰りか?ご苦労さんだのう」

皺だらけの赤ら顔で話しかけてくる。

「飲みながらのお勤めご苦労様です」

勤務中の飲兵衛に遠慮することは無い。

「皮肉を言うんじゃねーよ」

と、歯抜けの息もれ声で返してきたので、

「一石二鳥をほめているんだよ」

気の利いたジョークがすぐ口から出る。

「今度また家に遊びに来いよな」

「皆にも言っておくね」

 ボイラー室、栄養士、厨房など、寮の職員たちと寮生はとても仲が良く、寮内での酒盛りはもちろん、気軽に個人宅に遊びに行くことも多い。

 母の日には厨房のオバちゃんたちにカーネーションを贈り、栄養士の誕生日には百円ケーキでお祝いし、ボイラーマンには胃薬といった具合だ。

 寮内の一部屋で生活しながら、寮生たちの様々な悩みに対応してくれる寮母さんに至っては、もはや年の離れた姉、あるいは若い母親的存在でもあった。

 敬虔なクリスチャンでもある彼女は、基本的には寮職員として寮に在住して、その職分を遂行するのが責務であるのだが、決まった勤務時間がある訳ではない。

 受付事務室に詰めて事務仕事をこなしたかと思えば、気まぐれに自室を訪れる寮生たちの人生相談にのるなど、不定形でオールマイティーな役目を担っていた。

 風呂の後、夕食も済ませて部屋に戻ると、安兵衛とネルソンが帰って来ていて、近々行われる、ある寮行事について何やら相談の真っ最中であった。

 年間最大行事の寮祭が間近に迫る中、寮生たちが楽しみにも恐怖にも感じている一大イベントが、いよいよ今週末に決行されるのである。

 延々九日間にも及ぶロングランの寮祭の前月に、何も好き好んでそのような行事を持ってこなくても良いようなものだが、無謀を承知の上でやってしまう、寮生気質なのだった。

『五十キロ強歩』という、いかにも無茶丸出しのイベントは、その名の通り、一晩で五十キロを徒歩にて走破するというもので、寮伝統の破天荒行事の一つであった。

 まともにかつ真面目に歩けば、八時間ほどでゴール可能な行程なのだが、我が寮生の場合、なぜか十二時間位かけてたどり着くのが常であった。

 それは取りも直さず、学校帰りの小学生の道草あるいは寄り道同様、不真面目にダラダラと脇道に逸れ、規定ルートのあちこちで小事な悪戯をしでかすからだった。

 しかも、常人が考えつかないような不行跡を繰り広げながら、延々と行軍するというのだから、我が寮生ながら呆れてしまう。とんでもない事甚だしい。

 顔を近づけひそひそ声で相談する二人は、紛れもなく悪だくみの密談に他ならなかった。入って来たこちらの気配にも気づかないほどに熱心なのは、さぞや楽しい事なのだろう。

 時折り漏れ聞こえる不穏な単語からでは、二人の計画の全貌は明確には推測できなかったが、どうせロクでもない事だけは間違いなかった。


 「五十キロ強歩」大会当日の朝、参加者たちは寮前に横付けされた三台のチャーターバスに分乗して、一路五十キロ離れた郊外の温泉街を目指した。

 百四十万都市の「奥座敷」と呼ばれたその温泉街の源泉は、はるか昔に有名な探検家が発見し、その後、さる修行僧が湯治場として開発した歴史ある名湯だった。

 源泉は国内では最もポピュラーなナトリウム塩化物泉で、大規模ホテルから雰囲気重視の旅館までもが軒を連ねていた。もっとも、湯治旅行に来たわけではない寮生たちには無縁だけれど。

 イベントのスタート場所は、この温泉街の小学校のグラウンドで、寮長が校長先生の体で朝礼台に上がり、開会の挨拶と強歩における注意事項を説明した。

「この行事は来る寮祭を前にした体力作りが目的です。コース途中には怪しい繁華街もありますが、間違ってもそこには立ち入らないように。また、沿道の公共物を破壊したり、持ち帰ったりすることは厳禁です!」

 よほどこのイベントが悪名高いのか、寮長の注意喚起はこれでもかという位に念が入っていたが、肝心の参加者たちは素知らぬ顔をしている者がほとんどだった。

 午後六時、寮長の合図とともに男たちは思い思いの服装と装備で、ゾロゾロと出発した。この先二つの国道を経由して、夜を徹し、目的地である我が寮までたどり着くのである。

 最初の国道は、温泉街への行き帰りの車が頻繁に通行する危険なルートだが、むさ苦しい格好の寮生たちは、そんなものにはたいして頓着していなかった。

 それどころか、早くも持参の缶ビールや一升瓶などを歩きながら煽り、菓子の類をバリバリと食べ、訳の分からない歌を唄いつつ、ズンズン進んでいく。

 まずはここから約三十キロ先の市街地中心部にそびえる、高さ百五十メートルのテレビ塔を目指すのだ。もちろんそれは今のところ、影も形も見えぬはるかかなただった。

 おおよその目安としては、深夜零時前後にテレビ塔に到着できればまずまず。そして、夜明け頃に寮まで帰り着くのが、とりあえず理想的な行程である。

 右へ左へと緩やかにカーブする坂道を軽快に歩いて行く寮生たちではあるが、不測の事態も考慮して、途中脱落者の救護用に、イベントスタッフが乗用車とバイクでゆっくりと追走してきている。

 北国の初夏の大気はまだ昼間の勢いを保ったままで、西空の低い位置でギラギラしていたが、周囲は山に囲まれているので、日没は思いのほか早そうだった。

 体育会系の部活で日頃から鍛えている者はともかく、大学の講義以外は、バイトか寮の部屋で飲んだくれている連中にとっては、過酷というより無謀な肉体酷使大会である。

 途中で力尽きれば、そのまま地べたに寝転がって、朝まで眠りかねない。真冬ならそのまま凍死もあり得るが、この時期なら、陸と空の間で眠ったところで風邪を引く位だろう。

 だらだら坂道を下っていくと、やがて周囲にはパラパラと民家が見え始め、暮れ始めた夕刻の道に、空腹を刺激する夕餉の匂いが漂ってきた。

 参加者のほとんどは、酒とともにつまみ用の食糧も持参してきているので、道々それらを飲み食いしながら、相変わらず大声を上げて、下品にゲラゲラ笑い転げている。

 マラソンとは違い、低速でもとにかく前に進めばいいので、余計なことは何も考えずひたすら中間地点を目指す姿は、愚直な青春群像でもあり、感動すら覚えてしまうのだった。

 そしてまた、寮生特有の共同体意識からくる同志感情が心強く、辛くても仲間たちとならどこまでも行ける気がしてくるから、不思議なものである。

 中間地点の数キロ手前を東側に逸れて行くと、スタート時に寮長から注意のあった例の妖しげな繁華街があった。そこは酔客や世迷い人らが跋扈する不夜城エリアだった。

 普段なら寮生などが間違っても足を踏み入れることの無い禁断の場所でありながら、この日ばかりは過酷な肉体的疲労により、おかしなテンションになってしまっていた。

 良心とまともな羞恥心を持ち併せる者たちは、脇目もふらずテレビ塔に向かうが、コントロール不能の欲望と、遠くに瞬くピンク色のネオンの誘惑に抗えぬ色魔たちは違った。

 渇いた喉が水を欲しがるように、酔いに任せてついフラフラと、右折の悪路へと踏み込んで行く者たちが何人もいた。踏みとどまれたのは、わずかに残る理性のお陰だった。


 午前零時過ぎ、幾つかの固まりになった寮生たちは、テレビ塔下の広場でしばしの休息を得ていた。スタッフが配る厨房のオバちゃんたち特製の握り飯に食らいついていたのだ。

 ようやくありついたまともな食事に、飢えたハイエナどもは一心不乱に炭水化物を摂取した。そして、その栄養素は恐るべきスビートでエネルギーに変換されて行った。

「うひゃひゃひゃーひゃー!」

 青年の回復力とは実に恐ろしいもので、わずかなインターバルでありながらも、急速に体力が蘇ったのか、数人が野太い気勢を上げて、公園内の噴水に次々と飛び込んで行った。

 はしゃぎながらバチャバチャと水を掛けあう姿は、無邪気な水遊びとは程遠く、むさ苦しい浮浪者たちの、おぞましい狂喜乱舞そのものであった。


 〝五十キロ強歩〟の後半戦は、もう一つの国道を二十キロ歩いて、自分たちの寮までたどり着く最終ルートである。市街地に入り、沿線は街灯やコンビニの照明で明るい。

 未だ零時過ぎとはいえ幹線道なので交通量はやや多くなり、時折り夜勤のダンプカーなども爆走し、眠り知らずの若者が派手なクラクションを鳴らしながら暴走していく。

 既に三十キロ超を走破していながら、酔いと体内から放出されるアドレナリンの影響なのか、汗と噴水の水でグッショリになりながらも、寮生たちは構わず進んでいくのだった。

 時期になると、故郷の水源を求めて無数の鮭が遡上してくる大きな川にかかる橋を渡りきると、かつては沢山の娼家が軒を連ねていたというエリアに差し掛かった。

 さすがに今ではそんな怪しい店は無くなり、小ぎれいなマンションが建ち並ぶ静かな住宅街に変貌していた。川面をなでて吹きあがって来る風は火照った肌に気持ちが良かった。

 学生間の噂によれば、この橋のたもとに、夜な夜な美しい女の人が人待ち顔で立っていると聞いたことがある。それは幽霊でもなく、生身の人だという尾ひれもついて。

「おいおい、この辺でないかぃ」

「おーおー、あの噂だろ」

「うへへへー。いるかも知れないですね」

 ご多分に漏れず寮生たちは、そんな下世話な話に仄かな期待を抱いているようで、キョロキョロと辺りをうかがいつつ、慎重に歩を進めているのが実に可笑しかった。

 その後、道は長い一直線が続くようになり、ただただ暗がりの中をぞろぞろと、まるで野辺送りの村人たちの如く、疲れで口数も少なく歩き続けて行った。

 しばらくして、大きく左にカーブすると、再び道は一直線に戻るのだが、ようやくチラチラと見覚えのある街の風景にたどり着く事ができたようで、少し気が楽になった。

 というのも、ここまで来ると、ゴールまでの見通しがつき始める目印を幾つも目にすることが出来るからだった。あの店もこの店も、一度は来たことのある場所だった。

 電気は消えて真っ暗だけれど、近隣の女子大とのコンパで利用したことのある焼き肉店。学割が効く格安のボーリング場の外観や、寮祭の広告取りに訪問した喫茶店など。

 それはまるで、ずっとさ迷い歩いていた砂漠の中で見つけたオアシスのようで、心がほっと一息つける光景だった。すでに東の空には白々と夜明けの気配が漂い始めていた。

 よく目を凝らすと、少し先の横に長く広がる緑の森の中に、スクッと突っ立つ黒い尖塔が確認できた。それが見えれば、寮まではあとひと息。もうあと少しの踏ん張りだ。

 この地が開拓され百年に達したことを記念して建設されたその塔は、実際には茶色の鉄骨構造で、高さは百メートルもあった。それゆえに、遠くからでも良く確認できた。

 二十五階建てのビルディングに相当するスケールは、ダイナミックそのもので、階段を使って中階まで昇れば、ガラス張りの展望室から、はるか彼方の山脈連峰まで望めた

 我が学生寮はその塔からほど近いため、少しずつ大きく見えてくるごとに、ゴールの予感が胸に迫り、嬉しくなってきた。近くにいる仲間にも安堵の表情が見て取れた。

 先頭組は既に帰り着いているに違いなく、着順を争うわけでもないのに気が急くのは、何よりも早くひと風呂浴びて、キンキンに冷えたビールを飲みたいからに他ならなかった。

 午前七時、やっとのことで帰還。ボイラーマンのオヤジが準備してくれていた風呂に直行し、ザンブリと汗を流すと、自室に飛んで帰った。

 ドアを開けるや否や、真っ先に目に飛び込んできたのは、窓際にズドンと置かれた異様な物体だった。

 ―――なんだコレは!

 まさかと思いつつよくよく見れば、なんとそれはバス停留所の標識だった。あろうことか、強歩の途上で、暗闇に紛れて持ち帰って来ていたのだ。

 こんな事をしでかすのはあの二人以外にはあり得ない。どういうわけか、コース途上で一度も顔を合せなかった、安兵衛とネルソンの悪童コンビだ。

 カーテンが閉じられている二人のベッドを覗くと、疑惑の張本人たちは早くも高いびきをかいていぎたなく眠りこけている。寮長の注意はあちこちで見事に裏切られていた。

 ふと鼻をくすぐる香しい匂いに気づいて部屋の反対側に回ると、ドヤが耳にヘッドホンをあてがい、またもや優雅にコーヒーを飲んでいるところだった。

 互いに目だけで挨拶を交わして、彼の横に腰かけた。ふっくらした彼の顔はツヤツヤしていて、小ざっぱりとした仕立ての良い青いシャツに着替えていた。

 ヘットフォンを外したドヤは、黙って立ち上がると、棚から取り出した染付の和風カップにコーヒーをポトポトと注ぎ淹れ、目の前にカチャリと置いてくれた。

無口でシャイだが、他人への気遣いは優しく温かいのが彼の美点だ。ビールよりも先にコーヒーなんて、我ながら洒落ているなと思いつつ、ありがたく頂くことにした。

 高級そうな密閉型のヘッドホンの黒く柔らかいイヤーパッドから漏れ聞こえて来るのは、洋楽のジャズピアノのようであった。和洋問わず幅広い志向なのだ。

 裕福なリンゴ農家の跡取り息子らしく、身の回りの物はどれも高価かつ高品質で、学生には不釣り合いなのだが、渋すぎるセレクトには嫌味がなくて好感が持てた。

 過酷なイベントの感想を吐き出すのでもなく、違法な悪戯を非難するのでもなく、ただ昨日と同じような日常を、あるがままに受け入れている。悟りを開いた坊さんのようだ。

 湯気の立つ薫り高いコーヒーの、ほろ苦さが疲れた身体に沁みた。穏やかな時の流れがユラユラとたゆたう水槽の中で、言葉など無用の空間が、そこにあった。


 最大のイベントである寮祭が間近に迫ったある休日のこと。S教授の依頼に応えるべく、再び〝供え石〟探索に出かけることにした。今回の目的地は森のかなり奥の方だ。

 あらかじめ軽食と飲み物も携行することにした。前夜のうちに、例によって食堂前に提供されていた白米でお握りを二個作り、残っていたおかずを具材にした。

 荷物を詰めたデイパックを背負い、寮から近いあの茶色の尖塔まで歩き、その脇道から森へ入った。見上げる周囲の樹々の緑は濃く、みっしりと葉が茂っていた。

 散策者たちでしっかりと踏み均された遊歩道を進むと、同じようにバッグを背にした、何人かの人たちとすれ違った。

「こんにちわー。ご苦労様です」

「あっ、どうも。ありがとうございます」

 こちらが手にしているゴミ袋と火ばさみを認めると、笑顔で軽く会釈してくるのが何だか面映ゆかった。今回はカモフラージュも兼ねて、小道具を用意してきていたのだ。

 この装備なら、歩道から林内に多少踏み込んでも怪しまれることは無い。それ自体にやましいことは何も無いが、公言できぬ秘めた目的のある事が多少心苦しかった。

 歩道脇の空き缶や紙くずなどを手慣れた動作で拾い集め、ビニール袋に入れながら、脳内では冷静に今回の目的地までのルートをなぞり返していた。

 目指すべきポイントは、〝供え石〝特定要件をほぼ満たしていると言ってよかった。第一の条件である池の存在については、間違いがない。

 ただ、以前の探索地の場合と異なるのは、それがとても分かりにくい場所にあるということだ。普通の散策者には、見つけることはまず無理だろう。

 どういうことかと言えば、たしかに池はあるのだが、それは実に発見しづらく、歩道からではまったく視認できないという点。何の気なしに歩いていては到底発見はできない。

 まさかそんな場所にあんな広さの水面が広がっているとは、誰も気づきはしない。ならば、自分はどうやって見つけることができたのか。

 そこを発見したのは全くの偶然ではない。日頃から森中の歩道を行くとき、視線は前方に向けていても、常に左右の林間にキョロキョロと目配せしていた。

 森の景色を眺め、森林浴を堪能する目的の散策者なら、何ら不思議な行動ではないが、オレの場合は少し違う。何度も訪れている場所のその時々の変化を観察しているのだ。

 天然林と人工林とが混在しているこの森の中には、場所によりケモノ道のような痕跡が確認できる。それは本当に動物たちの通り道である場合もあるが、明らかに人間の足跡が認められることも多い。

 もしも、そんな場所が確認できたなら、その脇道に分け入って、先に何があるのか確かめずにはいられない。これはという箇所には必ずと言っていいほど潜入してきた。

 それゆえに、常人が知りえない場所も認知しているし、ほんの少しの異質な変化や、常態ではない変動に関しても鋭敏に感応できるようになっていた。

 やがて見覚えのあるやや傾斜のある道にさしかかり、左側に低いクマザサが数カ所倒れている個所を見つけた。以前にも気が付いてはいたが、その時は大して気にしなかった。

 改めてよく見てみると、踏みつぶされたような痕は、飛び飛びになって、林の奥に続いているようだった。

 ―――はてな……。何か意味のあるようにも思える。

 キョロキョロと周囲に人気のないことを確かめてから、ゆっくりと足を踏み入れる。こんな時のために隣町の古着屋で手に入れた革製の長靴が役に立った。

 この森にはヒグマなどの大型動物は棲息していないので安心だが、思わぬ野生の伏兵が潜んでいることもあるので、出来るだけ物音を立てないように進んで行った。

 ほどなくして視界の開けた場所にたどり着くと、

―――思っていた通りだ。

 目の前には、水鏡のようにキラキラ光る水面が忽然と現れた。自治体が作成した森林公園の地図には、こんな池など掲載されてはいない。もちろん、名前があろうはずもない。

 見たところ、まずまずの面積があるようだ。試しに近くのカラ松の樹によじ登ってみることにした。子どもの頃から木登りは得意だ。枝ぶりを確認して足掛けして上に行く。

 二メートル位の高さから、改めて池の形を確認してみると、何やら神棚に飾る白紙の紙垂(しで)のようないびつな形状をしていた。これでは見栄えも悪く鑑賞には適さないな。

 それでも、池であることには相違なく、一つ目の条件はクリアできた。

―――オーケー、オーケー

と、独り言ちると、もと来た道を引き返すことにした。

二つ目のチェックポイントについても、今回は自信があった。改めてこのエリアに来てみて、脳内にある歌のメロディが浮かんできていたからだ。

特定の場所と音楽の記憶が結びついているのは良くあることだ。初めて来た土地なのに、なぜか既視感に捉えられて仕方がない。そんなデジャブのメロディー版とでも言おうか。

 その歌は、中学校時代に音楽の授業でオールドミスの教師がしつこく指導していたもので、暑い季節になると何故だか自然に口ずさんでしまう。

 その歌詞中に登場するのが、他でもない〝ミズバショウ〟の花であり、これから向かう花の群生地で、パブロフの犬の如く、大声で唄い、すぐに大きな勘違いに気が付いた。

 何のことは無い、ミズバショウとスズランを混同して、ごっちゃにしていたのだ。考えても見れば、自分の故郷ではそのどちらの花もまったく馴染みがなかった。

だから、その場所に咲いているのは〝スズラン〟に違いがない。

 はやる気持ちを抑えながら群生地を目指して速足で行くと、遊歩道の向こうからショートヘアーの若い女性がやって来るのが見えた。

 その女性は、身軽なハイキング仕様の服装で、背中にデイパックを背負っているようだった。手には遊歩道で拾ったらしき木の枝を持ち、とてもスタイルが良かった。

 遠目にパッと見た瞬間、身体に電気ショックが走るのが自覚できた。栗毛の艶々した髪と、ふっくら紅い頬、ツンと上向きの鼻と、その上にあるとび色の瞳の女性は、紛れもなくあの娘だったのだ。

 でも、なぜこんなところに彼女が?

 混乱する頭を落ち着かせようとするのだが、その間にもその女性は少しづつ近づいてくる。あたふたと慌てているうちに、彼女はズンズン間合いを詰めて来てしまった。

 至近距離のその女性の表情にはまったく変化は無く、やがて何事もなかったようにすうーっと横を通り過ぎて行ってしまった。

 ―――似ていた。そっくりだった。

 本当に瓜二つだったのだ。高校三年のあの寒い冬の日に、一世一代の勇気を振り絞って告白し、ものの数秒であっけなく振られてしまった、生徒会副会長のあの娘に……。

 しばらく動悸が収まらなかった。どうして故郷の同級生がここにいるのだろう。彼女は卒業後、確か地元の銀行に就職したはずではなかったか。

 ひょっとして、観光旅行か何かの目的でやって来て、偶然にこの森林公園を散策しに訪れたのかもしれない。

 軽やかな興奮は甘美な幸福感を伴って、身体じゅうの細胞が一斉にわき立つような昂ぶりを覚えた。しかし数分後、祭りの後の淋しさにも似た空虚な脱力感がやって来た。

 ―――そんなはずは無いのだ。彼女が自分と同じこの場所に存在するなどということはあり得ないのだ。

 もしも彼女が本物のあの娘ならば、無言で行きすぎるはずもなく、その表情に多少なりとも驚きや懐かしさの片りんを漂わせてくれただろう。

 ただ、呆然とその場に立ち尽くし、去っていく女性の背中に気落ちした視線を投げた。彼女の残り香は、高校時代、幾度となく鼻腔をくすぐった、記憶の奥のそれではなかった。

 世の中にはよく似た人が三人はいるという。しかし、過去に多少なりとも関わりのあった人、しかも酷似した者との邂逅なんて、そうざらにあるものではない。

―――彼女があの娘とは全く別人だとしても、もしかしたら、これはある意味吉兆なのではあるまいか。

 今はまさに突き止めるべき課題に直面していて、その解明に向けて行動を起こしている真っ最中なのだ。そんな時に、副会長似の女性に出会えるなんて。

 この先の流れは好機到来へと進んでいくのかもしれない。偶然が奇跡を呼び込み、不可思議に一筋の光明が差し込んで来たような気持がした。


 群生地の前に立っている。林内の湧水が湿地帯を形成していて、その中に緑と白のツートンが奥行きのある広がりを見せていた。

 このスズランの群生地は散策者たちにも人気のスポットで、今も数人がカメラ片手に記念撮影中だ。〝供え石〟探索のポイントとすれば実に分かりやすい場所である。

 こことて、さっき発見したばかりの隠れ池の存在との結びつきを考慮しなければ、ただの景勝地でしかない。しかも、この群生地に石碑があることなど、誰が知り得ただろう。

 それは群生地の東側、湿地帯の縁に微かに認められる小道を少し歩いた先に建てられていた。これまた、幾度も訪れた際に、発見した道で、教授が示したヒントに合致している。

 石碑は黒い斑点が混ざった白色の花崗岩で出来ていて、高さは三十センチほどの縦長の立方体。面面には何やら文字らしきものが見て取れるが、まったく読めない。

―――それは二の次。スズランの群生と石碑。それで十分だろう。

余計な詮索はせずに先に進むことにした。

 これで二つ目のカードが入手できたので、最後の切り札探しに向かうことにした。しかし、〝供え石〟を円環状取り囲む桜木の存在なんて、まったく記憶になかった。

 そのような植樹は明らかに人為的・作為的なものであり、森林内の歩道近くに存在していれば嫌でも目に付く。だとすれば、遊歩道外れの奥まった場所にあるのは当然のこと。

 なおかつかなり見つけにくい位置に設定されているに違いない。スズランの群生地を離れ、そこに比較的近い周辺区域を当たることにした。

―――と、その前に腹ごしらえだ。

 ちょうどいい具合の草地を見つけ、デイパックから取り出したビニールシートを広げ、持参のお握りにオレンジジュースを取り出す。子供の頃からの定番の組み合わせだ。

 小学校の遠足の時、仲間からこの取り合わせをからかわれたこともある。しかし、相性の美味を知らぬ者のたわ言と、まったく気にする事もなかった。

お握りを頬張りつつふと空を見上げると、ひと固まりの丸い白い雲がゆったりと移動して行くのが見えた。

―――〝クラララララーーーー〟

 少し遠くの空に小刻みに響いて来るのはアカゲラのドラミングの様だ。高速でリズミカルかつ心地よいその音は、今自分が自然のただ中にいることを改めて実感させてくれる。

 冷めても美味しい白米を咀嚼しながら飲む無果汁のソフトドリンクの甘さが、疲れを癒してくれる。不思議なもので、炭水化物を摂取しただけで俄然やる気が出て来た。


 小休止の後に向かったのは、スズラン群生地から百メートルほど歩いた地点で、周囲はトドマツ、エゾ松、イチイなどの針葉樹と、イタヤカエデ、カツラ、シナなどの広葉樹が混在する場所で、低い位置にはクマザサやフキなどがビシッリ繁茂している。

 そこを訪れるたびに、なぜか気になる箇所があったのだ。幹線に付帯する取付け道路のように、歩道沿いにわずかに剥き出しの地面があり、人為的な痕跡が見えた。

 よく見ると、その先の林の中は、何故か二列の平行線状に松の樹が生え揃っているようにも見える。明らかに人工的な植林のなせる技で、意図的な印のようだった。

 それはまるで、結婚式で新郎新婦を見送るために参列者たちが作る腕アーチのように、両サイドの樹から数本の枝が内側に傾いでいるのだ。

 そんな形状が自然に創り出されるはずもなく、間違いなく人の手が加えられた証なのだが、案内看板などの標識がある訳ではなく、ほとんどの人は無関心に素通りしていく。

 よほどの暇人か好奇心の強い酔狂なタイプでもなければ、こんな風に林内を覗き込むことも、松並木に疑問を抱くことも無い。偏屈である自分の性格に感謝したい。

 あの生徒会副会長似の女性の出現が無ければ、ひょっとするとやり過ごしてしまったかも知れないが、幸運の暗示を胸に秘めていたせいか、その場所に足を踏み入れずにはいられなかった。

 百メートルほども続いた松のアーチを抜けると、驚くことにそこに出現したのは紛れもなく円環状の桜並木であったのだ。いきなり異次元の世界に迷い込んだのだろうか。

―――こんな場所に、なんて不可思議な。

 とうに桜花の季節は過ぎているはずなのに、なんとここの桜はまさに満開状態だった。

―――あり得ない。なぜここだけ異世界空間が広がっているのだろう?

 胸中に訝しい気持ちが溢れきて、戸惑うしかなかったが、紛れもなくこのエリアだけは、絶好の花見スポットになっていた。幕の内弁当とお酒を持ってきてないのが残念だ。

 正真正銘の桜木はいずれも数メートルほどの高さで、数えてみると十二本あった。それらは精緻な正円を形成して屹立していて、どう考えても、何らかの意図をもって植樹されたものに間違いは無かった。

―――ついに発見した!

 暫くは目の前の異様な光景に見とれ、阿呆のように突っ立っていた。〝供え石〟発見に至る三つの要件が揃った喜びにハタと気が付くまでに、数分の時間が必要であった。

 常人には容易に発見できぬ奥地の池。誰もが知っていながら、その存在の裏に秘密が隠されていたスズランの群生地。そして、その二つとの関連性を理解していなければたどり着けなかったこの円環状の桜並木。

 S教授が示唆した三つのパズルピースを探しあて、それがピタリとはまったことに、強い感動を覚えた。求め続けていたものを手に入れるって、何て素晴らしいのだろう。

 もちろん、その先にある百万円という望外な報酬が手に入ることの喜びは途方もなかった。それはそれとして、肝心の〝供え石〟はまだ発見していない。

 ―――さてと、どこから手をつけよう。

 円環状の桜並木の中心部分に据えられているはずだが、みっしりと繁茂しているクマザサに遮られてそれが確認できない。ひとまず、革長靴でそれらを踏み固めて行くことにした。

 雪道用の滑り止め金具を立てて、ザクシザクシとササを踏みつけながら、地道な作業を進めること約十分。〝カチコン〟という反響音とともに、足裏に固い反応があった。

―――何かある……。

 音のする場所のクマザサを両手でシャコシャコとかき分けてみると、想像していた通り、そこには二段重ねの見事な〝お供え餅〟が露わになった。

 まずはざっくり外観を観察してみる。下段の石はちょうどLPレコードと同じくらいの直径約三十センチ。上段の石は二十センチ足らずのEPレコードほどだろうか。

 びっしりと緑色の苔で覆われているので石質までは特定できないが、欠けた箇所も見当たらない極上の保存状態を保っていた。かなり年月は経っている。

 はやる気持ちを抑えながら、先ずはS教授に報告するための写真撮影をすることにした。デイパックから取り出したのは、これまた街の中古店で手に入れたコンパクトカメラだ。

 望遠機能などないものの、軽量かつピント合わせ不要で、ただパシャパシャ撮るには持ってこいの優れものだ。

 現場保存の観点から、供え石には直接手を触れずに、真上から真横、さらには周囲のクマザサを含めたカットなど、次々と撮影していった。

 そして今度は、逆再生の映像のように、円環状の桜並木をぐるりと連写し、後ずさりをしながら来た道を戻りつつ、松の木アーチの様子もつぶさにカメラに収めて行く。

 幹線歩道まで戻ってからは、取付け道路状の空地、さらにはここまでたどり着いた散策ルートや、スズランの群生地、例の名もなき隠れ池までを、一つ一つ事細かく撮影する。カット数はかなりのものになった。

 生来の凝り性のせいもあるが、この件の依頼主があのジジイとなれば、報告の際にどの角度から突っ込まれてもいいように、万全を期さなければならない。

 すでに日が傾きはじめていたので、今日の一連の流れを忘れないように、胸ポケットから取り出したメモ帳に詳細に書き込むのも忘れない。そうした作業を全て完了させ、やっとのことで寮に向けて帰ることにした。


 翌日、撮影したフィルムのプリント依頼のため、大学生協売店に出かけた。店は学生会館の横にある。そこには以前にちょっとした苦い思い出があった。

 取るに足らない事柄ではあるが、売店の某女性スタッフと顔を合わせるたびに、軽いトラウマのごとき連想反射が襲って来て、自意識過剰気味に赤面してしまう。

 あれはこの大学に入学してまだ間もない頃、例によって寮の同室メンバーで酒盛りをしていた時の事だ。

 賑やかに盛り上がり、程よく酔っぱらった頃、同席の先輩からごくさり気ない感じで、生協に行って酒のつまみになる〝貝の缶詰〟を買って来てくれ、と頼まれた。

「なんていう缶詰ですか?」

当たり前の質問をすると、

「〇っぺの缶詰をくれと言えばすぐ分かる」

と答えた。

 聞いたこともない種類だが、名だたる海鮮王国のこの地域の特産品だろう位に解釈して、酔い覚ましがてら、とにかく生協売店まで買いに走ることにした。

出がけに先輩は付け足すように、

「あ、それから、その缶詰は店の女性店員しか知らない物だから、他の人に聞いてはダメだぜ」

と、訳の分からないことを言った。

 売店に到着し、商品棚をあれこれと探してみたが、そんな缶詰は一向に見当たらなかった。仕方なく先輩に言われた通り、レジにいた三十代くらいのキレイな女性にその缶詰の在庫を尋ねることにした。

 「あの、すみません。〇っぺの缶詰って置いてますか?」

ほんの一瞬で、彼女の顔色が変わり、赤面したかと思うと、次には〝またか〟とでもいうようなあきれ顔に変化した。

―――何か気に障るようなこと言ったのか。

 訳が分からないまま、もう一度同じ質問を繰り返してみた。

すると女性店員は、打って変わった毅然とした口調で、

「そんな物はおいていません!」

と、語気を荒げて言い放った。

―――な、なぜ怒るんだよ?

 ただ、缶詰めの事を訪ねただけなのに、何も憤慨することは無いだろう。訳も分からず、気まずくなって売店を飛び出した。背中の方でクスクスと笑い声まで聞こえてきた。

 あの時の得もいわれぬ場の雰囲気は、今でもおぞましい記憶として脳内にこびり付いている。まったく腹立たしいことだ。とんでもない奴らめが。

 来た道をトボトボと戻り、寮にとって帰り、在庫が無いことを告げた時の仲間たちの爆笑といったらなかった。何がそんなに可笑しいんだこの野郎。悔しかった。

 無遠慮な笑いの渦の中で、腑に落ちずただ苦笑いしているだけの愚か者と、その傍らで憐憫の表情を浮かべていた、情け深き友。思い出すだけでもやり切れない。

 何を隠そう、あの時のからかいの張本人が、今いっしょに暮らす安兵衛とネルソンであり、憐れみの瞳を向けてくれていたのが、同期のドヤなのであった。

 後になってこっそりとドヤが教えてくれたのは、件の缶詰の名前はこの地域で言うところの、女性器を指す方言であり、言うまでもなく、そんな商品が売られているはずもなかったのだ。

 地方出身の新入生を面白半分で弄ぶ性悪先輩たちもさることながら、その企みをなんら疑うこともなかった己の浅薄さには、我ながら呆れてものが言えなかった。

 そんな気まずい記憶のある生協に依頼したプリントを受け取りに再び出向いた。その翌日には、さっそくS教授の研究室を訪ねることにした。

 彼には電話で事前報告をしてあったので、恐らくはいい意味で、手ぐすね引いて待ち構えているに違いなかった。受話器の向こうのジジイは、分かりやすいほど浮かれていた。

 相変わらず、開放的と言おうか無防備な研究室入り口から部屋の中を覗き見ると、教授がこっちを向いて椅子に座っていたのでドキリとした。

―――なんだよ、びっくりさせやがって。

 講義のある日だったらしく割と大人しい服装をしていた。両肩に黒いフリルが付いていて、薄手でスリムな上着は太ももくらいまでの長さがあり、胸のボタンの位置に横長の白いラインが入っている。

 気温の高いこの季節なのに長袖で、手首の箇所にも胸と同じ白いラインがあしらってある。大人しげとはいうものの、やはり彼らしいのは色の選択で、孔雀石のような濃い緑はラメが入ってキラキラ光っていた。

「ボウズ!待ちかねたぞーー」

芝居がかったセリフを吐いて、両手を広げて迫って来るから払いのけてやった・

「邪険にするんじゃないよ」

子供のように拗ねて気味が悪い。

「暑いのにベタベタするなよ」

「とにかくだ、良くやったな!」

椅子に座り直してからの、正味の感情をこめた誉め言葉にこちらも思わず頬が緩む。

「う、うん。ありがとうございます」

 柄にもなく照れくさくて、ジジイ相手につい丁寧な言葉遣いになってしまった。

無垢材を使ったベージュ色のアームチェアに腰かけて、調査報告をすることにした。 改めて見回す研究室の家具調度は、実に贅沢でかつセンスが良かった。

 ふと、背後から何やら甘く優しい、レンゲソウのような香りが近づいてきたかと思うと、白くぽっちゃりとした腕がスッと伸びて来て、スポルテッド・メイプルのテ ーブルの上に、コトリと青磁の湯飲み茶碗が置かれた。

 思わず振り返ったその先に見たものは、またしても、愛しくも切ないあの生徒会副会長である、あの娘のにこやかな微笑みだった。

 ―――ええーーー!何でなんだ?

 思わず小さな驚きの声が漏れた。しかし、よく見ればなんと、過日の森林遊歩道ですれ違ったアノ時の彼女のようであったのだ。

「…あっ…」と驚きの声を呑んで、呆然と彼女を眺めたまま身動きできずにいると、ジジイが言葉をかけて来た。

「ワシの仕事を手伝ってくれている学生さんだ。たしかお前と同い年じゃないか」

「そ、そうなんだ……」

タイミングのいい助け舟の言葉に感謝しつつ、口ごもってしまう。

「可愛い娘だろ。お前が好きそうなタイプじゃないか」

「な、何を根拠に、バ、バカを言うな!」

 しどろもどろになって狼狽える自分の顔は、間違いなく茹でダコのようであったろう。

 その横で副会長似の彼女は、〝クシュクシュ〟と不思議な音無しの嬌笑を残して退室していった。

 大きなため息を一つ吐いて、思い直すようにS教授に向き合い、本題に入ることにした。ジジイは、皺顔の表に下卑た色を浮かべ、笑いそうになるのを懸命に堪えていた。

 先ずは、撮影した写真のプリントをズラリとテーブル上に並べ広げ、数枚のワープロ打ちの報告書を彼に手渡す。寮で二日ほどかけて見やすくレイアウトしてきたものだ。

 受け取った彼は、中国伝統芸能の変面の如き早業で真面目な顔つきになった。その時ばかりは、だてに大学教授を標ぼうしてはいないなと、見直してしまった。

研究室内に静かな時が流れ、あの娘がサーブしてくれた緑茶とともに、小豆入りの抹茶羊羹を味わいながら、S教授が読み終わるのをじっくり待つことにした。

 鳶色の瞳、ふっくらとして赤みがかった頬、小さく控えめな唇からこぼれる小粒の白い歯。栗毛のショートヘアーが良く似合い、甘くて少し鼻にかかった声音が心地よかった。

―――あんなに手ひどく振られたのに。

 記憶の中のあの娘はいつも微笑んでいて、身長差二十五センチの下方から見上げてくるキラキラした瞳には、聡明そうな光が宿っていたっけ。

 研究室の木枠ペアガラスの大きな窓の向こうに、ハルニレとイタヤカエデの緑が風に揺れていて、いかにも涼し気だ。裏手はあの森林公園につながる林があった。

 脳内の副会長の面影と、ついさっき奇跡の再会を果たしたあの娘の顔とが、二枚絵の透かし合成のようにピタリとハマった時、S教授のしわがれ声が割り込んできた。

 「さすがだ。やはりワシが見込んだだけの事はあったな」

開口一番、最上級の賛辞でジジイが読後感想を語った。

「詳細な現場写真も良く撮れていて臨場感に溢れている。何よりもこの報告書には、ワシが必要としている要件が余すところなく盛り込まれている」

N町の居酒屋Wで、寮生たちと他愛ものない冗談を言い合っている時とは別人格の物言いであった。

「この二つが揃っていれば完璧だ。言うことは無い。お前はワシのミッションを十二分にクリアしてくれた。ありがとう」

ジジイはそう言うと、孔雀石色の服の懐からむんずと何かを取り出すと、パンと小気味よい音をさせてテーブルの上に置いた。それは、ベージュ色の帯封で束ねられた新札の現金だった。

「約束の百万円だ。ワシの気が変わらないうちに、早く持って帰れ。真っすぐに銀行に預金しに行くんだぞ」

ピシャリとした口調でそう続けると、まるで五月蠅いハエでも追い払うように、右手をビラビラさせて退散を促すのだった。

―――なんとまあ、食えないジジイだぜ。

研究室を出たその足で商店街に向かい、都市銀行の支店窓口で手続きをした。預金通帳と一緒に帯封付きの現金を差し出すと、担当の若い女性行員は、一瞬怪訝な表情を浮かべたものの、すぐに営業スマイルに戻って、テキパキと事務処理に取り掛かった。

 ソファに腰を下ろし、呼び出しが来るのを待ちながら、胸奥に沸き起こる達成感とともに、熱く泡立つ喜びで一杯になっていた。

 預金手続きを終え寮に帰り自室に戻っても、心がフワフワと浮遊しているようで落ち着かなかった。

 誰もいない部屋の椅子に腰かけ、一人ぼーっとしていると、ドアが開いてドヤが帰って来た。

「Wに飲みに行かないか?」

 唐突に思いついたように、そんな言葉が口を突いて出た。そうなのだ、こんな時はWのかあさんの顔を見に行くのが一番いいのだと妙に納得していた。


 N町居酒屋Wの暖簾をくぐり中に入ると、カウンターには二人の先客がいた。こちらに顔を向けているのは女子学生寮に暮らす顔なじみの学生だった。

 互いに気が付き、軽く頷いて挨拶してからドヤと席に着く。カウンターの向こう側でかあさんが派手に煙を上げて魚を焼いていた。

 「いつものでいいかい?」

 振り向きもせず、阿吽の呼吸でやり取りが始まる。通いなれた店ならではの居心地の良さに、緩やかな心の解放感を感じるのだった。

 「心配事か、それとも余程いいことがあったのか?」

 何を言わずとも、相手の心の機微に優しく寄り添ってくる。それがドヤの良いところだ。

 「オレの事より、〝黒衣の君〟とはその後どんな感じなんだ?」

 いきなりの切り返しに余程あわてたのか、彼はドギマギして言葉を詰まらせ、照れ隠しにかあさんに声をかけた。

「焼き鳥、適当に見繕ってくれますかぁ」

 語尾に特徴的なイントネーションが混じるのがドヤの故郷の言葉の特徴だ。

普段は意識的に丁寧な口調で会話していても、ふと気が緩んだり、逆に狼狽して焦ってしまう時に、お国言葉丸出しになるところが憎めない。

 かあさんはガラスの冷蔵ケースから無造作に数本の焼き鳥串を取り出すと、手際よく炭火コンロの上に並べ、チャチャと塩コショウを振りかけて焼き始めた。

 「オレの事よりロッキーの話が先だろ」

 真っ先に二人の前に提供された、この店の看板メニューの一つである〝レモン酎ハイ〟をぐびぐび飲んで、ドヤが話を促した。

 詳細な点は割愛して、S教授からの依頼内容と、その後の経緯から結果に至るまでの顛末をザックリと彼に話して聞かせた。

 一通り語り終えて、こちらもレモン酎ハイをグビりと飲った時、隣の席にいる女子寮生の向かい側にいたショートヘアーが左右に揺れるのが目に留まった。

 栗毛のサラサラした艶髪は美しく、なで肩の流麗な背中は柔らかそうだった。

 「それは本当にラッキーだったな!」

 S教授からの報奨金額を聞いても、ドヤがさして驚かないのは、裕福な実家の跡継ぎである事と、彼そのものが金銭に執着しない性格ゆえであった。

 仕送りとアルバイトで生計を維持している者にとっての百万円は大金だが、ドヤにすればその金額よりも、才覚と行動力で勝ち得た成果にこそ意味があると考える。

 シャイで口下手な己には到底成し得ない難題に挑戦して、見事に獲物を手に入れられたことを、何よりも素直に喜んでくれている。

 「ほーい!くっちゃべってないで、熱いうちに早く食べるべし」

 ドンと置かれた青緑色の皿に盛られた焼き鳥串は、香ばしい炭火の匂いと照り輝くタレの艶が相まって、食欲をそそる。

 この皿は、かあさんが生まれ育った港町の伝統ある窯元の作品で、緑織部の透明感ある釉薬が特徴だと聞いた。

 ある時この店に、半可通の骨董趣味人が飲みに来た際、出される器がどれも居酒屋には似合わぬ、通好みの逸品であることを冷やかしたことがあった。

 すると、生来の鉄火肌持ちのかあさんの逆鱗に触れ、店から叩き出され、派手に塩を撒かれてしまったという。

 学生や安月給のサラリーマン相手の店でありながら、出される料理は鮮度も調理も一流で、供される器も凝っていた。

 酎ハイをお代わりして、焼き鳥を頬張る。肉厚でジューシーな食感に酒が進む。

「それはともかく、彼女とはその後どんな

感じなんだ?」

 二人とも酒には強いので、素面同然の状態で真面目な話ができるのがいい。

「まだ気持ちは伝えられてないけど、やはり好きなんだぁ」

 ドヤが恋焦がれている〝黒衣の君〟とは、女子寮に住む長い黒髪のスレンダーな美女だ。黒服を好み、てっぺんから足元まで黒ずくめであることから、男子寮生からはそんな異名で呼ばれている。

 顔は色白で整ってはいるが、喜怒哀楽が読めない無表情さが、自分にはどうにも苦手だった。

 ドヤはそんなクールビューティーが好みなのか、いつしか彼女に心を寄せるようになっていた。

 「ホラ!アンタたちの魚も焼けたよ」

 隣りの席の二人にかあさんが出したのは、驚くほど大きな開きの焼き魚だった。生モノが苦手な自分でも、その魚だけは大好物の逸品だ。

 肉厚で脂がのって柔らかくジューシー。小骨ばかりが多くて食べる身が少ししかない他の魚とは違い、太い背骨をベリリと外せばたっぷりの身が味わえるのが最高だ。

 人間も焼き魚も小賢しいのは適わない。単純にして明快、素直かつ天真爛漫。そういうタイプが好ましいのだ。

 女子寮の女が素っとん狂な声で驚いて、向かいの女性を急きたてながら焼き魚に手を伸ばしているのが見えた。

 そうなのだ。彼女がいるので、固有名詞は避けてドヤの恋話を探らなければならない。背中を向けているショートヘアーが笑い声を上げたのだが、どこかで聞き覚えのある特徴的な発声だった。

 「そうだ、今度オレが黒衣の君とのデートをセッティングしてやるよ」

 「えっ!本当か。お前に任せていいのか」

 ドヤのこういう真っすぐな気性が、誰からも慕われる要因なのだ。

「ロッキーよ、お前さんあのド派手な教授と最近よくツルんでいるようだね」

ひと息ついたかあさんが、くわえタバコのまま器用に話しかけてきた。

「ツルんでいるというか、なぜか妙に気が合うんだよね」

「言っておくけどさ、アイツには気をつけた方がいいよ」

 意味深なセリフを吐いて、彼女は再び焼き台に向き直り、調理作業を再開した。

かあさんの言葉が気になって、手にあった酎ハイのグラスを一気に空けようとした時、横手から声がかかってきた。

 「間違っていたらゴメンなさい。S教授の研究室に来ていた方ですか?」

 甘く鼻にかかったその声に思わず振り向くと、そこには果せるかな、あの娘の純情無垢な鳶色の大きな瞳があった。

 故郷のあの冬枯れの田んぼの脇で、無思慮に吐いた告白の言葉を優しく受け止めながらも、どうにもできない申し訳なさを溢れさせ、立ちすくんでいた生徒会副会長。

 一瞬にして一刀両断に断ち切られ、二の句が継げぬ自分だったが、辛うじて絞り出した〝もう行っていいよ〟のひと言。

 悲しいかな、その言葉に安堵したように足早に立ち去って行ったあの娘。

―――迷惑でしかなかったのだ。身勝手な想いを放出するべきではなかったのだ。

 心の中には墨汁のような悔恨と苛立たしさが拡がっていき、居たたまれずに田の中の藁山に突っ伏して、ただ泣き喚いた。

 脳内を高速回転で走り回っていた苦い記憶を収束させて、目前の尋ね顔に対峙した。

「そういうアナタこそ、美味しいお茶と羊羹をありがとうございました」

「とんでもない。あれは、親戚からの頂き物なんですよ」

「ジジイ、いやS教授から同級生だと聞きました。ざっくばらんに行きませんか」

「そうね、分かったわ。そうしましょ」

変わり身が早いのは、けっして嫌いじゃない。素直な心根がその表情にも表れていて、とても好感がもてた。

 〝ロッキー〟だと名のると、すぐにニックネームだと理解して、自分は〝シルキー〟だと返してくるあたり、頭の回転も速いようだ。

 ドヤを同部屋の寮生だと紹介すると、隣の女子寮女が会話を引き取って、ドヤに話しかけてきた。

 「アナタのその話し言葉、ひょっとしたらアタシの故郷と同じかもしれないわ」

彼女は俄かにその場を仕切りだすと、席替えを段取りして、二組の男女の取り合わせにしてしまった。

シルキーと隣合せになり、共に手にしたレモン酎ハイのグラスをカチンコと鳴らして、相席がスタートした。

「改めまして、ロッキーだよ」

「改めてましてシルキーよ。こちらこそよろしく」

 間近で見る彼女の面差しは、たしかにかの副会長に酷似しているが、身体全体から受ける印象は微妙に違っていた。

一つにはその背の高さであり、さらには丸みを帯びたやわらかで肉感的な肢体のイメージから来るものだろう。

「こうして会うのは、実は二回目じゃないんだよね」

「あの日、森林公園の散策路で、初めてアナタを見たわ」

―――なんだ、覚えていてくれたんだ。

 だからなのか、研究室でのさりげなさの中に、どこかほのかな温かさを感じたのは。

「理由は分からないけど、あの遊歩道ですれ違った時、何故だかとても緊張していたのよ」

 回想するようにシルキーがそんな事を言い始めた。

「もちろん初対面の全く知らない人なのに、どこかで会ったことがある気がして」

乾いた喉を潤したくて、一気にグラスを空けた。お代わりを頼もうとかあさんに視線を向けると、彼女の顔が妙ににやけている。

「何だか暑くて堪らないから、さっぱりした物でも作ろうかね」

 新しいグラスを差し出しつつ独り言のようにそう言うと、不器用にウインクしてきた。

「見知らぬ人なのに、まじまじと見つめていて、気味が悪かったんだと思うよ」

「本当だわ。真っすぐに向かってくる視線が怖かったのかもしれない」

 そう言うと彼女は、例の音無しスタイルで、〝クシュクシュ〟と笑った。

 それはそうだ。故郷から数百キロも離れた場所で、失恋したとはいえ、心から惚れていたあの娘が突然目の前に現れたのだから。

 「S教授の部屋で見たアナタ、いえ、ロッキーは随分と印象が違っていたわね」

これもまたその通りだ。なにせ、難しい課題をクリアして、今まさに大金を手にしようとしていたのだから。

「ところでシルキー、あの女子寮生とはいつから?」

「ええ、サワとは入学当初からなの。ちょっとしたキッカケで知り合って、ざっくばらんな性格同士、とても気が合ってね」

 こうして会話していても、サバサバとして明るく知性的なムードが心地よく、いつまでも一緒に居たいと思わせるシルキーだ。

 初めて名を知ったサワという女子寮生とドヤはというと、随分と盛り上がっている様子で、いつになく饒舌なドヤの顔が、心なしかテカテカ光っているように見えた。

しかも二人の話し言葉には、所々に特色のある方言が混じっていて、酔った時のドヤのイントネーションに似ていた。

 「若い人の口に合うか分からんけど、これでも食べてみておくれよ」

コトリと音をたてて、かあさんが出してくれたのは、不定形な四角い青磁の器に、センス良く盛り付けられた茄子料理だった。

「うわーっ。茄子の素揚げだわ。アタシ大好きなんです」

 シルキーの、少し鼻にかかった甘声が少女のように弾んで、さっそく箸を付けてひと口頬張った。

 短時間で揚げた茄子に、めんつゆベースの汁をかけ、大根おろしと刻んだ大葉を添えたこの一品。ビールはもちろんの事、レモン酎ハイにも好相性の絶品料理である。

 「家でも作ることがあるけれど、こんなには美味しくできないわ」

 料理が出来る女性を、家庭的だと考えるのは短絡的過ぎて嫌だが、シルキーのような人の手料理を食べてみたいと思うのは罪ではないだろう。

それから小一時間ほど、酎ハイを何度もお代わりし、かあさんの料理を堪能、シルキーとの会話を楽しんだ。

 自宅暮らしだというシルキー以外の自分達寮生三人には門限があるので、頃合いを見計らい、ドヤとサワに声をかけて引き上げることにした。

 よく聞けば、商店街近くの一軒家が自宅であるシルキーにも門限があるとのことで、丁度よかった。

 シルキーとサワはタクシーに相乗りし、ドヤとオレは、お決まりの徒歩で寮まで帰ることにした。

 暗い夜道を二人してトボトボと歩きながら、なぜか共に無口で、ただ真っすぐに前だけを見つめていた。

 そよぐ夜風が酔いで火照った肌に心地よく、ぼんやりと黒い影だけが見えるデントコーン畑に目をやりながら、Wでのひと時を思い返していた。

 あの森中の散策路で初めてシルキーと出会い、S教授の研究室で再会し、今夜Wにて三度目の邂逅に恵まれた。

 懐かしいような嬉しいような、そしてまた怖いような、理解しがたい複雑な感情が、胸の奥底に渦巻いている。

 懐かしさは副会長似の女性とのめぐり逢いゆえであり、嬉しさは思いのほか気立ての良かった相手との時間の共有、そして恐れは、この先に待ち構えているかもしれない、悪夢の予感なのだろうか。

 ドヤと二人、寮部屋に帰るとすぐにベッドに潜り込んでしまった。宵っ張りの安兵衛とネルソンはまだ戻ってきてはいなかった。


 ついにと言おうか、とうとう言い換えるべきか、我が学生寮最大のイベントである〝寮祭〟が開幕した。

 延々、九日間にわたって行われるこの行事は、半自治を標ぼうする我が寮の存在意義を、内外に強くアピールすることを目的として実施される。

 建物の維持管理は大学側が行うが、寮費の徴収をはじめ、寮生活に関わるあらゆる運営事項は、選抜された委員会を中心に二百二十余名の全寮生の総意によって執行される。

 初日の開会式とその夜のダンスパーティーを幕開けに、球技大会、音楽会、演芸・講演会、映画上映などのスポーツ文化系プログラムの他、ジンギスカンパーティーやバザーといったグルメ販売系もある。

 そして、なんといっても地域も巻き込んでの地元密着パフォーマンスが、選抜メンバーによる〝仮装行列〟である。

 毎回テーマを設定してのコスプレパレードは、コースとなる商店街各所で多数の見物客を集め、大喝采を浴びるのである。

 さらにまた、変わり種としては、ただ自分たちが楽しむだけの〝肝だめし〟や、地元住民たちに寮の中を自由に見てもらい、寮部屋前で思い思いに趣向を凝らして展開する出店にも立ち寄れる〝寮開放〟などというものもあったりする。

 これほどの規模のイベントだけに、寮祭実行委員会も五十名超のメンバーで構成され、全寮一丸となって準備を進めてきたのだ。

 寮祭が始まる少し前には、S教授の研究室を訪ねて、折よくデスクワークをしていたシルキーに会い、イベントチラシを手渡して、ジジイ共々ぜひ来てほしいと誘ってきた。

 ジジイは所用で不在だったが、奴の事だからまたとんでもないコスチュームで現れるに違いない。お目当てのシルキーは、とろけるような笑顔で、必ず行きますと答えてくれた。

 寮祭期間中は、大学関係者はもとより、地元住民も多数来場するため、寮本体とその周辺は異様な熱気に包まれる。

 総数二百二十余名の寮生それぞれが、何がしかのプログラムに関わり参加してもいるので、いつにも増して館内は騒々しく、セッティングが完了した大食堂のステージとけばけばしい装飾看板が祭り気分を一層盛り上げる。

 寮内のあちらこちらには告知ポスターがペタペタと貼り付けられ、段取りに追われた実行委員が奇声を上げて走り回り、早くも祭り気分でテンションのあがった連中は、昼間から酒を飲みおだを上げていた。

 初日は夜の開会式後のダンスパーティーで賑やかに始まり、会場となった大食堂は暗闇の中に色とりどりのライトが点滅し、激しいBGMの渦の中で無数の男女が踊りまくっていた。

 こういう派手な場所に誰よりも相応しいのが、予想通りといおうか、やはりかのS教授であった。

 パーティー会場前を通りかかると、やけに派手な衣装の男が若い女の子数人と賑やかにしゃべっているのが目に入った。

 案の定、それがジジイであり、なんと今夜の彼は、つい最近四十二歳の若さでこの世を去った、世界的なロック歌手の衣装をまとっていた。

 大きな襟の立った金ピカ装飾だらけのジャケットと、裾の広い白いパンタロンは、老人ながら高身長の身体に似合っていた。

 とはいうものの、それだけで収まらないのがあの人で、彼はあろうことか、身体中にクリスマスツリーの電飾飾りをグルグルと巻き付けていたのだ。

 ご丁寧にも、服の下に電池を仕込んでいるらしく、何色もの灯りがランダムに点滅していて、暗いダンス会場内でもしっかりアピールできる工夫が凝らしてあった。

 「ぐへへへへー。さあ、レッツダンス!」

 見ている目の前で、女の子たちの肩を抱きながら下品た笑い声を残し、意気揚々と乗り込んでいくのを、いまいましく見送る自分は、ため息一つついて、自室へと帰って行ったのだった。

 日程二日目の球技大会は、ソフトボール、サッカー、バスケットボールの三種の中から好きなものを選んで参加できる設定になっていて、掛け持ちで全てに参戦した強者もいた。

 次の日の夜には音楽会があり、自分もギターの弾き語りで出演し数曲歌い、少ないながらも温かい拍手を浴びた。観客の中にはシルキーの姿もあり、誰よりも大きな声援が嬉しくて仕方がなかった。

 寮祭はその後、演芸・講演会、映画会、ジンギスカンパーティーなどのプログラムを順調にこなしていき、真夜中に大学キャンパス内をぐるりと一回りしてくるだけの、夜警のバイトとなんら変わらぬ〝肝だめし〟を経て、いよいよメインイベントの〝仮装行列〟へとなだれ込んで行った。

 今年の仮装行列のテーマは〝飛翔〟。抽象的なお題であるほど、柔軟な発想で思いもよらない仮装表現が可能になるというものだ。

その日、仮装行列に参加する寮生たちは寮の前庭に全員集合した。今年は三十組が隊列を組んでコースを練り歩くことになった。

 出発前には出陣式を執り行うのが恒例であり、寮祭実行委員長の挨拶に続き、この大学のテーマソングとも言うべき愛唱歌を全員で大合唱した。

 この歌は、大学創設者の依頼に基づき、日本のキリスト教史において重要たる人物が作詞し、その息子が曲を付けたと言われている。

 大学内で行われる行事で歌われることもあるらしいが、実のところ、我が寮生ほどこの歌を頻繁に歌唱する学生は居ないのではないだろうか。

 しかも一番から三番までの歌詞をすべて諳んじているものだから、リーダーの掛け声一つで即座に肩を組み合い左右に揺れながら、何のためらいも淀みもなく、威風堂々と歌い切るのであった。

 歌が終わると、委員長の“シュプレヒコール!”の発声に呼応して、〝エイエイオー!〟の掛け声が鳴り響いた。

 その後、無秩序な隊列はゾロゾロと歩き出し、大学キャンパス内から公道に出て、一路商店街を目指して行軍していった。

 さて、今年の仮装の出来栄えはどうであろうか。行列の最後尾にいたので、列から少し横に移動するだけで、仮装の全貌を確認することができた。

 前列のグループはどうやらアニメとヒーローものがテーマのようだった。

青色のぴっちりしたシャツの胸にSの字が書かれて赤いマントを羽織っているのは、アメリカンコミックに登場するあのスーパーヒーローなのだろう。

 青く塗りたくった段ボールを身体に巻いて、ヘルメットの頭に尖った角を取り付けているのはどうやらテレビアニメに登場する巨大ロボットの様で、隣にいる背の低い  寮生が手作りのリモコンを操作しているのが見えた。

 その後ろにいるのが、黄色上下のジャージに白い長靴を履いて、ヘルメットに大きなサングラスを貼り付けている奴だ。面白いのは、彼がまたがっているのが、青・白・赤三色に塗り分けられた乗り物で、モデルとしたアニメの主人公が操縦する合 金製のタイムマシンを表現しているのだろう。

このグループは単純明快に“飛翔=飛ぶもの”という解釈なのが良くわかる。

中盤辺りに固まっているグループは、“飛翔=ジャンプするもの”という設定らしい。

スキージャンプのユニフォームを着て、左手にスキー板、右手で日の丸の旗を掲げているのは前回の冬のオリンピックにおいて、金メダルを獲得したあの選手らしい。

理解に苦しむのは、その少し後方で自分が着ているTシャツの胸元を、しきりに前方に引っ張り出している奴だ。

よくよく確認すると、胸には大きな黄色いカエルが描かれていた。なるほど、あれはテレビアニメで人気だった“平面ガエル”を真似ていて、飛び出すキャラクターに違いない。

 そしてトリを務める自分はというと、誰もが知っている、人類史上最も有名なあの救世主の姿で、胸の辺りで十字を切りつつ、厳かな姿勢のまますり足で移動して行く。

ゆったりとした白い布服はシルキーに作ってもらい、ヘアメイクと化粧は女子寮のサワに依頼したのだ。

 こうして参加者それぞれの解釈により仮装表現された縦列は、やがて目的地である商店街に到着すると、仮装行列をスタートさせた。

 先頭の寮生が手持ちのラジカセで、パチンコ店で流れるあの景気の良い音楽を流しながら、商店街の真ん中を走る道を進んでいく。

 沿道にはたくさんの人々が見物に来ていて、寮祭のパンフレットに広告を出してくれた店主が威勢よく声援を投げかけてくれた。

子供たちは自分たちの仮装を指さしては、

―――ギャハギャハーーー

と、大声を上げて笑い転げている。予想以上の反応に気を良くしたメンバーはおどけて踊り出し、ヒーローのポーズを決めてはさらなる大喝采をさらっていた。

仮装衣装に身を包んで、素顔は晒していないものの、やはり羞恥心には勝てないのか、寮を出る前にすでにかなり飲んできているに違いなかった。

寮祭パンフレットに広告を出稿してもらった店の前では、テレビコマーシャルを模して、店名を盛り込んだ寸劇を披露して、大いに喜んでいただいた。

地元住民との交流も大きな狙いであるこうしたイベントは、寮生たち自身の自己表現や社会的活動の発露としての効能もあり、よき伝統として後輩へと長く受け継がれていくのである。


 寮祭の最終日、寮内にはいつもと違う顔ぶれと活気ある陽気な声があふれていた。

この日は寮を丸一日開放して、一般の人たちを招き入れ、学生寮とそこに住まう者たちへの好感度を向上させようという、秘かな目論見のためのイベントである。

 ただでさえ、一つの建物の中に二百名超のむさ苦しい男たちが棲息するという、威圧感とも異様感とも言うべきマイナスイメージを、少しでも払拭したいがための策として、これほど効率的かつ有効なものはない。

 「いらっしゃーい、いらっしゃーい、見るだけタダだよ」

 「まいどまいどーーっ。値引きも大歓迎。お安くしときまっせ!」

 威勢のいい呼び声が聞こえてきた。中庭で開催のバザーが始まったようだ。

神社のお祭りの露天商のごとき体裁で、寮内の同好会や気の合う仲間のグループの店の他、得体の知れない怪しげな闇市オーラ感を放つ露店まで、種々雑多な即席店舗が来場者を呼び込んでいた。

 並べられている商品はというと、買ったものの一度も着ていない衣類や履かない靴。あるいは実家から送られてきた食料品の余りもの、バイト先からもらい受けた日用雑貨や骨とう品の類のほか、トランペットや大正琴などの楽器類、さらには圧力鍋や掃除機といった家電まで、品ぞろえは実に豊富であった。

 家族連れやアベックが、薄汚れた格好の店主の誘いに釣られて、楽し気に品定めをしている。寮生にとっても、小遣い稼ぎの好機とあって、真剣そのものだ。

 実際のところ、寮生の各部屋には使われずに眠っている品物が意外と多いのである。その理由は、いったん寮に入ってしまえば、日常生活を維持するのに必要な物品はほぼ揃っているからだ。

 一日三食の食事は質と量を十分に満たし、ベッドや洋服タンス、勉強デスクなども完備している。毎日入れる大浴場があり、洗濯室には自動洗濯機、休憩室に行けば雀卓や卓球台があり、いつでも自由に遊べる。

 しかも四人部屋の同僚それぞれの実家から不定期に送られてくる親心満載の段ボール箱には、持て余すほどの愛情と物品が詰め込まれてくるのだ。

 そんな居住部屋の過剰在庫がここぞとばかりに大放出されているのだから、興味深げに見て回る来場者たちも鵜の目鷹の目だった。

「どうですかーー。見ていきませんかぁ。

他では手に入らないものですよ」

「ちょっとちょっとお客さん。これなんか掘り出し物ですよ」

 一方、各部屋の入口前では住人たちの個店が店開きしていた。こちらは中庭のバザーとは違い、各自の趣味趣向を色濃く反映したものが多かった。

 牛の首にぶら下げるカウベルや鼻輪、古い搾乳機やミルクタンクなど、この大学ならではの品物があるかと思えば、好きで集めた瓶の王冠コレクションや自作のガリ版刷り詩集など、およそ買い手のつかない自己満足丸出しの品ぞろえが面白いのである。

 さて自分たちの部屋はというと、ドヤの趣味であるジャズのLPレコードや、長髪安兵衛が海外から仕入れた洗髪グッズ、ネルソンが故郷の町工場から特注で取り寄せた銅製のタコ焼き台など、案外まともで、買い手も付きそうな良品を取り揃え並べていた。


 寮祭最終日のプログラムがやがて終わりを告げると、おおかたの片づけを終えた男子寮女子寮の面々は三々五々、広い草地の前庭に集まって来始めた。

 延々九日間にも及ぶロングラン行事の締めくくりは、青春のロマンチシズムを標ぼうし、熱気と汗と大声とで駆け抜けてきた日々を心静かに振り返る、ファイヤーストームだった。

 前庭の中央には、古くなった枕木を井の字型に数段組み上げ、その中に古木や枯れ木を入念に詰め込んだ、巨大な焚火の炉が完成していた。

この枕木は、学園の最寄り駅の駅長に頼み込んで譲ってもらった廃材で、中の燃焼材 料は寮生たちが毎日少しづづ拾い集めて来たものだった。

 こうしたキャンプファイヤーの準備の手際よさは、ボーイスカウト経験者の寮生を中心に、出身地の田舎で〝どんど焼き〟など、火を使った行事をしたことのある者たちの活躍によるものだった。

「お疲れーーー」

「いやあ、今年も疲れたべ」

「うははは、そりゃあ、飲み疲れなんじゃないの」

「それも、ある。ぎゃはははは!」

 お互いの労をねぎらう言葉を口にしながら次々と集まって来る寮生たちは、もちろん疲労感はあるものの、その表情には満ち足りた達成感が溢れているのが見て取れた。

 いち早くひと風呂浴びて小ざっぱりと着替えて来た準備万端派、汗だくのシャツを取り換える暇もなくただ片手に一升瓶をぶら下げて駆けつけてきた酔いどれ者、しれっと彼女を伴って登場のやり手野郎など、寮祭とこの寮に関わりを持つ様々な人々が集っていた。

 参加者たちは、中心部の焚火炉をぐるりと取り囲むように車座に座り、心静かに儀式の始まるのを待っていた。 


 やがて、前庭に夜のとばりが降り始める頃、手に火のついた松明を持った寮祭実行委員長が、厳かな雰囲気で進み出て、かがり火台に点火した。

 チラチラと揺らめく炎は、始めの頃こそ弱弱しく見えたが、夜風に煽られた薪の中からパチパチと火の粉が巻き上がると、やがてそれは紅蓮の舌のように煽り出し、次々と乾ききった用材を仲間に組み入れて、次第に大きく逞しい炎の固まりとなってゴオゴオと燃え上がり、周囲を明るく照らし始めるのだった。

 九日間に亘って繰り広げられた、寮最大イベントである寮祭を、無事にやり遂げた大きな満足感に浸りながら、かがり火をぐるりと囲む寮生たちの顔は、炎の反射で赤々と輝いていた。

 若々しい汗の匂いと嗅ぎ慣れたレンゲソウの甘い香りが鼻腔をくすぐり、夜露に濡れた髪の感触とともに、柔らかい重さが肩に載って来た。

 寮祭最後のプログラムが終わった後、大学本部に通じるあの白樺並木で、シルキーと待ち合わせをした。

 誰よりも早く風呂に入り、この日のために新調した白いTシャツを身に着け待っていると、国道沿いのバス停から歩いてくる彼女の姿が見えた。

 いつになく少し緊張している様子で、ぎこちない歩き方が、やけに愛おしかった。彼女もまた白が基調のコーディネートで、少し離れた場所で一旦立ち止まると、クイッと顔を上げて、花のような笑顔を投げてよこしたのだった。

 大きくゆったりとした白いブラウスに銀のネックレスがさり気なく光っている。光沢感のある白プリーツスカートも良く似合っていて、足元の白いサンダルと足の爪の葡萄色が素敵だった。

 ふわりと投げ出してきた身体を優しく受け止めると、熱を帯びてしっとりと弾力のある生身のシルキーを、思わず強く抱きしめてしまうのだった。

「アナタを、いつも近くで感じていたいの」

―――何なのだろう。この豊かで温もりに満ちた心の充足感は。

「キミが見たモノはすべて心に映り、感じたモノはすべて脳内に留まる。この道をこれからも二人で辿ろうね」

 彼女の肩を抱きながら寮に向い、いまこうして祭りのフィナーレの中に二人して身をおいたのだった。

 かがり火に照らされた素顔のシルキーは、暗がりの中でも十分に艶やかで、若い桃のように初々しく見えた。

 どこからともなく、静かにゆっくりと歌う、誰かの声が聞こえて来る。それは外国の有名な作曲家の原曲に、日本の作詞家が歌詞を付けたもので、キャンプファイヤーではおなじみのあのメロディだった。

 小さなその歌声は、次第に水面の波紋のように広がって行き、一人またひとりと合わせる声が重なって行った。

 気が付くと合唱の渦は、火柱を取り囲む高性能なステレオスピーカーの如き重厚さで、前庭全体を包み込んでゆくのだった。

 ごく自然な流れで、隣にいたシルキーの肩を抱くと、手の平に伝わる弾むような瑞々しい肌身の感触に、思わずうっとりとしてしまった。

 ふと、少し離れた場所に目を向けると、こちらと同じように体を寄せ合う、ドヤとサワの姿があった。

―――なんだアイツ、黒衣の君から鞍替えしたのか……。

 でも、それでいいのかもしれない。たしかにビューティーだけど、どこか冷たい雰囲気のある女性より、鉄火肌でチャキチャキしたタイプの娘の方が、農家の嫁さんには相応しいのかもしれない。

 激しく燃え上がるかがり火は夜空を焦がし、黒い森の上方には降るような星々の瞬きがあった。一滴ずつ滴るように、もの惜し気に過ぎていく時間が、ただただ愛おしかった。

 彼女の温もりを感じながら、二人の恋がこの先どんな道を辿っていくのか、ぼんやりと考えた。

 時刻が日付を越えようとする頃、勢いを失いつつある炎に合わせるかのように、歌唱の波は少しずつ退いて行った。

 一人またひとりとその場を去っていく黒い人影を見送りながら、オレとシルキーは、穏やかなそして優しい口づけを交わした。


 その驚くべき一報が飛び込んできたのは、この地域に短い秋の気配が漂い始めたある日のことだった。いつものように森へ行き、遊歩道に舞い落ちていたカエデの葉を集めて寮に帰って来た。

 この葉は水気をふき取り、窓際に並べて天日干しにする。乾いて仕上がったものの中から色合いの良いものだけを選び、セルロイドの下敷きの上に並べる。

次に、葉の上からセロテープを貼り付けていき、簡易的なラミネート加工を施す。葉の周囲を形よくカッターで切り取って剥がして裏返し、反転面にも同様の加工を施せば出来上がりだ。

 これを文庫本に挟んで使えば、野趣味のある栞となる。活字中毒者の良き文具であるが、この手のセンスに理解のある人にプレゼントしても、きっと喜ばれるだろう。

 そんな能天気な趣向に浸っていた時、いきなりドアが開けられ、ぽっちゃり体型のドヤが飛び込んできた。

 「ロッキー、大変だ!」

 「おう、どうした八兵衛」

 「ふざけてる場合じゃないんだ」

ドヤの顔が真剣そのものだったので、

「ごめんよ、悪かった。で、何がどう大変なんだい」

と答えて、彼をいったん落ち着かせ、詳しい話をきくことにした。

 ドヤが実家から持ち込んだポータブル冷蔵庫を開け、褐色の百九十ミリリットル瓶入り炭酸飲料を取り出し、コンコンと王冠の頭を叩いてシュポッと栓抜きし、ドヤに手渡した。

 彼はそれをゴキュゴキュと一気に飲み干すと、ゲボッと派手なゲップを吐いてから、一大事について語り出した。

 彼によれば、あのS教授、つまりはジジイが突然いなくなったのだという。

「それはどういう意味だよ」

 要領を得ない話を理解するために、適宜質問を挟んで事の真相を探ることにした。

 「休講の告示もなく、時間になっても教室にS教授がやって来ないので、事務局に問い合わせると、研究室には誰もいなかったというから不思議なんだ」

たしか先週の講義には普通に来ていたはずだ。例によって場違いなコスチュームで登場し、独特の構築理論を滔滔と述べていたのを覚えている。

「事務局にも事前連絡が無かったので自宅に電話したんだが、不通でつながらなかったんだって」

 シャイなドヤにそんな取材能力があったとは驚きだが、あちらこちらの関係者に聞いて回ったところ、誰一人としてS教授夫妻の行方を知る者がいないというのだ。

 大学側は念のため所轄の警察に問い合わせてみたが、事件性のある報告は上がっていなかったらしい。

翌朝一番でS教授の研究室に向かった。開け放ちの入り口をくぐると、椅子に座っていたシルキーが弾けたように立ち上がり、こちらに駆け寄って来た。

 胸に顔をうずめた彼女の淡い髪の香りに、一瞬クラクラと目眩がしそうになったが、辛うじて踏みとどまることができた。

 両肩を優しく抱いて、S教授が自慢していた籐製のカウチに座らせた。まずは落ち着かせようと、研究室に備え付けの冷蔵庫から勝手にオレンジ果汁入りのソフトドリンクを取り出し、コンコンと王冠の頭を叩いてシュポッと栓抜きし、シルキーに手渡した。

 少しやつれた感じはあるものの、とろける様なその笑顔は、やはり愛おしい。

ひと息ついた彼女が手渡してよこしたのは、露草色の手漉きの和紙に筆文字で書かれた、S教授の書置きの様であった。

 「今朝ここに来たら、教授のデスクの上にこれが置いてあったの」

淡く白檀(びゃくだん)の香りが匂うその手紙には、達者な筆さばきでこう記されていた。

―――『探させないで下さい。自分探しの旅にでますので』

 まるで、思春期の若者が後先考えずに家出する時のようなセリフである。八十近い年寄りが、今さらどんな自分探しをするというのだ。どこまでも人を食ったジジイだ。

 シルキーの横に腰を下ろすと、彼女は安心したように身を投げかけて来た。栗毛の髪を撫でながら、

 「心配しなくてもいいよ。殺しても死ぬようなジジイじゃないから」

と囁くと、クシュクシュと、例の音無しの笑いで応えてくれた。

 ジジイ愛用の籐製カウチは、しなやかな弾力が持ち味で、上品なゴブラン柄の布クッションが身体の重さを柔らく受け止めてくれた。

―――いや、まてよ……。

 何かがおかしい。カウチに座りシルキーの身体の温もりを感じながらも、脳内を渦潮の流れのように高速回転する感覚が出現してきていた。

 喉に引っかかる数本の鯛の小骨のように、幾つかの疑問点が沸き上がり、どうにも居たたまれない感情に襲われた。

 いつも間近でS教授に接しているシルキーなら何か気づいた事があるかもしれない。

 「ねえシルキー。ジジイ、いやS教授のことで君にいくつか聞きたいことがあるんだけど、いいかな」

 もうすっかりいつもの調子にもどっていた彼女は、一旦は無垢な少女のように小首をかしげたものの、

「アタシで分かる事ならなんでも聞いて」

と、勢いよく身を乗り出してきた。

確かめたいことは幾つもあった。

―――まずは“供え石”の調査報告を届けた後、ジジイは実際にアレを確認しに行ったのか、という疑問。

 これはごく当然の疑点だ。手付で十万、成功報酬として即金で百万円もの大金を支払っておいて、何も行動を起こさないはずがない。

 そもそも、彼は何の目的で自分に“供え石”を探させ、何をしようと企んでいたのか。結局、あれ以来、この案件の事はすっかり放念してしまっていた。

 寮の行事や掛け持ちのアルバイト、何よりもシルキーとのデートで日々忙しかったのだ。探索報酬の一部で念願の新しいギターも手に入れることができたので、毎日そいつを弾いてもいた。

 このギターは、アメリカ製三大ブランドの一つであり、1833年創業の老舗メーカーの製品だ。しかも最も人気のあるモデルではなく、国内でもまだ弾き手の少ない希少タイプでもあった。

 低音弦のズシンと腹に響く太い音質と、クリアで美しい鈴鳴り高音弦の組み合わせは、何にも代えがたい逸品だ。

 「講義の無い日、S教授はどこかに出かけて行かなかったかい?たとえば、君と初めて出会ったあの森とかに」

 緩やかな取り調べを始めて見ることにした。

「えっ!どうして知ってるの?」

 いきなり当たりのカードが出たか。

「いやなに、たとえばの話だよ」

 恋人相手とはいえ、初手から手の内をさらけ出しては、この先がやりにくいので適当にはぐらかした。

「はっきりとはおっしゃっては居なかったけれど、そういう日はハイキングに行くような服装をしてらしたわね」

いったんここで引き手に回って探りを入れてみよう。

「ハイキングだとすると、デイパックか何かを背負っていたのかな?」

「ええ、その通りよ。でもハイキングじゃないのは分かったわ」

「えっ、どうして?」

「革のロングブーツを履いていたし、バックに入れていたのは柄の長いスコップや鎌だったような気がする」

―――さすがだ。頭の良い娘だとは思っていたが、観察眼も半端じゃない。

考えていた通り、ジジイは“供え石”のあの場所に何度も足を運んで、クマザサを刈り、石の周辺あるいはその直下を掘っていたんだ。

「それが、一週間前くらいにはそんなこともピタリと無くなって、急に毎日とても機嫌良くなっていたわね」

―――なるほど、目的の物を見つけ出したに違いない。そしてそれは、ジジイにとってすこぶる価値のある“お宝”に違いないのだ。

「他に何か気になる様子は見られなかっただろうか?」

「ロッキー、あなた何だか探偵さんの様だわね」

―――まずいまずい、勇み足になる前に撤退した方が良さそうだ。

「他でもない。S教授の行方が知れないんだもの。身近にいたシルキーに聞くのが一番いいじゃないかと思ってさ」

「それもそうね。そういえば、つい先日だったかしら。以前にロッキー、アナタが教授に提出してたレポートあったでしょ」

―――“供え石”に関する報告書のことだ。それがどうしたというんだろう。

「理由は分からないけれど、教授はあれをシュレッダーにかけていたわ。学生のレポートを勝手に処分するなんて変だわよね」

―――ジジイめ!証拠隠滅しやがったか。

 シルキーのその話を聞いて、ふと閃くものがあった。S教授の置手紙をもう一度読み返してみる。気になる箇所があったのだ。冒頭の『探させないでください』の文面だ。

―――普通なら『探さないで…』と書くところを、『探させないで…』と綴っている。念頭に誰か特定の人間の事があったから、つい筆が滑ってしまったに違いない。

 これは他でもない、オレの事だ。S教授失踪の背景に〝供え石〟の存在があり、直接的にそれに関わった者ならば、何かに気づき、痛くもない腹を探られる可能性があるからだ。

 ジジイとは、教授と学生という社会的身分と立場の垣根を越えて、本音で付き合ってきた。たしかに非常識な老人ではあったが、研究者としては尊敬していたし、何よりその人間性に惚れてもいた。

 一方で、彼もこちらを一学生としてではなく、一人の人間として理解しようとし、資質を評価してくれていたと思う。

 ふと、左の頬にひんやりと湿り気を帯びたものが押し当てられた。

「またぁ、いつもの悪い癖が出たな。空想の浪漫飛行から戻って来ぉーい!」

 小さくて形の良い唇を離したシルキーが、退屈しきったような不機嫌顔に微笑みを浮かべて、こちらを見ていた。

 「ゴメン。子供の頃から何かに夢中になると、心がどこかに飛んで行ってしまうんだ」

飼い犬が主に媚びを売るように、愛しい人に許しを請うならこれが一番とばかりに、ゆっくりと彼女に顔を寄せ、つがいの小鳥のような短いキスをした。

―――匂い……手紙……、白檀の香り……。

 馴染んだシルキーの匂いが連想の着火となったのか、突然に脳内の閃き扉が開いた。

「シルキー、一緒に図書館に行ってくれ!」

 甘だるい陶酔の中にいた彼女の手をとると、急いで大学図書館に向かった。

 白亜の建物は地階が非公開の所蔵室で、一階が閲覧可能な図書スペースになっている。キリスト系農科大学に相応しく、そのどちらの分野の書籍も豊富に揃っていた。

 全国的にも有数の乳業メーカーの創業者でもあったこの学園の初代理事長は、莫大な自己資金を投入して、世界各国から膨大な量の文献・原書・研究書・実録書はもとより、写真出版物や書画・古書・奇書までも蒐集した。

 収蔵しきれない物は、いったん図書館とは別棟の整理保管センターに運び込まれ、専属の司書数名が、日夜分類作業に追われていると聞く。

 この季節でもクーラーの良く効いた閲覧スペースの書棚から、〝白檀〟に関する書籍をシルキーと手分けして探すことにした。

 彼女にはざっくりと推測した考えを話したが、さすがの勘の良さで、皆まで言わなくても理解してくれ、資料探しの行動も実に素早かった。

 手漉きの和紙の置手紙から薫る白檀の匂いには、S教授が仕込んだ暗喩が隠されていると睨んだ推理ははたして正しいのだろうか。

 もしも、それを手掛かりにS教授失踪の謎を推し量って行ければ、ジジイが向かった場所を特定できるかもしれない。

 一時間後、二人で協力して数冊の資料を集めることができた。マホガニー材の一枚板で誂えられた広いテーブルの上に、それらを並べてみた。

 植物学系の百科事典、宗教と植物学、香りとそのイメージに関する書物、自分探しと旅、行動心理学にまつわる書物など、多岐に亘る参考書が揃った。

 シルキーには具体的な要望は伝えなかったので、すべては彼女のセンスに任せて探してもらったのだ。

 実のところ、彼女と付き合い始めて知ったことがあった。それはシルキーが自分と同じ〝活字中毒者〟であったことだ。

 小学生の頃から本を読むのが好きで、田舎の小さな学校の小さな図書室に、毎日通ってはジャンル問わずの乱読の日々を送った。

 中学に入ると文庫本集めに興味を覚え、古本屋巡りで買い集めたそれらは、自室の本棚二つ分を満杯にした。

 同時期に書き始めた日記の習慣は、書く事と読む事の相乗効果を助長し、活字に対する欲求をますます煽ることとなった。

 単なる作文というよりは、単語の選択とセンテンスの構築に独自の工夫を凝らすことが病みつきとなり、生来のあまのじゃく気質も手伝い、どうすれば他者とは違う文章が書けるかが大命題であった。

 シルキーの家は、父親が出版社の編集者で、母親が現役のコピーライター、五つ年上の兄がフリーのカメラマンというクリエイティブ系一家だった。

 動物写真家である兄は、愛用の四駆に撮影機材とテント用具一式を積み込み、数日間をかけて長期の撮影旅行に出ることが多く、自宅には滅多に帰ってこない。

 編集者の父も、担当雑誌の締め切り近くには深夜残業が続き、泊まり込み取材で家を空けることが多い母親も不在がちで、シルキーはひとり家で過ごすことが多いのだとか。

 それでも、明るく前向きな性格の彼女は淋しがることもなく、きちんと自分の食事を整え、残業明けで帰宅する父のために、消化の良い朝食を用意するのだった。

N町のWのかあさんも、彼女を評して曰く、

 「あの娘がエライのはさ、苦労をけっして顔に出さないところなんでないかい」

と、ベタ褒めであった。 

 そんな家庭環境ゆえなのか、シルキーも自然と活字に親しむようになり、父親の書斎にある仕事関連の書籍から、母の仕事部屋の種々雑多な情報誌、さらには兄の本棚の写真集まで読み漁っているのだと聞く。

 集めた資料を、しばらくの間はお互いに読み込みすることにした。

空調の音だけが微かに聞こえる室内で、書籍に目を落としたシルキーの長いまつ毛が、瞬きに合わせて上下するのを見ていると、心は温かい喜びに膨れ上がって来るのだった。

 一通りの調べに切りが付いたのは、それから約一時間後だった。

それぞれの探索結果を突き合せようと思ったが、さすがにこの場所での会話は迷惑なので、書籍の貸し出し手続きを済ませて、地階のカフェに移動することにした。


 所蔵室横に隠れ家のように店を開けているのは、大学OBであり我が学生寮の元寮長でもあった〝ゴリ〟というニックネームの先輩だった。

 その名の通り、筋肉質のガッチリ体型で、およそカフェのマスターには相応しくないのだが、気さくで懐の深い性格が後輩たちにはとても親しみやすかった。

 獣医科を卒業後、首都圏の動物病院に十年間務めたが、突如退職し、リヤカーを引きながら徒歩で日本を一周したという強者だ。

 その後、なぜかこの大学に舞い戻り、地階カフェのオープンと同時にマスターとして雇われたのだ。

 初めて訪れた客の誰もが驚くのは、店内装飾の異様なユニークさだった。ジャングルがテーマだというその空間は、まるで熱帯密林そのもので、六組の木製椅子とテーブルの周囲をぐるりと様々な天然樹木が覆っていた。

 ブロメリア、ヤシ、マホガニーの他、バナナやカカオ、バニラまで、多種多様な植物がコンパクトにレイアウトされている。

 鬱蒼とした緑豊かな森の再現には苦労したようで、植物の選定をはじめ、エアコンを効かせても生育に影響が出ないシステムを、大学の植物学教授に監修依頼したという。

 天井からのダウンライトと壁にある数個の照明のみで薄暗い森林内を表現し、鬱蒼とした緑色の樹々に隠れるようにしてライオンやカモシカなどのはく製も覗いている。

 同じ学生寮の先輩後輩のよしみで気軽に口をきくようになり、以前に一度、

―――なぜジャングルカフェなのか、

と尋ねたところ、

―――ゴリといえばジャングルだろ!

というベタなコンセプトに笑ってしまった。

 それにしても大学施設内にこんな店を造らせてしまうあたり、学園上層部によほど何かのコネなり裏のつながりがあるに違いないのだが、それは未だに謎である。

蔦の絡まる分厚い木製ドアを開けると、

 〝グガウーーー!っ〟

 ドアベルの代わりにライオンの咆哮音が響いた。

 徹底したコンセプトの統一感にシルキーと苦笑いしつつ入店するとゴリ先輩がコクリと頷き、くぃっと顎で空きテーブルを示した。愛想無しの様でいて、阿吽の呼吸が逆に嬉しくなってしまう。

 席に着いて注文したのはいつもと同じココアだった。どちらとも喫茶店ではコーヒーでも紅茶でもなく、必ずココアを希望する。

 お酒も飲むが甘いものも好きという嗜好が偶然の共通点だったのも幸運だった。

先輩が全国放浪中に作り方を覚えたというココアは絶品で、セットで供される自家製のレーズンクッキーも抜群の好相性である。

 そんな逸品を味わいながら、それぞれが調べ上げた〝白檀〟に関する情報を交換し合った。そしてそののちに、おおよその結論らしき方向性を見出すことができた。

 まず白檀そのものについて。

 それはインド等に自生する樹木であり、世界最古の香料である事。お線香に使われることも多いので、自分自身が帰郷のたびに墓参りしていたこともあり、匂いの記憶があったのだ。

 次に、仏教における儀礼の一つとして「香」の使用というものがあり、たとえば死者の火葬の際に餞として香木が一緒に焚かれるが、白檀はその代表的なものである事。

 かのお釈迦様が入滅の際に荼毘に付された時に共に焚かれたのが、他でもないこの白檀であったという。

このあたりは不吉な予感を想起させて好ましくないが、先に進むことにしよう。

白檀の名前の由来についての文献資料もあり、英語ではサンダルウッド(Sandalwооd)と呼ばれ、これはサンスクリット語で〝足元〟や〝スタート地点〟を意味するのだという。

―――おや、何かに近づいてきた気がする。

「おいロッキー。オマエいつの間に、こんな可愛い娘を手に入れやがった?」

突然の威圧感に思わず見上げると、魔人のような重量級が壁のように立っていた。

「彼女なら、ゴリ先輩の奥さんに太刀打ちできそうですか?」

間髪入れずに切り返してみると、一瞬詰まったような顔になりつつも、

「ま、まぁ、イイ勝負なんじゃないか」

と、強気とも負け惜しみともつかぬセリフを吐いて、向かいの席にドカッと座り込んだ。

 「なんか小難しい話のようだが、〝白檀〟とか言ってなかったか?」

割り込みには違いないが、日本一周の放浪旅で得た経験と知識は半端なく、今までにもいくつかの切れ味鋭いアドバイスを授けてもらっていた。

 「白檀について彼女、シルキーと言いますが、一緒に調べていたんです」

先輩はシルキーを一瞥すると、寸秒にやけた表情を見せたが、すぐさま反転させてこう言った。

「白檀っていうのはインドが原産だろ」

唐突に核心を突いてくる筋肉魔人に思わず見入ってしまった。

「オレが浮雲のようにあちこち旅して歩いていた時、インドに行って人生がガラリと変わったっていう奴に何人も会ったぜ」

―――そんな場所なのか?インドって。

 調べた資料を精査する前に、いきなり具体的で生々しい証言が飛び出してきたのでドギマギしてしまったが、ココアを一口飲んで、

「どうぞ、話の続きをお願いします」

と、ゴリ先輩に水を向けてみることにした。

 それからしばし、一人語りの彼の思い出話を聞くに及んで、自分とシルキーの脳内には、早くも〝白檀〟〝インド〟〝自分探しの旅〟〝再スタート〟〝S教授〟という幾つかの構成分子の、有機的組織構造ができ上って来ているのだった。

 先輩が旅の途上で出会ったインド感化者たちの転生譚の骨子は、おおむねこうである。

―――日本人の常識が覆される〝インド〟

 世界有数の国土面積と人口を誇る国にはきっちりした時間概念はなく、緩い時の流れの中で遠慮無用の行動が優先される。

―――陽気で話好きな気質はプライベートを超越する〝インド〟

 謙虚の固まりのような日本人からすれば考えられないような親密さが、逆に真の人間関係を構築してくれる。

―――ルールや常識に囚われず自由を楽しむ〝インド〟

 あってないような物の値段、トイレに紙が無い、不必要に他人に同調しない、仕事が

無くても頓着しないなど、人間を型にハメない自由な心が基本。

―――真にお金の有難みを知り、生きることと真摯に向き合う〝インド〟

激しい貧富の差が現実にあり、物乞いも浮浪者も泥棒も、泥棒や悪人も当たり前のように目にし、そうならざるを得ない過酷な生き方を受け入れている人々。それだけにお金の持つ有難みは日本人には到底理解不能なのだ。

 「だだっ広いガンジス川のほとりに立って、山のように流れていくゴミと祈りを捧げる沐浴者、同じようにカラダを洗う人と牛、ガード下で焼かれている死体、そんなものを見ていると、もうそれまでの人生観やら価値観なんてものは、全て吹っ飛んじまうんだとよ……」

 長ぜりふの先輩が大きなため息をひとつ吐いた時、入り口でライオンが一声吠えた。

 新しい客が入って来たのを潮に先輩は席を立ち、仕事に戻って行った。

「シルキーはどう思う?」

胸底に重しを置かれたような話のあとで問いかけてみた。

「アナタの読み通りのようね」

 余計な会話をせずとも、互いの意思が共鳴し合える関係になれたことに喜びを感じつつ、意識は早くも次のターンを急かしていた。

 『話を聞いてくれたお礼だ』といって、ゴリ先輩がサービスしてくれたマンゴージュースには、薄切りのライム、苺、ミントの葉が添えられていた。

 同じようなタイミングでひと口飲んでからシルキーが言う、

 「S教授がインドに向かったのは間違いないようね」

キリリと引き締まった鳶色の瞳で結論付けてくれたのを好機と見て、〝供え石〟に関する全ての事を詳細に打ち明けることにした。


 カフェを出て、さっき借りたばかりの書籍を返却し、人差し指だけを絡め合いながら、キャンパス内の赤レンガ舗道をトボトボと歩いて、S教授の研究室に戻った。

 S教授の研究室でアシスタントとしてアルバイトするうちに、シルキーもまた自分同様にジジイの真の人柄に心酔していったに違いない。

 まったくの仮説とはいえ、行方知れずになった近しい人の安否の手掛かりが、何となく掴めたことで、彼女もまた少しばかり安堵したようだった。

 籐製のカウチに座ると、対向のガラステーブルの上に、瑠璃色した切子グラスに注がれた緑茶がそっと置かれた。

 彼女の柔らかな丸みを帯びた腕は、続けて対の平皿切子に、冷蔵庫で冷やしてあったらしき、生あん使用の色濃い水羊羹を載せて差し出してくれた。

「ありがとう。ここに来るといつも何かしらの甘味を出してくれてたね」

 毎度毎度、突飛なコスチュームで周囲を煙に巻いていたジジイだったが、身の回りにある物は、センスが良く上品な優れものばかりだった。

「あの置手紙が、他でもない僕に宛てたものだとしたら、ジジイからの課題だったのかも知れないね」

 緑茶入りの切子グラスを片手に、S教授のデスク椅子に腰かけたシルキーが、ジジイの声音を真似て、

 「ボウズ、お前にこのシークレットメッセージの意味が分かるか?」

―――マジか!似てるぞ。こんな茶目っ気も兼ね備えてるなんて。シルキーよ、君っていったいどれだけ魅力的なんだ。

 思わず吹き出して、腹を抱えて笑い転げてしまった自分に釣られて、音無し声で顔をほころばせる彼女。

 札束の特典というには余りにも大盤振る舞いな、シルキーというかけがえのない女性との再会を仲介してくれたジジイに、心から感謝したい。

―――シークレットメッセージの意味……。

 たしかにそうだ。残された一枚の書置きに秘められたS教授からのメッセージを、自分たちなりの解釈で解き明かし、行方をくらましたハタ迷惑な年寄りの行く先を、取り敢えずは探し当てている。

―――だとして、この話を大学当局や所轄の警察署に告げるべきだろうか。

いやいや、そんなことをして、いったいどうなるというのか。確たる証拠も信ぴょう性もない、ただのたわ言など、真剣に取り合ってはくれまい。

「どうにもならない事だけど、どうでもいい事だと思うわ」

―――驚いた。心の中を読まれていたのか!恐ろしや、シルキーという〝オンナ〟。

「思案顔のアナタの表情から、何を考えているのか何となく分かるようになったの」

―――これからは彼女の前で、下品な良からぬ妄想は慎まねば。

「教授たちがどこに居て、そして確実に生きているということが、私たちに分かっていれば、それだけでいいのよ」

 椅子から立ち上がり、窓辺に佇み、ガラス越しに、色づき始めた紅葉に目をやるシルキー。彼女の丸味を帯びた肢体を始点に、改めてS教授の部屋をぐるりと見回してみる。

 正面にどっかり据えられているのは、ブラックウォールナットの無垢な一枚板のデスクテーブルだ。

 学園指定のありきたりな教授然としたものを嫌い、わざわざ自ら海外直送で取り寄せたのが、いかにもジジイらしい。

 その背後には開放感たっぷりの大きな窓が切り取られ、裏手に広がる森の樹々が、四季折々の自然美を楽しませてくれている。

 室内に視線を移せば、壁一面に天井まで届く造り付けの書棚があり、専門分野の文献・書籍が秩序正しく収まっている。

 もっとも以前は、乱雑極まりない目も当てられない惨状だったのが、シルキーという芸術系サラブレッドの登場により、今見る通りの秩序整然たる美観を確保できているのだ。

 対面の壁に飾られた二枚の絵画は、いかにもあのS教授らしい好みの作品で、奇縁なことにその作者の嗜好が、教授と自分とを結びつけてもいたのだった。

 二十世紀前半に〝抽象画〟という表現を生み出した一人であるそのロシアの画家のバックグラウンドが、他でもない〝音楽〟だった。

幼少期から音楽教育を受けて育ち、チェロとピアノを習っていたという。その音楽的な感性は、画家が抽象画を発表する以前から作品のタイトルでも示唆され、著書においても、『色彩はキーボードであり、視線はハンマー、そして精神は多くの弦からなるピアノ』だと語っている。

 壁の一枚は、黄・赤・青の三色が基調となった絵で、見る者によってどのような解釈も可能な不思議な広がりを持った作品だ。しかも、色彩を通じて音楽を表現しようとしたものでもあるという。

 そしてもう一つが、渦巻くような線や形と、鮮烈な色彩が画面全体を埋め尽くす様な作品である。それはまるで音楽における作曲のように、自由な色と形を組み合わせることで、一つの調和した世界観を創り出しているようでもあった。

 ジジイが、オレの音楽活動に理解を示し、陰ながら応援してくれていたのは、この絵の世界観に感化されていたことが、その背景にあったのかもしれない。

 昭和レトロ調デザインの冷蔵庫には、常に高品質の緑茶と甘味ものが冷えている。その横には、知り合いの大工に依頼して造作してもらったという、エボニー用材の食器棚だ。

 そこには、ジジイが趣味で蒐集した、各地の様々な陶器やガラス食器が、使いやすい様にすっきり収まっている。

 言うまでもなく、これもサラブレッド・シルキーのセンスと労力の成果なのだが。

大学教授の研究室とは思えない、自分好みにカスタマイズされたこの部屋で、本業の講義と研究の傍ら、例の〝供え石〟についての調査に没頭していたに違いない。

 いつの日か、S教授と再会できた時、ジジイは素直に正直に、〝供え石〟の全てについて、ありのままを告白してくれるだろうか。

 ―――そうだ!

 曖昧な態度で言い逃れができないように、N町の居酒屋Wに呼び出して、あのかあさんの目の前で、問いただしてやろう。

 もちろん、シルキーも一緒だ。彼女なしには考えられないこれからの人生だもの。

 ある意味、自分たちを結びつけてくれた、愛のキューピッドがS教授なのかもしれない。いささか老けすぎて、ひねくれたキューピッドだけれど。

 なじんだレンゲソウの優しく甘い香りがして、左手に、柔らかく温かなぬくもりの感触がやって来た。

 潤んだ鳶色のその瞳に、吸い込まれるように顔を近づけ、まるで初めてのようなキスをした。

 時間は進むことを止め、光は動くことを忘れ、音は眠ることを選んだみたいだ。

それはいつ尽きるともしれない、とてもとても長いキスの始まりだった。


                                    了 


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ジジイと謎の供え石 モノクル・あまぢい @amagy1957

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