かえらん
棚霧ひいち
かえらん
閉鎖的な村には娯楽が少ない。七郎は特に面白くもないのに、池の蛙の卵を枝でブチブチと突き破っていた。蛙が嫌いだからそんなことをするのではない。なんとなく手持ち無沙汰でやっているだけで、もしも誰かに理由を聞かれたならば、七郎はきっと少しだけ考えてから、夜寝るときにゲコゲコとうるさいからと答えただろう。
蛙の卵にいたずらをしているとき、七郎は村の年長者に叱られたことがある。そんな可哀想なことはするな、大蝦蟇様に祟られっど、と。子どもの七郎はその場ばかりは反省するのだが、年を跨ぐとすっかり忘れてしまって、また池に沈んだ蛙の卵をブチブチとやるのだった。
時は流れ、七郎が青年になってから村に飢饉が訪れた。元々、豊かな蓄えのある村でもなかったため、村人の多くが困窮した。そして、徐々に村の家々から年寄りや体の弱い者がいなくなっていた。表向きは山に山菜を採りに行ったが戻ってこなかったことにされている。だが、行方知れずを出した家と村長が口を合わせて、探さなくてよいと口にする時点でほとんどの者には察しがついていた。口減らしである。わからないのはまだ数えで六つにもならない信太と村の隅で暮らしている頭の弱い平五という男くらいだった。
飢饉がますます長引けば平五は今にいなくなるだろうな、と七郎は予想していた。平五の立場に同情するわけではなく、まああいつならいなくなっても支障ないと七郎は思っていた。
自分の順番が回ってこなければそれでよい、それに自分は若い男で頭も回るし腕力もある、だからその順番が回ってくるはずもない。
厳しい冬をようやく通り越し、春になると山菜や樹の実の収穫が増え、村の生活にも幾分か余裕が出てきた。この分なら行方知れずになる村人は出なくなるだろう。
七郎が魚を釣るために魚籠を腰に下げ、釣り竿を片手に山へ向かう途中で信太が小池の前に座り込んでいるのを見かけた。なにをしているのかと七郎が後ろから覗き込むと信太は棒っきれでなにかをつついている。
それは蛙の卵だった。信太は蛙の卵を棒っきれでいじくり回していたのだ。しかし、七郎はそれを見逃した。自分が何度も蛙の卵を同じようにして潰してきたから、なんだかきまりが悪くて信太の残酷を見て見ぬふりをした。
七郎が山に入るのは久しぶりだった。冬の間は雪が積もって危ないから入ってはいけないことになっている。その決まりを破って勝手に冬の間に山に入った者は遭難しても村から探してもらえない。だからこそ、冬の間はなぜか山に入ってしまう者が現れるのだ。冬は食糧が減る、だから食べる者も減らしたくなる。我が村のことながら、よく考えられていると思う。
七郎が釣り場を探していると大きな岩を見つけた。大人が十人輪になっても手を繋ぐことは難しそうな大岩だった。こんな大きなものが池の近くにあっただろうか。七郎は最後に山に入ったときと記憶を照らし合わせてみるが、大岩はなかった気がする。不思議なものだなと思いつつも自然とは往々にしてそういうものだと開き直って、大岩に近づいた。その巨大な岩は、池の奥深くへと大きくせり出し、まるで天然の桟橋のようだった。岩肌はゴツゴツとして湿っており、ところどころ苔が生えている。
大岩には腰掛けるのにちょうど良さそうな突起が二つあった。これ幸いと七郎は一つに腰掛けて、魚釣りの準備を始めた。
岩の突起に座ったままでも釣りをするのに問題はなかった。これは良い場所を見つけたものだと七郎は大変満足していた。池の中に糸を垂らして、魚がかかるまでのんびりと待つ。
気持ちいい風が吹いて、七郎は心が緩んだ。春はいい、辛い気持ちになりにくい。冬は寒くてひもじくって駄目だ。さわさわと柔らかな風に肌を撫でられて、しばらくすると七郎は座ったままこっくりこっくりと船を漕ぎ出した。重くなっていく瞼をあげてきちんと竿を見ていなければと思ったが、それは思うだけになった。
暗がりに誰かの背が見えた。丸まった背中に蓬髪の白髪頭を乗せている。着物はあちこちつぎはぎがされて、薄汚れていた。七郎はぼーっとして、ひょこひょこ歩いていくその人を後ろから眺めていた。
くるん。ふいにそいつが振り向いた。
ひどい醜男だった。いや、もしかしたら醜女なのかもしれない。顔は年老いて今にも天から迎えが来そうに見えた。男なのか女なのかも判断がつかなかったが、村の誰かに似ていると七郎は思った。だが、それが誰だったのかはまったく思い出せないのである。
そいつはただ七郎をじっと見つめてくる。顔に穴が空くほどにじっとじっと七郎を見ている。気味が悪いなぁ、と七郎は目をそらそうとした。だが、見たくないと思っているはずなのに七郎はその奇妙な人型の生き物から目を離せなかった。ならば、と七郎は眼を瞑った。
ぎゅっと瞼を閉じていると光の揺らめきのようなものを瞼の裏に感じる。それは意識して眼を閉じれば誰しもが見るような当たり前の光景だった。しかし、此度の七郎のそれが特別違ったのは光の揺らぎがだんだんと一点に収束していき、人の形をとったことだった。
光が形どったのは先ほどまで暗がりに突っ立っていたあの老人だった。七郎は驚いて、眼を開ける。
視界の真ん中には突っ立ったままのそいつがいた。さっきよりも七郎に近づいている。なにをするでもなく、そこにいる。位置は近くなっているが変わらずにただじっと七郎を見ているのだ。
七郎はまた眼を瞑った。瞼の裏にやっぱりそいつはいる。そしてさっきよりも近づいている。
七郎は怯えから迂闊にも眼を瞬いた。眼を開いて閉じて、を繰り返せば繰り返すだけそれは七郎に接近してくる。白眼に赤い血管の浮き、黒目の濁った眼が七郎の目の前に、一寸の間もなく詰め寄り、見つめていた。
もう距離はない、次に瞬きをしたら、どうなるのか。七郎は瞬きを我慢しようとしてみたが長くは保たなかった。
上瞼と下瞼がくっつく。果たして、気味の悪い老人の姿は消えていた。なんだ、緊張して損をした。七郎はうるさく鳴っている心臓を落ち着けようと胸に手をやる。そして、違和感に気づく。
自分自身の手がやたらとシミとシワだらけになっている。若さの象徴であったはずのピンと張った肌は弛み、青い血管の筋が浮いている。
おかしいじゃあないか……。これじゃあまるで……まるでさっきの爺か婆かもわからない年寄りのようだ。
グゲコココォ……。痰が絡んだような不健康な音が自分の中からした。
七郎は体をびくりとさせて目を覚ました。慌てて、自分の手を検める。七郎が見慣れているいつもの若い手だった。ははぁ……とため息のような苦笑いが漏れる。次いで、失禁していたことにもようやく気がついた。腰掛けていた大岩の突起部分にまで小便が染みている。
悪夢を見て漏らすとはなんとも情けない。七郎は濡れた衣服をすべて脱いだ。下半身だけ濡らした格好で村に戻るわけにはいかない。そんなことは七郎の矜持が許さない。七郎は池で着物のすべてを濡らし、ついでに体も清めようと思いついたのだ。
七郎は裸ん坊になった自分の体を見下ろす。腹の筋肉は割れているし、太腿も丸太のように太い。
大丈夫だ、自分は若い。まだまだ老いるはずがない。あの夢は口減らしのことを考えながら山に入ったせいで見てしまったのだろう。七郎はそう結論付けた。
グゲコココォ……グゲコッ……。夢の中で聞いたあの音が七郎が目覚めた今も追いかけてきた。七郎は思わず身震いする。
グゥゲコォ、ゲココッ……。突如、地響きが起こった。地震だ、と七郎はその場に蹲り大岩の突起にしがみつく。そのとき、七郎の手が触れていた岩肌が突然べろりとめくれた。中から現れたのは巨大な目玉だった。橙色の真ん中に黒い瞳孔が横長に開いている。七郎はギョッとして飛び退いた拍子に大岩から池へと転げ落ちた。
鼻から水が入り、ツンとした。着水の際に左半身を強く打ちつけたが、泳げないほどの痛みではなかった。七郎は池の中で体勢を立て直そうとしたそのとき水底の方に信じ難いものを見た。
水の中で明瞭な視界ではなかったが、紐状に伸びる大きな筒のようなものの中に薄い膜に覆われた……人間が入った卵のようなものがあった。迂闊に口を開けた拍子に水が体内へと入り込む。七郎は堪らず一度水面に顔を出した。咳き込みながら、だんだんと息が整ってくると考える余裕が出てくる、あれはなんだ、なにかの見間違いか。七郎は息を吸ってから、自分が目にしたものの正体を確かめるために再び水の中へと潜った。
水中のぼやけた視界でも七郎の眼はそれをはっきりと人間と捉えた。薄い膜に包まれ、裸の体を胎児のように丸めている。男も女もいたけれど、皆一様に眼を閉じていた。七郎は彼らに見覚えがあった。それは運悪く村からいなくなってしまった村人たち、頭が弱いから、体が弱いから、歳を取り過ぎたから、そういった理由で消えた人々であった。卵の中で眠っている村人たちはそれぞれ顔立ちは違っているのに、どこか同じような印象を受ける。
ああ、そうか、蛙だ、皆どこか蛙に似ているのだ。
七郎はそのことに思い至って、血の気が引いた。人間の卵がずらりと並ぶ大筒を眼でたどっていくと段々と筒は窄まっていき、中にいる人間も徐々に小さく、赤ん坊へと戻っていき、さらに進んでいくと人間から離れた容貌になっていく。眼は離れ、口は大きく頰まで裂けていく、手足は水かきがついているようだ。
蛙だ。人間が蛙になっている。人間蛙が眠る筒は見通せないほどにずっと先まで続いていた。蛙の姿になった次はどうなっているのか。七郎は毎年池に現れる何の変哲もない蛙の卵を脳裏に浮かべてしまう。
七郎は息が苦しくなって水面に顔を出した。はあはあと息を吸っても、少しも落ち着かない。自分が見てしまったものにひどく狼狽していた。
とにかくこんな場所からは一刻も早く離れたい、と七郎は怖じけて震える手足を無理矢理に動かし、陸地へと戻った。七郎は脱いだ着物を取りに戻るため、あの大岩に再び足をかけようとした。
グゥゲコォ……ゲコォォオオオ……
大岩が突然動いた。七郎があっと思ったときにはすでにそれと眼が合っていた。大岩についた目玉はギョロンと七郎を見ている。七郎は息をするのも忘れて、その大きな大きな蝦蟇を見上げた。大岩だと勘違いしていたそれはこの池の主なのかもしれない。そして、あの卵を産めるのはこの大きな蝦蟇しかいないのではないかと七郎は思った。
七郎は息を止め、瞬きもせず硬直していた。だが、時間が過ぎればそれも解ける。七郎がハッと息をすることを思い出したその瞬間、大蝦蟇は長い舌を伸ばして七郎を捕らえ口の中に収めた。
大蝦蟇は自身の胃の腑へと七郎を呑み下すとまた大岩の如く、じっと佇んだ。
村では、小池を覗き込む信太の横に平五が合流していた。二人は木の棒っきれを水の中に突っ込み、蛙の卵を虐めている。ふと信太が顔を上げ、平五に微笑む。平五もそれにつられて笑った。けらけらけら、と邪気のない笑顔で。
終わり
かえらん 棚霧ひいち @katagiri_8
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