銀杏の眼

をはち

銀杏の眼

子供の頃、僕らの町には古い神社があった。


古びてはいるが、朽ちてはいない。


苔むした石段、風に揺れる注連縄、鳥居の朱が薄れかけたその姿は、


まるで時間がそこだけを避けて通るかのようだった。


宮司の姿を見たことは一度もない。


それでも、神社は生きていた。


鎮守の杜から漂う湿った土の匂い、木々のざわめき、


どこか遠くで響く鈴の音――すべてが、この場所が何か大きなものを担っていると語っていた。


近所の子供たちは、まるで学校の延長のようにその神社に集まった。


駄菓子屋で買ったスナックを頬張り、鬼ごっこや簡単な球遊びで時間を潰した。


放課後ともなれば、誰かが必ずそこにいた。


僕もまた、家と神社を往復する日々を送っていた。


あの場所は、僕らの世界そのものだった。


あれは秋の、肌寒い午後のことだった。


友人との待ち合わせのため、神社でぼんやりと時間を潰していた。


鎮守の杜を眺めていると、ふと、胸の奥に冷たい違和感が広がった。


何かがおかしい。


だが、それが何なのか、すぐにはわからなかった。


ただ、視界の端で何かざわつくような感覚がした。


目を凝らすと、杜の一角、銀杏の木に異変が起きていた。


鈴なりに実った黄金色の銀杏と、燃えるような紅葉に彩られたその木が、


まるで色を吸い取られるように、徐々にくすんでいく。


葉が落ちるでもなく、ただ、色と生命が抜け落ち、裸の木へと変わっていくのだ。


錯覚ではない。


何度も目をこすり、瞬きを繰り返し、角度を変えて見つめた。


後ろを向いて急に振り返ってみたりもした。


それでも、木は色を失い続け、まるで誰かがその命をむしり取っているかのようだった。


そのとき、目にゴミが入った。


反射的に瞬きを繰り返すと、突然、視界に異様なものが飛び込んできた。


巨大な手。


人間のものとは思えない、節くれ立ち、雲のように膨らんだその手が、銀杏の木を根こそぎ引き抜いた。


木は一瞬にして葉も実も剥ぎ取られ、ただの枯れ枝となって地面に突き刺し直された。


凍りついたまま、僕は視線を上げた。


遙か頭上、雲の切れ間から、巨大な黒い瞳がこちらを覗いていた。


その眼は、まるで生き物の感情を宿さない、冷たく底のない井戸のようだった。


僕と目が合うと、ゆっくりと二度、三度瞬きし、そして雲の彼方へ消えた。


その瞬間、確信が胸を刺した。


僕らは観察されている。


蟻の巣を覗き込む子供のように、僕らの世界は誰かに見下ろされているのだ。


この町、この神社、僕らの日常――すべては、巨大な箱庭に過ぎない。


あの銀杏の木が、色を失い、剥ぎ取られたように、僕らの世界もまた、いつかその気まぐれで消し去られるかもしれない。


翌日、僕は再び神社を訪れた。


だが、鎮守の杜に銀杏の木は一本もなかった。


昨日まで確かにそこにあったはずの木々が、跡形もなく消えていた。


友人たちに話しても、誰も信じなかった。


それどころか、彼らは口を揃えてこう言った。


「神社? あそこはただの公園だろ?」


公園。


その言葉が、僕の心に冷たく突き刺さった。


彼らの目には、神社など最初から存在しなかったのだ。


僕が見たものは、僕だけの真実だった。


箱庭の蟻。


その日から、僕は蟻の末路を悟った。


ある日突然、エサを与えられなくなり、箱庭ごと朽ち果てる。


それが僕らの運命だ。


それ以来、僕は変わった。


学校に行くのをやめた。


勉強も、友人も、未来も、すべてが無意味に思えた。


箱庭の主の気まぐれで終わる世界なら、せめて自分の好きなように生きてやろうと思ったのだ。


ゲームに没頭し、時間を溶かすように生きた。


親は嘆き、教師は叱ったが、そんなものはどうでもよかった。


だって、この世界はいつか終わるのだから。


時間は溶けるように過ぎ、僕は40歳になった。


あの巨大な眼を二度と見ることはなかった。


だが、どこかでまだ、雲の彼方から僕を覗いている気がしてならない。


周りの人間たちは、蟻のようにせっせと這う。


汗を流し、夢を追い、未来を信じて足掻いている。


滑稽だ。


箱庭の端で、知らずに崖っぷちを歩いているのだから。


彼らの努力は無意味だ。


だって、この世界はいつか終わる。


あの巨大な手が、気まぐれにすべてを剥ぎ取る日が来る。


僕はもう足掻かない。


ただ、ゲームを手に、時間を溶かしながら、その日を待ちわびる。


滅びは静かにやってくるだろう。


誰も気づかず、笑顔のまま朽ちていく。


その瞬間を、僕は薄ら笑いで待つのだ。


だが、僕らの世界に朽ちる気配が見えないでいるところをみると、


どうやら、この箱庭の主は、世話好きらしい――

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銀杏の眼 をはち @kaginoo8

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