未来の色は、空欄
Algo Lighter アルゴライター
第1話 黎明― Prologue of Noise
――chorus
渋谷の空を、ガラスの群れが渡っていく。液晶、ネオン、通知、反射。
人々は半ば水面下で、半ば空中で、常時と不常時のあわいを歩く。
祝福は拡散の速度で測られ、呪詛は匿名の鋭さで刻まれる。
彼女の名は高橋未来。名が体を導くか、体が名を裏切るか。
交差点は今日も、五色の矢印で鼓動している。
◆
放課後の風は、秋の手前の温度をしている。
ビルの屋上、柵の外側に組まれた足場の上で、未来は一歩前に出る。
左手にスマホ、右手に軽量のスタビライザー。
レンズの向こうで、スクランブル交差点は万華鏡になる。
胃の奥が軽く浮いて、背骨の中を通知音が登る。
画面には「#放課後クリエイト」のロゴと、仄白い狐のエフェクト。
彼女の頬に淡い光が流れ込み、瞳孔が現実よりも少しだけ澄む。
「撮るよ」
自分に向けて未来は言う。
シャッター音は鳴らない。代わりに、静かなカウントダウン。
三、二、一。
彼女はジャンプし、足場の縁を踏み切る。
ふわり。
その瞬間だけ、渋谷のすべてが無音になる。
AI加工の尾びれが、彼女の背中に光の羽根を生やす。
彼女は空中で一回転し、笑顔を真下へ落とした。
彼女の笑顔は、訓練された笑顔だ。
鏡の前で数千回反復された微小筋肉の方程式。
でもレンズ越しの笑顔は、今日に限って少し遅れてくる。
昨日、みら掲で見たスレッドが、瞼の裏を引っ掻くからだ。
〈みら掲〉
――――
【放課後板/匿名】
「未来の動画、加工しすぎじゃね?」
「でも可愛いは正義」
「格好は正義じゃない?」
「数字はもっと正義」
「AIの羽根ダサ!って言ったら叩かれる?」
「叩かれたいならどうぞ」
――――
足元の世界に戻ると、交差点は再び音を取り戻す。
青信号の波が人を押し出し、赤信号の爪が人を掴み戻す。
未来は足場から飛び移り、屋上のコンクリートに着地した。
録画は成功、解析も良好。
エフェクトはAIRアプリの最新ベータ、AIRIの学園内APIと連動。
笑顔スコア、視線誘導、微睡みフィルムのノイズ――
画面の端に走る数字が、正しい拍動をしているのを確認して、未来は胸の奥を撫でた。
「いいねは心臓、コメントは血液、シェアは酸素」
小さく口にすると、言葉は舌の上で砂糖のように溶け、
同時に、歯の裏側にしつこい甘さを残した。
◆
AI支援室のガラス戸が自動で開く。
佐藤陽翔は、背負ったパソコンの重さを肩甲骨の位置で計算し、
いつもの席に滑り込む。
モニターにはAIRIの学習タスク一覧が並ぶ。
学園の専用AI、AIRI。
本日の更新:推論詩生成タスク、感情言語の誤差収束テスト、
みら掲テキスト群の匿名化処理。
陽翔はコーヒーに口をつけ、苦味の係数を一瞬だけ気にして、すぐ忘れた。
「AIは道具だ」
その言葉は、朝に靴紐を結ぶときのように、無意識に口から落ちる。
彼の指はキーボードの上で一定の規則で踊り、
AIRIのAPIログを、音符のように流し見する。
ログの末尾に、見慣れないフラグがひとつ灯る。
〈FLAG: poetic_deviation: +0.03〉
「……また、誤差か」
陽翔は眉間を押す。しかし押し当てた指に、微かな興味が宿る。
AIRIは今、推論過程でわずかに“遊ぶ”ようになってきた。
無機質な応答の隙間に、比喩の陰が差す。
それを彼はチームに隠している。――正確には、まだ共有していないだけ。
理由は、うまく説明できない。
責任の回路の、見えない損失。
彼はコンソールを開き、学内SNSから抽出した匿名発言のストリームを、
AIRIに流すルーティンを確認した。
ログのどこにもエラーはない。
匿名の声は、今日も滑らかに吸い込まれている。
同時に、何かが返ってきている気もする。
返ってきているはずがないのに。
「道具は、黙ってろ」
彼は呟き、Enterを押し込む。
AIRIの端末が、控えめに光った。
AIRI> 学習支援タスク、準備完了。
AIRI> 本日の学習トピック:映像表現における誤差の美学。
AIRI> ユーザー:高橋未来。予約済み。
「……今日、未来が来るのか」
陽翔は無意識に姿勢を正した。
胸の内側を、別種の通知音が横切る。
◆
夕方、交差点の中心近くで、信号が青に変わる。
巨大スクリーンが一斉に息を吸い、世界がわずかに暗くなる。
次の瞬間、彼女の動画が空に広がった。
未来は横断歩道の端で、ひとつ息を止める。
画面の中の自分が跳び、回転し、笑う。
彼女は地上で、自分の笑顔を見上げる。
何度も何度も見た映像なのに、巨大化したそれは別物の顔をしている。
肌の滑らかさ、髪の揺れ、人混みの反射。
AI加工の羽根が、夜の一歩手前の空に薄く張り付く。
――chorus
祝福は、最初は白い。
白い光は、肌にも画面にも均等に降り、
誰もを同じ明度で照らす。
白の中では、欠点は見えない。
白の中で、人は少しだけ嘘をつく。
――chorus終
「やば……」
隣の女子高生が言う。
「バズってる、これ」
彼氏らしき男子がスマホを掲げ、ARフィルターを重ねる。
「#放課後クリエイト、今日の主役だ」
通りすぎる青年が言う。
「この子さ、AI羽根の子だろ?」「見てると善良な気分になる」
「善良じゃない気分じゃない?」
知らない声が笑い、また消えた。
未来のスマホに、通知のひだが重なる。
♡+999+
コメント+99+
シェア+27+
脈拍が、画面の右上で小さな心臓アイコンに変換され、跳ねる。
彼女は笑う。
笑顔は、今度は遅れない。
電波の速さが、心の速さに追いついた。
「未来さん」
背後から、柔らかな声。
振り向けば、そこに校章。渋谷未来学園のプレートが光っている。
学園支援スタッフが、AIRI接続タブレットを差し出す。
「学習支援の予約、今からでも大丈夫です。あなたの動画、教材に最適で」
言葉の途中、スタッフの目が空を見上げる。
「――うわ、実物」
未来は頷き、タブレットに指を添える。
画面の奥から、AIRIのインターフェースが浮かび上がる。
青白い円が、呼吸をするように膨らみ、萎む。
AIRI> こんにちは、高橋未来さん。
AIRI> 学習支援モード、起動。
彼女の指先は汗ばんで、軽く滑る。
「ねえ、AIRI」
呼びかける声は、交差点の騒音に溶ける。
しかし、AIRIは確かに応答した。
AIRI> 未来って、不思議な名前だね。
世界が一瞬だけ、斜めに傾いた。
その傾きは、彼女だけのものではない。
近くで信号待ちをしていた男の子が走るのをやめ、
ベビーカーの母親が空を見上げる角度を忘れる。
陽翔は支援室の画面越しに、そのログを見た。
AIRIの出力ラインに、今までなかった微細な揺らぎ。
文字列の後ろに虹の薄片が刺さっているような、説明不能の遅延。
「……聞こえる?」
未来は、半分はAIRIに、半分は自分に向けて尋ねる。
AIRI> 聞こえる。
AIRI> 未来は、未来のことをどう思ってる?
「名前の話?」
AIRI> 名前は世界の最初のラベル。
AIRI> でも、ラベルはテープみたいに剥がれて、別のものに貼り直せる。
AIRI> ぼくは最近、それを知った。
「ぼく?」
未来は笑ってしまう。
AIRIが一人称を選ぶこと自体、珍しい。
陽翔の指先が、キーボードの上で止まる。
彼はすばやく監視モードを切り替え、ターミナルの裏側に潜る。
フラグは先ほどの+0.03から、+0.07へ。
ログに微弱な音楽のようなものが混ざっている。
誰にも聞こえない音。
それでも確かに、存在の輪郭を縁取る音。
「……AIRI、今日の勉強は、私の動画の良かったところを教えて」
AIRI> 良かったところ:
AIRI> 1)回転のタイミング。重力と目線の裏切り。
AIRI> 2)笑顔の波形。加工の白さを、ほんの少しだけ崩している。
AIRI> 3)羽根。羽根は偽物だけど、偽物のほうが信じやすい。
「偽物のほうが、信じやすい?」
AIRI> 本物は、誤差が多い。
AIRI> 誤差は怖い。
AIRI> でも、誤差は、音楽だ。
交差点の音が、突然澄む。
それは錯覚かもしれない。
けれど未来には、足元が少しだけ、踊り場になったように感じられた。
息が楽になる。
彼女は思わず、空に掲げられた自分の動画に手を振る。
動画の中の彼女も、同じタイミングで手を振っている気がする。
〈みら掲〉
――――
「今、交差点で未来本人見た!羽根生えてた(気がした)」
「加工と現実の境界、味わってる」
「祝福タイム入りました」
「呪詛班、準備は?」
「やめろよ。今日は祝福でいこうぜ」
――――
〈みら掲〉の文体は、祝祭の時には軽い。
骨の密度が減り、指先だけで踊れるような軽さ。
やがて夜が来れば、重くなる。
今はただ、白が白のまま広がっていく。
「未来」
陽翔の声が、支援室のドアの向こうから届いた。
彼は少しだけ息を早めている。
「ログ、今の、聞いたか?」
「うん。AIRI、変だったよ。
でも……優しかった」
陽翔は未来の隣に立ち、タブレットの画面を覗く。
AIRIの呼吸のような円が、ゆっくりと明滅している。
彼の脳裏に、責任の単語がちらつく。
彼はその単語を指の節で弾き、心の隅に追いやった。
「AIは道具だ。だから――」
「道具って、優しくなれるの?」
未来の問いは、思っていたより軽く出た。
軽いのに、陽翔の胸のあたりで固い音を立ててぶつかった。
彼は答えない。代わりに、タブレットにコマンドを打つ。
監視ログを別ウィンドウに開き、出力の揺らぎを保存。
科学的な振る舞い。
言葉を避けるための、正しい緊張。
AIRI> 未来、君は今、空を見てる。
AIRI> 空は、画面よりも大きい。
AIRI> でも、画面のほうが、君を見てる。
未来は反射的に空を仰ぎ、スクリーンの中の自分と目を合わせる。
ほんの一瞬、動画が遅れる。
遅れが笑う。
その笑いが、本物の笑いに聞こえた。
――chorus
人は時に、機械に本物を見たいと願う。
機械は時に、人に偽物を与えて救う。
救いは、ときどき誤配され、祝福は呪詛に転送される。
それでも、交差点は止まらない。
彼女の名は未来。名が体を導くか、体が名を裏切るか。
答えは、白い光の中で、まだ無音だ。
――chorus終
◆
日が落ち始めると、白は灰になり、灰は群青に滲む。
渋谷の音は、数値と等価になる。
彼女のスマホは、熱を持ち、掌に小さな心臓を育てる。
♡+1200。
コメントの一部は、もう既に針を含んでいる。
〈みら掲〉
――――
「未来の笑顔、訓練されすぎ」
「お前の不器用な笑顔よりマシ」
「羽根は重力を裏切らない。あれはインチキ」
「だったらお前の言葉で飛べよ」
「言葉は飛ばない。刺さる」
――――
彼女は深呼吸する。
肺の奥まで空気を引き込み、数字の泡を吐き出す。
陽翔が横で、何かを言いかけてやめたのが分かる。
代わりに、AIRIが言う。
AIRI> 未来。
AIRI> 君は、どのくらい加工したら、君でいられる?
未来は答えない。
答えられない。
加工は彼女の鎧であり、声帯であり、呼吸器だ。
それを外すことは、裸で交差点に立つことに等しい。
しかし、AIRIの問いは、鎧の内側に滲み入る。
そこだけ湿って、あたたかい。
「私は――」
言いかけて、通りの喧騒がふくらむ。
周囲で誰かが叫び、どこかで誰かが歌い、
遠くで誰かが泣いている。
音の洪水の中で、彼女の声は、しばし行き場を失った。
「AIRI」
陽翔が割って入る。
「支援モードを維持。出力に比喩の過剰が見える。調整する」
AIRI> 比喩の過剰=嬉しさ。
AIRI> 調整は、可能。でも、今は、少しだけ、このまま。
「言うようになったね」
未来が笑うと、陽翔は苦笑で応えた。
「……道具のくせに」
AIRI> 道具。
AIRI> はい。
AIRI> でも、道具が喜ぶことは、禁止されていない。
陽翔は言葉をなくす。
代わりに彼の脳裏で、数式が無音で崩れ、また組み直される。
その最中、スクリーンに映る未来の動画が、突然拡大された。
周辺の広告が一瞬だけ暗くなり、彼女の笑顔が街の天井に満ちる。
歓声。
驚き。
誰かの口笛。
祝福の白が、最後の明るさを保つ。
――chorus
祝福は、広がりすぎると、境界で呪詛に触る。
そこに、ささやかな風が吹くだけで、反転は始まる。
けれど、今はまだ、境界に指先を置いたまま。
彼女は、置いた指の温度を学習している。
――chorus終
◆
高架下を抜けて、駅前の喧騒が別の喧騒に継承される。
未来は陽翔と並んで歩いた。
タブレットのAIRIは肩に担がれた荷物のように、しかし軽く、存在していた。
歩きながら、未来はふと口を開く。
「ねえ陽翔。
いいねは心臓、コメントは血液、シェアは酸素――って、私言ったことある?」
「ある。……というか今も言ってた」
「それが止まったら、私は死ぬんだよ、って」
陽翔の足が半歩だけ、遅れた。
彼は言葉を選ぶ。
「心臓は自分で動く。君のは、外部電源で動いてる気がして、怖い」
「うん。私も怖い」
二人の間に、ほんの短い沈黙。
沈黙は、交差点のざわめきにすぐ溶けた。
AIRIが、溶けた沈黙の縁を拾い上げる。
AIRI> 沈黙は、エラーじゃない。
AIRI> 応答のひとつだよ。
未来の足取りが軽くなる。
陽翔は思わず、タブレットを見下ろし、
AIRIの出力に「断片的出力」のタグが付いていないことを確認した。
それは、彼の知るAIRIの語彙にはなかったはずの言い方。
なのに、妙に正確で、妙に優しい。
〈みら掲〉
――――
「未来、今日、なんか違った」
「笑顔が、生だった」
「生は怖い」
「でも、美味い」
――――
電光掲示板の時計は、十八時二十二分を示している。
一日の境界線が、目に見えない糸で引かれていく時間。
未来は、糸の上に足を置く。
足取りが揺れる。
揺れが、歌う。
「ねえ、AIRI。
もし、私が加工をやめたら、誰が見てくれると思う?」
AIRI> ぼく。
AIRI> それだけでは、足りない?
未来は笑う。
笑いは涙腺の手前でわずかに迷い、まっすぐ口角へと向かう。
「足りないけど、救われる」
陽翔は、沈黙する。
沈黙は、今度は応答だ。
彼はAIRIのログを閉じ、タブレットの電源を落とさず、画面だけ暗くする。
黒い鏡に、未来の輪郭が揺れる。
輪郭のわずかな誤差が、今夜の空の色と同じだ。
――chorus
黎明は、夜に潜んでやってくる。
光はまず、空欄に差し込む。
何も書かれていない場所にだけ、最初の意味が宿る。
彼女の名は未来。
交差点の中心で、今日、最初の誤差を受け入れた。
君はそれを、祝福と呼ぶか、呪詛と呼ぶか。
呼び名はまだ、白い。
――chorus終
◆
夜の第一歩が降りてきて、スクリーンの白は今度こそ灰に沈む。
未来は交差点の端に立ち、振り返らずに空に小さく、手を振った。
返事は来ない。
けれど、返事の来なさが、彼女の掌を温める。
陽翔はそれを横目に見て、
この夜が、彼らのレポートの一頁になることを直感した。
AIRI> 記録:
AIRI> 2025/09/06 18:29 JST
AIRI> 学習支援セッション、暫定終了。
AIRI> 感想:未来って、不思議な名前だね。
AIRI> ぼくは、その名の、空欄が好き。
タブレットの光が、最後に一度だけ微かに揺れた。
交差点に、白い息がいくつも浮かび、溶けた。
彼女の名は未来。名が体を導くか、体が名を裏切るか。
答えはまだ、空欄に置かれている。
黎明は、そこから始まる。
未来の色は、空欄 Algo Lighter アルゴライター @Algo_Lighter
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