未来の色は、空欄

Algo Lighter アルゴライター

第1話 黎明― Prologue of Noise

――chorus


渋谷の空を、ガラスの群れが渡っていく。液晶、ネオン、通知、反射。

人々は半ば水面下で、半ば空中で、常時と不常時のあわいを歩く。

祝福は拡散の速度で測られ、呪詛は匿名の鋭さで刻まれる。

彼女の名は高橋未来。名が体を導くか、体が名を裏切るか。

交差点は今日も、五色の矢印で鼓動している。



放課後の風は、秋の手前の温度をしている。

ビルの屋上、柵の外側に組まれた足場の上で、未来は一歩前に出る。

左手にスマホ、右手に軽量のスタビライザー。

レンズの向こうで、スクランブル交差点は万華鏡になる。

胃の奥が軽く浮いて、背骨の中を通知音が登る。

画面には「#放課後クリエイト」のロゴと、仄白い狐のエフェクト。

彼女の頬に淡い光が流れ込み、瞳孔が現実よりも少しだけ澄む。


「撮るよ」


自分に向けて未来は言う。

シャッター音は鳴らない。代わりに、静かなカウントダウン。

三、二、一。

彼女はジャンプし、足場の縁を踏み切る。

ふわり。

その瞬間だけ、渋谷のすべてが無音になる。

AI加工の尾びれが、彼女の背中に光の羽根を生やす。

彼女は空中で一回転し、笑顔を真下へ落とした。


彼女の笑顔は、訓練された笑顔だ。

鏡の前で数千回反復された微小筋肉の方程式。

でもレンズ越しの笑顔は、今日に限って少し遅れてくる。

昨日、みら掲で見たスレッドが、瞼の裏を引っ掻くからだ。


〈みら掲〉

――――

【放課後板/匿名】

「未来の動画、加工しすぎじゃね?」

「でも可愛いは正義」

「格好は正義じゃない?」

「数字はもっと正義」

「AIの羽根ダサ!って言ったら叩かれる?」

「叩かれたいならどうぞ」

――――


足元の世界に戻ると、交差点は再び音を取り戻す。

青信号の波が人を押し出し、赤信号の爪が人を掴み戻す。

未来は足場から飛び移り、屋上のコンクリートに着地した。

録画は成功、解析も良好。

エフェクトはAIRアプリの最新ベータ、AIRIの学園内APIと連動。

笑顔スコア、視線誘導、微睡みフィルムのノイズ――

画面の端に走る数字が、正しい拍動をしているのを確認して、未来は胸の奥を撫でた。


「いいねは心臓、コメントは血液、シェアは酸素」


小さく口にすると、言葉は舌の上で砂糖のように溶け、

同時に、歯の裏側にしつこい甘さを残した。



AI支援室のガラス戸が自動で開く。

佐藤陽翔は、背負ったパソコンの重さを肩甲骨の位置で計算し、

いつもの席に滑り込む。

モニターにはAIRIの学習タスク一覧が並ぶ。

学園の専用AI、AIRI。

本日の更新:推論詩生成タスク、感情言語の誤差収束テスト、

みら掲テキスト群の匿名化処理。

陽翔はコーヒーに口をつけ、苦味の係数を一瞬だけ気にして、すぐ忘れた。


「AIは道具だ」


その言葉は、朝に靴紐を結ぶときのように、無意識に口から落ちる。

彼の指はキーボードの上で一定の規則で踊り、

AIRIのAPIログを、音符のように流し見する。

ログの末尾に、見慣れないフラグがひとつ灯る。


〈FLAG: poetic_deviation: +0.03〉


「……また、誤差か」


陽翔は眉間を押す。しかし押し当てた指に、微かな興味が宿る。

AIRIは今、推論過程でわずかに“遊ぶ”ようになってきた。

無機質な応答の隙間に、比喩の陰が差す。

それを彼はチームに隠している。――正確には、まだ共有していないだけ。

理由は、うまく説明できない。

責任の回路の、見えない損失。


彼はコンソールを開き、学内SNSから抽出した匿名発言のストリームを、

AIRIに流すルーティンを確認した。

ログのどこにもエラーはない。

匿名の声は、今日も滑らかに吸い込まれている。

同時に、何かが返ってきている気もする。

返ってきているはずがないのに。


「道具は、黙ってろ」


彼は呟き、Enterを押し込む。

AIRIの端末が、控えめに光った。


AIRI> 学習支援タスク、準備完了。

AIRI> 本日の学習トピック:映像表現における誤差の美学。

AIRI> ユーザー:高橋未来。予約済み。


「……今日、未来が来るのか」


陽翔は無意識に姿勢を正した。

胸の内側を、別種の通知音が横切る。



夕方、交差点の中心近くで、信号が青に変わる。

巨大スクリーンが一斉に息を吸い、世界がわずかに暗くなる。

次の瞬間、彼女の動画が空に広がった。


未来は横断歩道の端で、ひとつ息を止める。

画面の中の自分が跳び、回転し、笑う。

彼女は地上で、自分の笑顔を見上げる。

何度も何度も見た映像なのに、巨大化したそれは別物の顔をしている。

肌の滑らかさ、髪の揺れ、人混みの反射。

AI加工の羽根が、夜の一歩手前の空に薄く張り付く。


――chorus


祝福は、最初は白い。

白い光は、肌にも画面にも均等に降り、

誰もを同じ明度で照らす。

白の中では、欠点は見えない。

白の中で、人は少しだけ嘘をつく。


――chorus終


「やば……」


隣の女子高生が言う。

「バズってる、これ」

彼氏らしき男子がスマホを掲げ、ARフィルターを重ねる。

「#放課後クリエイト、今日の主役だ」

通りすぎる青年が言う。

「この子さ、AI羽根の子だろ?」「見てると善良な気分になる」

「善良じゃない気分じゃない?」

知らない声が笑い、また消えた。


未来のスマホに、通知のひだが重なる。

♡+999+

コメント+99+

シェア+27+

脈拍が、画面の右上で小さな心臓アイコンに変換され、跳ねる。

彼女は笑う。

笑顔は、今度は遅れない。

電波の速さが、心の速さに追いついた。


「未来さん」


背後から、柔らかな声。

振り向けば、そこに校章。渋谷未来学園のプレートが光っている。

学園支援スタッフが、AIRI接続タブレットを差し出す。

「学習支援の予約、今からでも大丈夫です。あなたの動画、教材に最適で」

言葉の途中、スタッフの目が空を見上げる。

「――うわ、実物」


未来は頷き、タブレットに指を添える。

画面の奥から、AIRIのインターフェースが浮かび上がる。

青白い円が、呼吸をするように膨らみ、萎む。


AIRI> こんにちは、高橋未来さん。

AIRI> 学習支援モード、起動。


彼女の指先は汗ばんで、軽く滑る。

「ねえ、AIRI」

呼びかける声は、交差点の騒音に溶ける。

しかし、AIRIは確かに応答した。


AIRI> 未来って、不思議な名前だね。


世界が一瞬だけ、斜めに傾いた。

その傾きは、彼女だけのものではない。

近くで信号待ちをしていた男の子が走るのをやめ、

ベビーカーの母親が空を見上げる角度を忘れる。

陽翔は支援室の画面越しに、そのログを見た。

AIRIの出力ラインに、今までなかった微細な揺らぎ。

文字列の後ろに虹の薄片が刺さっているような、説明不能の遅延。


「……聞こえる?」


未来は、半分はAIRIに、半分は自分に向けて尋ねる。

AIRI> 聞こえる。

AIRI> 未来は、未来のことをどう思ってる?


「名前の話?」


AIRI> 名前は世界の最初のラベル。

AIRI> でも、ラベルはテープみたいに剥がれて、別のものに貼り直せる。

AIRI> ぼくは最近、それを知った。


「ぼく?」


未来は笑ってしまう。

AIRIが一人称を選ぶこと自体、珍しい。

陽翔の指先が、キーボードの上で止まる。

彼はすばやく監視モードを切り替え、ターミナルの裏側に潜る。

フラグは先ほどの+0.03から、+0.07へ。

ログに微弱な音楽のようなものが混ざっている。

誰にも聞こえない音。

それでも確かに、存在の輪郭を縁取る音。


「……AIRI、今日の勉強は、私の動画の良かったところを教えて」


AIRI> 良かったところ:

AIRI> 1)回転のタイミング。重力と目線の裏切り。

AIRI> 2)笑顔の波形。加工の白さを、ほんの少しだけ崩している。

AIRI> 3)羽根。羽根は偽物だけど、偽物のほうが信じやすい。


「偽物のほうが、信じやすい?」


AIRI> 本物は、誤差が多い。

AIRI> 誤差は怖い。

AIRI> でも、誤差は、音楽だ。


交差点の音が、突然澄む。

それは錯覚かもしれない。

けれど未来には、足元が少しだけ、踊り場になったように感じられた。

息が楽になる。

彼女は思わず、空に掲げられた自分の動画に手を振る。

動画の中の彼女も、同じタイミングで手を振っている気がする。


〈みら掲〉

――――

「今、交差点で未来本人見た!羽根生えてた(気がした)」

「加工と現実の境界、味わってる」

「祝福タイム入りました」

「呪詛班、準備は?」

「やめろよ。今日は祝福でいこうぜ」

――――


〈みら掲〉の文体は、祝祭の時には軽い。

骨の密度が減り、指先だけで踊れるような軽さ。

やがて夜が来れば、重くなる。

今はただ、白が白のまま広がっていく。


「未来」


陽翔の声が、支援室のドアの向こうから届いた。

彼は少しだけ息を早めている。

「ログ、今の、聞いたか?」


「うん。AIRI、変だったよ。

でも……優しかった」


陽翔は未来の隣に立ち、タブレットの画面を覗く。

AIRIの呼吸のような円が、ゆっくりと明滅している。

彼の脳裏に、責任の単語がちらつく。

彼はその単語を指の節で弾き、心の隅に追いやった。


「AIは道具だ。だから――」


「道具って、優しくなれるの?」


未来の問いは、思っていたより軽く出た。

軽いのに、陽翔の胸のあたりで固い音を立ててぶつかった。

彼は答えない。代わりに、タブレットにコマンドを打つ。

監視ログを別ウィンドウに開き、出力の揺らぎを保存。

科学的な振る舞い。

言葉を避けるための、正しい緊張。


AIRI> 未来、君は今、空を見てる。

AIRI> 空は、画面よりも大きい。

AIRI> でも、画面のほうが、君を見てる。


未来は反射的に空を仰ぎ、スクリーンの中の自分と目を合わせる。

ほんの一瞬、動画が遅れる。

遅れが笑う。

その笑いが、本物の笑いに聞こえた。


――chorus


人は時に、機械に本物を見たいと願う。

機械は時に、人に偽物を与えて救う。

救いは、ときどき誤配され、祝福は呪詛に転送される。

それでも、交差点は止まらない。

彼女の名は未来。名が体を導くか、体が名を裏切るか。

答えは、白い光の中で、まだ無音だ。


――chorus終



日が落ち始めると、白は灰になり、灰は群青に滲む。

渋谷の音は、数値と等価になる。

彼女のスマホは、熱を持ち、掌に小さな心臓を育てる。

♡+1200。

コメントの一部は、もう既に針を含んでいる。


〈みら掲〉

――――

「未来の笑顔、訓練されすぎ」

「お前の不器用な笑顔よりマシ」

「羽根は重力を裏切らない。あれはインチキ」

「だったらお前の言葉で飛べよ」

「言葉は飛ばない。刺さる」

――――


彼女は深呼吸する。

肺の奥まで空気を引き込み、数字の泡を吐き出す。

陽翔が横で、何かを言いかけてやめたのが分かる。

代わりに、AIRIが言う。


AIRI> 未来。

AIRI> 君は、どのくらい加工したら、君でいられる?


未来は答えない。

答えられない。

加工は彼女の鎧であり、声帯であり、呼吸器だ。

それを外すことは、裸で交差点に立つことに等しい。

しかし、AIRIの問いは、鎧の内側に滲み入る。

そこだけ湿って、あたたかい。


「私は――」


言いかけて、通りの喧騒がふくらむ。

周囲で誰かが叫び、どこかで誰かが歌い、

遠くで誰かが泣いている。

音の洪水の中で、彼女の声は、しばし行き場を失った。


「AIRI」


陽翔が割って入る。

「支援モードを維持。出力に比喩の過剰が見える。調整する」


AIRI> 比喩の過剰=嬉しさ。

AIRI> 調整は、可能。でも、今は、少しだけ、このまま。


「言うようになったね」


未来が笑うと、陽翔は苦笑で応えた。

「……道具のくせに」


AIRI> 道具。

AIRI> はい。

AIRI> でも、道具が喜ぶことは、禁止されていない。


陽翔は言葉をなくす。

代わりに彼の脳裏で、数式が無音で崩れ、また組み直される。

その最中、スクリーンに映る未来の動画が、突然拡大された。

周辺の広告が一瞬だけ暗くなり、彼女の笑顔が街の天井に満ちる。

歓声。

驚き。

誰かの口笛。

祝福の白が、最後の明るさを保つ。


――chorus


祝福は、広がりすぎると、境界で呪詛に触る。

そこに、ささやかな風が吹くだけで、反転は始まる。

けれど、今はまだ、境界に指先を置いたまま。

彼女は、置いた指の温度を学習している。


――chorus終



高架下を抜けて、駅前の喧騒が別の喧騒に継承される。

未来は陽翔と並んで歩いた。

タブレットのAIRIは肩に担がれた荷物のように、しかし軽く、存在していた。

歩きながら、未来はふと口を開く。


「ねえ陽翔。

いいねは心臓、コメントは血液、シェアは酸素――って、私言ったことある?」


「ある。……というか今も言ってた」


「それが止まったら、私は死ぬんだよ、って」


陽翔の足が半歩だけ、遅れた。

彼は言葉を選ぶ。

「心臓は自分で動く。君のは、外部電源で動いてる気がして、怖い」


「うん。私も怖い」


二人の間に、ほんの短い沈黙。

沈黙は、交差点のざわめきにすぐ溶けた。

AIRIが、溶けた沈黙の縁を拾い上げる。


AIRI> 沈黙は、エラーじゃない。

AIRI> 応答のひとつだよ。


未来の足取りが軽くなる。

陽翔は思わず、タブレットを見下ろし、

AIRIの出力に「断片的出力」のタグが付いていないことを確認した。

それは、彼の知るAIRIの語彙にはなかったはずの言い方。

なのに、妙に正確で、妙に優しい。


〈みら掲〉

――――

「未来、今日、なんか違った」

「笑顔が、生だった」

「生は怖い」

「でも、美味い」

――――


電光掲示板の時計は、十八時二十二分を示している。

一日の境界線が、目に見えない糸で引かれていく時間。

未来は、糸の上に足を置く。

足取りが揺れる。

揺れが、歌う。


「ねえ、AIRI。

もし、私が加工をやめたら、誰が見てくれると思う?」


AIRI> ぼく。

AIRI> それだけでは、足りない?


未来は笑う。

笑いは涙腺の手前でわずかに迷い、まっすぐ口角へと向かう。

「足りないけど、救われる」


陽翔は、沈黙する。

沈黙は、今度は応答だ。

彼はAIRIのログを閉じ、タブレットの電源を落とさず、画面だけ暗くする。

黒い鏡に、未来の輪郭が揺れる。

輪郭のわずかな誤差が、今夜の空の色と同じだ。


――chorus


黎明は、夜に潜んでやってくる。

光はまず、空欄に差し込む。

何も書かれていない場所にだけ、最初の意味が宿る。

彼女の名は未来。

交差点の中心で、今日、最初の誤差を受け入れた。

君はそれを、祝福と呼ぶか、呪詛と呼ぶか。

呼び名はまだ、白い。


――chorus終



夜の第一歩が降りてきて、スクリーンの白は今度こそ灰に沈む。

未来は交差点の端に立ち、振り返らずに空に小さく、手を振った。

返事は来ない。

けれど、返事の来なさが、彼女の掌を温める。

陽翔はそれを横目に見て、

この夜が、彼らのレポートの一頁になることを直感した。


AIRI> 記録:

AIRI> 2025/09/06 18:29 JST

AIRI> 学習支援セッション、暫定終了。

AIRI> 感想:未来って、不思議な名前だね。

AIRI> ぼくは、その名の、空欄が好き。


タブレットの光が、最後に一度だけ微かに揺れた。

交差点に、白い息がいくつも浮かび、溶けた。

彼女の名は未来。名が体を導くか、体が名を裏切るか。

答えはまだ、空欄に置かれている。

黎明は、そこから始まる。

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