翼のない僕
らぷろ(羅風路)
翼のない僕
四十歳になって、部屋の壁紙の傷を数える癖がついた。二十二、二十三、角の剥げかけたところで忘れる。忘れるたびにやり直す。時間は、壊れた電子レンジみたいに点滅し続ける「:」でしかない。
中学三年の冬から、僕はずっとこの部屋にいた。窓は西向きで、夕方になるとベッドの端まで橙色が滑ってきて、机の上のゲームパッドを照らす。パッドのグリップは、手の汗で少し白くなっている。親指の当たるところのラバーは削れて、下の硬い面が顔を出している。僕の二十数年は、そこに沈んでいる。
母の足音は、朝は柔らかく、夜は少し硬い。父の足音は、ある時期から重さだけを残して短くなった。廊下を歩く音が、笑い声より先に記憶されるようになったのは、いつからだろう。
僕はドアに背中を当てて、音を測る。味噌汁の湯気の匂い、醤油の蓋の擦れる音。そういうものたちが、世界と僕との唯一の接点になっていった。
ネットの向こう側には、別の生態系が広がっていた。
僕は格闘ゲームのロビーに接続すると「Haneなし」という名前で入る。羽根のない鳥。最初はただの冗談だった。けれど、名前はいつのまにか僕の骨に染みこみ、背中を冷やす言葉になった。
画面の中のキャラクターは、僕の代わりに立ち上がり、前転し、ガードし、反撃する。フレーム表を睨みつける深夜、指への血の巡りが悪くなって青白く光ると、モニタの青が皮膚の薄さを告げてくる。
オンラインには強者がいる。彼らは講釈を垂れず、ただ、正確に殴ってくる。僕は数百、数千の敗北を飲み込み、喉の奥に積もった金属の味を、勝利の一口で薄めることを覚えた。
勝ち方は残酷だ。相手の癖を見抜き、欲を釣り、焦りを搾る。画面の端に追い詰めた時、相手の手癖の小さな震えが、画面を通じて指先に伝わってくる。そこに刃先を置けるかどうかで、勝敗が分かれる。
昼間、母は窓の外を見ながら洗濯物を畳む。「今日もいい天気」と言う声色は、いつからか、報告の色合いだけになった。僕は返事をしない。返事をすれば、会話の扉が開く。扉を開けるのは勇気がいる。勇気は、僕の口にも、背中にも、茶の間にも、長いこと生えてこなかった。
父は新聞を読むふりをして、白紙の広告面をじっと見つめる。ある日、ふと、指の関節の腫れに気づく。「痛むの?」と母が訊けば、父は「年だ」とだけ言う。笑わない会話。沈まない食卓。音の薄い夕方。
そんなある夜、母が小さく咳をした。咳は、布団に吸われるみたいに弱くて、それでも耳に残った。翌朝、味噌汁の匂いがしなかった。ドアを開けると、台所の椅子に母が座っていた。鍋は空、火は消えたまま。
「ちょっと、ふらついて」母はそう言って、笑おうとして、笑えなかった。笑顔が亡くなる、という言い回しを、その時初めて身体で理解した。
「買い物に行ってくる」口が勝手に言った。自分の声が自分のものとは思えず、廊下の空気が少し広がった気がした。
靴箱の扉を開けると、埃の匂いがした。二十年以上置きっぱなしだったスニーカーは、靴紐が波打って固まっている。外の風が顔を撫でた。冷たい。
玄関の外へ一歩出る。世界は変わっていなかった。いや、僕が変わっていなかった。空は高く、電線は相変わらず空を線引きしている。近所の犬が吠え、配達のバイクが通り過ぎる。
スーパーで豆腐とネギと牛乳を買った。レジで手が震え、財布から小銭を出すのに時間がかかった。店員の「ありがとうございます」が、長いトンネルの向こうから届いたみたいに遅れて耳に入った。
帰ると、母は「ごめんね」と言った。僕は「ううん」と首を振る。
「今日はゆっくりして」
母は少しだけ笑った。ほんの少しだけ。笑顔は、戻ってくる時も音が小さい。
その夜の対戦は、不思議なほど集中できた。外の風の感触が、指の温度を変えたのかもしれない。ゲームの中の僕は、相手の飛びを落とし、密着で投げを通し、起き攻めの択を二つ先まで読み切った。
チャット欄に、知らない英語が流れる。GG、crazy、who is Haneなし? 誰だって? 僕だよ。僕以外の誰でもない。
リプレイは拡散され、翌日には海外の掲示板で、知らない人たちが僕の連携に名前をつけて議論していた。僕の部屋から送られたボタン入力は、予想もしない場所で意味を持ち始めた。
ある週末、オンライン大会の予選が発表された。上位に入れば、オフラインの決勝に招待される。会場は大阪。電車で行ける距離だ。
画面の右上に、小さなアイコンが点滅していた。応募の締切まで、あと一週間。
「行っておいで」と母が言った。
父は新聞を畳み、むかしの野球帽を僕に差し出した。「日差し、強いからな」
二人の顔には、うっすら色が戻っていた。色は、僕の中にもじわりと染み始めていた。
予選の日、手汗でパッドが滑る。オンラインのラグはない。入力はすべて現実だ。
僕は潜り込みで中段をくぐり、確反を最大で入れる。画面端の壁受け身を読んでバックダッシュ狩りの中足が刺さる。会場のざわめきが、耳の奥で泡立つ。
知らない若者が、負けたあとに笑って僕に手を差し出した。「やば、強すぎっす。またやりましょう」
僕は手を握り返す。言葉は喉の奥で絡まった。けれど、握った手は暖かかった。
予選を抜け、決勝でも勝ち上がった。実況が僕の名前を連呼する。「羽根なし」の発音に会場が少し笑う。その笑いに、蔑みはなかった。
優勝はできなかったが、準優勝のインタビューで、マイクを向けられた。「どうしてそんなに強いんですか」
「長く練習してきたからです」僕は答えた。「ずっと、ここに来るために」
どこから来たのか、と訊かれたら、廊下と窓と画面の奥と、母の咳と父の野球帽、と答えるだろう。けれど言葉は短く、会場のライトは眩しかった。
その日を境に、フォロワーの数が増えた。海外のチームからメッセージが来た。配信の依頼、解説のオファー、スポンサーの相談。
初めての配信は、カメラの赤いランプが怖かった。視聴者数が増えていく数字は、心拍数みたいに上がったり下がったりする。
「こんばんは、Haneなしです」
声が震えた。チャット欄に「聞こえてる」「がんばれ」の文字が流れた。
練習のために外に出ることも増えた。体育館の利用時間を調べ、握力を鍛え、手首をアイシングする。手の震えは、外の風を知ってから少しずつ収まっていった。
母は配信の切り抜きを見ては、笑わない口元で小さく頷いた。父は、配信のコメント欄の英語を虫眼鏡で追った。「世界って、ほんとにあるんだな」と呟いた。
春の終わり、世界大会の招待が届いた。場所はラスベガス。
パスポートの申請用紙に、長いこと書くことのなかった自分の名前を真っ直ぐ書く。窓口の人に「旅行は初めてですか」と聞かれて、首を縦に振る。
空港の朝は、人の靴音でできている。アナウンスとカートのきしみ、誰かの笑い声、少し泣いている子どもの声。
搭乗口に向かう途中、父がくれた野球帽を両手で包む。帽子の庇は少し曲がり、指の跡が残っている。
母からメッセージが来た。「いってらっしゃい。帰ってきてね」
僕は短く「うん」と返す。短い言葉でも、押し返す空気の厚みは軽くなっていた。
世界大会のステージは、音の塊だった。観客の波は光と一緒に押し寄せ、床が震え、モニタの縁が微かに揺れる。
対戦台に座ると、時間がやっと僕のものになった。
相手は現王者、反応速度が獣のようなプレイヤーだ。彼はほとんど瞬きしない。
一本目、僕は負けた。癖を見抜かれ、突き放された。二本目、距離を詰めすぎず、彼の前歩きの癖に針を合わせる。三本目、相手のゲージが満タンになった瞬間、僕はわざと隙を見せる。彼の渇きが揺れた一瞬、カウンターが刺さった。
会場がどよめく。実況が叫ぶ。僕は、画面の中の自分より一拍遅れて息を吐いた。
決勝までは届かなかった。けれど、ベスト8に入った時、世界中のSNSで僕の名前が流れた。
「Haneなし」。羽根がないと自分で名乗り続けた指が、世界の風を掴んでいた。
帰国すると、家の匂いは少しだけ新しかった。台所には、母が買った新しいフライパンが置かれていて、父の新聞の横には、英字新聞が重ねてあった。
「写真、見たよ」母が言う。「ステージ、大きかったね」
父は帽子をかぶりなおし、ぽんと僕の肩を叩いた。「顔、変わったな」
鏡を見ると、目の下の影が薄くなっていた。部屋の壁紙の傷は同じ場所にあるのに、数える気は起きなかった。
それからの一年は、早かった。スポンサーがつき、遠征が増え、配信では視聴者が十万人を超えた日もあった。
勉強会を開き、初心者向けの講座を作った。僕のやり方を、僕の言葉で渡す。
若いプレイヤーがオフライン会場に集まり、負けて泣き、勝って笑う。彼らの笑い声に、僕の昔の空白が少しずつ埋まっていくのを感じた。
母はよく笑うようになり、父は配信のチャットに一度だけ「がんばれ」と書いた。平仮名で。画面のこちら側で、僕は笑って、手を振った。
ある夜、配信の最後に、僕はカメラに向かって言った。
「長く、部屋の中にいました。外に出るのが怖かった。でも、ドアの向こうで、風はずっと待っていてくれたみたいです」
チャット欄に、いろいろな言語で短い言葉が溢れた。ありがとう、おめでとう、また明日。
僕は配信を切り、椅子にもたれかかる。部屋は静かだ。静けさは、昔より優しい。
窓を開けると、夜気が入ってきた。町のどこかで電車が滑る音がした。遠くの空に、飛行機の点滅が見えた。
翌朝、目を覚ますと、机の上に封筒が置いてあった。母がいつのまにか置いていったらしい。中には、古いノートの切れ端が入っていた。
中学の頃、僕が書いた落書き。鳥の絵。翼の片方が、未完のまま途中で途切れている。
未完の線を指でなぞる。鉛筆のザラつきが、皮膚に移る。
僕はペンを取り、残りの翼を描いた。線は少し震え、でも途中で折れなかった。
描き終えると、窓の外から風が入って、紙の端がわずかに持ち上がった。
小さな音がした。紙が空気を撫でる音。翼が生える音に、少し似ていた。
出発の日、僕は玄関で靴紐を結び直した。母はエプロンの紐を結び直し、父は帽子の庇を指で整えた。
「行ってきます」
声は、やわらかく外に出た。
外の空は高く、雲は千切れて軽かった。そこに至るまでの長い長い時間が、背中のどこかで薄く鳴っている。
僕の名前は、世界のどこかで知られるようになったらしい。けれど、今、ここで大事なのは、ドアを開け、足を踏み出すことだ。
羽根は、はじめから背中に生えていたのかもしれない。気づくのが遅かっただけだ。遅れても、まだ飛べる。
ドアを閉めるとき、向こう側で母の笑い声が、父の咳払いに重なって、小さな調べになった。
僕は階段を下り、光の方へ歩いた。
やるせなさは、消えない。けれど、その上に薄く羽を重ねる方法を、やっと覚えた。
世界へ。
僕は、羽ばたく。
翼のない僕 らぷろ(羅風路) @rapuro
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