第7話 隣にいること
【午前】
八月三十一日、朝の七時。キッチンの換気扇がうるさいほど回っている。冷房のききすぎで肩がこり、私は左手で肩をもみながら、右手でフライパンを揺する。リビングからは、娘・莉子の寝息が聞こえる。今朝も六時半に起きて、布団に潜り込んだままだ。
冷蔵庫に貼られた「鉢花取引日本一ポスター」が目に入る。市長の出身校主催の地域夏祭り。写真の笑顔は輝いているが、私の胸は重い。フライパンを置いて、ドアを開ける。
「莉子、学校行かなきゃだめよ。今日から九月だから」
布団が小さく震える。低い声が返ってくる。
「……行かない。スマホなきゃ話せないもん」
私は、床に置かれた「スマホ没収カレンダー」を見る。赤〇が二十日分並び、昨日からは空白。ルールを作ったのは私だ。でも、守らせたのも私。矛盾が喉に引っかかる。
コーヒーカップを片手にテーブルに座り、学校許可申請書にペンを走らせる。落とした滴が、用紙にシミを作る。朝の光の中、茶色い染みが小さく広がる。
【午後】
PTA会議室。木下玲子さんが、写真を突き付ける。
「条例が子供を壊す! これが証拠!」
写真には、手首に絆創膏を貼った少女の腕。私は、マニュアル通りに「ご心配は承知しています」と答えるが、答えるたびに自分の言葉が空しく響く。記録表にコーヒーをこぼし、紙が波打つ。
「2時間制限は必要です。でないと、昼夜が逆転する」
私の声に、木下さんは眉を吊り上げる。
「じゃあ、罰則を作れば? 今すぐ市役所に行きましょう」
私は、頷きながらも、心の片隅で「莉子の自傷跡を隠すため、自分も嘘ついてた」と呟いている。トイレで化粧直しし、鏡に向かって頬を叩く。頬が赤くなる。でも、心の染みは消えない。
【夕方】
自転車を漕ぎ、本田義郎さん宅へ。庭のヒグラシが、蝉の声を縫って鳴いている。
「少しずつ歩み寄りましょう。地域は急がなくていいんだ」
本田さんは、手作りの提灯を見せてくれる。子供たちが描いた絵が、ゆらゆらと揺れる。一枚に、赤いスマホに×印を書いた絵。下手くそな線が、私の目にしみる。
三崎水辺公園へ。児童会主催の「夕涼み会」が始まる。手作り提灯の灯りが、汗ばんだ頬を照らす。莉子は、最初は離れて座っていた。でも、子供たちが鬼ごっこを始めると、自然と輪に加わる。私は、遠くから見守る。ポケットのスマホが震える——木下さんからのメッセージ。
「明日、市役所に行きましょう。あなたの娘も、被害者なんでしょう?」
私は、スマホを握りしめたまま、息を吐く。答えを打たない。
【夜】
自宅。NHK「桶狭間の戦い」特番のBGMが、静かに流れる。莉子の部屋から、絵本をめくる音がする。私は、ドアの隙間から覗く。莉子が、自らスマホをカゴにしまい、絵本を膝の上に置いている。
「ママ、明日は学校行ってみる」
小さな声が、ページと共に届く。私は、胸が熱くなり、ドアを開けそうになり——やめた。代わりに、廊下に座り、背中を預ける。
スマホが震える。本田さんからのメッセージ。
「莉子、提灯上手でした。明日も来てください」
私は、息を吸い、呟く。
「条例の正解はなくて、ただ隣で手を握り続けることなのかもしれない」
BGMの太鼓音が、戦いの始まりを告げる。でも、ここには剣も鉄砲もない。ただ、絵本をめくる音と、娘の小さな決意がある。私は、手を伸ばし、ドアに軽く触れた。熱は、もう冷めている。
二時間の約束 共創民主の会 @kyousouminshu
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