第6話 地域の傷

【午前】


 八月三十日、朝の八時半。自治会館の古びた扇風機が、カタカタと時計の音を交えて回る。テーブルには「スマホ2時間ルール啓発チラシ」が五百枚積まれ、私は封筒に仕分けながら、窓の外を見た。三崎水辺公園で、子供たちがスマホを片手にブランコに揺れている。画面の明かりが、朝の陽射しに負けないほど眩しい。


 コーヒーを一口飲もうとした瞬間、カップが傾き——チラシの端に茶色い染みが広がる。「ルールは家族で話し合おう!」という文字が、瞬く間に滲んだ。同じ場面でも、孫なら「またじいちゃんのミス動画撮った」と笑うだろうに、と思いながら、私は染みの部分をハサミで切り取った。


 市長からの朝のメールがスマホに届く。


「本田さん、全国初の条例をPRするため、自治会の協力を」


 全国初、か。私は封筒の束を抱え、ため息をついた。条例は市のものだが、傷つくのはこの街の子供たちだ。


【午後】


 川村彩さん宅を訪問。台所に置かれた「スマホ没収袋」は空っぽだった。


「莉子が学校を休むようになって……スマホがないと友達と話せないんです」


 奥の部屋から、ドア越しに「スマホ返して」と小さな声。私は、マニュアル通りに「教育委員会と連携します」と答えるが、答えるたびに自分の言葉が空しく響く。スイカを勧められ、受け取る手が震える。甘い香りが鼻を抜ける一方で、部屋の隅から漏れるLINE通知の電子音が、胸を締め付ける。


 次に、元自治会長・島田俊介宅を訪問。庭のヒグラシが、蝉の声を縫って鳴いている。


「昔は暗い路地で鬼ごっこをしたもんだ。スマホなんか必要なかった」


 島田は、茶碗を置きながら、NHK「桶狭間の戦い」特番のポスターを指差した。


「今の子供は、戦いもせずに敗北してる」


 私は「でも、事故も減った」と反論するが、心の片隅で「あの頃も事故はあった」と呟いている。島田の孫も、交通事故で右足を負傷した。ヒグラシの音が、私たちの沈黙を埋める。


【夕方】


 児童会主催「スマホ禁止ゲーム大会」。公園の広場に、手作りの鬼ごっこコスチュームを着た子供たちが集まる。だが、休み時間になると、全員がトイレに駆け込み、スマホを確認する。鬼が「みつけた!」と叫んでも、子供たちの目は画面から離れない。


 私は、三崎水辺公園の「鉢花取引日本一」表彰プレートを見上げる。市長の出身校が誇る輝かしい歴史。その隣の電柱に、落書きがあった。「2時間制限バカ」。クレヨンの線は、まだ新しい。


 村井係長が、汗でシャツを濡らしながら駆け寄る。


「現場の声を聞いてください。子供たちが、本当に求めているものを」


 私は、孫に買ってやったスマホのことを思い出す。ゲーム課金で三万円を超えた時、怒鳴った言葉。「ルールを守れ」。でも、ルールがないと嘆く今、自分が作った檻に、孫を閉じ込めているような気がしてならない。


【夜】


 自宅。縁側でビールを啜りながら、スマホを交互に見る。市長からの祝電。


「全国モデル条例の推進、自治会の協力に感謝」


 川村彩さんからのメッセージ。


「明日も来てください。莉子が少しずつ外を向いてくれて」


 点滅する通知ランプが、庭のヒグラシの声に重なる。私は、空き瓶を置き、暗い夜空に向かって呟いた。


「地域とは完璧なルールでなく、互いの傷を認め合いながら歩み寄る場所なのかもしれない」


 孫が寝言で「スマホ貸して」と呟く。私は、蚊取り線香の煙を見つめながら、小さく頷いた。明日は、もう一度、公園へ行こう。鬼ごっこではなく、ただ話を聞くだけでも。ヒグラシの音が、私の覚悟を包んでいく。


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